一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『漢文力』

2006-09-15 | 乱読日記

『貝と羊の中国人』『漢文の素養』の著者である加藤徹氏の著書です。

上の2冊が面白かったので購入してみたのですが、著者自らあとがきで、大学での「中国文学の世界」という講義を下敷きにした本で「学生を相手に噛んで含めるような口調がまだ残っているのではないかとおそれます。」とあるように、口調はさておき、ちょっと総花的な感じになってしまっているのが残念でした。

ただ、著者の幅広い関心と教師としての魅力は十分に伝わってきます(広島大学の学生は幸せですね)。


ということで、ブログのテーマや日常に関係ある言葉で引っかかったものをいくつか。

子曰「道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以徳、斉之以礼、有恥且格」。(『論語』為政第二)
(子の曰はく「之を道びくに政を以ってし、之を斉(ととの)ふるに刑を以ってすれば、民免れて恥づる無し。之を道びくに徳を以ってし、之を斉ふるに礼を以ってすれば、恥づる有りて且つ格(ただ)し」と。)

先生(孔子)は言われた。「民を導くのに政治をもってし、整えるのに刑罰をもってするなら、民は方の網の目をくぐって恥じることはない。民を導くのに道徳をもってし、整えるのに礼儀をもってするなら、民は恥を知って正しくなる」

こういう考え方は日本にも浸透していると思うのですが、最近会社法や金融商品取引法で求められている「内部統制システムの構築」は、金融商品取引法のその部分が「日本版SOX法」と言われているように、アメリカ流の「ルールとチェック」を基本にしています。
結局どんなにルールを整備しても悪い奴は出てくるけど、ルール・チェックとのイタチゴッコ(P(lan)-D(o)-C(heck)-A(ction)サイクルなどと気取った言われ方をしています)をきちんとやりましょう、そうすれば免責してあげますよ、というのがアメリカ流に「説明責任を果たす」ということなんだと思います。
つまり、説明責任というのはダニセンサーつき掃除機のようなもので、使う方もそのような限界をわかって使う分にはいいと思います。

まあ「日本型経営」サイドから批判する側の人々だって「徳」と「礼」の経営をしているかといえばそうでもないですからね。

故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。(『孫子』謀攻篇)
(故に上兵は謀(ぼう)を伐(う)ち、其の次は交を伐ち、其の次は兵を伐ち、其の下は城を攻む)

最高の戦略とは、敵にも見方にも、そもそも戦争する気を起こさせぬことだ。次善の上策は、巧みな外交で戦争を未然に封じ込めること。その次の策は、敵の軍事力を叩くこと。最低の下策は、敵国に侵攻することである。

「上兵伐謀」は企業同士の取引("BtoB"などと言うようですが)においては最近の流行り言葉では「"Win-Win"の関係を築く」などと言いますね。

これは個人対企業の関係にもあてはまります。
大概の場合、企業側に落ち度がある場合は、冷静に事情を説明されたほうが(よほどひどい会社でない限りは)丁寧で手厚い対応をされるのが普通です。
しかし最近の「訴えてやる!」系のテレビ番組の影響か(はたまた企業一般が信用されていないためか)、最初からやたら喧嘩腰の方がいらっしゃるようです。
これに対して企業側も(不愉快な気持ちの表明以上に)攻撃的になられると対応に慎重にならざるを得なくなるので、結果的にお互いに手間ひまがかかった上に感情的にしこりが残ることになってしまいます。

問題解決という目的がどこかに行ってしまい「勝った負けた」に意地になってしまっては何も生みません。

孫子の子孫で同じく兵法家である孫臏(ビン)の言葉にも

「然夫楽兵者亡、而利勝者辱。」
(然るに夫れ兵を楽しむ者は亡び、勝ちを利とする者は辱めらる)

そもそも、戦争を楽しむものは滅ぶし、戦勝の利益をむさぼるものはいつかは屈辱を味わう

というのもあります。


外国からそのまま導入される制度や概念を捉えなおすひとつの軸として、日本に文化の背骨、教養として根付いた『漢文力』や『漢文の素養』は確かに必要かもしれません。 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これでは法律事務所も浮かばれまい

2006-09-14 | よしなしごと

アクセス解析を見てみると、さまざまなキーワードを検索してこちらにたどり着かれる方がいらっしゃいます。

なので、問題ありそうな単語は伏字にしているのですが、問題ない単語の組み合わせが問題になっていることもあるようです。
詳しい仕組みはわからないのですが、ブログは過去記事全部が1つのテキストとして認識されるようで、
 

「レッドストーン 改造コード表」
(2つの単語とも書いた記憶すらなしw)

「折りたたみナイフ UBS」
(この方は"USB"メモリーのくっついた折りたたみナイフを探していたのでしょうか?)

などという、記事と関係のないキーワードでヒットしているようです。


今日驚いたのは

「今後法律事務所にもとめられること」

Googleを見てみると、なんとこのブログが2番目にヒットするではないですか(本日時点)。
(こんなストレートな内容の記事は書いた記憶もないですし、そもそもアクセス数も少ないブログがなんでヒットするのでしょうか?)


