「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

光市母子殺害事件の本村さん

2006年03月19日 15時42分20秒 | 心子、もろもろ
 
 この数日ニュースになっている、「光市母子殺害事件」の被害者遺族の本村洋さん。

(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060314i113.htm )

 このブログの3月5日・6日の記事「『犯罪被害者の会』にて」(カテゴリー「心子、もろもろ」)に書いた「犯罪被害者の会」に、本村さんはシンポジストとして出席されていました。

 心子と僕も、本村さんにはごく近い距離で会っています。

 当日のシンポジストの話の中で、加害者の死刑を求める本村さんの話が一番説得力があると、心子は言いました。

 心子は、悪い奴は許さないというものを持っていました。

 僕は当時、死刑制度のことを調べていて死刑反対の立場でしたが(現在は微妙に変化しています)、本村さんの切実な言葉には深く心を動かされざるを得ません。


 それにしても、口頭弁論を欠席した安田弁護士の行動には憤慨を覚えます。

 安田弁護士は死刑廃止論者の人権派弁護士と言われ、僕は今まで好意的に見ていましたが、このような由々しいルール違反をするようでは、彼の言動も信用できなくなります。

 裁判に対する信頼や理解にも影響を与え、2009年に開始される裁判員制度でも、国民の協力を得にくくなってしまうかも知れません。
 
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現代の心の障害(8)

2006年03月18日 12時09分23秒 | ボーダーに関して
 
 ボーダーの人は何か純粋なものを待望しています。

 良くも悪くも世の常識に染まることがありません。

 普通の人間は、自分と周りとのバランスを取ったり達観したりしながら、より多様で柔軟な人生観を見いだしていこうとします。

 あるいは現実とぶつかることを回避して、本音と建前を使い分けたり、長いものに巻かれたり、事なかれ主義で浮世を渡っていったりします。

 しかしボーダーの人は、決して世間ずれすることがありません。


 心子も権威的なものに馴染まず、体制におもねる者を嫌いました。

 力を笠に着て弱い人を泣かせる輩には、憤りをあらわにしました。

 世俗の不条理や権力に屈することなく、そのために自分が不利になるのをみじんも意に介しません。

 こういう無垢な心根がボーダーの人の魅力です。

 それが社会の虚偽粉飾を暴いたり、マンネリ化を打ち破ることがあります。

 危険性を伴うと同時に、ボーダーの人の独創的な面なのです。
 
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現代の心の障害(7)

2006年03月17日 19時04分13秒 | ボーダーに関して
 
数々の難問を持ちながら、ボーダーの人は極めて魅惑的で、芸術面などに卓越した天分を発揮することも少なくありません。

 尾崎豊,太宰治,マリリン=モンロー,ダイアナ元妃などがボーダーだったと言われていますね。

 全員が自殺もしくは破局的な事故(事件?)で命を落としていますが、彼らは月並みな尺度には納まらないエネルギーを持ちあぐんでいました。

(余談ながら、マリリン=モンロー,ダイアナ元妃と同じく、心子は奇しくも享年36歳でした。)

 体制への反抗,自分探しの煩悶,愛情への欲求と畏怖,外面の華やかさと内面の虚しさ,他者の苦しみに対する共感と犠牲。

 彼らはそれらに自他を巻き込みながら、疾風の如く生き去っていきました。

 世の中の様々な境界線(枠組み)を踏み越え、人々に波紋を投げかけて、そして自らは破滅していくという、トリックスター的な人物だったと言えるかもしれません。

 ボーダーであるがゆえの創造性と破壊性を示しているのです。


 ボーダーの人のなかには、事業などで成功を収める人もいます。

 でも一般にボーダーの人は、対人関係や社会性,継続的な姿勢などを保ちにくいため、もし秀でた能力に恵まれていたとしても、それに比べ往々にして低い地位に甘んじていたりします。

 心子もまたそうだったと言えると思います。

(続く)
 
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現代の心の障害(6)

2006年03月16日 17時31分52秒 | ボーダーに関して
 
 アメリカでは離婚も後ろ暗いものではなく、多彩な家族形態が生まれています。

 しかしそのアメリカで、思春期・青年期のうつをはじめ、ボーダーや各種の心の問題が多発しているといいます。

 家族が分解することは、やはり子供にとって目に見えない傷を残すでしょう。

 むろん離婚をするなとは言えませんし、不仲な夫婦が顔を付き合わせているのが子供に良い影響を及ぼすはずもありません。

 けれども理念としての父性や母性は、人間がよって来たる故郷のようなものではないでしょうか。

 私たちは境界例や心の課題を前にして、家族のあり方を改めて問いなおされるのかもしれません。


 ただし、不行き届きな家庭の子供が皆ボーダーになるわけでもありません。

 皆が子育てなどに杞憂をすることはないでしょう。

 私たちはただ当たり前の、自然な愛情を育んでいければいいのだと思います。

(続く)
 
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現代の心の障害(5)

2006年03月15日 19時00分48秒 | ボーダーに関して
 
 ボーダーの原因について現在アメリカでは、まず先天的な(生物学的な)素因が第一にあり、それに環境的な要因が加わって起こると言われているようです。

 環境的な要因としてボーダーの背景には、今日的な「機能不全家族」があります。

 ボーダーの人は、小さいときから円満な家庭に育った子がいないといわれます。

 ノーマルな幼少期の場合では、親との温かいコンタクトによって、この世に対する基本的な「安心感」が根付きます。

 それは、子供が「愛情」というものを無意識のうちに信頼する根幹となるものです。

 この時期に生への安心感の土台を築けた子供ならば、その後に行き詰まりや障壁にぶつかっても、自分の力で乗り切っていくことができます。

 しかしそれが得られなかった子は、自分の存在を肯定できず、人の愛情を信じることもできなくなってしまいます。

(続く)
 
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現代の心の障害(4)

2006年03月14日 19時05分19秒 | ボーダーに関して
 
 近代は快適さや簡便性を求め続けて、ボタンひとつで何でもできるようになり、日常生活から辛抱が乏しくなってしまいました。

 人同士の生身の触れ合いも薄れ、親密な人間関係を築きにくくなっています。

 そのうえ価値観が混乱,相対化して、生きる上の「核」を作ることが多難な時代です。

 枠組が曖昧で、アイデンティティを確立しにくく、「中心を喪失した時代」とも言われています。

 時代の急激な変動,欲望をあおる消費市場,何が正しいのか分からない情報の洪水,自己を埋没させる管理システム。

 それらのなかで現代人は、主体性やトラブルに対処する力,自分を制する力,悩む力などが弱まり、全体に境界例的気質が増しています。

 混迷した今日にあって、自己同一性(アイデンティティ)や自律性をいかに育てていけるかということを、改めて考察する契機にしてみるべきかもしれません。

(続く)
 
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現代の心の障害(3)

2006年03月13日 20時05分24秒 | ボーダーに関して
 
 精神医学界でも境界例はトピックスで、21世紀を迎えた現在「境界例の時代」とも言われています。

 人口の1~2%に境界例が見られるというデータもあります。

 不登校や引きこもり,家庭内暴力などを起こす人の中には、境界例的な資質のある人が多いようです。

(自分の延長である家族には当たっても、第三者を害することは少ないでしょう。)

 都市化が進むにつれて人々のストレスは高まり、精神が揺らいでボーダー的性質に傾くと言われます。

 社会の変化のスピードに人格の成長が追いつきません。

 境界例は時代の反面的な産物でもあるのです。

(続く)
 
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現代の心の障害(2)

2006年03月12日 19時08分59秒 | ボーダーに関して
 
 近年、世間を騒がせたいくつかの凶悪事件の犯罪者に関して、「人格障害」という言葉がマスコミでも取り沙汰されました。

 「反社会性人格障害」「妄想性人格障害」「分裂病型人格障害」などの精神鑑定が出されたこともあります。

(ただし人格障害の診断は難しく、鑑定人によって結論が一致しないこともあるし、複数の障害と重なっていることも珍しくありません。)

 でも、人格障害と犯罪を結びつけるような誤解があるのは残念なことです。

 心子が犯罪と全く無縁であるように、大部分の人格障害の人は、自分自身が言い知れぬ生き辛さに苦しんでいます。

 「反社会性人格障害」を除いて、凶悪犯罪と人格障害の関連はあまりありません。

 人格障害や一般人の中の特殊な者が、重大な犯罪を犯すということに過ぎないのです。

 人格障害の人は自分自身を痛めつけることはあっても、他人に危害を加えることは少ないです。

 周りの人からは、単にわがままだとかキレやすいと見られて迷惑がられますが、本人の中の苦悩は筆舌に尽くしがたいのです。

(続く)
 
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現代の心の障害(1)

