加藤周一さんのお別れ会(有楽町・朝日ホール)に出かけました(2009.2.22)

2009-02-22 19:42:42 | Weblog

 新聞で知った12月5日の加藤周一さんの訃報は、このブログでも書きました。<ここです>

 2月21日に、<お別れ会>があることも早くから知っていて、滞っていた東京でやるべき雑件をあわせて済まそうと思っていたのです。
 大勢の参列者を予想して、また私自身の動きの鈍さも自覚していたので、東京・有楽町の朝日ホールに、早め、開場の12時に出かけました。

 開式は、午後1時。白い花に飾られた加藤周一さんの遺影に、大江健三郎さん、水村美苗さん、吉田秀和さんの弔辞が続きます。鶴見俊輔さんはお身体不調から出席できず代読です。そして、日本、ドイツ、フランス、英国、中国の、友人・学者から、メッセージが届けられ読み上げられます。

 とても静かな、<上質の>講演を聞いているようでした。とても見事な人生を送られたのです。

 翌(22)日の朝日新聞の朝刊に、かなりのスペースで弔辞の抜粋が載っています。私にも、いくつか記憶が残っています。

 吉田秀和さん;いくつか購読してきた外国の新聞に、社会にトピックスがあるときには、必ず加藤さんのコメントが載っていた。加藤さんが、英・仏・独語に堪能と同時に、世界の新聞記者に、その発言が信頼されていたのです。
 大江健三郎さん;私は、尊敬する学者が亡くなるたびに、<全>著作を読み返すんです・・・・
 水村美苗さん:ご自分からは、何ひとつ相手には求めないという決意の人格がありました。
 鶴見俊輔さん;・・・広島を見て(*)、国家に結びついたビッグ・サイエンスが、人間に何をしたかを、目のあたりにしました。プラハの春では、戦争勢力が国家全体主義の中から芽生えてくること見据えました。・・・・どうして、戦争放棄が必要なのかを説いたのです。そうして、<九条の会>の発起人になられたのです。

 喪主の矢島翠さんは、昨年8月からの急速な病状悪化の中に、あれほど活字が好きだった人が活字に眼をやることのない日々を話され、加藤のレトリック<しかし、それだけではない>を胸に思い、この後も生きていきたい・・・と締めくくられました。

<・・・・しかし、それだけではない・・・・>と、常に考えながら、やっていこう。

 私らの、上の世代、あの戦争を青年時代に過ごした世代、私らが見習ってきた人たちが、どんどん亡くなっていきます。

    【おまけ】

*久しぶりの有楽町でした。ここにあった朝日新聞社にも、何度か仕事で出かけていました。朝日新聞社が築地に移って出かけることはなくなって、まさに久しぶりの朝日ホールでした。

*加藤周一さん、1945年(26歳、)10月、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として約2ヶ月間広島に滞在し、調査に従事する(配布された略年譜より)。この経験があったことを初めて知りました。

*献花を終え退出したとき、ホールの外には、まだ大勢の人の列がありました。


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