真面目な問題意識をもたれてググッたあげくに、こんなヘタレなブログにたどり着いた方には、ご愁傷様と申しあげるしかありません・・・


ということで、あまり長いキーワードで検索するのは避けた方がよろしいかと思います。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうひとつの王子の敵対的買収

2006-09-13 | ネタ

あまり知られていない話ですが、 斎藤投手、進学を表明の発表を受け、慶應大学では水面下で斎藤祐樹君の獲得を検討しているそうです。

実現すれば早慶の系列を飛び越えての初の推薦入学による引き抜きとなり、少子化の中で優秀な学生獲得のために大学も敵対的買収の時代に入った転換点として語り継がれる案件となることは確実です。


一般にある大学の付属高校の生徒がほぼ無試験でその大学に入学できるとしても、生徒がその大学に進学することは義務ではありません(そんなことをしたら憲法違反です。)。
つまり付属高校の生徒は大学入学についてのプット・オプション(一定の価格で売る権利)を持っているわけです。
ただ、大半の生徒はエスカレーター式の高校に進学した以降は勉強へのインセンティブを失ってしまい価値が下落するために、結果的にプット・オプションを行使することになるわけです。

しかし、斎藤君の場合は、オプション価格をはるかに上回る価値を実現している以上、早大進学は「安売り」(=早大側の一方的な得)になりかねません。


そこに割って入ろうとしているのが慶應です。

慶應側は本人・両親をつぎのように説得しようと考えています。  

・早実での3年間は十分以上の恩返しをした。これ以上情にほだされずに自分の人生を冷静に考えたほうがいい。 
・斎藤君のキャラクターは早稲田よりもむしろ慶應のカラーに合っている。 
・早稲田の野球部からプロで大成した投手は少ない(ソフトバンクの和田くらいでその前はロッテの小宮山)。 
・1年生から突出した実力を発揮した場合先輩の理不尽ないじめに会う可能性がある(89年仙台育英高校で夏の甲子園準優勝投手し、早稲田大1年のときに優勝に貢献したものの野球部に合わずに中退、その後外野手としてダイエーに入団した大越選手の例など)
・斎藤君の活躍で早稲田もメリットを受けているのであるから、早稲田に対して義理を過大に感じる必要はない。ここで慶應に転進して成功すれば早稲田と慶應の両方から支援を受けられる、と前向きに考えてほしい。 

しかし最大の問題点は、早稲田大学と斎藤君のシナジーに疑問を投げかけることはできても、慶應大学と斎藤君のシナジーを合理的に説明できる根拠もないことです。
(たとえば慶應出身の投手でプロで大成した投手はもっと少ない)


この点には、豊富な野球部OBの実績や、プロ球界・大リーグにも人脈豊富な星野仙一(阪神タイガース シニア・ディレクター)を交渉役に仕立てて斎藤君獲得合戦に参入すると噂されている明治大学との競合においても懸念されるポイントです。  


したがって、あとは慶應の総合力が早稲田より優れていることをOBなどの側面支援でアピールするしかありません。  

しかし、現時点では「ハンカチ王子」の愛称の元になったタオルについて、慶應OBである、ハンカチーフ大手の ブルーミング中西㈱社長 中西一晃 氏から新たなトレードマークになるような「斎藤君オリジナルタオル」製作についての協力の内諾を得ている程度です。  

また、現在東京で同居している大学生の兄の就職先を慶應OBが社長になっている会社に斡旋するなども検討されていますが、このM&A新時代においていかにも旧来型の手法が市場の支持を得られるかが疑問視されています。  


以上のように慶應側の手詰まり感は否めず、獲得合戦に名乗りをあげずに終わる可能性もかなり高いようです。



王子もまだまだ安心できません・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公務に伴う危険の評価と死者を弔うことの区別

2006-09-12 | よしなしごと

<防衛庁>新「軍人恩給」を検討 退職自衛官、年金に上積み
(2006年9月10日3時8分 毎日新聞)

防衛庁が退職自衛官のため、旧日本軍の「軍人恩給」に準じた新たな恩給制度の創設の検討を極秘に進めていることが9日、分かった。国際平和協力活動への参加、有事法制の整備などで、自衛隊の性格が変容したことを受けた措置。退職後の保障を手厚くすることで、優秀な人材を確保する狙いもある。旧軍の制度に近づけるという方向性や、一般公務員とのバランスをめぐって論議を呼ぶのは必至だ。

公共のために危険な業務に従事する公務員には一定の上積みの補償や手当が必要だと思います。それが事前(手当)なのか事後(年金)なのか補償(共済)なのかについては危険の性格などを考えて議論すればいいかと。
いずれにしろ「極秘」にする必要もなければ、スクープとして鬼の首を取ったように一面で報道するようなことでもないのではないかと思います。

自衛隊について言えば、武器や航空機・特殊車両などを扱って災害救助活動や自衛のための防衛活動は少なくともするわけです(民間航空会社のパイロットも、高所得のかなりの部分が手当だそうですし)。
あとは国連平和維持活動に派遣すべきか云々は政治(国民)が決めることだと思います。

危険な任務には自分の代わりに勝手に従事してもらって、面倒は見ませんよ、というのでは、誰もそのような職業につかなくなるわけで、さらにそのような条件でも危険な職業につかざるを得ない、またはつきたがる人だけしか従事しないのでは、武器を扱い、緊急事態の際に活動する自衛隊としては非常に危険だと思います。


