ジェンダーからみるカンボジア

カンボジア社会について、ジェンダー視点から色々な情報をお届けします。

日本からのお客様たちに講義

2015年09月22日 | Forced Motherhood

 

 

大学の交流事業で、一週間ほど日本から訪問してきている大学院生たちを対象に講義。といっても、インドネシア、コスタリカ、中国の参加者もいて、日本の大学の国際化を感じるのである。

↓学長主催の夕食会に参加

カンボジアに戻ってきて、休む間もなく次の仕事の打ち合わせと関係者インタビューの連続。今の仕事は3週間の短期決戦なので、超集中しないと仕上げられないのだ。その間をぬって、大学で特別講義。

↓学長から参加者へ参加証明書が手渡される

↓学部長からあいさつ

久しぶりにフンナムレストランにいったけれど、美味しい・・・・学生さんたちとの交流も楽しかったけれど、料理も大満足。帰国一日目は、あっという間にすぎたのである。

 

 

 

 


今、親に聞いておくべきこと

2015年09月09日 | Forced Motherhood

 

8月31日から始まった今学期、社会調査の講義を受講してくれることになった学生の一人は、彼のお母さんにタケオでインタビューさせてもらった経緯がある。講義の最初に来てくれて、「また講義を受講できてうれしい。調査のおかげで、母親のことをよく知れて、これからちゃんと聞いてまとめて記録したい」と言ってくれた。

実はわたしも、自分の親について、記録を残し始めたところ。 

↓このツールを使って、初めてみた 

 

親の幼少期ののことから聞いて、最後は死んだ後にどうしてほしいかとか、遺産の話まで記録できるようになってる。

日本にいた8月にできたのは、わたしの母親の幼少期から、結婚までのこと。いろいろと面白い話が聞けた。最初のアルバイトでもらったお給料は全部母親にわたしたそう。兄弟がたくさんいてお金がいるのを知ってたから、当然のように全額渡したそうな・・・・すごい。OLしてた時には、2回ほどストーカにあってたらしい。そういう変な男性って、40年前からいたのね・・・・

↓学生の一人がオープンしたレストランのパッタイ、なかなかおいしい

 

母は証券会社で仕事した期間が4年11ヶ月だったというので、「なんで5年つとめなかったの?」と聞くと、「お見合いをしたのが12月で、さっさと結婚しようってことに話がまとまって、あっという間に2月末に退職させられた」そう。実はこの背景には、母は長女なのに次女が勝手に先に恋愛結婚するとか言い出して、田舎なので先に長女を「片付けないと」親の対面が保てないとか、父親がすでに30歳になりそうだったかなってたかで行き遅れてたから、さっさと結婚したかったって焦ってたというのがあったはず。

インタビューは長い時間になるし、聞いた項目について翌日とか数日後に「そうそう・・・」って思い出してたり、過去のことを思い出すには、時間がかかるんだなと思った。

↓最近のヒット、メキシカン料理で元気をつける!!

次のインタビューは12月に帰国した時。それにしても残念なのは、わたしが祖母を知らないこと。母親から聞く祖母のことしかわからない。祖母に、満州の話とか、奉公の話とか、聞きたかったな。

 

 

 

 

 


戦争の歴史を学ぶ

2015年08月26日 | Forced Motherhood

 

8月は、戦争関連の本をかなり読み込んだ。特に手記という形をとったものは、自分の調査に緒結する面白い話題がたくさんあって、読みながら質問票を作成していって、とても勉強になった。単に本を読むだけでなくて、自分のやりたいことにつなげるのが、一番効率的な読み方かもしれない。

 

戦争期、特攻隊として飛び立っていく若い男性たちが通っていた食堂のオーナー女性の人生についてまとめてある本、ホタル帰る。

 

若い少年たちが、特攻隊として突撃していくのを見送った女性の話や(筆者の娘)、これから特攻隊となって死にゆく若者たちが最後にどんな生活をしていたのかが描いてある。ただ、みんな死んでしまうので、とても悲しい。特攻隊みたいな非人道的な戦闘法、一体誰が考え出したんだろう・・・・・あまりにも非人道的すぎて、発想そのものが狂気としか思えない。

↓子どもたちの視点からの戦争体験記

 

高齢者が、昔少年時代を思い出して戦争について描いている本。九州から東北まで電車で疎開する様子がかなり詳細にわたって書いてあって、記憶がいい人だなと感心。もちろん、しっかり覚えている人も多いんだろうけれど、わたしがあったカンボジアの高齢者は、ERAを除いては、強制移住の話を具体的に覚えている人はあまりいない。ところどころの要所は抑えているけれど、というかんじ。そのあとの約4年がつらすぎるからかな?

 

神戸では有名な宝石商、カミネの会長さんが描いた、沖縄での従軍体験記と、そのあとのビジネス展開、神戸の震災の話。

↓沖縄の塹壕での経験が相当生々しい

神戸のことをたくさん書いているので、とってもとっても共感しながら読んだ。人間万事斎王が馬というのは、まさにこの人かも。あるいは、起死回生かな?よく沖縄から戻ってこれたなと思うと同時に、ほんの一握りの人しか成功できないような素晴らしい成功をビジネスでも収めていて、本としてご自分の体験をまとめてくれていることに感謝。カルティエの社長がとても人間性溢れて優しい人間だというのも、筆者との交流をつうじて伝わってきて、ブランドはやはり単なる値段だけではないブランドの価値っていうものがあるなと思ったのである。ちなみに、カミネのHPに、この本がほしい人は英語版もあるので連絡をすれば送ってくれると書いてあったので、学生たちに読んでもらうためにこの本の英語版をほしいとメールしたらすぐに回答がきて、フランス語版もあるけれど何部必要ですかという丁寧な回答で、さすが日本でもトップクラスのブランドは対応が違うと勉強になったのである。

 

 ↓連合艦隊司令官長官、山本五十六の話

 

筆者が描く太平洋戦争の背景と山本五十六のかかわりよりも、山本五十六の父が、3姉妹と連続して結婚したっていうののほうが驚き・・・・(長女から順に死に、次々と妹と再婚)。とてもとても厚みがある本で、読みす進めるのにとっても時間がかかる。大岡昇平さんの「俘虜記」と同じレベルで、内容が濃いいし重いのである。

それにしても歴史書に女性は登場しないのである。 

↓なので、こちらも読んでみた、澤地久枝さんの本

 

とてもとても新鮮なかんじがする、女性視点からの戦争記録。自分の孫に語りかけるという形式で書かれていて読みやすいのと、自分の体験に基づいて書いていて(資料の引用はほとんどない)、静かな語りだけれど、凄まじい戦争体験記という迫力がある。

 


ショッキングすぎるニュース・・

2015年08月22日 | Forced Motherhood

 

 

ショックなニュース。

イエン・ティリットがパイリンで亡くなったそうな。

↓あまり関係ないけれど、この前お葬式で出たお弁当

クメールルージュ時代、なぜ強制結婚が制度として実施されたのか、多くの人が強制されたのか、実際の背景を知っていたはずの数少ないトップリーダー。

「妻と夫が離れて生活しているなら、どうやって女性が妊娠するのか」という質問に対して、「あなたは、カンボジアのことをわかってない」ってベトナムだかどこかの外交団に言い放ったとされるイエン・ティリット。すでに法廷には立てなくなっていたから、証言を聞けることはないかなとは想定はしていたけれど・・・・・とても残念なニュース。こうやって歴史の証人は次々と被害者に『??』を残していなくなっていくのである。

 

 

裁判所からの情報。

ACCUSED PERSON IENG THIRITH DIES

 

The Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia (ECCC) has been informed by the legal guardian that the accused person Ieng Thirith passed away at approximately 10:30 am on 22 August 2015 in Pailin, Cambodia.

 

Ieng Thirith, born on 12 March 1932, was the Minister of Social Action during Democratic Kampuchea. On 15 September 2010, Ieng Thirith was indicted in Case 002 on charges of genocide, crimes against humanity and grave breaches of the Geneva Conventions of 1949.  The proceedings against Ieng Thirith were stayed in 2012 after she had been found unfit to stand trial due to progressive dementia, and she was released under a regime of judicial supervision. She remained under judicial supervision until her death.


クメールルージュ裁判所の貢献?

2015年08月22日 | Forced Motherhood

 

カンボジア政府が国連に出す報告書をまとめていて、クメールルージュ裁判が性犯罪の被害者にどのような支援をしているかの勉強中。ネットに山ほど情報があるし、関係している非政府組織も国連とかから資金支援を受けているので、情報量が多いので、精査するのが大変なくらい、いろんなことが実施されてる。

↓懐かしい写真も発見、学生たちを訓練してステートメントを作成したのであった

情報を集めていると、間違いなく数多くの取り組みが実施されていて、国連の支援で被害者支援が進んでいる。数値とかでそういった成果を見ると、素晴らしい成果だと思うし、被害者が支援を喜んでいるのもまちがいないのだろうと思う。わたしが10年前に最初の性犯罪調査をした時には、行政の人が性犯罪の被害者に支援を提供するなんて、被害者の視点からはとても予想もできなかったし誰も期待していなかった。

でも、わたしの実感からいうと、今年の5−7月にかけてあった被害者たちは、数多くの強制結婚の被害者が含まれているけれど、そういった支援の蚊帳の外におかれた人たちばかりで、裁判所のことすらほとんどまったく知らないし関心もないというかんじ。まさに、政府高官が主張したように「サービスが存在するだけではダメで、そのサービスがあるってことを徹底的に周知してもらって、サービスにアクセスできるように支援を充実させなければならい」のである。ちなみに、保健省によると、各地の病院では、裁判所でCivil Partyとして認定されている人には、無料でPTSDなどカウセリングサービスが提供されているそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Bun Phalla (R4)- 強制結婚の被害者

2015年08月13日 | Forced Motherhood

 

 

Bun Phalla さんは、67歳、プレアビヒア出身。

ラタナキリでインタビューした女性は、すべて移住してきた人たち。パラさんは、ロンノル時代に兵士と結婚したんだけれど、夫は戦争に行ったまま帰ってこなかった。クメールルージュが来る前、戦争から逃れるために森の中を走り回っていて、森の中で母親二手伝ってもらって男子を出産したのだけれど、すぐに死んでしまった。

強制結婚は珍しくないけれど、彼女の場合は、広い会議場に男女が集められて、クメールルージュが男性に対して「妻にしたい女性を選べ」と命令して結婚式が行われたというのが珍しい。 

I was forced to married with a man who lived in another village. I had never known him before the marriage in my entire life. I felt so bad and I really did not want to marry him. The ceremony was held inside the house with a roof, a kind of a KR meeting place. There were no music, my parents was not there with me. People there were only those people who were going to marry, so there were hundreds of men and women who had never seen or known each other before. Suddenly, Pol Pot asked those men in the room to choose any woman who they want to have as a partner. One man pointed at me, and Pol Pot instructed us to make an oath for Angka that we are marrying. It was in 1976. We then became a couple from that day on. At that time, hundreds of couples had to marry, and ate together. No one could refuse the marriage order. If anyone refused, they would be killed.

強制結婚の結果、クメールルージュ時代に生まれた子供は、出産を手伝ってくれた助産婦によってクンティアと名付けられた。

1994年にラタナキリに移り住んだ彼女、「強制結婚させられた場所とか、住んでいた村には二度と戻りたくない。あまりにもつらい思い出が多いから」

クメールルージュ時代に母になるのも現代に母になるのも、基本的には同じだと語った彼女。「違うのは、当時は食べ物がなかったこと」。若い女性たちには、「子ができたら、蚊にかまれないように子を守らないといけない」。日本で、庭で遊んでて蚊に噛まれまくっている我が子を見て、ちょっと反省するのである・・・

 

 

 

 

 

 

 


市場に行きたかったーPuth Muy (B3)

2015年08月12日 | Forced Motherhood

 

54人インタビューをしていて、「石鹸がなくて悲しかった、市場に買い物に行きたかった」と2回は繰り返した、Keo Keon さん。その発言を引用したかったんだけれど、翻訳からは落ちてる・・・・

↓妹さんがインタビューに同席してたんだけれど、黙ってもらった

 

残念ながら、石鹸コメントは引用できないけれど、以下、バッタンバンで第3地区と第4地区との生活の違いをけっこう明確に説明してくれたのを使うことに。

 “At that place they called the Region 3, there were some foods and vegetables (for people to eat), and I remember that sometime people from the Region 4 swam across the lake (to come to our place) to ask some food from people in the Region 3. Because the region 3 was easier than the Region 4.”

池を渡って食べ物を取りに来たかあ・・・・なかなかリアル。

他の地区では、こういった比較はあまりない。プリベインでも「こっちは米があったけれど、あっちはともろこししかなかった」みたいなコメントもあったかな。

 

 

 

 

 


So Aun (S18) シエムリアップ(62歳)

2015年08月11日 | Forced Motherhood

 

 

村の中で、自転車に乗ってるところをつかまえて、インタビューさせてもらったソ・アウンさん。

田舎っていいなあ・・・・と、人々のおおらかさを感じたのである。ちなみに、この時は、本来別の女性にインタビューすべく歩いていたところで、たまたま彼女がのんびりと自転車で通りかかったのである。あの時本来インタビューするはずだった女性、依頼はしていなくて突然訪問しようとしてたのでまあいいんだけれど、村にはきっともっともっとたくさんの妊娠経験者がいたんだろうなあ。

彼女の話はちょっとややこしくて、1972年にすでにクメールルージュが村を支配していたことや、クメールルージュがシエムリアップ州都を制覇するまで空爆がすごくて大変だった話がでてくる。妊娠した時も悲惨な思いをしていて、「おかゆしか食べられなかった・・・もし魚がはいってたとしても、骨しかなかった」。

「夫を迎えに行くのにおくれちゃうわ」って言いながらインタビューをうけてくれた彼女。きっと、今でも夫とは仲良しの夫婦なんだろうな。

 

When I recall my pregnancy in KR regime, it’s very difficult. I didn’t want to have a baby at that time because it’s very difficult. I don’t have anything to eat even salt, pepper, garlic. We even did not have light, so what we had was only darkness. Also, I could only eat porridge. My son Chhut, born at that time, is now 40 years old but I never told him about my suffering of having a baby in KR regime. But I ever told him that I didn’t have enough food to eat at that time. He already knew about this. When he went to corn farm with me, he didn’t ask me to buy anything because he knew that I didn’t have any money. At that time, I lived in small house and didn’t have money to buy food for him because they used rice to exchange for foods and I didn’t have rice to exchange. So he said that I don’t have to worry, just cook rice to eat that is enough for him. It’s very difficult to have a baby at that time. I had to cook but I can’t feed my child until they told me it’s time for rice. They gave me just a spoon of rice. 


Ms Khim Sim、81歳 (T5)

2015年08月10日 | Forced Motherhood

 

 

高齢者のインタビューは、貴重な情報を得られることが多いのだけれど、会話がなかなか成立しなかったり、年代がごちゃごちゃになっていたり、苦労することが多い。

でも、キム・シンさんは、ちゃんとした記憶があって、シアヌーク時代に結婚した話から、クメールルージュが来た時に長男が5年生で学校に通っていて、教員が生徒を殴っていた話まで聞かせてくれた。

 

彼女は、クメールルージュ時代に夫を失い、5人の子どもが死んでいる。長男は生き延びたんだけれど、クメールルージュ時代に強制労働させられて、母親としてとてもかわいそうに思った。でも、残念ながら、この長男は病院に行っていた時に空爆にあって殺されてしまう。

彼女の話でおもしろいのは、クメールルージュが来た時、人々は3つのグループに分けられたという説明。ただ、クメールルージュ時代に使われた独特の言い回しって、英語の定訳があるのだろうか?学生の翻訳も、クラスによって異なるし、ちょっと混乱するのである。

 

 

I was a “base people” in that area. But actually KR put me in the list of the “Transfer Group” because one of my children was a soldier so they decided to put me in the list as the “Transfer Group”. For “base people”, they divided into three groups such as “Transfer group”, “Preparation group” and “Full-Rights Group”. “Transfer group” was the group of people who did not have a permanent house to live and they constantly changed their residence. When people did something wrong, they were also put into this group. For instance, teachers, soldier, police and so on from the former regime were in this group. “Preparation group” referred to a group of people who had a distinct place to live so they do not have to change the house most of the time.  “Full-rights group” was similar to preparation group but they suffered and sacrificed the most to complete the ambitious projects of KR. KR made a list of people in those groups and they noted down the names of those people accurately. 

 

 


トンレバティで即席インタビューしたYeay Sok (T1)

2015年08月09日 | Forced Motherhood

 

Yeay Sok さん、73歳は、トンレバティでお菓子を売ってるところだったのを、「クメールルージュ時代に出産しませんでした?』って聞いて、即席インタビューした女性。夫がモニヴォッン病院で働いていた医者だった。彼女は、クメールルージュ時代に自分の母と子ども2名とを、同時期に亡くしている。でも、「自分もいつ殺されるかわからなかったから、悲しいとも思えなかった」そう。

 

About my children that I had two daughters who born before KR, they died in the same time (I don’t know clearly). They can walk to get rice from KR. The reason that they died is that they had no food, they feel hungry too much and no power to live anymore. It was so sad-  I could not celebrate anything for them. We just took them into land without everything. I feel sad. Moreover, I did not know when I might die too. One day I would die because my husband was an army in Lon Nol so they might have kiled him andl his family, including me.