もう一か月も前の旅の話です。家人の友人Eさんが奈良にお住まいです。奈良の街なかに住むおばさんたちは、道辺の古いお寺のお掃除や観光ガイドのボランティアをしている人が多いそうです。Eさんもそうです。
“私がシーズンにガイド・ボランティアをしている、奈良のピラミッドに行ってみましょうか?”と。
日本のピラミッドといわれると、気持ちがグラッと来ます。
日本のピラミッド、というオカルト味付けの話がよくありました。ずいぶん前のことですが、面白がっていたことがあるのです。
*毎日新聞社の発行の、サンデー毎日にあった<日本にピラミッドがあった>増刊です。右:1984.9.8、左:1985.3.30。ある意味のどかな時代でした。
奈良のお寺めぐりは、京都と違い、インド・シルクロード直結の楽しみがあります。石造物、仏像がそうです。京都は、日本でアレンジされた、あるいは日本で創られた文化そのものです。
少し歩いて管理を委託されている個人のお宅で鍵を借りて中に入ります。 “頭塔(づとう)”という名の“国指定史跡”です。
40年前に奈良は、ちょこちょこ歩いていましたが、全く知りませんでした。天平奈良時代から1300年、今や街なかに残った小さな木々の丘です。奈良では、こういうものは、たいてい塚です、墳丘でしょう。 塚の周りを歩きながら、“方墳”だろうなと思っていました。少し前(9月10日)に、発掘された明日香の牽牛子塚古墳が八角墳であった話を新聞で読んでいました。
建てられた解説案内板を読んでいたら、塔であると書いていました。供養塔です。5重塔と同じです。死者を天に思う供養塔だというのです。土製の塔です。今もお墓に、法事のおりなどにそなえる(後ろに立てる細長い板)卒塔婆(そとば)、岡山の子どもの頃は、“とおば”と聞いていました。ヒンズー語のストゥーバです。
北半分が、発掘整備され、南半分はそのまま草木の生えたまま丘になっていました。ここで、子どもらは遊んでいたのか、それとも“たたりがあるから”と遊ぶことを禁止されていたのか。作られてから、なにせ1300年になるわけです。発掘調査前は、小さな森だったのです。
もらったパンフレットには、“頭塔、奈良時代の僧の頭が埋まっている墓という伝説があるが、土塔(どとう)がなまって“づとう”と呼ばれるようになった、767年に東大寺の僧が築いたという古文書があり、五重塔などと同じように、仏舎利を納めた仏塔と考えられています“とあります。方形7段の土塔です。1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造で、奇数段に27基の石仏が残っています。昭和61年から12年間にわたって発掘調査されたようです。
【おまけ】
*知人のEさん、岡山から大阪に勤める方に嫁ぎ(古い言い方ですが)、大阪通勤圏の奈良、奈良の真ん中におうちを持たれたのです。古い都に暮らし、今、ご近所の古いお寺のお掃除ボランティアもしながら、古都奈良の人になっているのです。特別に変わりはないのだけど、いい人生だなあ、と思います。
*お昼に、コミュニティ・カフェにつれて行ってくれました。地元の人より旅行者の方が多いよ、という“くるみの木”です。コミュニティ・カフェの先導的なお店で、雑誌にもよく登場しているとのことです。デジカメを出したら、店内は撮影禁止ですと。奈良の観光寺と同じです。だから、当ブログ、恒例の今日のランチの写真はありません。美味しかったし、プレートの盛り付けもきれいだったのですが。
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