雪斎さんのところで取り上げられていた日下公人さんのコラム「「心情」から語る靖国論(1)」につぎのくだりがありました。

 (防衛問題評論家の)志方さんが、自衛隊と靖国について興味深い話をされていた。  サマワへ行った自衛隊が帰国したとき、「1人も死なないで帰ってくるとは、こんなうれしいことはない」と志方さんは言った。「サマワへ行ったのは全部自分の部下だった人たちである。誰か3、4人は死ぬんじゃないかと思っていた」と。  
 志願者の中から500人、あと100人足して合計で600人の自衛隊員がサマワへ派遣された。その自衛隊員たちの多くが幹部に「死んだら1億円くらいくれるらしいが、それはいいとして、靖国神社はどうなのですか」と質問したそうだ。  
そこで幹部は、そういう隊員たち10人くらいを引き連れて、お正月に靖国神社に行ってお参りをして、宮司に会い、「わたしたちは靖国神社へ行けるんでしょうか」と聞いた。
 宮司の返事は、こうだった。  
 「とんでもない、あなたたちが祭られるはずはないんです」。  
 理由を聞くと、「まずあなたたちは軍人じゃない」。確かに、昔から自衛隊は軍隊じゃないと言っているんだから、それはそうだ。「それから、戦死しなきゃダメなんですよ」とも言われた。  
 「サマワへ行って死んだって、それは戦死じゃありません。事故死か何かです」というわけだ。確かに「サマワには戦争に行くんじゃない」と、首相は国会で何度も繰り返し言っていた。  
 要するに、「軍人でない人が戦争でない理由で死んだのに、靖国神社に祭るわけがないだろう」という扱いだったと、志方さんはおっしゃっていた。   

そもそも靖国神社に自衛隊員を祀るべきかの議論以前に、靖国神社のほうで「英霊」しかまつらない、と拒否してしまったわけですね。
そうであればなおのこと、死者の霊を祀るという風習のある日本では(これが靖国神社擁護論の一つの根拠にもなっていましたが、このこと自体は確かにそうかと。)、国のために危険な公務で命を落とした人のための施設(会館とか記念碑とか)は別に必要ではないかと思います。

宗教法人なので「教義」に従った判断をしたまで、ということなのかもしれませんが、靖国神社にとって自らの首を絞めることにつながる発言だったのではないでしょうか。

そもそも「国のために命を落とした人への鎮魂」の範囲が一宗教法人によって決められてしまうのはおかしいですよね(というかそもそも靖国神社は「英霊」の鎮魂しか考えていなかったので余計なお世話か?)


また一方で、上の自衛官たちも「靖国神社に祀ってやるから補償はなしだ」と言われたら、さすがに大半の人は命令がなければ行かないんじゃないかと思います。
なので、公務に伴う危険の補償は「軍人恩給」などと刺激的な言葉を使わずに、慰霊の問題とは別に冷静に議論する必要があると思います。



そもそも(アミニズムのような信仰に近いものを除いた教義のある)宗教は、より素朴な「死者への敬意」とは両立しないのではないでしょうか。  

おととい触れた『自分のなかに歴史をよむ』にも、キリスト教がヨーロッパに広まり始めたころの逸話があります。

あるゲルマン人の族長は、司祭のすすめで洗礼盤のなかに足を入れようとしたとき、司祭に、天国に行っても先祖に会えるかとたずねました。司祭はあなたの先祖は洗礼を受けていないからみな地獄にいるので、会えないでしょうと答えたのです。すると族長は、あの世で先祖に会えないなら、自分はむしろ先祖に会える地獄に行くといって洗礼をやめたと伝えられています。

先祖や死者への鎮魂の気持ちというのは、宗教の教義を越えるような紐帯であってはじめて本物といえるのかもしれませんね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5年目

2006-09-11 | よしなしごと
9.11から5年目になります。

私の高校の同級生も、当時富士銀行NY支店に勤務していてWTCで犠牲になりました。

所用で降りた千葉駅の駅頭の大画面テレビで彼の氏名が「新たに死亡が確認された方の氏名」として大写しになった時の驚きは今でも覚えています。

一度1階まで降りたものの、重要書類の保管等のために幹部社員がオフィスに戻る途中でビルが崩落して犠牲になったうちのひとりだったそうです。


NYに行ったら花の一つも手向けようと思いつつ機会がなく5年が経ってしまいました。



一方昨年末の同窓会で、高校時代の数学の教師(現在某大学に勤務)が近況報告として、アフガニスタンでの数学教育の指導(カリキュラム作りなど?)に1ヶ月間滞在してきたという話をされてました。

現地は未だに復興途上で、しかも爆破テロで帰国が遅れるなどまだ不安要素はあるものの、現地の教師の意欲は日本とは比べ物にならないほど高かった、とおっしゃってました。



守るべき物が多い国は失われたものの記憶を語り、荒廃の中にある国は将来への夢を語る、という対照的な構図がそこにあります。



9.11以降、世の中でのいろいろな面での「禁じ手」がなくなってしまった(テロ側だけでなく「予防的先制攻撃」とか)5年間であったようにように思えます。


私は亡くなった「彼の分まで生きる」というような立派な人間ではないですし、上の先生のような高い志(と他国でも通用するようなスキル)を持っているわけではありません。

ただ今日を、世の中全体にとって昨日より今日が少しだけでもいい日であるように、と心掛けるための1日にしたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』

2006-09-10 | 乱読日記

歴史学者で一橋大元学長の阿部謹也氏が死去
(2006年 9月 9日 (土) 16:53 読売新聞)

先日『かっこいいスキヤキ』を買いなおしたときに、送料無料の金額に足りないので一緒に買ったのが阿部謹也氏の『自分のなかに歴史をよむ』でした。
これも何かの縁かと一気に読了。

阿部氏は80年代に庶民の視点、被差別民の発生という視点からの歴史の新しい読み方として、日本史の網野善彦氏とともに登場し話題になりました。
両氏とも視点の斬新さとともに、研究する楽しさが伝わってくるような語り口が魅力でした。
(阿部氏の『中世の星の下で』は引越しや本棚の整理を20年以上も生き残っている数少ない本です。残念ながら絶版になってしまったようですが、文庫は中古で手に入るようです。また、『阿部謹也著作集(1)』に代表作『ハーメルンの笛吹き男』とともに収録されています。)

本書は、「ちくまプリマーブックス」という初学者(中学生以上?)向けのシリーズの中の1つですが、それだけに、より学ぶことの楽しさ、というものが伝わってきます。

少年時代の生い立ちとキリスト教にふれるきっかけから学生時代の恩師上原専禄先生との出会い、ドイツ留学、そして阿部氏が小さい頃の修道院との接触以降持っていた「なぜヨーロッパは日本と違う社会を作り上げてきたのか」という疑問(それはすなわち「ヨーロッパとは何か」という疑問でもあります)の答えが11,2世紀にキリスト教の浸透とともに起きた「人と人との関係の変化」にあるのではないか、そのなかでキリスト教の神と救済の価値観が人々の従来からもつ自然への畏怖、そういう自然を相手にする特別な職業に従事する異能力者を賤視するようになったことの発見につながっていきます。

あとがきから

結局は自分と周囲の関係をどのように理解してゆくか、そのなかでどのように行動してゆくかという問題からはじまって、私の研究はヨーロッパ中世にまで広がっていったのでした。

若い学生諸君に歴史学とは何かという問題について語ろうとすると、私には歴史学のあり方を客観的に叙述し、描写することはできないのです。私にとって歴史学はこのようなものでしたと語る以外の方法はないのです。なぜなら、私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内面と呼応しない歴史を私は理解することはできないからです。


こういう人の書く本は、間違いないと思います。


「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏は著書の中で「自分のやりたいこととできることは違う」と繰り返し言っています。
私もそれは職業人としては必要な心構えだと思います。
ただ、そこにさらに「自分の内面と呼応する」何かがあれば「艶のある」仕事ができるんですけどね・・・


PS 同じシリーズが元になった網野善彦『日本の歴史をよみなおす』もお勧めです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お腹いっぱい

2006-09-09 | よしなしごと

羊を丸飲みのニシキヘビ、動けなくなり御用
( 2006年 9月 6日 (水) 19:51 ロイター)






『星の王子様』に「象を飲み込んだウワバミ」の絵が出てきますが、実物は迫力があります。(よほど大口を開けたためか、口の端がめくれてしまっていますね)

大きい獲物を食べたはいいが、未詳かな状態では無防備になってしまいます。
ただ、自然淘汰上はそれでも食べられるだけ食べた方が種の存続にはプラス、ということなんでしょう。


会社も、高価値の資産を株価が未消化(反映していない)場合は敵対的買収の対象になりやすいですが、 企業においてもお腹を膨らませておくことは有利に働くのかどうか、これから淘汰の時代に入るようです。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の「格付け」だそうで

2006-09-08 | よしなしごと

さすが?東大、「企業」格付け最上級の「AAA」
(2006年 9月 7日 (木) 19:32 読売新聞)

企業の格付けをしている「格付投資情報センター」(R&I)は7日、東大を最上級の「AAA」(トリプルA)に格付けした。  

東大側が「一般企業と比べるとどのような評価になるのか」と、R&Iに格付けを要請していた。今回の評価の理由についてR&Iは「国立大は、授業料収入や国からの交付金もあり、よほどのことがない限り恒常的赤字になることはない」とし、「特に東大は、入試の難易度や研究のレベルの高さという面で、国立大の中でもさらに位置づけが高い」としている。  

R&Iはこれまでに21私大の格付けを行い、早稲田大、慶応大、同志社大を最上級から2番目にあたる「AAプラス」に格付けしていたが、AAA評価は東大が初めて。

結局国の交付金次第、ということなんですね。
長期債の格付けとしては、交付金制度の安定性なども考慮に入れないといけないと思うのですが、この記事だけを見るとちょいと安直な感じもします。
日本格付研究所と東京大学のサイトにも詳しい情報がないのでそれ以上はわかりません。


昨日の紀子さまのご出産で、さしずめ学習院は1ランクアップ、または見通しを「ポジティブ」に変更、というところでしょうか。
(早稲田の「ハンカチ王子」効果は格付けにまでは及ばないのかな?)




(おまけ)

「デスノート」「ヒカルの碁」漫画家、ナイフ所持容疑
(2006年 9月 7日 (木) 14:59 朝日新聞)

小畑容疑者は6日午前0時すぎ、正当な理由がないのに、東京都練馬区大泉町5丁目の路上で、車の中にアーミーナイフ(刃渡り8.6センチ)を所持していた疑い。  

警察官が整備不良の疑いで小畑容疑者の車を止めて職務質問をしたところ、車内の引き出しの中から見つかり、現行犯逮捕された。「キャンプで使うために持っていた」と話しているという。

アーミーナイフを持っているだけで銃刀法違反になるとは知りませんでした。

そもそも職務質問でグローブボックスまで開けられるというのはよほど反抗的な態度を取ったのですかね(所持品検査の適法性などということは置いておくとして)。
それとも車検証を出そうとして、ぽろっと出てきたのでしょうか(そんなんで逮捕するのかな?)。

微罪の割に記者発表されてしまうというのは有名税なのでしょう。
「一罰百戒」効果は十分ありますね。

刃物の携帯の制限についてはWikipedia(アーミーナイフの写真もあります)と、同じくwikipediaの「ナイフ」の項参照

<参考>
(銃砲刀剣類所持等取締法)
第22条  何人も、業務その他正当な理由による場合を除いては、内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが六センチメートルをこえる刃物を携帯してはならない。ただし、内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが八センチメートル以下のはさみ若しくは折りたたみ式のナイフ又はこれらの刃物以外の刃物で、政令で定める種類又は形状のものについては、この限りでない。

(銃砲刀剣類所持等取締法施行規則)
第9条  法第二十二条ただし書の政令で定める種類又は形状の刃物は、次の各号に掲げるものとする。
 刃体の先端部が著しく鋭く、かつ、刃が鋭利なはさみ以外のはさみ
 折りたたみ式のナイフであつて、刃体の幅が一・五センチメートルを、刃体の厚みが〇・二五センチメートルをそれぞれこえず、かつ、開刃した刃体をさやに固定させる装置を有しないもの
 法第二十二条の内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが八センチメートル以下のくだものナイフであつて、刃体の厚みが〇・一五センチメートルをこえず、かつ、刃体の先端部が丸みを帯びているもの
 法第二十二条の内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが七センチメートル以下の切出しであつて、刃体の幅が二センチメートルを、刃体の厚みが〇・二センチメートルをそれぞれこえないもの
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛育病院への取材殺到の余波

2006-09-07 | よしなしごと
昨日は愛育病院の近くに住んでいる友人と飲みに行ったのですが、朝からマスコミが殺到して大騒ぎだったそうです。
なので、早く帰っても騒がしいだけだから飲みに行こう、と(勝手な奴ではありますw)


あまり書ける話題もないのですが、いくつか。

日経新聞の監査をやっているのがトーマツなので、旧中央青山監査法人のように全体で業務停止にはなっていないものの、トーマツもMTCIの有価証券報告書虚偽記載を見逃したなどで金融庁から処分を受けている(参照)のにあまりバッシングされないのでは、という話を「みすず」の人がしていたとか。
まあ、これは「ひかれ者の小唄」風の話。


アラブ諸国は原油高で景気がいいのですが、政府の巨額の外貨を資金運用しているのはほとんどは欧米人の投資銀行などからのスカウトだそうで、ノルマもそんなになく給料はいいので投資銀行に比べると楽な職場なようです。
ただ、雇用の際の条件に「家族全員でその国に住むこと」というのがあるとか。
ひとつの不正防止策ですね。
いまだに「公開処刑」なんてのがある国なので、下手に内部統制のしくみを作るよりは効果がありそうです。
※個人のレピュテ-ションや人格に働きかけるペナルティの方が抑止力について役立つということについての真面目な考察はtoshiさんの「ペナルティの実効性を考える」をご参照ください。



で、めでたく41年ぶりの皇位継承者である男子誕生。
緊急性はなくなった分だけ皇室典範の見直しも冷静にできるのではないかと思います。また41年後に騒ぐ、というのもみっともないので。

自民党総裁候補者や参議院選挙の一つの論点にしてみたらいかがでしょうか。



PS ここ2回ほどたまたま生殖医療や遺伝子工学の話が続いたのですが、他意はありませんので為念(^^;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親族のDNA情報にもご用心

2006-09-06 | よしなしごと
 昨日の朝の「世界のニュース」でイギリスの連続婦女暴行犯が終身刑の判決を受けたというニュースがありました。
Shoe fetish rapist gets life term
暴行したうえで女性の靴を奪うという犯行の特徴から"Dearne Valley Shoe Rapist"と呼ばれ、20年来犯行を続けていたそうです。

彼逮捕のきっかけは犯人の親戚のDNAが犯行現場のものと似ていたことだったとか。
DNA traps rapist with shoe fetish
によると

犯人のDNA標本を警察のデータベースにある標本と比較したところ、40以上の一致点があるものが見つかった。
それは犯人の姉が飲酒運転で逮捕されたときに採取された標本であり、彼女の親族を洗ったところ犯人が容疑者として浮かび上がったとのことです。


