東京大空襲が私の住む埼玉県の(旧)庄和町を作ったのです(2008.3.11)

2008-03-11 10:48:39 | Weblog

*旧軍需工場正門。後に、病院の正門になり、もうまもなく分譲住宅地になりそうです。病院時代、マスコミがおしかける社会問題があって以来、頑強な扉がつけられ、今は敷地にはいれません。門柱は、軍需工場時代のままです。渥美清さんが療養していた病院でもあります。私の家のそばです。

1945年3月10日は、東京大空襲の日です。<敗色濃厚な太平洋戦争末期の3月10日に日付が変わった直後から、東京下町(台東区・墨田区・江東区)を300余の米軍爆撃機(B29)が襲い、32万発の焼夷(しょうい)弾を投下2時間半の爆撃で27万戸の家が焼かれ、10万人の命が奪われました>。ほんの、わずか63年前のことです。

東京下町から真直ぐ北に30km。旧庄和町(現春日部市の一部)があります。基本的に田園地帯です。昭和40年代後半から、急速に宅地開発され東京のベッドタウンの一つになりました。私が当地に家を買ったのは、1974年です。

役場から<新住民>といわれていた私らが、不動産屋が新たに拓いた“雑木林や荒地”に住みついたと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。
その前に、この地に仮住まいしていた一団がいたのです。

 <東京大空襲が庄和町をつくったのです>
埼玉県立庄和高校(1980年創立)の地歴部は、その見事な研究報告の中で、そう書いています。
旧庄和町(当時は南櫻井村、現春日部市の一部)の中心部、すなわち南桜井駅周辺はすべて、軍需工場だったのです。その軍需工場は、東京・錦糸町の精工舎が爆撃・空襲に備えて疎開・移住のために作られたのです。総面積15万坪。軍需工場の操業は、1944年(昭和19年)10月でした。敗戦の10ヶ月前です。

*軍需工場全体図。ピンク線は現状。

工場設備だけでなく従業員3000人も含めた移住だったのです。現在の三井住宅あたりが、男子寮、駅の南に、女子寮。現在の殖産住宅あたりは世帯持ちの社宅エリアです。

大空襲で真っ赤に燃える東京の空は、南櫻井村からも見えたといいます。その日は、陸軍記念日で、工場はお休み。従業員の多くは、実家の東京下町に里帰りしていたのです。南櫻井村に移住していた人たちとその家族にも荒れ狂う火の中に悲惨が展開したのです。 明けて、帰ってこなかった者も少なくなかったのです。

すぐに8月15日。敗戦、工場閉鎖(進駐軍の管理下)と、個人ではどうしようもない世の流れの中に、寮・社宅を出て行くもの、出て行けないものに新しい生活が始まります。
大空襲で東京を焼け出され、南櫻井村にたどりつくものも少なくなかったでしょう。また、まとまった寮は、外地からの引揚者収容のためにも使われました。

のどかな田園地帯の片隅で、その時代の食べるものが充分でない生活は、想像に難くありません。

*庄和高校地歴部の研究成果。地元の本屋さんで売っていました。

庄和高校の地歴部の報告書、“南櫻井村戦後史”(1989年)、“庄和町と東京大空襲”(1994年)などは、その後も庄和町に住む人やゆかりの人を訪ねて聞き取り調査をし、丁寧に掲載しています。その報告は類をみない、役場の“庄和町史”以上の見事な成果だと思います。
ただ、その後、不動産会社をとおして、どのように分譲住宅団地になっていったかには、触れていません。

今、平和にみえる旧庄和町の高台地区と呼ばれる住宅地の下に、あるいは片隅に、そこに住んだ人たちの忘れることのできない戦争の歴史が、横たわっていることも知っておきたいと思うのです。

   <おまけ>

*加藤春代さんの寄稿コラムの一部

* このことは、何年か前に、ご近所コミュニティ紙に書いたことがあります。また、このブログでも触れておこうと思ったのは、町に住む加藤春代さんが、毎日新聞(2008年2月18日付け)の“女の気持ち”というコラムに<語り伝えたい>という原稿を寄せられていることを知ったからです。

* 加藤さんは、<庄和町に工場疎開とともに移ってきた斉藤玉さんと、宮城県に疎開していて、3月10日に卒業式のため東京に戻っていて、大空襲で犠牲になった妹の富由(ふゆ)さんとの間で交わされたお手紙、心のやりとり、大空襲の悲惨さ>を斉藤玉さんから聞きとって、一冊の本<蛍になった富由ちゃん>を出版されていたのです。

*写真はネットから。新風社発行

* 私は、読んだことはありませんし、知らないお方です。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
第三製造所江戸川工場 (素人1号)
2009-06-12 20:46:47
ネットをサーフして偶然見つけました。
私は旧軍の遺構に興味があるもので、第三製造所江戸川工場の門が昨年までまだ残っているのに驚くと共に感激しました。
この門はまだ残っておりますでしょうか。
また、現在でも他に壁の残骸でも標柱でも小さなものでも結構ですので、遺構が残っていますでしょうか。

教えて君の内容で大変恐縮ですが、ご教授頂ければ嬉しく思います。  夏に関東に出向く用事があり、可能なら春日部方面に赴く予定です。
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門柱は残っています (f(素人1号さんへ))
2009-06-13 00:08:05
少し驚きました。こういうことに関心をもたれる方がいらっしゃるのですね。
その頃のものと思われた建物は、数年前に倒されました。でも、門柱は、当時のままのようです。
現状も写真のとおりです。
もし、お出でになるようでしたら、ご連絡下さい。
私のウチのすぐそばです。

このアドレスでご連絡下さい。
geibunkyou@mail.goo.ne.jp

(f)
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メール出させて頂きました。 (素人一号)
2009-06-25 20:31:47
先日、お言葉に甘えましてメール出させて頂きました。
もし、届いておりませんでしたら再送いたします。
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南桜井ちい散歩希望 (IMERUZA)
2012-02-07 09:25:15
先日龍Q館見学に南桜井駅から歩いて行くときたまたま写真の門の前を通りかかりました。ずいぶんクラッシックな物が残っているけど何の敷地だったのかなと不思議に思いましたが、こちらのブログでそれが軍需工場跡だったのを知りました。のどかな南桜井駅周辺にもそんな深い歴史があったんですね。感慨無量です。
その日の午前中の龍Q館見学は自分だけで他に見学者の方はいませんでした(貸切状態です)!
案内の職員の方が二人も付いてくれたのでもったいないと思いました。
今度お友達もたくさん誘って龍Q館見学、南桜井歴史散歩など是非したいと思っています。
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今・・寒いですから (f(IMERUZAさんへ))
2012-02-08 15:36:19
旧庄和町においでいただき、このブログにも
アクセスしていただきありがとうございます。
暖かくなったら、またお出かけください。
南桜井です。あちこちに桜が咲きます。
元軍需工場の庭にも桜がさきます。
・・・もうすぐ3月10日、東京大空襲の日です。
(f)
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Unknown (旧住民)
2013-06-23 21:42:18
子供の頃庄和町に住んでいたものです。
25年近く前ですが、就職活動で精工舎の面接を受けた時に、役員の方がやたら庄和町の話をするので、不思議に思ったことを思い出しました。今思うと精工舎の工場が庄和町にあったからなんですね。結局他社に就職しましたが、何かの縁を感じます。今度近くに寄ったら門柱を見たいと思います。
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