先日取り上げた『大日本帝国の民主主義』のつづきで、坂野先生の『明治デモクラシー』を読んでいます。
その中で福島県の豪農結社三師社が河野広中を高知の立志社(民権運動の先駆け的士族結社)に派遣した旅程の記述があります。
白川から鬼怒川河畔の阿久津(宇都宮の近く)までは徒歩14時間歩きつめ、一泊して鬼怒川下りを10時間、人力車5時間、それから夜を徹して江戸川下りの舟に乗り、日本橋に着いたのが翌日の正午という強行軍でした。
そこから大阪までは対象的に、田町の宿から品川に出て、汽車で横浜へ、横浜から汽船で神戸へ(船中二泊、29時間ですが、現在でもフェリーでは20時間かかる)、そこから鉄道で大阪へという快適な旅でした。
当時地租改正で税金が定額化したうえに西南戦争の紙幣乱造によるインフレのために農民は非常に豊かで河野の旅費も潤沢であったのですが、当時の交通インフラの事情としては、まだまだ陸路の便は依然として弱かったというのが印象的です。
ところで最近は『世界で一番おもしろい地図帳』という本を寝る前にパラパラ見ているのですが、その中で「世界を結ぶ海底ケーブルってどこをどう通ってる?」という記事がありました。
明治新政府を代表し、岩倉具視を大使とする使節団が、アメリカとヨーロッパの視察に出かけたときのこと。メンバーの一人だった大久保利通が、ニューヨークからヨーロッパ経由で東京に電報を打ったら、すでに海底ケーブルが通じていた長崎までは数時間でついた。だが、長崎から東京までは、飛脚で3日かかったというエピソードが残っている。
モールスが電信を発明したのが1837年、それからドーバー海峡に海底ケーブルが敷設されたのが1951年、大西洋を渡る海底ケーブルが1866年、そして岩倉視察団(1871年)の時にはロンドン-ベルリン-カイロ-ボンベイ、そしてインドからはシンガポール、ジャカルタ、バンコク、香港などが電信網で結ばれていました。
そして香港から長崎の出島まではデンマークの会社が海底ケーブルを通していたそうです。
(ちなみに太平洋の海底ケーブルは戦後)
当時の技術の発展スピードから考えても、大英帝国の国力の大きさを彷彿とさせますね。
これでは欧米列強との戦争(攘夷)などもってのほか。国力増強・海外雄飛には隙間を縫って中国に進出するしかないという発想になるのも当時としては仕方ないと思います(中国には悪いですが・・・)。
その後の日本の努力をみると、彼我の国力の差を目の当たりにしたとき、そのギャップを埋めようというときのモチベーションが高まった、という部分もあると思います。
近年、技術の進歩のスピード(金融技術の発展による富の蓄積のスピードも含めて)も格段に上がってますので、「経済大国」などといっているうちに気がついたら中国などに「日本には悪いけど・・・」などと思われてしまわないようにしないといけないですね。
※『明治デモクラシー』の内容についてはまた後日