犯罪捜査は公益目的なので例外という部分もあるでしょうが、親戚のDNA情報から本人(のDNA情報)が推定されてしまう、というのは(考えてみれば当然なのですが)漠然とした不気味さを感じてしまいます。
 

小理屈で言えば、個人情報保護法で保護されるのは「生存している個人」に関する情報なので、死者のDNA情報は個人情報としては保護されず、そのの子供や兄弟のDNA情報を合法的に推察することも可能になるわけです。

妙な商売が流行るかもしれません。


ふと思ったのですが、屍体のDNA情報自体は誰かに固有に帰属する権利なのでしょうか。
屍体からDNAを採取する行為自体を窃盗や器物損壊とすることができるとしても、抜け落ちた髪の毛からでもDNA情報が取れるとしたら、阻止しようがないような感じもします。
 

昨日のエントリは配偶者の凍結精子により生まれた子供を「法律的な親子関係」を裁判で求めた話でしたが、匿名の第三者提供の精子によって人工授精により生まれた子供も、ひょんな拍子で提供者があきらかになってしまうことも起きるのかもしれません。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生殖医療と司法の役割

2006-09-05 | よしなしごと

死後生殖を認めず 凍結精子認知訴訟で最高裁判決
(2006年 9月 4日 (月) 22:20 朝日新聞)

夫に先立たれた西日本在住の女性が凍結保存していた精子による体外受精で出産した男児(5)について、夫の子として認知できるかどうかが争われた訴訟の上告審判決が4日、最高裁であった。第二小法廷(中川了滋(りょうじ)裁判長)は「死後生殖について民法は想定していない。親子関係を認めるかどうかは立法によって解決されるべき問題だ」と述べ、立法がない以上父子関係は認められないとする初めての判断を示し、認知を認めた二審・高松高裁判決を破棄。女性側を敗訴させる判決を言い渡した。  

判決は、死後生殖によって生まれた子が認知されることによって、いまの民法の下でどのような法的メリットを得られるのかを検討。「父から扶養を受けることはあり得ず、父の相続人にもなり得ない」と指摘した。  

法律上の親子であれば存在するこうした「基本的な法律関係」がないことを踏まえ、「立法がない以上、死後生殖による父子には、法律上の親子関係の形成は認められない」と結論づけた。  

第二小法廷は、今回のようなケースで父子関係を認めるべきかどうかは「生命倫理、子の福祉、社会一般の考え方など多角的な観点から検討を行った上、立法によって解決されるべき問題だ」と法整備の必要性を指摘した。  

女性の夫は白血病で、放射線治療で無精子症になる恐れがあって精子を保存。99年に死亡した。  
女性は「この子に父親がだれかを教えてやりたい」と訴えていた。

最高裁判決は、そのとおりだと思います。

親の死亡時に胎児ですらない精子(卵子でも)は相続人になりようがないですし(逆に相続権を認めてしまうといつまでたっても遺産分割ができなくなってしまう)、逆に第三者提供の精子により人工授精した子と精子提供者との関係などにも影響を与えてしまいますから。

具体的な事情はわかりませんが、「この子に父親がだれかを教えてやりたい」という思いは、ほかの方法でも達することができるのではないでしょうか。
少なくとも裁判所は自らはルールを変えてまで保護する役割にはない、ということを明らかにしたわけで、その判断は正しいと思います。


人工授精や生殖医療についてはまったく知識がないのですが、生命倫理の話を横に置いたとしても、死亡した精子/卵子提供者の意思を要件とするか(しない場合は第三者提供とどう区別するか)、意思確認の方法、意思の有効期限はないのか、など、いろんな問題がありそうですね。

また、生殖医療において冷凍保存してある精子/卵子にはどの時点まで「動産」として扱うのか、また他の動産と全く同じ扱いでいいのか--所有者は事由に管理・処分できるか(極端な話、担保設定や競売も可能なのか)などという点は現在どういう整理をされているんでしょうか。

(ろくに調べもしないで脊髄反射的なエントリですがご容赦を)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あらた」と「みすず」

2006-09-04 | 余計なひとこと

監査の質で業界首位に 旧中央青山の「内紛」否定
(2006年 9月 4日 (月) 19:42 共同通信)

米有力会計事務所のプライスウォーターハウスクーパース(PWC)グループで、旧中央青山監査法人(現みすず監査法人)から多くの監査契約企業を引き継いで発足した「あらた監査法人」の高浦英夫代表執行役(57)が4日、インタビューに応じ「監査の品質で業界ナンバーワンを目指す」と決意を語った。

あらた監査法人設立の背景について、高浦代表は「(カネボウ粉飾決算事件をきっかけに)PWCが日本に提携先の監査法人を2つ持つと意思決定したことが大きい」と指摘。旧中央青山の「内紛」が原因とする監査業界内での一部の見方を否定した。

といっても移籍したメンバーはほとんど合併前の元青山監査法人の代表社員のグループだとか。
もともと青山とPWCの関係は深いので、元に戻っただけ、と考えればいいのではないでしょうか。

統合したものは二度と分離できないわけではないですし、これを「内紛」か否か議論するのは不毛な感じがします。
高浦代表にも「いやぁ、もともとそんなに仲が良かった訳じゃないですから」くらいの切り返しを期待したかったですが。


