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てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第24回てつがくカフェ@ふくしま報告

2014年06月22日 22時44分41秒 | 定例てつがくカフェ記録
昨日、初のてつがくカフェ@御倉邸の開催でした。
雰囲気のよい日本家屋と庭園に22名の方にお越しいただき、「何のために勉強するのか?」というテーマで話し合いが始められました。









「私は教員ですが、何のために勉強するのかという問いを生徒から受けることはよくあります。こういう問いは勉強に対するモチベーションの低い生徒から出されることが多いと思います。これはモチベーションの問題ではないでしょうか。」

「たしかにこの問いはやってもできない子たち、学校教育の目指す将来像と異なった子どもたちから発せられるように思います。でもそういう子たちも、例えばパソコンがよくできたり、車についてめちゃくちゃ詳しかったりして、自分なりの将来を築いていくことができます。学校とは別の路線があるのだから、勉強なんかできなくてもいいんじゃないでしょうか。」

「今日は学校の先生が何人かおられるようなのでお聞きしたいのですが、学校教員としては生徒にどうなってほしいと考えているのでしょうか。」

「私は教員で今日の問いも20人に聞かれたら20通り、いろいろな答え方があるのですが、今の質問に答えるなら、ちゃんとした大人になってほしいということでしょうか。一人一人が自分の人生を送れるようになってほしいと思っています。」

「『ちゃんとした』 って言っちゃうとある一定の枠があるように聞こえてあまり好きではありませんが、いろいろな路線、判断できるいろいろなモデルを学び、たくさんのモデルから自分の道を選べるようになるのが学ぶ意味ではないでしょうか。」

「私も学校現場に勤めていましたが、生徒には自分の選択肢を広げるためにとりあえずやっとけと言います。勉強は学校で強制されるという意味がある。それに対して学ぶというのは、目的や好奇心、自分の欲求、本能として学ぶという意味でしょう。生まれてしまった以上、人生の目的を考えると自殺してしまう人もいるように、何で学ぶのかと考えるとそれには答えがなく困ってしまうのではないでしょうか。あえて答えるならば、知りたいという好奇心が学びの根本にあると思います。」

ファシリテーター:「今回は学校教育に焦点を当てて考えたいので、あえて学びとは区別して「勉強」をテーマにしました。」

「ある先生から聞いた話ですが、病院の中にある院内学校の子どもたちは長く生きられないことを運命づけられていて、本人たちもそれは覚悟しているにもかかわらず、その子たちが一生懸命勉強するそうですす。その子たちは自分の将来が短いとわかっているに関わらず、一生懸命していると聞くと、どこか将来のために勉強をするというのとは違うのではないかと感じます。」

「学ぶと勉強は対立させなくてもいいのではないでしょうか。勉強はその時が楽しいということがあります。知らないことを知る、できないことができるようになるというのはとても面白い経験です。けれど、自分の子どもが小学校に入学したときに、自分が子どもの頃に習った学習内容とほとんど同じだったことにショックを受けました。それで、これくらいなら私でも教えられると思い、子どもたちには学校に行きたくなかったらいかなくていいよと言ったことがあります。福島に来た頃はシュタイナー教育やモンテッソーリ教育を知り、そちらに行かせたいとも考えたこともあるが、とにかく学校での学習内容の変わらなさにショックを受けたことがあります。」

「高校に勤務していますが、私は勉強しなくてもいいと思います。何で勉強を始めるのかというと勉強をしなさいと言うのは、まず親から言われるからだと思います。高校で進路を決めるときに、親は子どもの選択し拡げておいてあげたいという思いでそういうのだろうけれど、子どもにしてみれば親のために勉強しているという場合も多いのではないでしょうか。」

「塾講師をしていた時に勉強にそう感じたことがあります。子供たちは塾に勉強しに来ているのではなく、友達に会いに来ているのですね。教えていて感じたのは、小さいころは目をキラキラさせて勉強している子供たちが、年とともに目の輝きを失って勉強しているなということでした。」

「私は学校教育を終えてそんなに時間は経っていませんが、社会人になって強制して勉強する必要がなくなったけれど、だからといって勉強していないわけではありません。営業をやっている中で、学校では習わない知識が必要になります。いまは営業先の相手を知るために勉強するという意味になっています。もちろんその根底には生活のためにという目的はあるけれど、将来のためとか資格を取りたいという勉強ではないし、楽しい気持ちで勉強しているわけではありません。」

「そもそも勉強が何を指しているのかわかっていないのだけれど、何のために勉強するのかという問いは、何のために生きるのかという問いと同じくらい答えがない問いではないでしょうか。勉強も日々生きていく中で困難にぶつかって解決していることそのものが学ぶのであって、困難にぶつかってもどうでもいいというのは生きていないのと同じことだと思います。あえて答えるとすれば生きるために勉強するということになると思います。」

「カフェ冒頭で挙げられた「生徒にどういう人間になってほしいのか」という問いに関して、教師という立場で考えると、卒業生に会ったときに死んでいたり犯罪を犯していない限りOKだという自分がいます。とすると、生きているだけでOK だとすれば学校で教えることってほとんどないのではないかと思います。」

「それってニートの場合はどうなの?」

「本人が幸せだと思っていればいいのかなぁ…。まぁ、自立して生活できていないことには一概にOKとはいえないけれど…」

「埼玉で高校の教員しています。就職してもほとんどの卒業生がすぐに仕事を辞めてしまうような学校に勤めています。九九ができない子どもも大勢います。その中で知りたいという欲求があるからこそ勉強の教え甲斐もあるのですが、ただそれが自立につながるかと言うとよくわからないところがあります。教え子が就職できたと聴けば嬉しいと思うし。ただ、納税とか社会的な義務を果たしてもらえる人になってもらえればいいかな。最終的には自己実現かなと思うのですが。」

「私がいる職場も同じような学校です。最初の勉強のモチベーションは低いのだけれど、その子に合った勉強を教えると大学に行ってみたいとか、就職したいという子どもが出てきます。だから、その子にあった時間や速度があるので、それをうまくやれればその人なりの生き方が見つかるのだろうし、その時にはよかったねといえるのかな。でもニートの子に対してはどう言うのかと問われるとドキっとします。」

「中学校3年生の時に「死ぬ間際にあると仮定して、どんな人生だったか」というテーマで作文を書けと言う課題があったのですが、その時に思ったのが最終的にニートであろうが何だろうが、最期の瞬間にに「いい人生だった」と思えれば、それでいいのではないかと思うのです。娘が高校を選ぶとき実力以下の高校に進学したいといった、親心で自分の学力に合ったところに行ったらと勧めると、娘はその学校で思いっきり高校生活を送りたいと言い、卒業した時によかったと言いました。多分、めいいっぱい騒いだり、さぼったり、地べたに座り込んだりしてもいいのだ、と自分を解放するエネルギーを同級生からもらって、落ちこぼれという感覚もなくイキイキと通学できたことはよかったなと思いました。」

ファシリテーター:「これまでの議論をふり返ると、皆さんの話は「学ぶ」ということと「勉強」が重なっているところがあります。いったん、「勉強」を学校の教育課程で教科に分かれてやるものだと規定してみると議論が整理できるのではないでしょうか。」

「このテーマを提案させてもらった者です。自分の息子が高校1年生の段階で文系理系を分けられることにびっくりして、数学も理科も勉強しないことで一人前の人間になれるのかなという心配があったことがきっかけで提案させていただきました。息子の通う学校は音楽科と普通科に分かれているのですが、校長先生は入学当初から「〇〇大学には何人入った」等の話しかしません。私はすべての教科を勉強することが学びだと思っているのだけれど、ほんとうに子供が息つく間もなく勉強しろという学校の在り方に驚いたし、そのような中で文系理系に分けられて勉強する教科が偏ってしまっていいのかと疑問に思います。音楽も数学も文学もすべてが融合してこそ学びだと思うのですが。」

「中学高校は主要5教科と技能4教科に分かれていたり、その「主要」という言い方がどうかと思うですが、さらに高校の体育教員はその専門競技しか知らない人が多く、それってどうなのかと思っていたことがあります。」

「私は理系文系と分けることには肯定的です。生きるために勉強するという方がいましたが、今は社会が複雑すぎてその分野を自分で選んでいくことが必然になってくると思う。もっと文系理系がフレキシブルに交流することは必要だけれど、基本的に専門分野に細分化せざるを得ないのではないでしょうか。」

「でも、将来を考えさせるという点では、高校1年生の段階で選ばせることは早いのではないでしょうか。色々な可能性を早い段階で切ってしまうのはもったいない気がします。その先に柔軟性がある制度があればいいんだけれど、日本は社会的に整備されていないのではないでしょうか。」

「高校教員です。まさに1年生の段階で文系理系を分けている側です。たしかに自分で選択することを先延ばしにすることも大切ですが、意外と人間は「お前は何だ」と選択を迫られることで、はじめて人生が決まりだすという側面があるのではないでしょうか。」

「高校1年生で文系理系に分けられる問題以前に、高校入試段階で工業高校や商業高校などの選択する問題をどう考えますか?つまり、中学生の段階で自分の専門性を選択させられる子どもたちがいるわけですが、その子たちが主体的に専門性を選んでいるとは言えないでしょう。ドイツなんてもっと早い段階で人生の階級や階層の選択が迫られますし。どの専門性を選ぶのかという時期の決定は、実はその社会がどのようなしくみを選択するのかという議論と関係していると思います。」


「これまでの議論では、学校の勉強に関して知識理解の話が多い気がするけれど、文科省だって知識理解だけが学習ではないとも言っています。とはいえ、いくらそういうふうに親方日の丸の方がそう叫んでも、最終的に現場では知識理解に比重が置かれています。人の評価の仕方が変わっていかないと根本的には難しいのかなと思いました。」

「僕もそれはずっと感じていたことです。進学校の勉強は先送りの勉強だと思っていて、とにかく思考力とか何かというのは大学でやればいいから、とりあえず大学受験に合格させることが勉強の目標になってしまう。そもそも実際に思考力を問うテストなんて、相当作るのが難しい。だから、客観的に測定できるセンター試験が重視されるわけだけれど、それによって学びと勉強のかい離が大きくなっている気がします。」

「勉強って、やはり外から強制されてするものだと思います。僕は剣道をずっとやってきたから、無味乾燥な基本練習をなぜしなければならないのかなんて、本人はわけわかっていないにもかかわらずそれを強制されて練習するわけです。すると、後々それがとても大切なことだと気づかされます。勉強も本来そういう側面があって、本人はなぜ勉強しなければならないのかなんて意味を知る必要がないと思います。が、しかし、事受験勉強になると鬼のような宿題と授業時間を強制されて考える間もなく疲弊している進学校の生徒の話を聞くと、それが剣道でいう基礎練習の意味とは異なっている気がします。本来、勉強だって大学に入ってから必要な基礎知識を身に着けるという意味があったはずだと思いますが、高校時代に勉強したことが意味をもつ経験がない点が最大の問題ではないでしょうか。」

「勉強がすぐに役に立つというのは無意味だけれど、それが自分の人生にどのような意味を持つのかという出会わせ方は大事だと思います。その出会わせ方が決定的になさすぎるのが問題でしょう。」

「財界や体制側にとって、国民に思考力をつけてもらっては困るという側面があるのではないでしょうか。経済優先によって教育のことがなおざりにされていることが根本問題ではないでしょうか。」

「それの意見には修正が必要です。実は、財界もまたグローバル化の中で勝ち残らなければならないから、思考力をつけてもらうことを求めているところがあるからです。ただし、それはダブルスタンダードで、その力をつけてもらう層は全体のごくわずかでよくて、残りの大多数は非正規雇用のように落ちこぼれが必要だと考えているところがあります。」

「わずかのエリート層を強化しようという、その発想は高度経済成長期の頃からマンパワーポリシーとして掲げられていますね。つまり、企業や政府側が求める思考力と、人生をよく生きるという意味での思考力というのは意味がまったく異なるわけですが、前者の方ばかりが社会的には強調されるのは当たり前と言えば当たりませですが、それを必要とする相はごくわずかでしょう。それに関して、底辺校に勤務していた時に同僚に、自分で考える力をつけさせるために授業を工夫していると、社会に適応するだけで精いっぱいの子どもにとってそれは無意味どころか、彼らを不幸にするだけじゃないかと指摘されたことがあります。そのことは今でも考え続けて授業づくりをしているわけですが。」

「たしかに考える強制から降りる自由は必要でしょう。そうであるにもかかわらず、自分で考えることで批判的に物事を考えたりできる人間を育てたいという理想は持ち続けたいと思っています。」

「個人的には革命は起こらない方がいいなと思っていながら、革命が必要だと思える人も必要だと思っています。適応させる躾のような教育も大事だけれど、幅は広い方がいいのかなと思います。個人的に数学は苦手でしたが、『博士の愛した数式』を読んだときには数学はやるべきだと思いました。理系の教え子にも、ボタンを押してミサイルで人を殺してしまうということをどう考えられるのかという人になってもらいたいし。その意味で、とにかく色々な知識にふれて幅を広げるという意味での学校の勉強は必要だと思います。」

「山で生きていける力があり生物として生きることができれば勉強しなくてもよいと思いますが、この社会で生きていくしかないのであれば、その社会のシステムで生きていく勉強をせざるを得ないでしょう。大学受験はその点で生きる力を身につけるということになるのではないでしょうか。」

「幅があった方がいいというのはその通りだと思うし、武道の修練で意味が分からずに基本練習をするということもその通りだと思いました。ただ、大人になって何に役に立つかという説明がない中で無意味にやらされるから、生徒は「なんで勉強するの?」という問いが立ち上がってしまうのだと思います。「いまはわからないと思うけれど将来意味が分かる」という言い方では、生徒はやはり納得しないものです。その点で、やはり「なぜ勉強するのか」という答えは現場の教師としては欲しいところです。説得に成功することはほとんどないのですが。」

「大学受験の勉強って、大学に入ってから消耗するだけの勉強になっていないでしょうか。学生の姿を見ているととにかく疲れ切って、学ぼうとする余力も残されていない感じがします。そんなに疲れ切っていても、おそらく受験生に勉強は必要だと答えるのだと思いますが、どこか違和感があります。」

「それは社会に言わされているのではないでしょうか?」

「勉強はしたくないけれど、高卒の資格必要だからと答えている高校生は多いですし、大学受験勉強もそのレベルでいわされていると言えば言わされているかもしれません。」

「80歳ですが、勉強するということよりも今は学びたいと思うことが多く、あまりそれは線引きできないと思います。いまは法律をとにかく勉強したいと思っているのだけれど、日本の教育制度は社会人になってから勉強できる環境がなさ過ぎます。なぜ勉強したいのと聞かれれば、学ぶ「まねぶ」であり、子どもの頃はこれを学ばなければならないという理屈はなかったけれど、自然の中で遊ぶしかなかった子供のころの経験が今の判断力や思考力の基礎になっていると、いまになってその時の遊びで学んだことが生きているような気がしています。親から勉強させられたという気がするけれど、それ以前に勉強したくても学校に行けなかった、選択すらできなかった時代があったということを知ってほしいと思います。親の手伝いしかさせられなかった時代があったということを。今に政治的無関心は勉強することと背中合わせではないか。幅をもつということはハンドルの遊びと共通する。関心をもち勉強することが必要だと思います。」


今回は教育関係者の参加と発言が多かったですが、この議論はさらに深められそうですね。
また次回、大勢の方々にご参加いただけることを楽しみにしております。

第23回てつがくカフェ@agato報告―「人生をやり直すとは?」―

2014年05月19日 21時19分17秒 | 定例てつがくカフェ記録


一昨日、agatoで第23回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
事前にお伝えしましたように、これまで会場をお借りするなどたいへんお世話になってきたagatoさんが店じまいをされるとのことで、@agatoでの最後のてつカフェとなりました。
参加者は20名。

ところで、これまでのてつカフェではテーマ設定に関して、問いの立て方の不十分さを指摘されることがしばしばありましたが、今回のテーマほど参加者を迷わせたことはなかったように思われます。
そもそも、あまりこのテーマに興味がわかなかったという意見も少なからず耳にしました。
たしかに、カフェで出される意見も、ご自身のリアルな体験を挙げられることはほとんどありませんでしたし、ほとんどの人が「人生をやり直したいと思ったことはない」と仰ります。
それについて、カフェでは「皆さん、幸せな人生を送っている人ばかりだ」という意見も挙げられました。
そのせいか、議論も割と抽象度の高い展開となります。


まず人生の失敗に関して、①自分の努力不足などでうまくいかないことを受け入れて、そのうまくいかない人生を継続していくというパターン、②人生の失敗に絶望することで人生そのものを終わらせる(自死)パターン、③うまくいかなかった過去を否定することで新たに再挑戦するというパターンを類別しながら、「人生をやり直す」というのは③に当たるという意見から始められました。
その上で、「人生をやり直す」ことは「自分を信じられるからこそ再挑戦できる」という意味で、ポジティブな意味合いがあると言います。
ここでは、過去を否定し、未来への展開を期するという点で、過去―現在―未来という時間との関わりも示されました。

それに対して、そもそも自分自身をやめることはできないのに、「やり直す」とはどういうことなのかという疑問も出されます。
私たちは時々刻々と選択しながら生きています。
たとえば、これまでの朝食をパン食から米飯食へ変えるということもあるでしょう。
あるいはダイエットや禁煙というケースも日常的にあり得ます。
すると、この場合でも「人生をやり直す」ということになるのでしょうか?
そのような問いが挙げられました。
これに対して、単なる選択ではなく人生の「ターニングポイント」となるような要素が条件となるとの答えが返ります。
「過去の自分にとって何がベストだったのか」と振り返るとき、この思いは到来するものでしょう。
しかし、時間を戻すことはできないわけですから、このテーマが「再び過去に戻ってやり直す」という意味でのことではありません。
そうではなく、これまでの人生の延長ではなく劇的に変わるような出来事こそが「人生をやり直す」ということになるのだというわけです。
その点で、禁煙やダイエットはそこまでのものとは言えないのではないか。
いや、禁煙やダイエットだって、200kgだった体重が70kgに落ちたらまるで異なる人生をやり直すことになるのではないか。
だから、それは時間というよりも、「これまでに積もってきたマイナスをプラスに戻す」という営みなのではないかという意見も出されました。

これに対して、①「人生をリセットする」ということと、②「人生をやり直す」ことの違いを問い質す意見が出されました。
リセットするというのは文字通り、人生をゼロにするところから始めるという意味なのに対し、「やり直す」とは途中までの蓄積を前提にしながらそれとは別の選択をするという意味ではないか。
これは人生のある選択を迫られる分岐点Xにさしかかり、Aを選択したけれども、やっぱりそれは誤っていたことに気づき、Bの選択をやり直すということになりそうです。
すると、X-Aの過去時間はなしにすることなるということでしょうか。
いや、そうはいってもX-Aの時間そのものは存在してしまったのだから、やはり過去をなしにすることはできない。
やはり、その蓄積を前提にX-A-Bという連続性は否定しえないということになるのでしょうか。
これは「そもそも人生をリセットできるのか」という問いとも密接です。
あってしまった過去をなしにすることはできない、ということは「人生をやり直す」なんてこと自体が空理空論ではないか。
このような疑問は、今回のカフェの時間を通奏低音として流れていたように思われます。

それに対して還暦を迎えられた参加者から「これまで為してきたことの1つの結果に直面した時、人生のやり直し」が立ち現れる」との意見が挙げられます。
それは言いかえれば、「大きな可能性を丸ごと手に入れるとき」なのだと言います。
結局は、それまでの人生に満足してこなかったという面があるからだと言いますが、人生の延長線上にそまでとはまた別の在りようの可能性がふってわいたときに、この「人生のやり直し」が到来するというのです。
また、このたびの大震災に衝撃を受け、これまで大企業のサラリーマンとして安定した人生を歩んでいた人が、突如としてその流れを断ち切って医師を志すようになった例が挙げられました。
果たして、その人の行為は「人生のやり直し」と言えるのか?
いずれの例も、そこには「反省」が含まれており、「やり直す」上ではこの過去を振り返るという要素が必要であることが確認されました。

では、犯罪を犯した人間が更生するという場合はどうでしょうか。
この場合には、犯罪を犯した当人がいくら反省しようとも、自分の納得以上に周囲の承認が必要ではないかという意見が挙げられました。
カフェの議論では挙げられませんでしたが、これは「赦し」という問題と関連するのではないでしょうか。
というのも、他者に危害や損害を与えたものが、いくら自分で「反省しました」とくり返し意思を表明しても、相手側がその反省を承認しなければ真の解決に至りません。
もちろん、法制度的には刑罰に服した時点で免罪となるのでしょうが、それでも裁きを受けるとか、他者とか社会といった自分以外の承認を得られない限り「やり直し」はきかないことになるでしょう。

すると、これまでの議論の展開を踏まえて、「そもそも、何をしたらやり直しと言えるのか?」という問いが投げかけられます。
犯罪を犯した人が更生するのは「やっと普通の社会人に戻れた」という点で、マイナスからプラスに戻ることになるけれど、大企業を辞めて医師を志すケースについては、プラスの人生にさらに新しいプラスが上乗せになるだけなので、「やり直す」とは言えないのではないかという意見が出されます。
そこから、「やり直す」ためには「無念」が必要になるというわけです。
あるいは、その出来事を「生まれ変わる」と表現してもいいとのことでした。

いや、それは結局、「人生をやり直す」というのは単に修辞的な言い回しに過ぎず、結局は「人生をやり直す」なんてことはできないのだ、という意見も出されます。
あえて言えば、それはダイエットや禁煙のように自分のためという「自己完結的な選択」と、犯罪者や医師への転身を志した人のように「他者に関わる選択」という違いはあるのではないか。
いや、ダイエットや禁煙だって家族のためにすることもあるのだから、完全に自己完結的な選択というのはないだろう。
そもそも「人生の」とあるのだから、単なる「やり直し」ではないことをどう考えればよいのか。

そんなやり取りがいくつか交わされながら、ある参加者から次に挙げる3つのケースについて「人生のやり直し」に当たるのか判断してもらいたいとの問題提起がありました。
①夫と離婚し、それまでの専業主婦生活から一転して就職しなければならなくなった女性のケース
②大震災による津波に被災し、船が流され漁師としての仕事の術を失った人がサラリーマンへ転職したケース
③浮気性だった夫が、震災をきっかけに妻一筋の愛妻家に一変してしまったケース

まず①について。
他者の承認や評価が「人生のやり直し」に必要だという意見が挙げられたけれど、結局は自分で「やり直した」という自己評価こそが重要ではないかという意見が挙げられます。
そもそも、「人生をやり直すとは?」というテーマ自体が、自分の中から出る問いである以上、他者の意見や評価によっては解決されえない類のものだというわけです。
一方、離婚が単なる人生の選択とは異なるのは、「今の状態をやめないと生きていられない」という要素があるのであり、「生」の可否が「人生のやり直し」のメルクマールになるという意見が挙げられます。
そのことを「断絶」という言葉で表現された参加者もいました。
それまでの人生の流れにある種の「断絶」を生じる、あるいは生じさせることが「人生のやり直し」の条件であるというわけです。
ただし、そうは言っても、再び同じ結婚-離婚の失敗、あるいはダイエットではリバウンドを繰り返してしまうケースもままあるようです。
するとそれは、「やり直し」ではなく、単なる「くり返し」になってしまい、その点で先に挙げられた「反省」が加えられる必要はあるわけです。
これについて、「人生をやり直す」とは、「一つの未来を捨てることだ」との意見が挙げられました。
どういうことか。
単なる禁煙やダイエットのケースでは、タバコを吸い続けても吸わないでいても両方の選択がさほど自分の未来を変えることはなさそうです。
しかし、その選択が差し迫って生死にかかわる場合、明確に予測される一つの未来の生き方を捨てることが迫られるでしょう。
それは、肉体的な生死の問題に止まらず、精神の生死の問題にも広げて考えられるのではないでしょうか。
大企業の務め人から医師への転身を選ぶ人は、ある種安定した生活という未来を捨てた選択だとも言えます。
よりいえば、それは安定している「にもかかわらず」という逆説を含むほどの未来を捨てる覚悟を含み込んでいるとも言えるでしょう。
しかし、それは単なる方向転換ではないのか?
単なる方向転換ではなく、「やり直し」と言えるほどのものとは何か?

それに関して、自分というものは時々刻々変化するものでもあるけれども、「やり直す」という以上は、時間的に一定の持続性があって初めて言えることではないかとの意見が出されます。
単なる選択とは異なった「やり直し」と言えるのは、実はその瞬間に思えることではなく、その持続性があって、後々になって初めて明かされるものではないか。
あるいは、ひょっとしたら、それは新たに自分の中に芽生えて「やり直す」というよりも、かつて自分の中にあって忘れ去られていた大事なものが、何かの拍子に取り戻そうとし始めた時に、「やり直し」の契機が生まれるのではないかとも言います。
ある種のドラマの中で、ふと主人公が「私は何か大切なものを忘れてきたような気がする…」といった類の台詞を口にする場面は容易に想い起されますが、社会人として仕事まみれになる中で、かつて純粋に理想としていたものを取り戻そうと再出発するという展開は実時世でもあり得ることです。
なぜなら、昔の人生に戻りたいけれど、それは物理的に不可能である以上、ここで言う「やり直し」とはかつてのことへの再挑戦としての在りようでしか語りえないからです。
ひょっとすると、医師に再挑戦された方はこのようなタイプだったのかもしれません。

これまでの議論はどこか自分の人生を自分の意志で変えようとする話ばかりだったけれど、震災や津波のように、自分の力ではいかんともしがたい出来事に外側からきたものによって人生をやり直さざるを得なくなったケースを「人生のやり直し」と言っていいのかという問いが投げかけられます。
これは先ほど挙げられた②のケースへの答えにもなるでしょう。
これに対しては、冒頭で挙げられた「受け止め方」次第でその後の人生の在りようが変わるのではないかとの意見が挙げられました。
その出来事によよって変えさせられた人生を「受け入れる」ことで、どんな生き方をするかが変わってくるというのです。
けれども、この震災に関して言えば、やはり津波による被災地域と原発事故の被災地域での「人生をやり直す」ための「受け止め方」は根本的に異なるのではないだろうか。
そのような意見が挙げられました。
津波被災の場合、あれだけの自然の猛威を受けた後では、すべてをやり直さざるを得ないゼロ地点に立たざるを得ないわけで、その意味では「やり直す感」はあるのかもしれない。
しかし、原発事故の被災地、しかも放射能汚染がひどいにもかかわらず避難を強制されたわけでもない福島市という地域に住んでいると、頭では人生を変えられたと思えるけれど、風景自体は被災事故以前とほとんど変わりがなく、どこか震災前からの惰性で生きている感じがあり、「人生をやり直す」という意識が立ち上がりにくいというわけです。
それに対して、岩手の沿岸部で被災された参加者からは、そもそも「やり直す」という意味での「戻る力」というのは「記憶をたどる力」であって、あまりに壮絶すぎる出来事を体験した後には、その記憶を思い出すことすら辛すぎてできないという意見が出されました。
「やり直す」と思えることすらできないのだから、このテーマを思いつくこと自体が信じられないというのです。
これは被災のケースの違いがもたらす差異なのかもしれません。

一方、別の参加者からは「やり直せない」ということは「死んでいることと同じだ」との意見も出されます。
死んだらやり直しがきかないという意味ではその通りでしょう。
また、別の参加者からは、すべてを失った、「にもかかわらず、それでも生きていく!」とか、「生きろ!」という意思が働きかけてくることそのものが「人生のやり直し」ではないかとも言います。
しかし、そうした意見は主体的に選び取った人生であれば通用するかもしれないけれど、主体的に選べない自然災害に壊された人生などは、果たして「人生を取り戻せるか」といった問いの対象になりうるのでしょうか?
いや、そもそも「人生をやり直す」とはいったいどういうことなのか?
それは結局は「方向転換」ということに過ぎないのではないだろうか?
そのような問いが、今回のカフェでは幾度もたち現れては再びその問いの地点に舞い戻ったものです。

こうした問いの再燃に対して、途中から参加されたある参加者の意見によれば、「やり直す」とは「折り紙に例えると鶴を折っていたけれど途中でうまくできないのでもう一度髪を拡げ直してやり直すようなことではないか」と言います。
それに対して、「方向転換」とは「途中まで鶴を折るつもりだったけれど、途中で紙飛行機をつくることに変えるようなことだ」と言います。
すると、これを人生で考えてみると、そもそも紙を拡げ直す地点まで戻れるのか。
つまり、人生はリセットできるのか?という問いにまで遡ることになります。
これについては、戸籍が丸ごと変わればリセットできるということになるのでh内科との意見が挙げられます。
さらに、「証人保護プログラム」に言及する意見も出されます。
しかし、このプログラムによって戸籍を変えられたとしても、結局それは戸籍という外側だけが変わっただけで、内面的は変わっていなければ「やり直し」とは言えないのではないかという反論が出ます。
やはり、内面で取り戻したいという「後悔」とか「無念」という思いが働くことが「取り戻すこと」の条件だということでしょう。

問いは、「やり直す」とはという疑問をまだめぐります。
3人の子育てを経験された参加者からは、子育ては「やり直し」の連続であり、むしろ教育の「やり直し」は子供とのコミュニケーションをとるための道具だったという意見も出されました。
それは、しかし「教育方法のやり直しであって、「人生のやり直し」というテーマとは異なるんじゃないか。
テーマに「人生の」という言葉がついている以上、そこでの「やり直し」とは何かと再び元の問いに引き戻されます。
すると、その発言者から「人生は日々の積み重ねによって今の自分がつくり上げられているのだから、選択し直しながらより豊かな人生を築いているという実感がある以上、人生をやり直すという命題はしっくりこない」との答えが返されました。
「苟(まこと)に日に新たにせば、日々に新た、また日に新たならん」
『大学』の一説も引き合いに出されます。
したがって、「人生はすべて方向転換しかない」という一つの結論が提起されました。
全て今の自分に至るには必然性がある。
この場合、必然性とは過去の人生から連綿と続くものとのであり、それによって今の自分を形成させた連なりのことです。
どんなに大きな衝撃を受けて「人生をやり直した」と思ったとしても、それはベクトルの角度が大きく変わっただけであり、あるいはベクトルのエネルギーの強さが変わっただけなのだという意見も付け加えられました。

それでも「やり直すこと」とは「人生を新しく始めること」とも言い換えられるし、「第2の誕生」といった哲学者もいたではないかという意見も出されます。
過去をなぞり直すこととは異なるけれど、この「新しく始める」ことと「何かを取り戻すこと」は両立しうるのではないか。
さらに、やはり「方向転換」と異なる意味で「人生をやり直す」ことはあるのではないか、と食い下がる発言者もいました。
その発言を聞きながら個人的には宗教的な「回心」という言葉を想い起しました。
経験的には理解したことはありませんが、それでもまるで別人のように「生まれ変わる」ような経験は、パウロならずともしばしば宗教体験としても語られます。
宗教体験としての「生まれ変わり」は怪しげだというのであれば、たとえば敗戦直後の人々の心理をどう考えればよいでしょうか。
これまた、カフェでの議論ではありませんが、個人的には戦争犯罪と改心という問題を想い起しました。
戦時中の大政翼賛下での政府プロパガンダが、全て嘘だったと敗戦とともに日本人は知ったわけですが、中には愛国主義者だった者が戦後は共産主義へ転じたという話も珍しくはありません。
そこでの「断絶」を経験した人々は、果たして「方向転換」という言葉で語られうるものでしょうか。
あるいは、野田正彰の『戦争と罪責』(岩波書店)では、中国での戦争犯罪を犯した元日本兵たちが矯正指導自分たちの犯した罪を受容し、悔恨へ至る過程が綿密に書き記されています。
罪は裁きを受け、処罰を受ければ解決するというのは一断面にすぎません。
ニュース報道では犯罪者の心からの反省と謝罪を望む遺族の姿を目にしますが、その場合、心が他者には見えないにせよ、その内面での断絶と「やり直し」を期待することはままあることです。
誰しも自分の行為をすべて否定するということは、相当な困難があるのではないでしょうか。
実際、同書に描かれる日本兵は、当初、誰ひとり自分が刑法上の罪を犯したとは考えていなかったそうです。
しかし、「撫順戦犯管理所」では、戦犯者一人ひとりが自分の罪と向き合うようなプログラムを施した結果、彼らは自分の犯した罪深さを自覚し「生まれ変わった」と自ら語るようになります。
それは「改心」という言葉がふさわしいでしょう。
しかし、問題は、彼ら自身はそうした「生まれ変わり」を自覚できたにもかかわらず、日本への帰国後「共産主義に洗脳された人間」とレッテルを張られたということです。
その点で、社会的な評価と自分の「生まれ変わり」は必ずしも一致しないどころか、むしろ理解されえないということがあるということです。
そうした観点方も、単なる「方向転換」以上の何かが、人生に起こりうることはありうるのではないかと個人的には思うわけです。
それは、連綿として続いてきた自我同一性を「断絶」させ、「再構築」を要求されるような経験です。

とはいえ、今回は「人生をやり直す」ということが、その前提から誤っていたのではないかという大方の意見に傾きました。
そもそも時間の流れで「取り戻す」ことはできないし、成し遂げられなかったことがあって、それを再び何とかしたいというのであれば、それは「再チャレンジ」ということになるでしょう。
したがって、「人生の中で再チャレンジできるのか?」という問いでテーマすべきだったのではないか、という問いの問い直しを図る意見が最後に出され、今回の哲カフェの締めくくりが為されました。
毎度のことですが、テーマは世話人二人がいつも酔っぱらいながら決めるので、その設定自体に瑕疵があることは認めるものです。
それにしても議論を尽くしたうえで、問いの問い直しが図れるというのは、意図せずに対話をはかりながらなんと哲学的な対話が実現できたことでしょう。
当初は、「実はあまり興味をもてないテーマだった」とか「何も思いつかないテーマだった」と仰る方が多かったのですが、やってみた後では「実は、自分自身いま人生のやり直しの地点にいることに気付かされた」と仰って下さった参加者もいました。
その意味で、今回のてつカフェはとても質的に中身の濃い議論だったのではないかと思います。

この4月に多くの常連さんが福島を離れていったことは以前にも触れましたが、また新たご参加下さった方々もいらっしゃいました。
福岡伸一風にいえば、哲カフェはどこか「動的平衡」的な空間なのかもしれません。
その動的平衡を保ってこれたのも、agatoの吉成さんのおかげです。
agatoは今月で店じまいとのことですが、吉成さんへのこれまでの感謝とともに、「人生の新しい始まり」を祝しててつがくカフェ@agatoの報告とさせていただきます。

第22回てつがくカフェ記録―食べてよい命と食べてはいけない命はあるのか?―

2014年02月16日 08時29分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
    
昨日は、日本中で記録的な大雪に見舞われましたね。
そして、ここ福島市もご多分に漏れずに1日中大雪警報が発令され、午後までに40㎝超の積雪量を記録しました。
そんな日に哲学カフェなんてありえないでしょう。
とはいえ、予約制ではないので「誰も来ないんだろうなぁ」と思いつつ世話人たちは会場へ向かいます。
哲カフェを開催した当初は、「世話人二人しか集まらなくても議論はしよう」という精神で始めたものですから、
「その精神が初めて実践されるんだろうなぁ」と思いつつ、降りしきる雪の中を会場へ向かいました。

会場には常連のSさんが「大雪でいわきの自宅に帰宅できなくなった」という理由でいらっしゃっていました。
世話人も合わせて4人。
あとは誰も来ないだろうから「今日は第1回哲学バーだ!」と、いきなりビールから注文してしまいます。
うーんダメにもほどがある……
でも議論はしっかりやろうぜ、という感じで第22回てつがくカフェ開始!
すると、「大雪だから今日はもう店を閉めてきました!」という方や、「仕事帰りにagatoの前通ったら哲カフェの案内が掲示されていたから驚いて寄ってみた!」と、ポツリポツリ参加者が増えていきます。
会津の常連さんからは、「猪苗代方面から行けないから、米沢周りで福島へ向かっています」という連絡が入ります。
市内の方からは、「行きたいのに雪で家から出られないので残念!どうしても話したいことがあったから」と電話口でその内容をお伝えいただきました。
けっきょく、1次会には9名の方々にご参加いただきました。
しかも、2次会はさらに参加者が増え、11名。
3次会にはさらに4名増えるという、異常事態に!
だ、だいじょうぶか!みんな!この大雪のさなか正気か!
というわけで、皆さんの哲カフェ愛に感激させられる1日となりました。
もちろん、議論もまじめに行われました。
今回はSさんの速記録を活用させていただきながら、カフェの議論を報告させていただきます。

さて、カフェ冒頭に、朝日新聞記事「『賢いイルカ』は特別か」を配布させていただきました。
ケネディ駐日大使のイルカの追い込み漁に対する「非人道性について深く懸念しています」というツイッター発言をめぐる論考です。
その中にイルカの賢さ、コミュニケーション能力などの「人間との距離の近さ」がその特別視の根底にあること等が論じられています。
その記事を皮切りに以下の対話がくり広げられました。

「人に近いのがイルカを食べてはいけない条件なのですか?だとすれば人は食べちゃだめなんですよね……。」

「(新聞の記事を読んで)留学生の多い大学院で研修させてもらったことがあるけれど、インドネシアの留学生が豚を食べられない、ということがありました。彼女に対して「豚肉を食べてごめんね」といったら、「文化の違いだから」と言ってもらえたのですが、この態度に寛容だなと感じました。それに対しケネディ大使の発言はは押しつけがましいと感じます。」

「いい実例を挙げて下さいました。これは文化相対主義の問題にもつながりますね。」

「以前に英会話教室に通っていた頃、その教材に、鯨を食べることについて、という題材があったのだけれど、オーストラリア人の先生がその教材を設定した意図を汲み取らずに、自分は鯨料理を食べて育ったので、鯨料理のレシピを持って行ってしまったことがあります。英会話の先生は、文化の違いだね、という趣旨で当日は議論が流れていきました。今思うと恥ずかしいけれど、相対主義と先ほどあったが、 意識して異文化と比べることで初めてその是非を考えることができるのかな、と思いました。」

「犬を食べる文化もあるが、僕は食べられません。それは高い知能を持っているかどうかではなく、身近にペットとして見て育った土壌があるから、食べ物としては見られないからだと思います。知能とかではなく、身近なものが食べられないのではないでしょうか。」

「板橋区にジビエを出す店があって、そこにサル鍋があった。それは食用ではなく駆除されたサルが食材にされているんだけれど、駆除したものは食べてもいいかな、という思いがあります。なんでも食べてみたいという思いもあるし、生態系を維持するためにもある程度の動物を殺していかねばならない分量というものがあるのではないでしょうか。魚屋さんに「生きのいい鯨があるよ」とおしえてもらうことがあるけれど、その時は海岸に打あがってしまった鯨の肉が売られるのだと聞いたことがあるし、わざわざ漁をする場合ばかりではないらしいのです。」


「では、わざわざ漁をするのはいけないのでしょうか?」

「駆除する場合もあれば、鉄砲での狩猟を趣味とする場合もあるでしょう。趣味でも殺してはいいとは思っています。日本人の中で韓国や中国で犬を食べることを批判しているのが理由が分かりませんね。」

「すると、食べてはいけない命はないってことになりますか?」

「食べてはいけない命なんてないでしょう。食べられるものは食べればいいんだし。問題は「人間」を食べてもいいのかという場合かな。」

「なぜ人間はだめなのでしょうか?」

「人間を食べるためには、人間を殺さなければならないからね。」

「人間を食べるのは法律との戦いになるよね。」

「フランス人の恋人を食べてしまったという佐川一政が起こした「パリ人肉事件」っていうのがあったよね。これはカニバリズムの問題になるけれど。」

「それは、けっきょく病気ということになるよね。つまり人間を食べるというのは精神異常者だと。」


「以前、『いのちの食べ方』という映画を観たことがあります。その中で前の牛が泣き叫ぶ場面なんかがあるんだけれど、僕はその映画を見るまでの過程を知りませんでした。同時に、その事実を知って、殺してまで食べる必要はあるのかという思いも生じました。イルカだって殺してまで食べなくてもいいじゃないか、という思いがあるのかもしれません。」

「食糧としては間にあっていれば、わざわざ殺してまで食べずに済むかもしれないしね。」

「食糧問題とかいうのではなく、感情的な問題もあるのかなあ、と思う。」

「文学の世界には、武田泰淳の『ひかりごけ』のように、止むにやまれない極限状況下での人肉食を描く世界もあるけれど、現実に飛行機墜落事故や戦時中の気が状況下での人肉食というケースもあったでしょう。」

「人肉食だって、極限状況なら倫理的に責められないでしょうね。」

「 極限状況だったら人肉食もありですよね。だって、時々「この人を料理にしたら美味そうだな」と思うときがありますよ。でも殺してまで食べなくてもいいよね(笑)。」

「たった今、その話を聞いて人間を食べない派に決めました!というのも、 ワタシ、けっこう動物をシメルのが好きなんだけれど、シメルときに動物を怯えさせると肉がまずくなる物質がでるんですよ。だから、怯えさせないようにシメルのが大事なんですね。この理屈からいうと、おそらく人間は死ぬ間際にいちばん怯えるから、美味しくないという結論に達したからです。」

「だいたい雑食動物は美味しくないから、その点でも人肉は美味しくないでしょう。」

「すると、美味しいか美味しくないかというのが、食べてよい生命かどうかの基準になるの?」

「そう。」


「昆虫食もある。どこからタンパク質を取るかは大切ですね。」

「 近所に飼っていたウサギを食べる家があって、日々顔を合わせていたウサギを食べたりしていた。小さい頃はイナゴを食べたりしていた。つまり、何を蛋白源にするかどうかはそこの土地の持っている力に関係するんじゃないでしょうか。」

「そういえば『豚がいた教室』という映画がありましたよね。結論はどうなるんでしたっけ?」

「あれは、けっきょく子どもたちが育てた豚を自分たちでできず、業者に売ってしまうんだよね。」

「自分が育てた動物に愛着がわくと殺しにくいという面はあるだろうね。」

「その話を聞いていて思ったんだけれど、自分の母親が握ったおにぎりは食べられるけれど、友達のお母さんが握ったおにぎりはが食べにくいということを思い出しました。一方で、誰が握ったかわからないコンビニのおにぎりは抵抗なく食べられます。つまり、食べることに関しては自分の領域と全く関係のない領域との間に中間領域みたいのがあって、その領域では食べにくいということが生じるんじゃないかな。逆に、まったく切り離された領域だと抵抗なく食べられるというか。」

「先日『ある精肉店のはなし』という映画の試写会に行ってきたんだけれど、一家で自分で育てた牛をし販売まで手掛ける精肉店のドキュメンタリーで、とてもいい映画だった。その映画の中で、立っている牛をいきなりボコンと一発で額を撲り倒してするシーンがあるんだけれど、衝撃的だったね。」

「映画の中では鎮魂祭をの風景も撮影されています。そこで精肉店の奥さんが「本来なら天寿を全うするはずのものを食べる」と話す場面ががありました。日本人が牛を食べるようになったのは明治からだし、そんなに昔からの文化でもない。確かに食べなくても死なないのに牛を食べる。でも美味しいしなと思うのも事実なんですよね。印象的だったのは、彼女が牛を「殺す」のではなく「ワル」と言うし、鳥は「シメル」と言うことを強調した点です。」


「魚ぐらいなら締めたことがあるが、二つ足、四つ足は締めたことがないんですよ。実は、明日郡山で狩猟免許の講習があるんです。食べて良い、悪い以前に、自分が締めた命を趣味の一貫として(駆除ではなく)、気持ち的に美味しく食べられるんだろうか、ということを体験して、その先に答えがでるんじゃないかな、という思いがあって参加しようと思っているんです。僕らの世代は料理人でさえという場面から離れてしまっているんじゃないでしょうか。サル、牛、それぞれあると思うけれど考えなきゃならないし、でも、その考える土壌がなくなってしまっているんじゃないでしょうか。」

「シメルことに関しては、釣りをやっている人は別になんともないんでしょう?」

「それはいつ食べるかって考えてからシメル。ワカサギなんかは酸素不足で死んでいくし。鮮度のことしか考えていないね。」

「もう釣りはできないなと思ったのは、釣り堀で針が鯉の喉奥にひっかかっているのを取るのが大変で、それに苦しむ鯉を観てもう無理だと思った。」

「ブラックバスとか、食べないのに苦しませてどうするのかと思う時があります。 瞬殺するのが生き物のためなんです。」


「殺すと食べるという議論がが若干くっついていますね。植物も命といえるけれど、殺すとはいわないよね(ベジタリアンはまあいうのかも)。」

「「いただきます」という言葉は、命をいただくということでしょう。」

「食べることがだめなのか、殺すことがだめなのか、殺し方がだめなのか。打ち上げられた鯨は食べていいのかもしれないけれど、追い込み漁はいかん、ということなのでしょうか。」

「たとえばイノシシの罠の猟があって、虎ばさみとかで取るのだが、銃なら一発なんだけれど、銃を持たない人は槍でつついて殺すのが大変。血が噴き出したりして、その場面はけっこう引いちゃいます。それを見て、やるならすぱっとやってやれよ、と思いました。これ以上ないほど獲物を苦しめて、いただきますということにならないんじゃないかな。美味しくいただくためにはの仕方も大切じゃないかな。」

「 でも、一方で『いのちの食べ方』で描かれたようなベルトコンベア式の屠場で、肉牛を苦しめずに機械的にしていくのが、いのちを慈しんでいる光景だとは思えないですね。生命との向き合い方の問題でしょうか。育て方もある。『ある精肉店のはなし』では、一家で育てた牛を自分たちでするんだけれど、そこで奥さんなんかはするまではつらいっていうんだよね。でも、そのつらさも含めて自分が手掛けた生命をいただくことに向き合いながら従事しています。それに対して、屠畜工場ではそのような生命との向き合い方はないのではないでしょうか。」

「知人の乳牛生産家が、体験学習にきた中学生たちが牛一頭一頭に名前を付けてしまったんだけれど、それ以来牛を死なせるのが嫌だなと思うようになってしまったと話していました。乳牛とはいえ、乳がでなくなれば殺すことになりますからね。」

「『豚がいた教室』でもそうでした。最初は付いていなかった豚に児童がピーちゃんと名前をつけちゃってから、豚に対する愛着がわいてしまう。固有名詞がつくとどうしても、その問題が生じてしまうでしょう。」


「食べるのがだめなのか、殺すのがだめなのか、どうなんですかね。」

「たぶん、殺し方とかについて言えば、養殖・工場などで作業的にベルトコンベアで来たモノを殺すのも、最初から命と思ってないんじゃないかな。でも農家とか牧場が育てたものは命が宿っているじゃないですか。固有名詞がつくとまたレベルが違っちゃうけれど、猟師さんが鹿をしとめるときに、ある部位を一発でし止めることに命をかけている知り合いがいて、自分が一番食べるときにいい最適な殺し方をするんじゃないかな。対象に対する命の感じ方の違いがあるんじゃないか、と思います。」

「心のありどころですよね。ライオンはおなかいっぱいなときは狩りをしない。アンデスの聖餐では神の肉だといって生き延びた。植物も動物も命なので、その心の在りどころが大切ではないでしょうか。」

「殺してまで食べる必要がないじゃないかという話がありましたが?」

「必要はないけれど、それで生活している人もいます。捕鯨だってそれに関連する仕事に従事する人は無数にいます。その意味でいえば生活をするために捕鯨は必要だとも言えるでしょう。命をいただいているのだ、と意識したものは食べてもいいのではないでしょうか。」


「人間も他の動物に捕食されるなら、食べていけないものはないといえるでしょう。」

「人間が食物連鎖の王座にいるから偉そうに言っているが、イルカに補食されるのであれば、人間も食べていけないということはないという理屈になります。」

「藤原新也の「人間は犬に食われるほど自由だ」という言葉がある。インドで人間の死体を犬が食べている場面からそういったのだけれど。」

「それはある種の食物連鎖が成立しているなら、という話かもしれませんね。人間も犬に捕食される立場にあるならば、犬を食べる権利がある。けれど、いまや人間は食物連鎖の王にあるわけですから、その論理によると食べてはいけないものがあるということになりませんか?」

「基本的に人間が食べていけない命はありません。ただ、豊かな社会にあっては自主規制があるだけです。自分は食べませんが、他者が食べることを否定はしないわけです。」

「ベジタリアンも自主規制ですよね。」

「インドネシアのエビの取り方(バナメイエビ)と日本人のエビ食に関する教材を授業で扱ったときがあって、日本人のエビ食がインドネシアのや劣悪な労働環境や環境破壊を引き起こす事実を学んだ児童たちが、「今度からインドネシア産のエビは食べないようにします」となっちゃった。でも、それは豊かだから言えるんだよね。

「魚を食べる。手足がないし。エビとかカニとかありがたがるけど、私の中ではカブトムシの仲間。バクテリアも大統領も平等。カブトムシも羽生結弦くんも同じ。生命の前に万物は平等であると、そこまで見えて初めて食べられる生命はあるか否かの話しになる。それが「イルカだから」と限定的に言っているうちは議論の材料として足りないわけです。」


「どこまで食べていいのかは、生命と別に考えてもいいのかなと思います」

「配布資料の新聞記事にもどると、人間にどれだけ近いかというのがあるけれど、並べた時にどこに線引きするかは、文化の問題というか難しいというか、それぞれあるのではないでしょうか。」

「生命維持とは離れたところで食文化があるから、食べたくないモノを食べないという取捨選択も可能だし。」

「食文化の歴史は、壮大な命懸けの実験の繰り返しの成果ですよね。」

「キノコとか無数の人が死んでますよね、人間の先輩たちの遺産の上に今の食文化が成り立っていると思います。そう考えると、食べてはいけない食料はないと思います。ただし、食糧ではなくて生命と考えたときに、「いただきます」と命をいただくという意味でいいんだけれど、今はそれ(命の部分)が見えてしまうと食べられないという人が出てきたという問題があるのではないでしょうか。たとえば、生ハムで豚の足が見えると食べられないという人もいます。」

「だいぶ経済がからみますよね。飽食の時代といっても、世界的に見るとまだまだ食べられない人もいる。」

「生まれる、生きている。それはどちらも「生かされている」のではないか。自分だけでは生きているのではない。他の生命によって生かされいるし、自分もまた他の生命のために存在しているという、そういう謙虚さが必要なのではないでしょうか。」

「いまの意見に共感しました。食っていけない命はやっぱりありません。」

「その命の感覚がなくなっている。」

「まさに。昔年に1回謝肉祭があったけれど、年に1回食べるとか年に1回感謝するとか必要なんでしょうね。」

「足が見えると食べられないという人がいる反面、自分が育ててきた牛を割るという人たちもいます。ここにある肉がどういう由来できたのか、と自覚しているかしないのかが大きいのではないでしょうか。」

「分かっていると食べられないというのと、分かっていて食べるということの違いもあります。自分で獲物を捕る人もいるし、買って食べるしかない人もいるが、機械的にというのではなく、過程をときどき思い出すっていうのがあれば、ただモノとして食べるというのとは違うかな、と思います。」


「するのに躊躇するのも人間だが、食べなきゃ生きられないし、食べれば美味しいと思うのも人間でしょう。その逡巡の過程を失ったところに食と生命に対する違和感があるのではないでしょうか。これは、実は過食症と拒食症ってそれと繋がっているように思っています。コンビニで買ってきた食糧を大量に食べてから、すべて吐き戻すという症状は、どこかその食と生命とのあいだが抜けてしまった文化の帰結の一つであると思うのです。」

「人間の都合で食べられるためだけに作られた命は、食べてはいけない命にカウントされてしまいますよね。放牧牛をたべさせてもらったことがありますが、その肉を食べるとどんな飼料を与えたか味で分かります。みんながありがたがっている牛肉は以外と飼料の味だったりするんですよ。飼料を調合して食わせたりする。それがすでに命を冒涜しているみたいな感じがある。食べていい命といけない命というところで意識するのは、大事に育ててつぶす牛だったり、自然の中で虫やコケを食べたものならば全うした命という感じがある。そこに工業製品的命とは違うのかなと思います。」


当初、大雪に見舞われたりや哲学バーになったりと、どうなることか心配されましたが、終わってみれば、かなり危険な議論から食に携わる専門家の意見まで深い議論が展開されました。
今回は常連Sさんのお力を借りて、対話をそのまま採録する報告とさせていただきましたが、いつも以上に哲学カフェがどのような場であるかお伝えすることができたのではないでしょうか。
速記録をしていただいたSさんには心より御礼申し上げます。
また、このような天候不良にもかかわらず、1次会から3次会までおつきあいいただけました皆様には改めて御礼申し上げます。
次回てつがくカフェ@ふくしまは、震災・原発事故をめぐる第4回特別編です。
詳細は後ほどブログへアップしますので、多くの皆様にご来場いただけることを心よりお待ち申し上げます。


第21回てつがくカフェ報告―社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?―

2013年12月24日 19時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
今回のてつがくカフェは『茶色の朝』を材料に、「社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?」を問いました。
参加者は22名。
今回の参加者の年齢層も幅広く、20代から70代と各世代間のやりとりが行われました。

さて、『茶色の朝』は不穏な全体主義が、何気ない日常のなかでいつのまにか貫徹されていってしまう状況をみごとに描いた絵本ですが、まずはこの絵本の感想から述べるところから始まりました。

学校での授業参観の際に、子どもたちが誰も手を挙げて発言しないから、その理由を尋ねられたところ、「いじめられるから」と答えたことを思い出したという意見では、子ども同士で生じる権力を恐れることと、この物語が重なったといいます。
また、この絵本がフランスでベストセラーとなったことはすごいことだし、その背景には自分で考えることを教えるフランス教育の力があるのではないかと言う意見も出されました。
別の参加者からは、絵本の表紙に描かれる色とりどりの花の絵に、文化の多様性をイメージさせられたという意見も出されます。
実は身近なところで多様な文化はあることに、ほとんど私たちは気づかないのだけれでも、その多様さに気づくとき、もっと人は自由な考えが持てるのではないかといいます。むしろ、その違いに気づいくことで人の意識は成長し、発信の仕方も変わり、社会が変わっていくのではないかとのことです。
一方で、現首相が目指している国は北朝鮮ではないだろうかという不安を指摘する声もありました。
それによれば、北朝鮮のような独裁国家が貫徹してしまったとき、果たして社会を変えるなんてできるだろうか、だからこそ、そうなる前の市民による行動が大切なのではないかといいます。
さらに、この絵本の内容は「おもしろくない」と述べた参加者もいます。
それによれば、ここに描かれているのが自分たちの日常そのままであり、あまりのリアルさに「面白さ」を感じられないのだというわけです。
このリアルさとはなんでしょうか。
別の発言者は、たしかに政治的には現首相に対して批判的な意見を持っているが、経営者としてその見解を発信した場合、それが自分の経営にも影響を及ぼすと思うと、軽々に発信できないと言います。
そこには、誰に見られているかわからない、という薄気味悪さを指摘しているように思われましたが、この絵本が描く不気味さというか薄気味悪さとは、実はこの見えない不特定多数者の圧力のことではないでしょうか。

ところで、これらの意見には「権力」に対するイメージが二種類あることに気づかされます。
一つは国家と市民の関係のようなタテ軸としての権力イメージがある一方で、もう一つはいじめのように同輩集団に潜む水平軸としての権力イメージです。
議論では、しばしが市民の行動力が取りざたされましたが、それは往々にして対国家といった実体的な権力に対する行動を意味しました。
とりわけ、学生運動を経験した世代からは、官憲からの監視などと戦った経験であったり、対学校教師への抵抗の経験を経る中で、一度抵抗してみれば意外と相手の仕組みを見透かすこともできたり、必要以上に恐れる必要がないことがわかるなどと言います。

なかなか過激な意見が出されましたが、しかしこの絵本で描かれるのは、どちらかと言えば何気ない日常の中でどんどん権力に浸食されていく世界です。
すると、やはり目に見えない「空気を読むこと」や「世間」という存在が私たちの社会を変える力を奪っているという意見が問題の焦点になりそうです。

これについて、昨年の衆議院選挙や今夏の参議院選挙の際に、周囲の誰もが現政権の選択はありえないとの声しか聞こえないのに、なぜその真逆の選挙結果になってしまったのか理解できなかったという意見が挙げられました。
周囲の実体的な人々の声以上にいるらしい、「圧倒的多数派の見えない人たち」の存在の不気味さ。
いったい、そんな人々は本当にいるのだろうか。
いるとしたら、なぜその姿が見えないのか。
そんな眩暈というか、夢というか、世界の存在そのものまで疑ってしまうような経験をしたものです。
いや、それは実は日本国民のほとんどが二重人格なのだという結論に至ったという過激な意見を述べた参加者もいます。
それによれば、普段は政治批判をしておきながら、実は投票の際にはその批判とは真逆の候補者に投票しているのだ、と確信的に思うのだそうです。
このダブルスタンダードは何によるのか?
最終的にはカネや経済的な問題を握られたとき、人は何も言えなくなることと無関係ではないのかもしれません。
その生きるすべを奪われてまで危険な発言はできないでしょう。

いや、そうはいっても二重人格というのは言い過ぎかもしれません。
ある意見によれば、同じ意見をもつ階層と反対意見をもつ階層が分離しているだけではないかと言います。
多様性と対等性を保証する哲学カフェという空間でさえも、実はこの問題はあるかもしれません。
日本では極度に政治の話は、相手の思想を理解していないと軽々に発することができなう文化だと言われます。
だとすると、周囲での政治批判は井の中の蛙であり、現実は別の圧倒的多数の意見と自分の生活世界が乖離しているだけだといった方がよいのかもしれません。
では、そうした状況では社会は変わりようがないのではないか。
それに対して、多様性の経験を得るために外の領域へ出ていく必要があるのではないかという意見と、いや、むしろ自分たちの階層(領域)を出ていく必要はなく自分たちの領域で変えようとするだけで十分なのだという意見が出されました。
2日前に行われたエチカ福島では、ハンナ・アーレントを引き合いに「少数者でいることが大切なのであって、問題は少数者にすらなれないくらい断片化させられることだ」という意見を耳にしました。
自分の意見と対立する他者との対話、交流はもちろん大切ですが、この「少数者でいられること」という考えは以上の議論を考えるうえでも重要であるでしょう。

ところで、そもそもテーマに掲げられている「社会」とは何か?それを変えるとは何か?」という論点に立ち返ります。
家族、地域社会、国家など社会と言ってもどこに焦点を当てるかで、議論も変わってくるでしょう。
これについて、エチカ福島での議論を踏まえて「若者にとって社会がない」という問題をどう考えればよいのか、という問題提起が為されます。
たしかに、学生運動世代からすれば敵対する官憲であろうと実体的な国家=社会は立ち上がっています。
しかし、実は一見してそうした実体的権力を感じさせない今日の社会ではその意識が立ち上がるのは難しいのかもしれません。
それに対して「階級社会」の方がよほど社会を対象化しやすかったのではないかとも言います。
階級の違いが明白に自分の敵-味方集団を識別しやすいからです。
すると、今日、何でも平等化した大衆社会において、それは意識しにくいものなのかもしれません。
一方、昨今のヘイトスピーチのように、暴力性を帯びた排外主義やナショナリズムの風潮は、ある意味で国家を意識した行動だともいえます。
この敵対的な思潮によって立ち上がる国家=社会意識は、排他的=自閉的な意識の現れであり、言い換えれば「自尊心」を失った人々によって立ち上がる社会像と言えるかもしれないでしょう。
(これは「自尊心」というよりは「自己愛」の傷つきやすさなのではないか、と個人的には思うのですが。)
これは「日本人は社会をつくったことがない」という発言と関係するかもしれません。

あるいは、社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?という問いに対して、「どちらともYESだ」と答えた参加者は、国旗国歌法だって制定当時は罰することはしないとしたにもかかわらず、国家斉唱せず国旗に向かって不起立した公務員を厳罰に処する自治体も今では当たり前のようになっています。
当時は大丈夫といったにもかかわらず、時間の経過とともに変化する流れを止められないのは、現状を肯定する私たちの意識が為せる技なのかもしれません。
放射能に関してもそうでしょう。
放射能汚染がひどいあの時期から比べると、いまでも異常な数値であるにもかかわらず、当たり前のものとして私たちは生活しています。
県外から来た知人たちの驚きを見て、はっと我に返りますが、時間と日常とは実に自分を現実に適応させてしまうものです。
自分を変えるというよりも自分が変えられるとも言えるでしょう。
それが自分の中にある凡庸さというものなのでしょう。
慣れていくことの罪とでもいえましょうか。
巨悪に加担するとはこうした内実をもつように思われます。

一方、私たちが社会を変えるものでもある、とはいうものの現状においては危機感がないままいつの間にか社会は変わり、自分たちは何もできないという無力感に陥ってしまうとも言います。
では、何が社会を変えられるのか?