2006年03月11日 18時27分38秒 | ボーダーに関して
 
 このカテゴリー境界性人格障害に関する僕なりの解説をしようと思います。



 境界例の概念は、欧米の精神医学で第二次大戦前後に出てきた、まだ新しいものです。

 現在でも専門家の間で見解は必ずしも統一されていません。

 特に日本での研究は緒について間もありません。

 ここに書く内容も僕が解釈していることに過ぎませんし、心子のケースに当てはまると思われるものを中心に書いているだけです。

 その点をどうかご了承ください。


 境界例は当初は、統合失調症(精神分裂病)と神経症のどちらにも分類できない、境界の症例とされていました。

 以後いくつかの学説を経ながら、1970~80年代に「境界型人格障害」という形でまとめられるようになり、現在は、10種類ある「人格障害」のひとつに分類されています。

 境界性人格障害の他に、「自己愛性人格障害」「演技性人格障害」「依存性人格障害」「強迫性人格障害」などがあります。

 それらの中で、境界性人格障害は一番中核的なものです。

(続く)
 
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「犬の糞 お願いします」

2006年03月10日 20時45分55秒 | Weblog
 
 小ネタです。(^^;)

 最寄り駅まで行く途中の家の門に、こんなプレートが貼ってあります。

 「犬の糞 お願いします」

 ??(^^;)どういう意味でしょう? 

 「犬の糞を置いていかないようにお願いします」とか言いたいんでしょうが、

 これだと「犬の糞をください」とか、「犬の糞を置いていってください」というような意味になってしまいますね。(^^;)

 しかもこのプレートは、手作りで書き誤ったというのではなく、れっきとした市販のもので、金属板にしっかりと印刷されているんです。

 まったく、こんなものを作って売るほうも売るほうだし、買うほうもまた買うほうです。

 いつもこの家の前を通るたびに苦笑いしていました。

 でも、さすがにこの家の人もようやく気付いたのでしょう、あるとき手書きで「犬の糞(の処理)お願いします」と書き加えられていました。

 ほんとに誰か犬の糞を置いてった人がいたのでしょうか。

 しかしその後、手書きの文字が消えて落ちてしまい、今は再び「犬の糞 お願いしま す」になっているのでした。(^^;)
 
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へんな夢

2006年03月09日 20時14分25秒 | Weblog
 
 大人になってまとまった夢はあまり見ませんが、この前へんな夢を見ました。

 学校の始業式の日と、親戚の誰かが亡くなった葬儀が重なり、僕は始業式のあと葬儀に参列しなければならなくなりました。

 また、始業式で演劇の発表をするのですが、僕は何と主役のボーダーの女性役(!?)です。

 始業式の場所と葬儀の場所が同じなのか(?)、始業式の会場にすでに喪服姿の親戚たちがいます。

 僕の親父とお袋も生前の元気なときの姿で出てきました。

 ところが僕は、学校の制服も葬儀の喪服も忘れてきてしまいました。

 始業式が終わってから喪服を家に取りに行く時間はありません。

 そのことを親戚に言えず、僕は困っています。

 そして何故か、葬儀の喪主と、演劇の演出・脚本の人が同じ僕の叔父なのです。

 おまけに脚本はまだでき上がっておらず、練習も一回もしたことがありません。

 焦っているところで目が覚めました。

 夢の中では困ることが多いですが、何か意味があるのでしょうか?(・_・;)

(○○は××を意味し、△△は□□を表わしている、といった類の“夢占い”は、一面的・画一的で意味はありません。

 ユングの「夢判断」はもっと重層的で、1対1対応の解釈などせず、長期間かけて無意識レベルの本当の意味を探っていくそうです。)
 
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「ホテル・ルワンダ」

2006年03月08日 20時44分12秒 | 映画
 
 ルワンダの内戦を舞台にした映画ですが、戦争映画というより、1200人の難民を救ったホテルマンの実話を基にした話です。

 列強の支配を背景にしたフツ族とツチ族の対立により、100日間で100万人が虐殺されたという惨劇のなか、

 ホテル支配人・ポール=ルセサバギナは、ホテルに逃げ込んできた人々を命を懸けて守ろうと奔走します。

 「アフリカのシンドラー」と言われるポールですが、妻子や自らもいつ殺されるか分からない切迫した窮地は、シンドラーとは比較になりません。

 自分たち自身の問題だから命懸けにならざるを得なかった、という言い方もできるかも知れませんが、

 自分の家族だけ助かることもできたのに、ポールは難民を見殺しにすることなどせず、自ら命の危険の中に身を投じていきます。

 しかしそれに対して、国連の平和維持軍は手を出すこともできず無力をさらけ出し、欧米諸国も“第三世界でのでき事”として黙殺します。

 ジャーナリズムは報道はするものの、ニュース映像を見た人々は「怖いね」と言ってディナーを食べ続けます。

 我々誰もがこのアフリカでの惨劇に無関心な、間接的な加害者だったということを、この映画は告発します。

 僕も元々政治や国際事情にはうといのですが、10年あまり前のこの歴史的事実をよく知りませんでした。
(フツ族とツチ族のひどい内戦が続いているということしか。)

 もちろん、一人の人間が全ての問題に関わるのは無理で、できることは限られていますが、まず「知る」ということが大切だと思います。

 多くの人が知ることによって、それは社会的な力となっていき、問題に対処していくことにつながっていくでしょう。

 作品はその役割を果たすことができるし、境界性人格障害や心の問題などについても同じことが言えますね。
 
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天国の心子からメール? 

2006年03月07日 18時40分37秒 | 心子、もろもろ
 
 心子が亡くなってしばらくしたころ、心子の携帯電話からメールが届きました。(?.?;)

 驚いて開いてみると、それは心子が生前に送ってくれたことのある一通でした。

 僕はそのとき心子の携帯がどうなっていたのか知りませんでしたが、家族の人か誰かがいじっていて、間違って送信でもしたのだろうかと思いました。

 でも本当に天国からのメール? かとも思いながら、僕は恐る恐る心子の携帯の番号に折り返し電話をかけてみました。

 結局は誰も出ませんでしたが、間違ってメールを送信というのも起こりにくいことかもしれません。

 もし携帯をいじっていて誤送信したとしたら、僕がかけた電話にその人が出るはずかもしれませんし、
 間違って送ってしまったという旨の断りの連絡などが来るかもしれません。

 それらがなかったということは……?

 結局、あのときのメールは今だに謎です。(^^;)
 
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「犯罪被害者の会」にて(2)

2006年03月06日 21時53分24秒 | 心子、もろもろ
 
 「犯罪被害者の会」シンポジウムでは、当日参加者に犯罪被害者支援の協力をしてもらえるよう、ボランティアを呼びかけました。

 心子は犯罪被害者に対するカウンセラーとして協力したいと、アンケート用紙に記入しました。

 自分の仕事や心痛で手一杯なのに、このうえボランティアなどできないだろうと、内心僕は心配していました。

 心子はこのようにしばしば、思いついたような目標を口にすることがありました。

 そのときは確かに本気なのですが、でもそれが持続するわけではありません。

 それは実は境界性人格障害の特徴のひとつである、「不安定な自己像」(同一性障害)から来るのだろうというのは、当時の僕はまだ充分には把握できていませんでした。

 そこを了解していれば、僕は彼女の言動に戸惑うのではなく、心子の根本的なはかなさを抱き留めるよう、心遣いができたかもしれません。
 
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「犯罪被害者の会」にて(1)

2006年03月05日 18時09分08秒 | 心子、もろもろ
 
 昨日の記事「心子とのTV出演」に書いた「犯罪被害者の会」シンポジウムには、マスコミが大挙していましたが、
 参加している犯罪被害者の立場を保護するため、会場で被害者個人には取材をしないようにと、予めマスコミに通達されていました。

 ところがシンポジウムの休憩時間、何故か心子はある放送局の人に犯罪被害者と思われ、会場の外でのインタビューを打診されました。

 心子はこういうアンフェアなことや、弱い立場の人間を傷つける行為を非常に嫌い、怒りを表わしました。

 何故心子が被害者と間違われたのか不思議である一方、さもありなんという雰囲気を心子が持っているとも思えるのですが、

 心子はそれには触れず、被害者の立場で取材を受けた者として抗議をしました。

 放送局の人を厳しく批判し、会社名,氏名,部署,上司の名前,取材の目的など、執拗に問いただしました。

 僕は横で見ていて、放送局の人がかわいそうになるくらいの面責でした。

 さらに心子は会場の運営者の所へも行き、不備が起こらないよう厳重に届け出ました。

 心子はわずかなことで致命的に傷つくガラス細工のような心の反面、社会的な不正などは決して許さず、無防備にも立ち向かっていく気丈さを持っていたのでした。

(続く)
 
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