ところで残った中央青山は「みすず監査法人」に名称変更しました。
さすがに「中央監査法人」に戻すわけにはいかなかったのでしょう。
HPをみると「みすず」の由来は

 「みすず」は、山地に群生する笹を意味しており、根強く地に生え勢いよく伸び、また、力強くしなやかなことから、変革を成し遂げながら成長し、さまざまな課題にも柔軟に対応する法人を目指すために、当法人の名称と致しました。
  また、ロゴマークは笹の葉をモチーフにした船をイメージしており、新しい航海への船出、嵐に耐え抜く力強さ、しなやかさを表現しています。ロゴマークの色は、はつらつとしていて、さらに新鮮なイメージのグリーンとブルーとしています。


「あらた」もそうですが、ここのところやまと言葉系の社名が流行りですね。


早速「みずほ」や「いすず」とまぎらわしい、とか「みそぎ」とか「笹薮の中」などと揶揄されそうですが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駅弁の女王

2006-09-03 | 乱読日記
タイトルを見て、よからぬことを考えたアナタは、既に立派なオヤジですw


今や時代も変わり、駅弁(や飛行場の「空弁」)も進化していて、『ニッポン駅弁大全』という本まで出ています。それを書かれた小林しのぶさんという女性が「駅弁の女王」その人です。


私も今朝ゴルフに行く途中にJ-Waveの番組に彼女がゲストで出ていて初めて知ったのですが、隠れ「乗り鉄」元時刻表少年としては、なかなかツボに入った番組でした。

何しろ彼女は停車するすべての駅で駅弁を買うので網棚を占拠してしまったことがあるとか、北九州市の折尾(おれおおりお)駅(鹿児島本線と筑豊線が交差する駅)にいる蝶ネクタイとストライプのシャツがトレードマークの名物立ち売りおじいさんに会いに、福岡に出張するときには用がなくても折尾駅まで駅弁を買いに行く、というフリーク度合い。

上の本では534食の駅弁を紹介していますが、彼女が実際に食べた駅弁の数は2000食以上だそうです。

もうひとりのゲストのSOTOKOTO(番組のスポンサー)の副編集長の男性もなかなかの通人で、高崎駅(彼の出身地、「0番線」が一部には有名)のだるま弁当への愛着などを熱く語ってくれました。
(でも、だるま弁当は昔は陶器の器だったのが今はプラスチックになってしまったそうで、家に持って帰って灰皿や壁掛けや貯金箱などに使うという楽しみが半減してしまいましたのは残念。)

そして、駅弁を食べ始めるタイミング論(妙にあせった風にみせるのもかっこ悪い、とか、旅情的には風景が変わるあたりが一番いいとか、駅弁の女王は駅弁にはまったきっかけが日本酒のつまみにするという動機だったのでやはりお酒を飲むタイミングだとか)から、駅弁のおかずをどういう順番で食べるかの話に。

ここで副編集長氏は「駅弁おかずローテーション」の深遠さを初めて解き明かした泉昌之のデビュー作「夜行」(『かっこいいスキヤキ』所収)に言及したあたりで、運転中にもかかわらず思わず膝を打ってしまいました。

この作品は、トレンチコートに身を包んだ男が夜行列車の中でいかにハードボイルドに駅弁を食べるかについて葛藤したあげくに悲劇的な結末を迎えるという、これも一部では有名な作品です。


実際、駅弁を食べるタイミングというのは駅を出てしばらくして何となく皆食べ始めるという空気感があります(東海道新幹線で新横浜に着く前から既に食べ始めている人は旅情でなく空腹優先だとわかるとか)。

以前仙台からの帰りに牛タン弁当を買って同僚と新幹線に乗ったことがありました。
仙台を出発してしばらくすると、社内も三々五々弁当を食べようか、という雰囲気になります。
われわれの買ったのは紐を引くと容器の下の塩化カルシウムと水が混ざって発熱し、弁当があたたまるタイプのものでした。
通路をはさんで反対側の女性も同じ弁当で、彼女の方が少しだけ容器を開けたそのとき、列車がガクンと急ブレーキをかけ、その拍子に彼女の弁当は床に落ちてしまいました。
幸い中身は無事だったのですが、下の水がこぼれてしまい、彼女は冷たいままの弁当を食べることになります。
それを横目に弁当を温めるわれわれの肩身の狭かったこと・・・


駅弁には、そういうドラマがあります。


(注意)
冒頭の文章がおわかりにならなかった善男善女の方は、間違っても身近のホンモノのオヤジに訊いたりしないでください。
世の中には知る価値がないこと、知らない方がいいこと(知っていること自体が品性を疑われるという意味で)はいっぱいありますので・・・


















コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『国家の罠』と『自壊する帝国』

2006-09-02 | 乱読日記
鈴木宗男議員の事件に関連して逮捕・起訴された(裁判は控訴中)「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の著書です。

『国家の罠』は事件そのものについての本です。
大きく言えば
① ロシア外交における鈴木宗男議員の役割と佐藤氏との関係
② 起訴されるきっかけになったイスラエルの学者とのつながりのロシア情報収集における重要性などの背景
③ 外務省の人間模様
④ 逮捕・拘留中の検察官とのやりとり
が書かれています。

