一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「知性の二つのかたち」(ハイエクつづき)

2011-02-02 | 乱読日記

ハイエクのつづき。
同じ「哲学論集」に「知性の二つのかたち」という論文(エッセイ)があります。

これは、学者のタイプを2つに分けるところから始まります。

ひとつは「学科の達人」タイプ。
これは、読んだり利いたりした特定のことを長い間記憶にとどめておくことのできるタイプの知性の持ち主で、専門分野についてのすべての理論と重要な事実をいつでも利用して問いに答えることのできることで「他の多くの科学者は、これが学者のめざすべき基準だと感じており、しばしば、そこに到達できないことで無力感に苛まされている。」

もう一つがこういう能力に欠けている「混乱した人(puzzler)」。
ハイエクは自らをこちらのタイプに分類します。

私がこういった有能な学者仲間に激しい劣等感を募らせずに済んだのは、なんであれ論じるに値する新しいアイディアをいくつかでももてたのが、・・・有能な専門家であれば精通しているはずのことをしばしば覚えていられないおかげであると、知っていたからである。 

彼らの絶え間ない困苦は、ごく例外的には斬新な洞察によって報われるとはいえ、他の人であれば既存の言語化された公式や論証をつかって順調かつ迅速に結論へ進むのに彼らはそれを上手くつかえない、という事情から生じている。しかし、一般に認められたアイデアを表現する自分なりの方法を見つけざるをえないことで、彼らは時折、従来の公式が隠していた欠陥や正当化されない暗黙の前提を派遣してしまう。だから、明示的になっていない不当な前提についてのもっともらしいけれども明確性を書いた言い回しによって、長きにわたり効果的に回避されてきた問いについて、彼らは明示的に答えざるをえなくなるのである。

そしてハイエクは大学の選抜試験についてこういうアイデアを披瀝します。

知識の成長に資する二つの知性のかたちが本当にあるならば、大学への入学者を選抜する現行の体制(注:この論文は1978年のもの)は、偉大な貢献をしうる人を排除しているのかもしれない。  ・・・私は、一定の試験に合格することで大学教育への正当な資格を得る人の数をさらに増やすべきかどうかについてかなり疑問を抱いている。他方、科学的知識を獲得する欲求の強さが決定的な重みを持つような別の方法があるべきだと強く感じている。

ここに至ると「詰め込み教育反対」「個性を伸ばせ」「AO入試万歳」という風につながりそうですが、学問に対して誠実なハイエク先生はそこまで甘くはありません。

その道は「自ら犠牲を払うことによってこの権利を獲得する」ことで正当化されるといいます。  私が思いえがいているのは、この道を選んだ人には住むところとか質素な食事とか十分な書籍を手に入れる権利など、どうしても必要なものは与えられるが、それ以外では非常に限られた予算で生活することを約束しなければならない、そういった体制である。若者であれば普通に得る喜びのいくつかを数年間あきらめる準備ができていることは、学校でのさまざまな学科試験の合格以上に、個人が高等教育から利益を得る見込みを示す優れた指標であるように思われる。  

もちろんそういったシステムであっても、入学後には、自ら選んだ領域での能力をなんらかのかたちで証明することや、勉学の過程でその進捗を繰り返し明らかにすることが求められるだろう。  

本来AO入試はこういうものであるべきで、AO入試「いい学生集まらぬ」 廃止・縮小の大学相次ぐなどというのは、そもそも大学の「アドミッション・ポリシー」がしっかりしていないことの方に原因があるように思います。

そして彼らは、受験秀才たちが、すべての知性がお決まりのわだちのうちで動きまわっているような聖なる公式群の支配を確立するのに対抗する安全装置となるであろう。  

実は「アドミッション・ポリシーがしっかりしていない」というのは企業の採用面接にもいえて、結局入社してから「鍛え上げる」からいいんだ、となりがちです。 
しかし企業においてこそ、「学科の達人」-別のところでは「置かれた状況で支配的な見解やその時代の知の流行にとりわけ影響を受けやすい」といわれています-だけでなく「安全装置」になりうる多様な人材を育てることが重要なわけで、それを研修や日常の意思決定や人事考課の中でどれだけ実現できているかというと甚だ心もとないなかで、大学の悪口を言っているばかりではないなと反省。

コメント
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