一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ワーストドレッサー

2010-01-06 | よしなしごと



「最もダサい男性」はブラウン首相…英の雑誌
(2010年1月5日11時31分 読売新聞) 

男性向け総合誌「GQ」の英国版は4日、今年の「最もダサい男性」にブラウン英首相を選出した。特にネクタイのセンスを酷評し、「典型的な英国紳士からはほど遠い」として、順位を昨年の3位から上げた。  

サルコジ仏大統領(3位)や北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記(8位)もランク入りした。高いヒールの靴で身長をかさ上げしているサルコジ大統領は、ランニング時のTシャツを批評され、「身長より服装を気にするべきだ」。金総書記は、厚手の上着に黒ズボンを合わせるお決まりのコーディネートについて、「彼の政策並みの好感度」と皮肉られた。

この手の話には余の東西を問わず政治家は人気ですね。

ブラウン首相はネクタイが曲がってお疲れのようですが、政治家は四六時中シャッターチャンスを狙われているので仕方ないですね。

気に入ったのが4位のBoris Johnsonロンドン市長。

 


GQのサイトで紹介されているコメントは以下のとおり  

"Boris has created a new sartorial standard: shabby chic, where Charlie Chaplin meets Karl Lagerfeld with a touch of Laurel and Hardy,(注) more Hardy than Laurel, of course." Geordie Greig, Editor, Evening Standard

"shabby chic"とはよく言ったものですが、ジョンソン市長はまだ44歳と若いし、身だしなみがだらしないことをトレードマークにしているようで、 身だしなみに問題ありのロンドン市長、『ELLE』の表紙に なんてネタにもなってます。 
面構えもなかなかな人で、ご本人としては逆に4位だと不満かもしれませんね。


ベストドレッサーは芸能人がほとんどですが、なるほどと思ったのが2位のTake That
GQ誌のコメントは

Proof that men making their way towards 40 can remain stylish and relevant without succumbing to embarrassing, age-inappropriate, down-with-the-kids desperation.  
40歳になろうとする男性が、回りが困惑するような年齢不相応でガキっぽい格好に堕することなく、スタイリッシュで今日的であり得ることを証明した。  

とでも訳すのでしょうか。  

逆に言うとオッサンが年相応にstylishであり続けるのはそれだけ難しいということですね。

(注) Laurel and HardyはWikipediaによると かつてサイレントからトーキーの時代にかけて活躍したアメリカのお笑いコンビ。チビではにかみ屋のスタン・ローレルと巨漢で気むずかし屋のオリヴァー・ハーディによるこのチームは日本でも極楽コンビの名称で親しまれた。

(おまけ)
Laurel & Hardy - Hollywood Party (1934)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本辺境論』

2010-01-06 | 乱読日記
帯に「これ以降、私たちの日本人論は、本書抜きでは語られないだろう。」と大きく出ていて、その下に「話題作 養老孟司さん絶賛」とあるのですが、よく見ると上のセリフが養老孟司さんの発言の引用とは書いていないなどというあざとさも含め、出版元の新潮社は内田樹ブーム(って一部か?)に乗ろうという意図が見え見えですが、ウチダ先生自体はいつものレトリックというか、思考の階梯を自在に行き来しながら自由に書いた本です。

多分、「こういう帯につられてしまうこと自体が辺境性の現われだ」とか言ってにやりとしているんじゃないでしょうか。


ざくっと言えば、
日本人の辺境性とは「正しいことは外部にある」という文化的劣等感である。
そのため過去のほとんどの日本文化論が外来思想の輸入・吸収に費やされていること、日本文化論が他所の国と比較しての日本の後進性や独自性の主張になっていることに象徴される。
そして、この日本人の辺境性の指摘自体も(ウチダ先生のオリジナルではなく)以前からなされているがそれを忘れて常に「最新の」日本文化論が紹介されていることも象徴的である。

なので、ここで日本人の「辺境性」を認めて、辺境ならではの日本人でなければ出来ないことは何かを考えようではないか、というのがこの本のテーマです。


自分の外部に正しいものがあるという意識は、「外部から来るものに対して本態的に開放性がある」という態度につながり、(極端な話、これは「メッセージだ」という思い込みさえあれば学びが起動する)「学び」に対して効率的な文化を育てた。

一方で「私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理型式を手放せないために、「○○道」のように常に成熟の過程にあることが心地よく、自分の未成熟を正当化する文化においては、霊的な成熟(「絶対的な信」とも表現されています)に至ることが妨げられている。

このへんの「辺境人」としての特性を認識しながら、日本文化について考え直してみようじゃないか、と著者は主張します。
(霊的な成熟を実現してしまったら辺境人じゃなくなってしまうのではないか、とも思ったのですが・・・)


終章の日本語について語っているところは、文化的資源に乏しい辺境人としての日本人が、有用性が分からないものの意義を先駆的に知る能力(レヴィ・ストロースはこれを「ブリコルール」と名づけたそうです。要するに「これはなんとなく役に立ちそうだ」と気づく能力のことですね。)ために日本語独自性の果たした役割について触れています。
ただここは著者自身も養老先生の受け売り、と言っているように、『プルーストとイカ』(これは養老先生推奨本)や『日本語が亡びるとき』などの影響を受けながらまだウチダ先生の論理になってないな、という印象をうけます。
まあ、これはウチダ先生のブリコルールの発露と思って読むのがいいと思います。

「学術的論件をコロキアルな(口語の)語法で展開するということに知的リソースを投じるという習慣は欧米にはありません」という日本においてこそ、こういうウチダ流論考が楽しめるわけで、そこに過剰に厳密さを求めることは自らの「偏狭性」をあらわすだけなのかもしれませんし。

(お後がよろしいようで)





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする