わが故郷・岡山の山間部に、大逆事件で処刑された森近運平(2009.9.23)

2009-09-23 17:02:01 | Weblog

*<郷土が生んだ偉人たち>井原市教育委員会発行より

 昨日、わが家に客が来るからと<片付け>をしていて、ひょっこり今年(2009年)5月ごろの新聞スクラップが出てきました。だから、今日は高目の直球、ボール球ブログです。

*朝日新聞夕刊2009年5月~6月。執筆は、早野透記者)

 大逆事件の人を追ったレポートでした(朝日5月19日~6月5日)。ちょうどその頃、雑誌<世界>にも大逆事件の連載がありました。
 詳しく書くスペースはありませんが、体制転覆を企てたとして、幸徳秋水、菅野スガら12名が処刑された事件です。大逆とは、大君(天皇)に対する反逆でしょうか。

 なぜ、2つのメディアが揃って今、大逆事件を扱うのか。1911年1月18日に、死刑24名の判決があって、1月24,25日に12名が処刑されました。大逆事件100年なのでしょう。

 私が、大逆事件に少し関心を示すのは、そこに連座し、処刑されたもののひとり、森近運平が郷里・岡山県現井原市の出身者であるからです。
 といって、同じ郷里の私ら世代で、森近運平の名を知っているものは、ほとんどいないでしょう。私は、小学生の頃、昭和20年代から知っていました。そんな子どもは、そうはいないでしょう。
 ついこの間まで、大逆者であったわけです。山あいの村です。長い間話題にも出来なかったでしょう。

 私のオヤジが、森近運平の出身の村(現井原市高屋町)の小学校の校長であったこともあって、<家の中で聞いた、もれ聞こえた>名前です。オヤジが子どもらに話して聞かせたわけではありません。
 その頃そこに、森近運平の妹さんが住んでおられました。妹さんのことも時々聞いていました。 妹栄子(ひでこ)さんは、1961年1月18日、大逆事件判決50年目の日。昭和30年、1950年目の日に再審請求をします。(これは65年末に東京高裁で退けられました)

 だから、大逆事件の記事があったりすると、森近運平の記述を探すのです。
 朝日新聞の夕刊連載を、毎日読みながら、森近運平の回を今日か今日かと待っていました。最終回(第14回)の終わり半分の所にやっと出てきました。たったの29行でした。それだけ、話題性に乏しい、大逆中心から離れていたのでしょうか。
 それでも、処刑されたのです。その時30歳です。

*右は、<大逆事件100年の道ゆき>を連載中の、雑誌・世界の2009年5月号、6月号。執筆は、田中伸尚さん(朝日新聞記者から独立したノンフィクションライター)。

 井原市教育委員会は、昨年、<郷土が生んだ偉人たち(井原歴史人物伝)>を発行した。森近運平に1ページをさいています。
 最後をこう締めくくっています。<・・・・しかし、帰郷後、わずか1年あまりで大逆事件に連座される。運平は大逆事件の首謀者とは関係なく冤罪であったが、政府の社会主義運動を一網打尽に壊滅させる犠牲者となり、助命運動もかなわず死刑となった。>

 雑誌世界の5月号には、<森近運平の郷、岡山県・高屋村では、大逆事件の連座者では、唯一、助命運動が起きた>と書いています。

 ついこの間、大逆者であって、今、市の教育委員会発行の書物で、郷土の偉人として扱われます。
 その間に、昭和20(1945)年8月15日の、先の大戦!(太平洋戦争)の敗戦という、体制の大きな変革がありました。

     【おまけ】

*この8月、自由民主党が大敗し、野におりました。これもまた<体制の変革>なんでしょうか。どんな体制にあっても、せいっぱい自分の信じる道をまっすぐ生きるしかないのです。行きたいものです。


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