『自壊する帝国』は、著者が外務省にはいり、ロシア大使館に赴任していた1985年から1995年にかけて、ちょうどゴルバチョフ政権からソ連が崩壊しエリツィンがロシアの大統領になるまでの記録です。


外交機密には触れられない、と注意書きはありますが、『国家の罠』は検察官とのやり取りをここまで冷静に書いた拘留記(?)は初めて読んだこと、『自壊する帝国』は、もともとほとんど知識のなかったバルト三国を始めとするロシア共和国から独立した諸国の事情や、旧ソ連の政治家の実像がリアルに描かれていることから十分に楽しめました。


読んでいくと、情報収集・分析を職業としていたためか、本来の性格もあってか、著者は非常に頭の整理された人だという印象を受けます。

それが『国家の罠』では自ら刑事被告人になっているので仕方ないのですが、首尾一貫して論理的に破綻のない書きぶりが少し我田引水風に感じられるところもあります(そりゃ当然ですが)。
それだけに取り調べにあたった検察官との応酬は読み応えがあります。

それに比べて『自壊する帝国』はソ連邦の崩壊をモスクワ大使館でリアルタイムで目撃した筆者が年代記風に書いているので、前書のような緊張感は漂ってきません。
逆に、これこれの政治家・活動家と話をしたときにどこで何を食べた、ウオッカを何本飲んだということが必ずセットで出てくるあたりが、当時のロシアの実情や外交官の実態が伝わってきます。
また、国家の崩壊・体制の転換局面での人間の身の処し方(政治的スタンスや金の稼ぎ方)、現在のロシアやCISについても考えさせらます。


逆に筆者の情報収集のスタイル、人脈の広げ方は大使館内でも独特(でかつ優秀)だったために、出る杭は打たれやすい状況にはあったんだろうな、とも想像されます。


文章の書きぶりは上述のように「ぶれなすぎ」で著者のロジックで緻密に展開される(特に前書)ので、読者としてそこにひっかかってしてしまうと批判的なスタンスを取りたくなってしまうかもしれませんが、歴史書とはそういうもんだくらいの気持ちで読むと楽しめたり参考になったりする部分の多い本だと思います。
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『悪者』であるための実存的努力について」への補足

2006-09-01 | 余計なひとこと
前のエントリを読み返すと、話が拡散してしまっているので若干の補足を。

前のエントリではバッシングする側、される側の論理という方に話が展開したのですが、もう一つ言いたかったのはホリエモンなり村上氏なり三木谷氏が「おのれの自己同一性を実存的な努力によって構築せねばならず、にもかかわらず、そうやって獲得したものはそのつど無価値なものという宣告を受け、あらたな獲得目標に向けての競争に駆り立てられる」という努力をあるところで止めてしまったために、魅力が薄れてしまったのではないか、ということです。

ライブドアも楽天も、株式公開をして多額の余剰キャッシュを得た後、株価を維持・上昇させることが自己目的化してしまい、買収したキャッシュフローを生む(主に金融)子会社の収益に下支えられた決算と「次のM&A」による話題作りという似たり寄ったりの会社(よく見れば違うのでしょうが)になってしまいました。
(ホリエモンは注目を浴びるようになってから、自分個人についての脱構築を続けていたのかもしれませんが、ライブドアという企業は取り残されてしまいましたよね)
村上ファンドは東京スタイルなどで「物言う株主」として脚光を浴び、資金が集まりだしてからは、表の顔を維持しながら多額の資金を運用するために、きわどいことをするようになったわけです。

結局は皆、巨額の金を手にしたものの、それを制御しきれるだけの事業の継続的な革新ができなかった(そもそもそんなことが可能なのかどうかわかりませんけど)ことが「虚像」などといわれてしまう結果になった、ということではないかと。



それからもう一つのポイントは「実存主義的にゼロ」であることの選択、または実存主義的な努力を回避するための誘惑(=「自分は○○だ」と定義してもらうまたは定義する必要もないくらいに楽な地位に身を置くことへの誘惑)です。

これはサラリーマン(被用者)など何らかの組織や社会的カテゴリーに属していることの安心感を生み出すわけです。

私はそれが必ずしも悪いとは思わないのですが、そこの安心を得るのと引き換えに失うものも出てくるということも、頭の片隅に置いておいた方がいい、という自戒です。
つまり、安心と引き換えに考えなくなってしまう、または思考の枠組みが制限されることに無自覚になってしまう、ということです。

具体的には「バカの壁」であったり、それぞれが自分の塹壕にこもったまま手榴弾を放り投げるかのような2ちゃんなどでの荒れる現象であったり、もうすこし前向きな例としてはモトケンさんのblogで盛り上がっている医療崩壊における医師の(刑事)責任追求のあり方に関して医師の方と法律家の方が(誠実に議論しながらも)議論をすりあわせるのに苦労されていることに現れています。


ホントこれは、自分自身に対して一番意識しないといけないことだと思います。
(でも、私は天邪鬼なのでついつい「起業家」とカテゴライズされる起業予備軍の人々が、カテゴライズされること自体の論理矛盾に潜む危うさに気づいているのか、などとつっこみたくもなっちゃうんですよねw)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする