*さわってもいいと言われても、どこを、どうさわればいいのか。若い女性係員が、じっと、こちらを見ています。言葉に困って、写真を撮ってももいいのですね?と話しました。最新コンピュータ画像処理技術を使って作った複製です。
10月ごろにNHKが日曜美術館の番組で扱っていましたが、今年が、碌山没後100年の年だったのだと知りました。
安曇野の碌山美術館に、最初にでかけたのは、30年か40年前、松本の新聞社に1か月ほどいた頃でセンチメンタルに見ていました。2度目は、夏には、必ず北アルプスに家族で出かけていて、 常念岳・蝶が岳の帰り。子どもらは中学生でしたから、15年ほど前でしょう。
碌山で、もっとも印象的な作品は、“女”の裸像です。 その“女”の裸像に焦点をあてた展示会が、東京芸大の美術館で開かれているです。
行こう行こうと思いながら、終わり(12月5日)が近づきます。夜に飲み会のある昨日(2日)に行ってきました。 この“女”からの印象は強烈です。が、なかなか文章では、この“おちゃらけをモットーとする”ブログでは、書き表されません。
展示会の解説ボードには、“目を閉じて眉をよせた苦しげな女の表情”、“内なる生命力あふれる作品”と、ありきたりの言葉が書いてあります。
荻原碌山は、パリでロダンの下で学び、明治41(1908)年に帰国します。そして、わずか2年の後、明治43(1910)年に亡くなるのです。30歳でした。
“女”は絶作です。重要文化財です。明治43(1909)年に、岡田みどりというモデルで制作を始めるのですが、最終的には、相馬黒光をイメージしたものと言われています。
この作品は、碌山の相馬黒光への思いが凝縮されているようです。
相馬黒光は、若い芸術家たちが集まってきて、中村屋サロンと呼ばれることになる、パン屋、新宿中村屋の主人の妻です。
この像が、碌山と黒光の間を凝縮しているとすれば、見るものの印象はそれぞれでしょう。
この展覧会には、“女”6体ほどが展示されています。
私は、彫刻の作品制作過程をよく知らないのですが、展示会には、石膏原型と複数のブロンズが展示されていました。
①真ん中に置かれていたものは、碌山が粘土で制作し、碌山自身が石膏どりしたものです。1910年制作の石膏の本物です。東京国立博物館蔵 重要文化財。
②碌山急逝後、同1910年、同郷の山本安曇(1885-1945)によってブロンズに鋳造されたもの。東京近代美術館蔵。
③ 戦後になって、何体ものブロンズ像が鋳造されたようです。44年後、1954年に伊藤忠雄により鋳造。資金提供者であった相馬黒光により、碌山研究委員会に寄贈され、のちに碌山美術館が所蔵。
④1971年、17年後に伊藤忠雄が再びブロンズ像を鋳造。東京芸大蔵。
彫刻は、粘土で作って、石膏どりをして、ブロンズで作成されます。まあ、いくつでもブロンズは作れるようです。
本物の作品(原作)と複製の関係は、どう考えていいのかよくわかりません。 そして、現代の新技術、コンピュータの三次元画像処理技術は、全く新しい複製の作成を可能にしました。
その複製が、一階のロビーにあった合成樹脂製の“女”です。入場料のいる部屋の展示と違い、無料のエントランスにありました。本物そっくりです。“ご自由に触れて下さい”とあるのです。
【おまけ】
*芸大美術館のショップも楽しい、“女”がプリントされているクッキー(右)がありました。買わねばならないでしょう。800円です。(左)の、相馬黒光のことを書いた本を、15年ほど前に読んでいました。
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