昨日14日、新幹線0系の”本当”のラストランがありました。
本当の、というのは、ダイヤ上では11月30日でラストランが行われたのですが、多くの希望があり、今月3日間だけ、予約を受け付けていたのです。
最終列車は”ひかり347号”で語呂あわせで”3(さ)4(よ)7(なら)としたようです。
いつも寝台特急などが引退するときには、大勢の鉄道フアンが詰めかけ名残を惜しんでいますが、このような光景は、世界でも同じようなことがあるのでしょうか?
日本だけではないと思うのですが、これだけ、鉄道に対する思い入れが強いことの現れではないでしょうか?
さて、現在の鉄道の定時運転が将来も継続して維持出来るのでしょうか?
日本の近代化への道は、明治の時代から、昭和の高度成長期が終わったおよそ100年間、日本の社会が追い求めてきたものは、これといった資源のない中で、豊富で安価で勤勉な労働力と旺盛な消費意欲を背景に、効率的な大量生産・大量消費の仕組みを作ってきました。
ところが、ここ2,30年は多様化する価値観やライフスタイルで自分らしさを模索してきた結果、人々が同じような幸福になることではなく、人それぞれの幸福を認めることで、異なる価値観の尊重であり自分の時間を大切にすることとなってきたのです。
つまり、生活の安定を前提にして、ゆとりをもって生きようと考えているのです。
日本の定時運転は、鉄道マンや乗客の犠牲の上に成り立っている側面は否定出来ません。
世間一般にゆとりが行き渡ってきた中で、鉄道だけが、システムを始めとして限界に挑戦し続けることでは、鉄道離れが生じてくるのではないかと危惧されるのですが・・・・。
鉄道は人々の期待を一身に背負う交通機関でも、唯一の交通手段でもなくなっているのです。
”ゆとり”のない鉄道には、鉄道マンも集まらなくなり、乗客も去っていくのではないでしょうか?
今、鉄道が交通機関として優位に立っているのは、いまのところ「安全」で「正確」であることなのですが、これを今までと違ったやり方でやらなければならないのです。
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