新宮の町で、神代上代の昔から祈りが伝わる巨岩を訪ねる(南紀の旅③)(2011.6.18)

2011-06-18 12:19:39 | Weblog

 

 私は、神も仏も信じ、時に一緒に頼りにするノー天気者です。大きな岩とか大きな樹には、神が宿っていると本気に思うし、しめ縄でも巻いてあるともういけません。自然現象は、神の仕業だと思ったりもします。それでいて、この頃、神社に“神がおわします”とあまり感じないのです。

 

 甥(おい)の教会での結婚式のために、新宮に行くことになった時、日本の古代文化が、そこ熊野からスタートしていることを思ったのです。その足跡をみたいと思ったのです。

 それは日本の王の先祖が、“どこからかやってきて”日本を平定支配していくあたりの話です。石器時代、縄文時代、弥生時代という“支配という言葉のない時代”の後、ヤマト王権が確立していく中で生まれた、祈りの文化です。後に日本人を覆っていく仏への信仰(外来宗教)と対比すれば、神への信仰でしょうか。

 ヤマト王権、神武天皇がどこから日本列島の大和(ヤマト)に入っていったのか。その時すでに日本の津々浦々に人が住んでいたでしょう。初めて日本制覇をなしえたのがヤマト王権です。

 南紀、新宮の周辺に、いくつか“上陸の地”があるようです。列車の窓から“ここ”と書いている看板も見ました。後に書かれた古事記や日本書紀あるいは歴史書は、ある意味、いつの世にもある支配者の都合のいい記述でしょう。

 祝詞(ノリト)にある筑紫でも日向からでもいいのですが、瀬戸内海を東に進軍(東征)したというより、どこからか太平洋を黒潮に乗ってやってきて、紀伊半島、熊野灘あたりから上陸という話にロマンを感じます。海上から那智の滝あるいは巨岩を遠望し“神を感じ”、上陸地点を決めたという話が好きです。

*民家の上に神の巨岩

 新宮市内から見える山の中腹に、大きな岩がのぞめます。

 新宮観光の初めに、その大きな岩をめざしました。
もっとも新宮観光パフレットの表紙を飾っていて、観光客は誰でもそうするでしょう。

 山の名前は、神倉山とも権現山とも。岩にはゴトビキ岩の名があって、神倉神社のご神体のようです。

*ここから石段が続きます。

 山の麓、岩の直下、民家のなくなる所に鳥居があります。そこから苔むした石段の道が伸びています。

 ゆっくり、休み休み登り、何分かかったでしょうか、息が上がる頃に大きな岩の前にでます。

 新宮市街の向こうに、太平洋の海原です。

 地元の人ひとりが手を合わせています。祝詞(ノリト)をあげ般若心経を唱えています。

 ワタシは挨拶を交わしたおり、“神=ノリトと仏=般若心経と一緒に、ですか”と声をかけてみました。“権現様だから”と答えてくれ、しばらくお話を聞きました。毎日、このあたり、神域を掃除されているようでした。

 ワタシも、子どものころから覚えている短いノリトを奏上して深く祈りました。まねして般若心経も唱えたかったのですが覚えていません。

 目の前の大海原から、この岩の近くに上陸し熊野川をさかのぼってヤマトに進んだのだと思いたいのです。

 

【おまけ】

*毎朝、おまいりに上る人も少なくないと聞きました。足の弱い老人には、苦労する石段でしょう。濡れた石段は帰り下りの方が苦労します。途中、女坂という道しるべがあって、ためしに回ってみたのですが、狭い山道で、本来の石段の方が楽でした。

*この石段の下りを、白装束の若者が松明を持って競って駆け下りる日があります。〝御灯祭”2月3日です。“山は火の滝 下り龍”と観光パンフレットに書いてあります。新宮は“ハレ”の空気につつまれ、参加する若者には、晴れがましく胸をはる日になるのです。トップランナーは、5,6分で松明を持って駆け降りる聞きました。

*今日のおみやげ。街を歩きながら古めかしそうなおせんべい屋さんに入りました。 

*香梅堂

*鈴焼、神社は鈴です。とても美味しいカステラ風味の鈴焼でした。


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