一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

内田樹『私家版・ユダヤ文化論』

2006-09-24 | 乱読日記

内田センセイの講演のエントリを書いていて、この本については前のエントリでちょっとふれただけだったことに気がつきました。

とはいいながら、この本は「ユダヤ人とは何か」というのが快刀乱麻を断つように判る(と言い張って書いている)わけでは(当然のことながら)ありません。


本書の前半はユダヤ人論の歴史についてふれています。なにせ内田センセイは、翻訳家としてご活躍の頃『シオン賢者の議定書(プロトコル)-ユダヤ人世界征服陰謀の神話』(1986年、ダイナミックセラーズ)という本の訳者でもあります(内田センセイの名誉のために言うと原著は思想史家ノーマン・コーンの歴史研究の名著なのだそうですが、出版元が営業政策上「反ユダヤ主義本」と勘違いされるようなタイトルにした由)のでそこも十分わかりやすく整理されています。

しかし本書の見どころは、終章(といいながら全体の1/3くらいの量がある)においてサルトルの「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作り出した社会構築的存在である」という考えと、それに反論するレヴィナス師(先の対談でも内田センセイは「私はレヴィナスさんは「師匠」と思ってるから、呼び捨てになんかできないんですよね」とおっしゃってました。)の考えをふたつの軸にした内田センセイの思索の冒険にあります。

内田センセイは非ユダヤ人から見た分析としてのサルトルの考えを評価しながらも、レヴィナスの言をひきながら、では、上の社会構築的存在がなぜユダヤ人において(のみ)なされたのかを、さらにユダヤ人の内面に分け入ろうとします。

「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です。」

「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦し、その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うものであると思いなしているすべての人々にとって、無神論は当然の選択である」
罪なき人が苦しみのうちで孤独であり、自分がこの世界に残されたただ一人の人間であると感じるとしたら、「それはおのれの双肩に神のすべての責任を感じるためである」。だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。

そして、

勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位にふみとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない。ここには深い隔絶がある。

と、ユダヤ人のアイデンティティの成り立ちには、他の(キリスト教文明)との間に大きな違いがあるのではないか、と結びます。


頭ではわかったような気はするのですが、この言葉を実感を伴って受け止めるには、まだまだ修業が足りないわい、というのが正直な感想です。







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