渥美清さんが入院していたしょうわ町の病院(2006年9月5日)

2006-09-05 17:04:30 | Weblog

今日は、しょうわ町(庄和町)のことを書きます。

私は、テレビはあまり見ないのですが、新聞のテレビ欄はよく見ます。昨日(3日)夜、NHKで、“プレミアム10・渥美清の肖像”という番組があることを知っていた。その紹介記事に、・・・・・・結核との闘病生活・・・・とあった。NHKだし、しょうわ町が出てくるな、と思っていた。

わが家の隣にある南埼病院(当時は朝倉病院)に渥美清が入院していたことは、よく知っていた。そればかりか、10年ぐらい前だろうか、小林信彦さんが、渥美清の評伝風の読み物を、出版社のPR誌に連載(たぶん単行本化で新潮文庫の“おかしな男・渥美清“)している時、入院していた病院を“春日部市にある”と書いていることに、“なに―っ、庄和町だぞ”と思ったことさえあった。なお小林信彦さんは、例えば“60年代日記”ほか、何冊か持っていて、好きな作家のひとりなのです。

この2年間ほど、テレビのない生活をしていたからか、テレビをつけるとウトウトしてしまう。番組が始まって、貧しい少年時代になると、半分見・半分寝状態になった。家人に、南埼病院がでてくるよ、と話していたので起こしてくれた。いつものごつい病院正門が映っていた。一緒に入院生活をしていた人が登場し、“ここが病棟跡・・・・・なつかしいなあ・・・・”みたいなことを言っていた。思い出したくもない苦しい闘病生活といった感じではなかった。ここで、渥美清は、左肺を完全切除したのだ。東京から、遥か離れた田舎の隔離病棟だっただろう。ぽつぽつしかなかったろうが、土地(南桜井村)の人も近寄らなかっただろう。結核はうつる。そういう避病院だったろう。番組映像からでなく、裏にあった展望のない寂しさ、暗さを感じていた。

この地に、新興住民が住宅を求めるようになって、すなわち私ら越してきたのは30年前。名前は、南埼病院になっていたが、ほとんど幽霊屋敷だった。割れた窓のガラス片が道路に落ちてくる、薄気味悪い存在だった。しかし廃業していたわけではないようだった。

病院敷地は、解放され、というより無管理状態で、誰も出入りできた。みんな近道に通り抜けていた。大きな木々が茂り、とりわけ私は、真ん中の、白い花のこぶしの大木が好きだった(今は倒されている)。ただ子どもらだけで、遊びに行ける雰囲気はなかったろう。何本もあった桜の木。前の町長が住民と桜の宴を開いたこともあった。選挙前だったかもしれない。その頃、この町長なら、木々豊な、ここを町で買取ってくれるかもしれないとも思っていた。

この病院について、地域の住民からは、あんまりいい評判が聞こえてこない。そして6,7年ほど前のことか。病院のまわりを、通信衛星向けのアンテナをたてたテレビ局のSNGや中継車が取り囲んだ事件になった。何日も続いた。そして正門には、ごつい材木の扉がつけられ、閉まってしまった。わざわざ報道の無断立ち入り禁止と書かれた。今、中がどうなってしまったのか、よくわからない。

私のこどもは、夏休みに、そこで蝉の抜けがらを1000個ほど拾い、夏の自由研究にしたこともあった。町が買い上げて、公園とはいわなくても公共に役立ててほしいと今でも思うが、この町・庄和町が春日部市に組み入れられ、ますます、ありえないことになってしまった。

つけ加えれば、小林信彦さんの“春日部市の”間違いは、去年(2005)の10月から正しいことになった。

 


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3 コメント

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はじめまして (344)
2015-07-17 12:23:15
10年近く前の記事にコメントすることをお許しください。
南埼病院で神谷元町長が選挙前に催した桜の宴、私も参加しておりました。
おそらくその場で最年少のこどもだったと思います。
紅白幕と満開の桜と青い空、紙切り芸もありました。
こんなところで再び懐かしい思い出に出会うとは思いもよらず。
新町長誕生の頃、希望のある時代を思って、少し涙が出ました。

しばらく更新がないようで心配しています。
また寄らせていただきますね。
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懐かしい (庄和生まれ)
2015-08-11 02:07:44
私も、小学校低学年の頃、桜の宴での紙切り芸、見ました!! 市が買い取って公園にしてくれれば、桜の素敵な公園なのに、、、とずっと思っておりました。その場にいた方と思い出が共有でき、とても嬉しく思います。
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Unknown (炙り〆鯖)
2018-11-25 14:28:11
私はなんさいびょういんに住んでました
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