この問いが提起されると必ず出てくるキーワードが「教育」です。
戦時体制に現政権が進めようとしているなば、歴史において事実以上に、なぜ歴史が動くのか、その因果関係を丁寧に教えることが必要だという意見が挙げられます
それに対して、関係よりもなぜその選択が正しいのか、という大義名分を考えさせた方がいいという意見も出されます。
自分で考えることの大切さも説かれます。

しかし、これに対しては何でも教育で解決しようとするのは違うのではないかとの意見も出されました。
知性を育てて変わったためしはあるだろうか。
反知性主義的な意見ですが、昨今の学校教育への期待過剰という意見も出されました。
正しい知識を身につければ正しく変わるというのは、どこかの独裁国家の教育となんら変わらないじゃないか。
論理的にはその通りでしょう。
教育の矛盾は、いつでも「自分で考えなさい」という命題自体が、教師という権力からの命令に従うということにあります。
にもかかわらず、自分で考えることと歴史を知ることとのあいだに、どこか社会の自由な変革を期待する考えはいつの時代にもあるのはなぜなのでしょう。
この問い自体を問い直してみたい気がします。

今回は世話人の不手際で絵本自体の内容を深く吟味するということはできませんでしたが、いずれこの本を本deてつがくカフェにて扱ってみたいものです。
今回はこれまで最高齢の79歳の方にご参加いただけました。
私たちの社会には世代間の対話や伝達文化が失われていることを考えれば、この機会を再生していくことも社会を変えることの大切な要素だと思われます。
また次回多様な方々のご参加をお待ち申し上げます。

第20回てつがくカフェ@ふくしま報告―知らなくてもよい真実はあるか?―

2013年12月01日 07時30分42秒 | 定例てつがくカフェ記録
  

第20回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日agatoで開催されました。
参加者は20名。
毎回初参加の方々がいらっしゃいますが、なんと今回は愛知県からこのてつがくカフェを目的にお越し下さった方もいらっしゃいました。
他にも、このテーマには必ず参加しなければと、お仕事を早退して駆けつけて下さった方もいらっしゃいます。
ありがたいことです。
皆さんの本気度に身の引き締まる思いがします。

さて、今回は「知らなくてもよい真実はあるか?」がテーマです。
浮気問題から子供の取り違え問題など、普遍的な私的問題からニュースや映画で取り上げられる問題など、切り口は様々にありますが、やはりこのテーマに関する最近の最大の関心事は特定秘密保護法案でしょう。
そのあたりの展開をファシリテーターは予想していましたが、議論は意外にも原発事故をめぐる展開へ。
いや、意外でもありませんね。
福島で生活する以上、やはりこの問題は皆さんの意識下に沈滞していることをあらためて痛感させられました。

まず、カフェの前半は「真実」の定義をめぐって展開されます。
第一声は、伝える側と聴く側との「信頼関係」によって、伝えられるか否かは規定されるという意見から始まりました。
これに関しては具体的に医療現場での「告知」問題が取り上げられます。
相手に病状の真実を伝えるか否かはその人の性格を知っているか、日ごろから安心して意思疎通が図れているかによって、伝えられる真実は決まってくるということです。
これは伝えられるべき真実が、内容によってではなく人間関係によって決まるという視点を与えるものでした。

では、そこにおいて第三者はどのように関与しうるのか。
「告知」に関して当事者以外の第三者が知ることで、余計なトラブルを生み出す問題があるならば、誰でも知る必要がある真実などないのではないか、との意見も出されます。
それゆえ、真実を知るべきか否かについては「信頼関係」というよりも、むしろ「利害関係」ではないかという意見も出されます。
たとえば、芸能人の不倫や浮気ネタなどはたいていの人にとって興味本位以上の話ではありませんが、その夫婦や家族にとっては重大な問題になるでしょう。
すると、この真実をめぐっては「利害関係」の有無によって知る必要のある内容とその対象の範囲が確定されそうです。

また、この論点に関しては「公共性」の観点から「知るべきか否か」が問われるべきではないかとの意見も出されます。
たとえば、差別の問題に関して「総監」などを企業が入手する場合は、その社員(あるいは入社希望者)の出自という真実を知ることを欲望しているわけですが、それが「公共性」の観点から望ましいとは言えない問題があるというわけです。
ここでの「公共性」とは、人権問題の法的正当性を指していると思われます。
誰しも他者に知られたくないことを持ち合わせているものです。
個人情報保護法は、まさに公に晒されるべきではない個人情報を保護するための法律ですが、しかし「公共性」という言葉には「みんなにとっての」という意味も含まれています。
個人情報や私生活が公に知らされる必要かあるか否かを判定するのは非常美難しい問題ですが、「公共性」を帯びる情報という場合、それは人権のもつ法的正当性を内包しておかなければならないでしょう。
その意味でいうと、やはり「公共的には知らなくてよい真実はない」という意見も出されました。

これはいま話題の特定秘密保護法案の問題と接続するでしょう。
なぜ、国家は国民に知らせる必要のある/ない真実を決めるのか。
そこには実は「誰が知る必要があるか否かを決めるのか」といった問題が含まれています。
国家機密を国民に知らせるべき否かを決めるのは、国家(政府)です。
かつて患者に「告知」するか否かを決めたのは医師です。
そして、そこには相手のことを慮ってそれを決めるという「パターナリズム」的な態度が看取されます。
それは科学者などの専門家集団にもみられる態度ではないでしょうか。
まさに、ここには真実を知る相手に自己決定能力の有無によって、知らされるべきか否かは規定されるという考え方が含まれています。
由らしむべし、知らしむべからず。
ここには「人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」という論語の思想が重なります。

ところで、そもそも「真実」とはなんでしょうか?
これまで取り上げてきた事例は、実は「事実」なのであって、「真実」とは異なるのではないか。
そのような問いかけとともに、ここであらためて「真実とは何か?」という論点に立ち返る問いが提起されました。
ある発言者によれば、「単なる情報や事実と真実は別ではないか」とのことです。
たとえば、放射能に汚染されたホットスポットがどこにあるとか、線量がどのくらいの数値なのかといったことは「情報」であって、「真実」とはそれ以上の何かだというわけです。
「それ以上の何か」とは何か?
その発言者によれば、それを知ることで自分の人生が大きく変えられてしまうような何かだと言います。
その意味で、「真実」とは単なる情報や事実以上に、「自分自身を変えられてしまうようなもの」だということですし、突き詰めるとそれは「ワタシにとっての真実」が「真実」に値するということになります。

それに関して別の参加者からは、「未来にわたって正しいもの」が真実に値するといいます。
たとえば、低線量被曝が安全か有害かは現時点において不明確であり、その将来において判明するものだとすれば「真実」に値するということになるでしょう。
これは逆に言えば、現時点では「真実はわからない」ということが、現段階での真実だということになります。
しかし、この意見からは、「真実」に値するというならば、現段階での認識や評価を超えて確立されるもの、あるいは耐久性のあるものだということになるでしょう。

また、別の参加者からは、医療現場の「告知」において「情報・事実・真実」の区別は明確化されており、ある病状の「情報・事実」を患者に伝えることと、その状態を評価することは別であることが示されました。
この病状の評価やどのような生き方を選択するかといった価値が、「真実」に相当するということです。
末期癌という事実を知らされ、その病状の情報を知り、絶望するか、それでもなお人生は生きるに値すると余命を生きるか。
その絶対的な答えは誰も持ち合わせていないからです。
医師は、その病状に関する情報は余命などの可能性を示すことはできるけれど、確定的な余命期間を示すことはできません。
ましてや、それが絶望や不幸を意味するか否かは、誰も知りえないものであり、それ以上にそれはその状況を生きる中で生成されるものでしょう。
ここでの「真実」が価値的なものを指す以上、それは誰にも知りえないものなのです。
ちなみに欧米では「余命〇か月」という提示の仕方はしないそうです。
その病状によって、その生の価値が特定されるわけではないからでしょう。
むしろ我々は生まれた瞬間に、誰もがすでに「余命〇か月」であるわけですから。

ここから、「もしかすると、「知らなくてもよい真実がはあるか?」という問いには、そこに「真実は一つしかない」という前提があるのではないか?」という指摘が為されます。
すでにみたように、「真実」が誰にも知りえないものとして措定されるとき、むしろ「真実」は一つに限定されなません。
すると、このテーマに設定されている「知るべきか否か」という区分そのものが、実は誤謬を含んでいるのではないだろうかということにも気づかされます。
というのも、そこには「真理は誰にも知られない」にもかかわらず、「真実を知る」主体(国家や意志、科学者)と知らない人々という区分が前提されているからです。
むしろこの問いそのものが、実は真実を独占する(とされる)立場から発せられた問いであるかもしれないという疑問も明らかになってきました(ちなみに、このテーマ自体は世話人二人が、いつものように酔っ払いながら決めたものにすぎないのですが…)。
しかし、「真実とは誰にもわからないものである」からこそ、むしろそれは万人にとって平等にあるということを意味するでしょう。

したがって、ここでは「情報・事実」は客観的に共有できるものであり、「真実」は主観的で多様であるものだということが確認されました。
では、「真実」とは他者と共有され得ないものなのでしょうか?
この問いは哲学史上、たいへん重要な問題でした。
その点で、たしかに哲学的(形而上学的)な普遍的真理の探究を議論として展開できそうですが、今回のテーマではそういったレベルで展開しない方がよいのではないかとの意見が提起されます。

これについて「真実とは現実とイコールであるとした方が話しやすい」との意見も出されました。
これは「真実とはその人にとっての真実である」という見方とは異なります。
「現実」は誰にとっても確認可能なものであり、その点で他者との共有が可能なレベルの「真実」ということになります。
この前提に立てば、それを知らせるか否かという議論は可能になるでしょう。

これに関して、たとえばニンジンが嫌いな子供に、ニンジンが含まれていることをわからないように調理した料理を食べさせることで、知らず知らずのうちにニンジン嫌いを克服させることはよいことではないか、という例が提示されました。
教育上のある目的を達成するためには、子どもに知らされない事実もありうるとのパターナリズムが確認されます。
いや、それはいかに子どもと言えど、自己選択の機会が与えられていないのは問題であるとの意見も出されます。
自分で嫌いなものであるけれど、必要だと判断したうえでニンジンを食べることを選択するか否かは、やはり教育上重要なことではないか、というわけです。

さらに、この問題は性教育の問題に関してその子どもは好奇心から知りたいことをパターナリスティックに知らせないというケースをどう考えるかという問題とも接続します。
自由主義的に考えればできる限りの情報と選択肢を子供に与えることで、自己選択できる力を育てることが大切になるでしょう。
一方、過激な性描写や映像に誰もが接続しやすいネット社会において、なんでもかんでも子供が知りたいからと言って知らせるべきではない情報もあるではないか、ということにもなります。

そこには本人が「知りたいか」/「知りたくないか」という点も重要になってくるでしょう。
では、これに関して福島の人々が「安全神話」を信じて原発を受け入れたという事実をどう評価すればよいのか。
そんな問いかけが為されました。
原発が100%安全だということはありえないことはみんな知っていたはずだけれども、その日の生活や貧しい地域にとっては必要だと考えれば、やむなくそれを選択したというのが実際ではないか。
いや、そもそも安全ではないということを知りたいと思っていなかったのではないか。
もちろん、3.11以前から原発の危険性に警鐘を鳴らしていた人々は少なからず存在していました。
が、それに耳を貸さなかった大多数の人々にとっては、「もしその真実を知ってしまえば不安が生じる」という点で、「原発は安全ではない」というのは「不都合な真実」だったわけです。
もっとも、皮肉なことに原発事故の発生時にSPEEDIのような情報が知らされない状況に直面すると、人々はいっせいに情報隠ぺいへの不信へ反転したわけですが。

それまで日常が安定しているときには目を向けなかった「不都合な真実」が、危機に際して目を向けざるを得なくなったわけです。
しかし、それでも人々は「真実」を知りたいと思う存在なのでしょうか。
さらにいえば、その真理に耐えられるものなのでしょうか
実は原発事故以後、その話題に触れたくないという声は日増しに大きくなっているようにも思われます。
自分の生活や日常を不安にさせるような情報には目を向けたくないという心理はわからなくはありません。
その意味で、「真実を知るには体力がいる」と発言された参加者がいます。
その発言者によれば、「パートナーの浮気の真実を知ることで傷つく」という点では、やはり真実を知るためにはある種の「体力」が必要だといいます。
「原発が危険だ」というケースも同じでしょう。
真実を知るにはある種の「体力」が必要だ。
その「体力」がないときに「真実」を知れば、その力に押しつぶされてしまうかもしれません。

しかし、だからといって、政府や専門家集団がそれをパターナリスティックに情報公開を制限することは間違いだといいます。
これに関して、原発事故が起きた際に、政府が情報を詳らかにしなかったのは、それによって生じるパニックを避けるためだったとも言われます。
しかし、これに対して「どのようなパニックが生じるかは、実は誰も知りえないことではないか」という指摘が為されました。
それを先取りして政府や専門家集団が真実を独占し判断を下すという態度は、やはり誤謬を含んだ判断だと言わざるを得ない。
なぜなら、くり返すようにそのことを知ることによって、誰がどう判断するかはそれらの立場の人々にはわからないという前提が共有されていないからだというわけです。
その点で、「真実」とは、やはり判断に関わる概念だということとして確認されました。
その上で、情報を保有する側は、できるだけその判断が適当に為されるように、できるだけ多くの情報を開示すべきだというわけです。
なぜ、その判断をなぜ自分たちでする必要があるのか。
ある参加者はこれについて、ケースバイケースであるとはいえ、それは「自分で納得したいから」という一点に尽きるからとのことでした。

たしかに真実を知ることで衝撃を受けたり、パニックになることはありえることでしょう。
その意味で真実と向き合うある種の「体力」が必要であることは否めません。
(パートナーの浮気の事実を受け入れるには、そのショックに耐えられる体力が必要だというわけです。)
しかし、それによって果たしてまずい結果になるのか、それとも好ましい結果になるのかは、誰にも知り得ません。
その結果がどう転ぶか誰も知りえない以上、それはその非知に晒されながらも、自分自身で納得した選択を引き受けたいというのが、真実に相対する人間の在り方のではないか、ということです。

その点で、情報を保有する側も事実を伝えることで、伝えられた側の判断を信じるというあり方しかできないのではないか、とも言います。
これに関して別の意見では、だからといって情報を無責任に投げっぱなしにしろということではありません。
情報を開示する側も可能な限り、その反応に対してベストの選択肢を同時に講じる努力・責任が必要だということです。
これに関しては、医療における「告知」が、医師が無下に患者の自己決定に責任を転嫁することを意味するわけではなく、それに寄り添い協働でその余命をどう生きるかを、共に考え抜く在り方が目指されていることからも理解できるでしょう。
ただし、それでもなお鍛えられるべきは情報の受け手の真実を知る「体力」であり、まさにそれは教育などにおいて不断に為されるべきものだろうとの意見も挙げられました。

実は、人間は知ることを欲する存在であるという命題は疑わしいのではないかという場面は、3.11以前/以後、さまざまな場面で見てきたような気がします。
3.11以前には生活や生命といった自己保存を優先し、「不都合な真実」に目を背けてきたという事実、というか責任があることを、私たちは今や否定できないでしょう。
では、3.11以後になり、その真実に目を向けられるようになったかといえば、現実の政治を見る限り、それはむしろ真逆へ向かっているとしか思えません。
このひどい現実を見て見ぬ振りするどころか、それを原子炉を石棺で糊塗するかのように「なかったことにしよう」としているようにしか見えないのです。
しかし、実はそれは政府レベルだけではなく、市政の人々のレベルでも同様な傾向があることは否めなくなっています。
東京などの哲学カフェに参加された方の話によれば、もはや県外では原発の話題には触れたくもない雰囲気があるとのことです(本当でしょうか?)。
いや、被災地の外部だけではありません。
内部でも、そのことを考え続けるのはとても疲れるし、周囲で話題にされることはほとんどなくなっている現状があります。
地元新聞紙の一面に「もう震災記事は載せないでほしい」という声があるという話を耳にしたこともあります。
「震災3年目の戦いはこの「忘却」との戦いだ」と語るマスコミ関係者の言葉が印象に残っています。
けっきょく、人間は現在の日常を壊すような真実からは、目を背けることの方が常態だと言わざるを得ないのではないでしょうか。

しかし、そのことが国家に危機的状況をもたらすと警鐘を鳴らしたのは、およそ2500年前に古代ギリシアで生きたソクラテスでした。
市民一人ひとりが真実に目を向けようとすることで、国家は自ずと善いものになると信じたソクラテスの思想と実践は、今こそ大切なことのように思われてなりません。
くり返しますが、ここでの真理とは、イデアのような唯一絶対で誰にも有無を言わせないような強制力を有するものではなく、「誰にも知られていない」がゆえに、皆で目を背けずに探求されるべきものとして措定されるような「真実」です。
それが、まさに今回のカフェでの議論で確認された「真実」でした。
個人的には、それは決して主観的な「真実」に止まるものではなく、普遍性を志向するものとして市民に共有される「真実」と考えてみたいのですが、いかがでしょうか?
それは、まさに3.11以後の日本社会のあるべき姿を「評価」・「判断」・「志向」できるものとして、多くの方々とてつがくカフェで考え合いたいのです。

第19回てつがくカフェ@ふくしま報告―「ほんとうのワタシって何?」―

2013年10月27日 08時52分04秒 | 定例てつがくカフェ記録


第19回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日、agatoで開催されました。
参加者は16名。
テーマは「ほんとうのワタシって何?」です。
〈ワタシ〉をめぐっては、無数の論点に広がる可能性があります。
そのため今回はこのテーマで開かせていただくにあたって、香山リカ著『生きづらい〈私〉たち』(講談社現代新書)にある「いくつもの私、本当の私?」を一部資料として配布させていただきました。
ある意味で、議論の方向付けというか起点となればと思ってのことです。
そこには「生きにくい」と感じている人々が、「どんなときでも自分の中心はここと感じること」ができず、「自分はまわりに合わせているだけ」という意識を持ちながら、「たくさんの自分が別々にいる。どれが本当の自分なのか、自分でもわからない」と心の病に陥っている人々の姿が描かれています。
これは哲学的な問いというよりも、文字通り心理学から立ち上がってきた議論ではありますが、今回のカフェでは両方の視点からの議論が交錯しました。

まず、「ほんとうのワタシはあるのか?」といった問いに対して、「ない」という意見から議論は始まります。
その意見によれば、私自身が思っている「ワタシ」が「本当のワタシ」であるはずもなく、「ワタシ」というのは他者の評価も含めて成り立つものだということになります。
自分が知っている「ワタシ」と他者が知っている「ワタシ」という話は、「ジョハリの窓」を思い出させます。
けれど、それらの総体としての「ワタシ」はあるのではないか。
これについては、私というのは立場も変われば言動も変わるけれども、その都度その都度自分で判断を下している以上、複数の「ワタシ」と言おうが、それらは変わりつつ同一であるとの意見が出されました。
これは「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という『方丈記』の一節を思い出させられます。
世は諸行無常、一瞬一瞬水は流れつつも「川」は「川」である同一性に変わりはないのと同様に、「ワタシ」もまた複数いようが、昨日と今日の考え方が変わろうが、「ワタシ」は「ワタシ」なわけです。

また、異なる観点から「ワタシ」などほとんどないという意見も出されます。
それによれば、もし「ほんとうのワタシ」なるものがあるとすれば、それは生まれたばかりの赤ちゃんにしかないのではないかとのことです。
私たちは生まれるとすぐに社会に適応するために様々な躾を受けます。
すると、「ワタシ」なるものの大部分は社会によってつくられたものであって、「ほんとうのワタシ」などというのはほとんど見当たらないものだというのです。
仮にあるとすれば、それは玉ねぎの皮のような社会的部分をどんどん取り除いて、ようやく核にある希少な芯のようなものではないかというのです。
これに対して、それでも皆が皆同じような教育を受けても、「ワタシらしさ」は現れざるを得ない以上、完全に社会的部分に適応するものではなく、むしろ社会的なものに抗する形で「ワタシらしさ」が形作られていくのではないかという意見も出されました。
これは「個性」という意味での「ほんとうのワタシ」についての議論だと思います。

しかし、そもそも「ほんとうの」というフレーズに引っ掛かりを覚えるとの意見も出されます。
逆に、「ほんとう」じゃない私とは何か?
それは実は社会的なものを肯定する形で生じた問いではないか。
言い換えれば、「ほんとうのワタシとは」という問いは、すでにある種の価値規範を備えた社会の現状を肯定してしまっていることで生じるのではないか。
つまり、「ほんとうのワタシ」という場合、そこには真/偽を測る物差しがあるのだろうけれど、その物差し自体がア・プリオリに存在するはずもない。
ということは、それは社会的につくられた物差しの問題であって、本質的な答えを探求する哲学の問いとして設定するのは不適切ではないか、という指摘です。

ここにはこのテーマを哲学的な問いとして向き合おうとする参加者の姿勢が窺われます。
たしかに、それ自体を哲学的に問うならば、その指摘は当たっていると思われます。
ただし、この問い自体が心理学や精神医学の分野から立ち上がってきた以上、それは経験論的な議論を避けて通れるわけもありません。
したがって、ここでいう「ほんとうのワタシ」というフレーズは、自己肯定感の過不足を意味しているものだと共通了解を図る必要がありました。
これは純粋哲学的にこの問題を考えようとする参加者にとっては、当てが外れたテーマだったかもしれません。
それでも、この問いを発しながら「生きづらさ」を抱えている人々の問題を通じて、「ワタシ」なるものを考えることは無意味ではないでしょう。
たとえば、ファシリテータからは、若い世代から「キャラを演じる」苦しさを訴える声をしばしば耳にすることから問題を提起させていただきました。
これに関して、高校生の参加者からフェイスブックやツイッターで複数のアカウントをもちながら、それぞれの場に応じてふるまう自分がいることが述べられました。
これ自体、相当疲れることではないのかと思わされましたが、どれが本当の「ワタシ」かと問われると答えに詰まるようです。
ただし、キャラを演じることについては、やはりその時々の気分的な問題もあることから、とても疲れるとのことです。
にもかかわらず、周囲から要求される「キャラ」を演じてしまうのは、その後々の人間関係を考えてしまってのことだといいます。
空気を読まない奴と思われれば、いじめの対象になりかねません。
すると、「ほんとうのワタシ」なるものは、他者との関係で立ちあがってくる問題だといえそうです。

これについて、まず他者に対して「自分が出せない」、「言いたいことが言えないとき」に「ほんとうのワタシ」を感じざるを得ないのではないかという意見が出されました。
これは自分のことを他者に受け取ってもらえるかどうかという、「承認」レベルでの困難を意味しているように思われます。
続いて、「自分が出せない」というのは実は、この社会に信頼を築ける人間関係が希薄になったことに起因するのではないかという意見も出されます。
そもそも、言いたいことが言えない文化になるのは、学校教育で個性を出す自由よりも周囲に合わせる作法ばかり強調されるからではないかというわけです。
これらの意見に対しては、そもそも「ほんとう」なるものなどこの世界にはないのであって、この言葉を持ち出さずにいられない人々にがどのような存在かが問題になるだけではないか、という意見が出されました。
そして、「ほんとうのワタシ」という問いは、自己肯定できないことが切実な人々に生じる問いであって、そうではない人からは生まれないの問いであることが指摘されます。
言い換えれば、他者との関係が拗れた人々にとっての特殊な問いであるというわけです。

しかし実は、この問いそのものが、ある社会的な規範や価値観に規定されているのではないかとの意見も出されました。
というのも、先ほどから出される「自分を出せない」や「言いたいことが言えない」、「信頼を築ける人間関係が希薄だ」という言説が「ほんとうのワタシ」に関わっているのだとすれば、それは「自分を出す」や「言いたいことが言える」、「信頼のある人間関係」ことが、あたかもよいことだという規範に規定されているから生じるのではないか、と言うのです。
すると、自己肯定できない人々の根底には、これらの価値観や規範に縛られているがゆえに「ほんとうのワタシ」という言説を口にしてしまうものだとも言えそうです。
価値観や規範が、いわば歴史的社会的につくられたものである以上、時代社会が変わりさえすれば、一緒に吹き飛んでしまう相対的な悩みの問題に過ぎないということになるでしょう(だから、普遍性を探求する哲学的問いに馴染まないということになるのでしょうが)。
これについては別の参加者から、たしかに「自分はこうでなければならない」という意識を捨て去ることができたとき、「ワタシ」を丸ごと受け入れることができたという意見も出されました。

この他にも他者との関係で「ほんとうのワタシ」を炙り出すものとして、「他者の存在が欠落した時にこそほんとうのワタシに気付くものではないか」との意見も出されました。
これによれば、たとえば自分にとってかけがえのない人がいなくなったとき、その人との関係で形成された自分に気づかずにはいられないといいます。
その発言者によれば、この在りようを「共存在」と呼び、かけがえのない他者によって自分が規定されざるを得ない在りようなのだと感じられることだといいます。
ふだん、そのことには気づかずにいる自分も、それによって形成されたり存在が規定されていることが、「ワタシ」を感じる端緒だというわけです。
これについて、「ワタシ」とは他者の鏡なのだという言い方もありうるでしょう。

あるいは、別の観点から「ワタシ」というのは他者にも自己意識があると想定して、しかしそのそれぞれの場所から見えるようにしか、それぞれが眺められないという特異な「ワタシ」は他者を介してしか知りえないのではないか、という哲学的な視点での提示がありました。
これについては別の参加者からも、360度の円のような世界に各人が配置されていて、各々の位置から中心にある同一物を見ながら、それぞれに異なる見方があることこそが、「ワタシ」と世界との在りようだと述べられました。
これは自我論的な発想ですが、いずれにせよ「ほんとうのワタシ」をめぐっては、他者からの承認など、他者との関係において生じる問題として議論は展開されました。

すると、この流れに対して「ほんとうのワタシ」とは「自分と自分との関係」の問題として捉えていたという意見が出されました。
実は、筆者も「ほんとうのワタシ」という言説が生きづらさという問題と結びついているのは、自分自身と不調和であることに起因しているのではないかと考えていたものです。
そのことを「自己矛盾」するとき「ほんとうのワタシ」とか、あるいは「本来の自分」という言葉が持ち出されるのではないかと考えていたわけです。
ところが、この意見に対しては「自分自身との関係というのはよくわからない」という意見が多数を占めました。
自分が自分と矛盾するとはいったいどういう事態か?
筆者にしてみれば、そんなことはしょっちゅうあることで、職業に規定された役割(たとえば教師)を演ずることが、自分自身の思想と折り合わない場面などというのはいくらでもありうることではないでしょうか。
いや、それでも結局はそう行為を選択するわけだから、あなたはあなた一人なのであって、複数いるなんてあり得ないだろう、との反論もいただきました。

しかし、行為を選択する以前に、その行為は妥当かどうか考え吟味する営みを自分自身の中でするものではないでしょうか。
そのとき、考え事をしているワタシは独りなのでしょうか。
自己内対話という言葉があります。
心のうちで吟味するときに内なる心で発する言葉は、誰に差し向けられているのか。
言葉が言葉である以上、それは誰かに差し向けられているはずです。
そして、それは自分自身へ向けての言葉だと思うわけです。
すると、他者との世界へ向けて行為を選択する自分は、たしかに一人の「ワタシ」になりつつも、自分の内面でそれを吟味する「ワタシ」というのは複数存在すると考えられるのではないでしょうか。
しかし、それでも「自己矛盾」という言葉は理解できないとの意見も出されます。
これは後付けになりますが、てつカフェ終了後の2次会で「葛藤」ならわかるとのご意見をいただきました。
そのような悩みという意味で、自分が自分の問題になることはあるということでしょうか。
しかし、ある行為を選択するときに自分自身と矛盾することなど、この原発事故でいくらでも経験したのではなかったでしょうか。

「個人的には(放射能汚染から)避難しなければならないと思うけれど、立場上それは言えない」とした教師。
原発が爆発して放射能がまき散らされた地域で、看護師として病院に留まらなければならない職業倫理と、我が子を県外へ避難させなければならない親としての義務のあいだで引き裂かれた看護師。
あのとき、誰にも言えず心のうちで自分自身との対話に格闘した人は無数に存在したはずです。
彼/彼女らは社会的な批判にも晒されたかもしれません。
しかし、むしろ彼/彼女らにとってそれ以上に深刻だったのは、自分自身との矛盾だったのではないでしょうか。
それは葛藤以上のものが含まれると思われます。
負い目や罪悪感というのは、実はこの自分自身から承認されないがゆえに生じるものではないでしょうか。
その意味で自己肯定感というのは、実は他者との関係ではなしに、「お前それでいいのかよ?」という自分自身との不調和を指す言葉だと思うわけです。

これに関してある知人女性が述べていた言葉が印象に残っています。
「男の人って、ほんとうに大変ね!自分で自由に判断できないなんて!立場でしかものが言えない男の人たちが決定権を握るから、最悪の事態に対処できないのよ!」
(男だけが個人的な意見を殺して立場上の役割でふるまうわけではないでしょうが、その傾向があることは否めないように思われます。)
これに関して、管理職を務める知人が、ふと「公的な自分の言動と、ふだんの自分の言動が矛盾しないように気をつけて生きている」と漏らした言葉が鮮明に蘇りました。
そのとき、その発言を聞いた僕は彼に対して「ずいぶん窮屈な生き方をしているなぁ」と思ったものです。

カフェの中でも、その時々の立場に応じてふるまうのも「ワタシ」であることに変わりはないという意見が出されたことは既に確認しています。
もちろん、それが生きる上での実際だと思います。
が、くり返し述べるように、負い目や罪悪感を覚えるようなときとは、それは社会的にではなく、内なる自分自身に問いただされる時だからではないでしょうか。
たとえ、どちらの選択肢にも正解がないとしても。
だから、「ほんとうのワタシ」という問題は、真/偽を問う存在論の領域ではなく、善/悪を問う倫理の領域においてせり出してくる問題だと発言した次第です。
こうした内的事態を自己矛盾という言葉がふさわしくないのであれば、自己欺瞞と呼んでも差支えないでしょう。
人間は自分自身に平気で嘘をついてやっていける存在でもありますが、他方でそれに耐えられない存在でもあるのではないでしょうか。
「善く生きる」とは決して道徳的な生き方を意味しません。
忌わの際に「これでよし(Es ist Gut)」と呟いた哲学者もいるらしいですが、それがありうるとすれば、それは自己からの承認を得た言葉と言えないでしょうか。

ただし、僕は自己矛盾の中で自分が引き裂かれる経験をすることは、必ずしも悪いものだとは思いません。
たしかに、それ自体は不快な経験だとしても、むしろこの経験を生じさせない心性の方が、よほど危険であるように思われます。
その例として、僕は「転向」という問題を提示しました。
戦争時には軍国主義者だった教師が、戦後は平和主義者としてふるまえたのは、おそらくこの自己矛盾(欺瞞)そのものが生じないからでしょう。
プルサーマル計画を導入しておきながら、原発事故後にあっさり「脱原発」を主張する政治家も同様です。
彼らの社会的に首尾一貫しない主張や行動の「変節漢」ぶりが危険なのではありません。
一般には、社会的に見て首尾一貫しない主張や行為は批判の対象に晒されますが、肝心なのは「彼らはいったい自分自身にどのように折り合いをつけられたのか」という点です。
「反省する」と書くと安っぽく聞こえますが、彼らは自分自身と「自己-反省」を経て自分と和解できたのだろうかという点なのです。
哲学的にも反省とはreflectionであり、自分の行為や思想を自分に向き直させることで問い直しを図る営みを指します。
そして、この自分自身とのあいだで首尾一貫性がないことをもって、自己矛盾と呼んだわけです。
これは法や道徳といった社会規範を内面化したという意味での良心との首尾一貫性ではありません。
「自分自身との調和した関係」なのです。
(その点で、ではいったいこの「もう一人の自分」とは何かについて問うことは、個人的にはとても興味深いことですが、それはまた別の機会にしましょう。)

いや、そんなものがなくても原発推進派が「脱原発」になり、戦争賛美者が「平和主義者」に変わったんだから、それはそれでいいんじゃないか。
昨日の自分と今日の自分は違う自分なんだし、自分が変わるということは、それ自体何も問題ないじゃないか。
そのような意見も挙げられました。
自我論や存在論としてはありだと思います。
が、くり返し述べるように「よく生きる」といった倫理的な領域では問題化しうるのではないでしょうか。
というのも、そのような自己矛盾を発動させる契機をもたない人間は、容易にまた軍国主義者へひっくり返るからです。
これは、一つの頑強な思想を持つべきだといいたいわけではありません。
むしろ逆です。
自己矛盾を検査する営みこそは、まさに「考える」という営みだと思うからです。
常に自分自身から発せられる「お前はそれでいいのか?」という問いに弁明し、答えていく営みそれ自体を思考と言ったり、反省というのではないか、というわけです。
これは自分自身の中にある、ある種、非(反?)社会的な自分を殺さずにいることで可能になるのではないでしょうか。
いや、社会的にふるまう行為の首尾一貫性と、自分との関係における首尾一貫性とは一致しないがゆえに、倫理は担保されるものなのかもしれません。
ただし、それは内的な営みである以上、社会的な言動からその存在の確証を得られないこともまた事実ですが。

実は、社会的に「仕事ができる人」と評されるタイプの多くは、実はこの自己を殺すことでしかやっていけていないように見受けられます。
もちろん、現実に生きる以上は、多かれ少なかれ誰でもそうせざるを得ません。
しかし、このたびの原発事故のように、どのような行動をとるべきか答えが用意されていない前代未聞の事態においてこそ、実はこの自分自身との関係こそが問われたし、そこにおいて自分とどう対話できるのかが問われる出来事だったと思うわけです。

今回の哲学カフェの終盤は、このようにファシリテーター自身の発言が問題化されたこともあって、自分の考えを報告文に書かざるを得なくなってしまいました。
実際のカフェにおいては、議論の抽象度が高く、それによって発言しにくい状況があったにもかかわらず、その点に配慮できなかったことは、まさにファシリテーターとして不覚でした。
この点につき、充実感を得られなかった参加者の皆様には伏してお詫び申し上げます。
とはいえ、個人的にはものすごく楽しいひと時でした。
今日のテーマ自体まだまだ深められる必要があります。
引き続き、皆さんと一緒に考えてきたいと考えております。
またのご来場をお待ち申し上げます。

第18回てつがくカフェ@ふくしま開催の報告―「結婚?する?したい?しない?」―

2013年09月22日 06時54分19秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第18回てつがくカフェふくしまは、「結婚?する?しない?したい?」をテーマに昨日CafeDining agatoにて開催されました。
今回はオーナーの「はぐちゃん」のご協力で、agatoでの初開催となりましたが、とても素敵な空間で、これぞ哲学する〈カフェ〉といった感じです。
どうしてもAOZ(アオウゼ)の研修室では「お勉強してます」という感じになりますが、agatoはサイトウ洋食店と同様に大人の隠れ家(ではないのですが)的な雰囲気たっぷりです。
そんな素敵な空間に今回はテーマが「結婚」だったせいか、常連欠席の連絡が多い中、なんとこれまで最多に匹敵する24名の方々にお集まりいただきました。
うーん、やはりテーマって大事なんですね。

さて、その結婚についてですが、議論は白熱しました。
まず「パートナーの包容力でまっとうな人生を送れた」という意見を皮切りに、結婚の肯定的な面が語られるところから始まります。
破天荒な人間がパートナーの存在によって自分を受け止められるという経験が、かろうじて自分の存在が許されていることに結びつくことは理解できます。
それが「まっとうな人生を送れた」ということなのではないでしょうか。
このことを「人生の安定」という言葉で言い表した参加者もいますが、その方によれば「安定」が何を意味するかは多重的だといいます。
ある人にとってそれは波風の立たない平穏な人生=結婚を意味するかもしれませんし、逆にそれが退屈と感じる人にとっては波風が立つ人生=結婚であるかもしれません。
雨降って地かたまるという意味の「安定」もあるだろうとも言います。
ちなみに、その発言者は結婚生活を送りながら、40歳にして「これが私の人生なのだろうか?」と、ふと我に返り、現在離婚協議中とのこと。
結婚当初はこういうものかと、子育てに追われながらふと気づくと自分を見失っていた結婚生活とは何か問い直さずにはいられなかったと言います。
パートナーの存在があれば必ずしも安定するわけでもなく、自分の存在とどう折り合いをつけて結婚生活を送れるのか。
そもそもそれは両立しうるものなのか。

これについては事実婚を選択された方から、「相手と対等であること」を求めた結果、その選択に至ったとの意見が挙げられました。
そもそも、パートナーとの関係いおいて「お互いが愛し合っていればいよい」問題なのに、なぜ法律婚によって国家に認めてもらう必要があるのか。
とても潔いし、筆者自身もできればその選択をしたかったので、とても共感したものです。
そして、この選択に共感を寄せる人は、おそらく少なくないのではないでしょうか。
しかし、多くの人はその選択をしません。
なぜか。
それは「社会的な承認」という問題が立ちはだかります。

これはゲイやレズビアンカップルの法律婚を認めてほしいと要求する問題とつながるでしょう。
ある参加者によれば、ゲイ・レズビアンカップルが法律婚による承認を求めるのは、たしかに相続の問題もある一方で、社会的に認知してほしいという要求があるからではないかといいます。
そこには結婚していなければ迫害される歴史がありましたし、そもそもゲイやレズビアンが社会的なカップルとして存在することを排除されてきた歴史性と無関係ではありません。
その意味で法律的なパートナーシップの資格を得ることは、社会的にその存在を承認されることに等しいといえるでしょう

しかしこれは裏返せば、なぜ二人との関係性に社会的な承認が必要なのかという疑問が再び立ち現れます。
筆者自身は法律婚をしていますが、「偽装結婚」と称しています(こういうとパートナーはイヤな顔をしますが)。
それは、ある参加者が的確に述べたように、「世間の目」というもののためだけの選択を意味しています。
結婚していない男女が安穏と一緒に暮らせるほど、田舎の世間は甘くはありません。
カフェの議論でも意見が出されたように、田舎の事実婚への偏見は深刻であり、その差別的視線が子どもへ注がれることも当たり前です。
ある参加者が述べたとおり、「そんなストレスを子どもに与えるくらいならフツーに法律婚すればいいのに。子供がかわいそうだ」ということになるでしょう。
僕自身は、むしろ不当なのは、子供にそんなストレスや自己否定感を与える田舎の価値観の方であり、法律婚者の子だろうが事実婚者の子だろうが、その子自身が自尊心をもって生きられる社会を大人が積極的に構築しなければならないと思います(だいたいフツーって何だよ、という話です)。
が、にもかかわらず、残念ながら、その社会的圧力があることは認めざるを得ない自分もいるわけです。
パートナーシップには相手がいる以上、この圧力に自分一人が耐えていればよいというわけにもいきません。
自分の青臭い思想を貫いて、相手にフラれる覚悟があるほど硬派でもありません。
せめて二人の特異な関係性くらいは世間に放っておいてほしい。
そう思うがゆえに、法律婚を選択せざるを得ない「崩れ」事実婚主義者という意味での「偽装結婚」なのです。

かつて、アナーキストの石川三四郎は年齢の離れたパートナーである望月百合子との関係を、養女にして「娘」と世間に偽装していたことがありました。
いまでこそ「年の差カップル」などという流行語もありますが、当時はそれを世間が許さなかったことへのまさに「偽装結婚」だったわけです。
筆者自身を石川や望月に準えるつもりはありませんが、結婚にそれ以上の意味はないと思っていながら、しかし結果的にその選択が結婚制度を保守することに加担する後ろめたさが残るのも否定できません。
そんな選択を「もっと自由に生きればいいのに」と評されたこともありますが、地方(田舎)で生きるとは、そんな自己矛盾を演じ抜かねばならないということです。

そもそも、ある参加者によれば、結婚制度が「男の財産をどの子どもに相続させるかという目的」のためにつくられたものである以上、男尊女卑や封建的なイエ制度を内包してきた男中心の制度だという歴史性があることは否定できません。
それについて別の参加者から、現在の法律婚制度は中立的で差別的になってはいないのではないか、という反論も提起されました。
なるほど、女性の姓を名乗るのも民法上は認められています。
では、なぜ大半の女性が自分の名字を変更するのでしょうか。
そこにはあたかも「自己決定でしょ」といいながら、そう選択せざるを得ない社会構造が根深く残存する歴史性を考慮しないわけにはいかないでしょう。
それを女性の「自然な流れ」や「自己決定」と称するところに欺瞞が生じるのではないでしょうか。
これは夫婦別姓にすれば男女平等になる、といった議論ではありません。
議論の中でも、たとえば韓国の夫婦別姓制度は、彼の国独特のイエ制度を保持する目的があることが取り上げられました。
その点で、やはり結婚制度が封建的な歴史性を帯びたものであることを考慮して考える必要があるでしょう。

一方、こうした法律婚はやはり保守されなければならないという意見も提起されました。
この意見は過日最高裁判所で下された、婚外子の遺産相続に関する違憲判決(裁判長・竹崎博允長官)にふれながら、この判決が法律婚制度への挑戦であり、法的に保護された家族の利益に反するのではないか、とのことです。
この論点はカフェの中でもアツく議論されました。
これまで民法では、婚外子=非嫡出子の財産相続は嫡出子の半分とされてきました。
しかし、そこには事実婚/法律婚という親の選択の結果に対して、なぜ子どもが不利益を被らなければならないのか。
それは不当な差別であり、結果的に事実婚=婚外子を罰することになっているのではないかとの反論が提起されました。
それに対して、それでも法律婚によって自立した経済基盤を築いてきた家族にとっては、それを認められてはどこか正直者が馬鹿を見るような不利益を被るのではないかとの反論が出されます。
この最高裁判決は、一般に時代の変化とともに多様な家族形態を容認するものだと評されています。
すると、結果的には事実婚を容認することにもなるし、実はそれがこれまでの家族制度を揺るがすことへの不安も指摘されています。
ある参加者によれば、事実婚は「夫/妻の義務」を忌避して楽するための選択ではないかという意見も出されます。
すでにふれたとおり、法律婚すれば社会的偏見のストレスを受けずに済むわけだし、下手に変わった家族形態をとらなくてもよいではないか、という意見も挙げられます。
こうした法律婚肯定派の意見は、既存の家族制度の何かが変わることへの拒絶感があるように感じましたが、事実婚を肯定する意見も、すべての人が事実婚すべきだというのではなく、その形態をとりたい人にとって生きやすい社会の在り方を提起しているだけなのだ、ということです。
むしろ、法律婚を保守しようとする意義はどれだけあるのでしょうか。

これについては「子どもの養育責任の所在を明らかにするという点では法律婚の意義がある」との意見が挙げられました。
これは子育てと社会の観点からみると、とても興味深い意見です。
というのも、その発言者によれば「子どもをつくるのは自由で構わないけれど、その養育を放棄されては困る」という点で、やはり法律による確認は必要だからというわけです。
なるほど、ここには事実婚が横行すれば散種するだけ散種して、あとは無責任に養育放棄する男が続出するのではないかとの危惧が見て取れます。
すると別の参加者から、「そうであれば、むしろより一層社会全体が子育てを支えるシステムに進化していくのではないか」という興味深い意見が出されます。
両親が子の養育責任を担うという思想だけが強固に押し固められてきた日本社会にとって、この盲点を突く発想は意外と重要かもしれません。
そもそもその発言者自身が、現在はパートナーと別居状態でありながら、それぞれの親と同居し、二人の子供はそれぞれの家に分けているというユニークな家族形態をとっているそうです。
別居といっても、けっして夫婦仲が悪くなったわけではなく、ある時期に一定の距離をとりながらパートナーシップを生きることは、むしろ良好な関係性を保つ上で大切だとも言います。

実は結婚制度の是非を問う以上に、この「信頼できるパートナー」について参加者の関心の多くは集まったのですが、そこでは「互いに信頼感があって、腹を割って話せて、適度な距離が保てる相手」に出会えるのか、との点が話題に挙げられました。
ある参加者によれば、シングルでいながら結婚はしなくてもいいけれど、こうしたパートナーはほしいということです。
曰く、その根底にはこのまま独身でいることへの将来的な不安があるということですが、突き詰めていくと、そこでいうパートナーシップというのは同性の親友でもよいということになりそうです。
たしかに、子どもがいないがゆえに、老後の生活を一人で生き抜くことはシンドイことはあるでしょう。
ですが、これはそうした境遇にいる者同士が支えあうことで生き抜くことは可能です(筆者の友人たちは冗談半分ですが、一つの集合住宅に集まり老老介護をしようと目論んでいます)。
すると、いわゆる結婚という意味でのパートナーシップとは若干ずれが生じるのではないでしょうか。
それに対して、同性や友人関係とは異なるパートナーシップという点では、「セックスの独占」こそが結婚形態であるという面に注目しなければなりません。
セックスの有無が離婚訴訟に影響を与えることや、いわゆる不倫が損害賠償の対象になることは周知のとおりですが、すると社会的には結婚制度がセックスの独占を保護するという面があるわけです。
結婚制度を保守する立場は、この面を守ってほしいということなのでしょうか。
これで守られる利益とはなんでしょうか?
結婚を考えるうえでこの面は避けられないと思うのですが、筆者が問題提起した割には反応が薄く盛り上がりませんでした…

それはさておき、最後にアラサーの参加者から提起された「結婚で何が変わるのか?」との論点について。
結婚は、相手の親族が付加されるという点で、劇的に人間関係が変わるでしょう。
ある参加者によれば、自分の親とパートナーがどちらも良好な関係でいけるはずだろうと思っていたにもかかわらず、うまくいかないことが予定しない人生の選択(二世帯住宅など)になっていったといいます。
しかし、それが不幸なことかといえば、別の参加者によれば、結婚が親族やパートナーとの親密な関係において生じる困難を乗り越えることで、自分を成長させるかけがえのない出来事であるといいます。
さらに別の参加者によれば、自分とは異質な他者とぶつかる経験や出会いを保障する制度としては肯定できるのではないかといいます。
その参加者によれば、そもそも結婚は放縦な自分を束縛してくれるという面もあり、そこにおいてパートナーと格闘する不自由は決して不幸なことではないとさえ言います。
こうなってくると、自己束縛的な制度としての結婚が何か、自分を成長させるためのものとして肯定されているような意味合いがありそうです(とはいえ、この発言者自身は離婚を考えている人だったりするのですが)。

すると、にわかに「事実婚は家族役割を放棄するお気楽な選択だ」という意見が立ち上がってきます。
しかし、事実婚の選択が決してお気楽ではないことは、参加者の経験から明らかでしょう。
すでにふれたように、不必要な偏見を覚悟して生きることは相当な生きにくさを伴いますし、それが慣習的な家族役割を引き受けないお気楽さとは決して言えないでしょう。
問題は、その人にとって尊厳を保つ選択が、事実婚なのか法律婚なのかはそれぞれに尊重されてよい社会がつくられることではないでしょうか。
同性愛婚も同様です。
カフェの議論全体としては、それぞれ多様な家族形態のがあってよいとの意見に収斂していったように思われますが、それは異質な結婚観/家族観をもつ者同士が無関心にすみわけする相対主義的な社会ではなく、それぞれが尊重し合いながら共存できる多元的な社会が形成さることが大切なのではないでしょうか。
少なくとも若い世代が「偽装結婚」せずに、堂々と多様なライフスタイルに自尊心をもてる社会づくりをしていきたいものです。

2次会、3次会ではさらに過激な議論が展開されましたが、今回もまたユニークな参加者に恵まれたことに感謝いたします。

第17回てつがくカフェ@ふくしま報告―脳死は人の死か?―

2013年07月21日 12時49分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第17回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日アオウゼにて19名の参加者により開催されました。
今回は「脳死は人の死か?」というテーマで行われましたが、内容的にもかなり医学専門的な知識が必要とされましたので、まず冒頭で世話人の小野原から脳死-臓器移植に関する歴史や医学的、法律的情報について簡単な解説をさせていただきました。
これまでのてつがくカフェのテーマと比べても、やはり今回はかなり専門知識を前提にしないと議論がしにくかったため、おのずと小野原への質疑応答の時間も増えました。
とはいえ、議論は生死をめぐって活発に展開されました。

まずは、参加者の「何をもって死としてきたのだろう」という問いかけから始められます。
従来、死は心臓停止、瞳孔散大、自発呼吸停止によって医学的な判断でもって判定されてきました。
しかし、その医学的な基準ですら実はかなり主観的なものだったのではないかとの意見が出されます。
というのも、脳死の判定基準は国によってバラバラであり、国際的にも統一された基準がないからです。
したがって、ここいう「主観的」とは客観的な科学的基準というのではなく、社会的文化的な枠組みで決定される相対的なものではないかという意味においてのことでしょう。
日本では脳死判定の方法は厚生省基準(竹内基準)でもって行われますが、深昏睡、自発呼吸の停止、瞳孔散大、脳幹反射の消失、平坦脳波の確認後、6時間後に再検査することで不可逆的であるかどうかを調べますが、この「6時間」という時間も世界的に見ると日本が最短時間だということです。
もちろん、この「6時間」という基準も様々な症例をもとに医学的な決定がなされたのでしょうが、それが国ごとに異なるという意味においては、やはり「主観性」を免れないといえるかもしれません。

さらに、死を認定するという要素には、家族の感じ方も重要ではないかとの意見も出されました。
脳死は人工呼吸器をはずさない限り体温もあり、汗すらかき、見た目には死んでいないと感じるとも言われます。
そのような一見して死とは受け取れない脳死状態を、家族が割り切れるかという問題です。
すると、家族や身近な友人という立場によって死の認定は変わるということになります。
しかし、死に対する医学的判定以外にこうした文化的な要素を重視していくと、ミイラ化しても「その人は生きている」と家族が言い続ける限り死とは認められないのか、という問題が生じます。
この場合、通常は遺体遺棄罪で罰せられるでしょう。
脳死に関していえば、脳死状態で生まれてきた子どもを生命維持装置で心肺機能を維持していけば、身長も髪の毛も爪も伸び、身体的な成長がはっきり確認されますし、日本では実際にこうしたケースも存在します。
そうした成長が確認できれば、ますます死を受容することなど難しくなるのではないでしょうか。

ここには死の受容について家族の生に対する執着や感情の割り切れなさという問題が指摘されます。
なるほど、死を受容する理論は誰しも一応は持ちうるものです。
たとえば、輪廻転生や来世という宗教思想はそれに応えるものでしょう。
この死後の物語化を通じて私たちは死に対する不安を払拭しようとするものですが、そうはいっても目の前で家族がまさに死なんとする場において、その理論と感情との鬩ぎ合いが存在するというわけです。
この意見を発言された方によれば、肉体は滅びても精神は永遠になくならないというのは宗教思想として存在しており、その理屈から言えば、ミイラ化した身体をなお生きていると認めるのは、即身仏にも見られる考え方ではないかといいます。

これらの意見を踏まえれば、家族あるいは宗教的立場からみて死の到達点は様々であり、決定的な死の地点などないのかもしれません。
それに対して客観的なデータを下にして判定されていると考えられてきた医学的死においても、脳死という段階にあっては、実は国ごとに異なるということからしても、どうも脳死における死を決定することは困難ではないかという視点が浮き彫りにされました。

とはいえ、そもそも従来、死の判定はそれほど難しいものではなかったでしょう。
これほど死の基準が混乱し始めた背景には、飛躍的な医療技術の進歩があることは否めません。
すると、「人間は永久に死ねない存在になるのではないか」という不安も提起されました。
ips細胞の進歩は、ひょっとすると無限に人間のサイボーグ化を実現化し、永遠の生命を実現するかもしれない。
SF的な発想かもしれませんが、しかし現実は数十年前の夢を実現してしまっています。
この創造も夢想とは言い切れないでしょう。
すると、どこかで死はどこで決めるかというタイミングを、自分で決める必要のある時代が来るのではないか(あるいはすでに来ているのかもしれません)。
その意味でもやはり社会的な死の基準を確定する必要はあるのではないかという意見も出されます。
たとえば、過激な意見ですが、それは人間100歳になったら死とする基準を法的に定めるなどの例などが挙げられました。
ただし、そこにはすべての人が永遠の生命を手に入れられるわけではなく、富める人間は臓器交換が自由にできるかもしれないけれど、貧しいものには金銭的に不可能であるという点で、生命の長短に貧富の格差が生じる問題を指摘する声も上がります。
いずれにせよ、議論では脳死の話題から死の不確定性の時代に入ったことが共有されました。

このことは一方で人間として生きるとは何かが問われる必要があります。
ある参加者によれば「幸せに生きているかどうか」が、人の生死の区分としてありうるのではないかと言います。
これはQOL(Quality Of Life)、つまり生命(生活、人生)の質という概念と密接です。
脳死状態が人間として生きるに値すると言えるかどうか。
これは「脳だけ生きていれば人間として生きているといえるのか?」という問いを生じさせました。
脳だけ生きていればということは、すなわちその人の記憶であり意識が存在することを意味しますが、それはその人のアイデンティティが存在するということに他なりません。
すると、その脳が外部情報を受信し、自分の意思を発信することが可能であれば、脳以外の身体がなくともその人は生きているということができるのではないか。
実際、、筋萎縮性の難病患者がアイコンタクトで意思表示が可能な機器も存在します。
将来的には脳波をキャッチするだけでそれが可能になる時代が来ることもありうるでしょう。

いやそうはいっても、人間は心と身体を切り離して存在することはできないのではないかという意見も出されます。
精神にのみ人間の存在の在り処を求めることは、いわゆる西洋的な心身二言論ともいえますが、これに対して身体にその人の存在を与えるという文化は、日本特有の文化といえるかもしれません。
その点で、脳死者の臓器が他者へ移植されることで、家族は本人が被移植者の中で生きていると思えるという話は、このことと無関係ではないでしょう

あるいは、脳死だけをもって人の死と判定するのではなく、やはり死の判定基準には心臓死も含むべきだという意見も出されます。
もちろん、脳死者の生命維持装置を外せば自ずと心臓は停止することになるわけでしょう。
しかし、その意見のように心臓死を重視する背景には、実は心臓のように自律神経によって自発的に生命維持の機能を司るということは、まさに生命が生へ向かって生を欲すことをもって、生は存在するという思想があるように思われました。
いわば、意識を超えてその人を生に向かわせる意志のようなものが、生の根源として重要なのではないかというものです。
倫理学的にいえばシュヴァイツァーや、あるいはショーペンハウアーの意志論の文脈に属す意見でしょう。
すると、脳死は人の死だというのは、単に意識や記憶、アイデンティティが存在しなくなるからだというわけではなく、自発的な生命機能が失われるという点が重要であることが確認されます。
その点で、意識は回復する可能性がほとんどない植物状態の患者を死とは認めないのも理解できるでしょう(植物状態の患者は自発呼吸などの機能は失われません)。

とはいえ、いずれにせよ脳死が生命維持装置によって身体機能を維持しているという点では、「周囲に生かされている」ことになります。
言い換えれば、
それを死と受け入れられない家族にとっては、生命維持装置を外すということは、脳死者本人を死に至らしめる決定権を与えられていると錯覚してもおかしくはないでしょう。
中には、家族の死は家族で決めてあげたいという意見も上げられましたが、そのプレッシャーや罪悪感に耐えられるほどの人はどれだけいるのでしょうか。
すると、やはり死の定義は社会的に決められなければならないものだという意見が出されます。
容易に死を受容できない脳死者の遺族にとって区切りを受けさせられるものは、やはり社会的な死の判定であるということになります。
それは、たとえ医学的科学的であろうと、死とは常に社会学的なものではなかったかという意見も上げられました。
脳死の受容の仕方は既に見たとおり、立場や国によってさえも様々なものです。
そうであるからこそ、その判定は法律でつけられるべきだというわけです。
そもそも死は法律で判定されるものではなかったし、それは医師による判定に任されていたものですが、日本では「和田移植事件」以来の医療不信がこうした法的判定の必然性を招いたという話題にも触れられました。

今回のテーマは「脳死は人の死か?」というものでしたが、議論を振り返ってみると、死の判定と受容、あるいは人間的な生についての議論が大半を占めたように思われます。
脳死そのものが生まれた背景には、繰り返すように医療技術の進歩がありますが、これだけ死の判定が複雑になってしまったのは同時に、現代社会に生きる人々が「自然な死」を迎えられなくなっている事態を示しています。
その点で自然な死とは何か、果たしてありうるのか別の機会に話し合ってみたいと思いました。

さて、次回は8月24日(土)にサイトウ洋食店にて、初の試みである「哲学書deカフェ」を企画します。
これは哲学書を読みあうことで対話を試みるカフェです。
一冊の本を読んできて語り合う本deカフェは、既に5回開催していますが、それとは別にあえて本格的な哲学書をてつがくカフェで扱ってみようという実験的な試みです。
課題図書は、ルネ・デカルトの『省察』第1章・第2章です。
今回の脳死の問題とも関係する一冊ですし、哲学書とはいえ、わりと読みやすい文体ですし、相変わらず専門的な哲学議論を交わすことを目指すわけではないので、多くの方々にお気軽にご参加いただければ幸いです。

第16回てつがくカフェ報告―「〈ならぬことはならぬもの〉なのか」―

2013年04月14日 07時00分11秒 | 定例てつがくカフェ記録
第16回てつがくカフェ@ふくしまが昨日アオウゼで開催されました。
開始当初は疎らな人数だったものの、最終的には22名の方々にご参加いただきました。
テーマは「〈ならぬことはならぬもの〉なのか」です。
「ならぬことはなりません」とは、会津藩士子弟の教育に用いられた「什の掟」の中の一つの道徳命法です。
「ダメなものは理由なくダメなのだ」という、この問答無用の道徳命法はしばしば躾や教育に用いられるものですが、果たしてこの道徳命法の内実はどのようなものか、それを問うテーマとなりました。
ただし、この道徳命法については世話人・小野原からこの命法が特例を認めない「例外なくダメ」という普遍性の意味もあり、これが「理由なくダメ」という意味と同じなのか、異なるのかということも問いたいとの提起がありました。

さて議論は、まず子どもの躾や校則のように教育の場面でこの道徳命法を用いることはありだけれど、大人に対しては難しいとの意見が出されます。
というのも、実生活上では「ならぬことはならぬもの」を貫くと色々不都合な場面が生じるからだといいます。
たとえば、道交法の法定速度などは実際そのとおりに誰もが遵守すれば、逆に渋滞などの支障をきたすことは想像されるでしょう。
その意味で、別の意見からは「自分で判断できない段階の子どもに対してはこの道徳命法は必要だろう」との根拠が示されました。
なるほど、仮にある禁止事項があったとしても、ケースバイケースでその時々のルールの意味に適う行動が取れれば、この問答無用の命法は意味を成しません。
一台の車も通らない真夜中の赤信号交差点を渡らないのは、笑いのネタにしかならないでしょう。

ただし、この意見の発言者は実際の子育てにおいて、わりとものわかりのよい長男、長女に対してはこの道徳命法を用いたものの、悪童であった次男に対しては、むしろ自分の失敗から「ならぬこと」の意味を経験によって自ら理解させる方針に変えたとのエピソードが紹介されました。
ここには「ならぬことはならぬもの」の内実が、本当に自分自身で腑に落ちなければ意味がないものであり、それを経験によってつかんではじめて意味を成すという理論があるように思われます。
たしかに、そうでなければこの道徳命法は空疎なものに過ぎないでしょう。

こうした教育の場面における「ならぬこと~」の道徳命法については、さらに別の参加者から「先天的に〈ならぬこと〉などはない」のであって、むしろ学校教育で言えば、例外を認めない形で進めてきた教育のやり方が綻び出しているのではないかとの意見が出されます。
たとえば、制服や校則の遵守、あるいは護送船団方式的な進学指導などは、不登校などさまざまな負の現象として生じているのではないかとのことです。
なるほど社会的な規範としてこの例外を認めない命法が用いられる場合には、このような綻びが生じるというのはわかる気がします。

また「ならぬことはならぬもの」というのは大きな真理の枠組みとして存在し、「ならぬこと」の個別内容(たとえば「人を殺すべからず」や「物を盗むべからず」等)とは別個に存在するという意見が出されました。
その上で、この個別的な「ならぬこと」の内容は時代社会の移り変わりとともに変わっていく相対的なものではないかといいます。
これはおもしろい視点で、「ならぬことはならぬもの」という命法が普遍性を要求する一方で、個別具体的な命法は相対的であるというわけです。
たとえば、「什の掟」の中で現代も通用するのは2、3しかないのではないかという意見も出されました。
とりわけ「戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ」という掟は時代錯誤も甚だしく、これをまじめに現代で実践するとすればよほどの変わり者ということになるでしょう。

とはいえ、たとえば「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という命法は納得できるとしても、結局のところその根拠を説明するのは難しく、その場合にはこの道徳命法を用いらざるをえないという意見も出されます。
これに関しては、熱さを感じる力のない無痛無汗症の子どもに体験的に「熱い」ことを教えることの困難が示されました。
それゆえ「熱さ」を経験的に理解できない子どもに対しては、その危険を教えるためには「ならぬことはならぬ」の原理を用いざるを得ない悩ましさがあります。
際限のない無痛無汗症の子どもからの疑問に質問に対して、一つひとつ説明することの労力は想像を超えたものかもしれません。
したがって、小さな疑問に対する大きな口封じという意味で、この道徳命法は有効であると認めざるを得ないというわけです。
しかし、同時にこれは疑問に対する思考停止をもたらすものではないでしょうか。
これいついて、内容によっては人助けにもなるし、思考停止ももたらす命法として機能する、この命法の両義性を指摘する意見も挙げられました。
あるいは、これは「やれといわれたことは疑問の余地なくやれ」という上下関係構造下での命令にも転化されます。

ところで、無人島で独り生活する分にはこの道徳命法は不必要でしょう。
ところがいったん二人になったとたん、さまざまな決め事やルールが発生します。
すると、この命法は共同体を円滑に進めるための知恵という部分があるのではないか。
それについては議論するや説明する、考えるといった営みが共同体にとってストレスであり、それを減らす、あるいはなくすために用いられてきたという側面を指摘する意見も挙げられました。
しかし、その共同体運営の手段としての道徳命法は無思考をもたらす、つまり抵抗しない従順な臣民/市民の形成という問題とは切り離せません。

それについて「なぜこの道徳命法が会津に根付いたのか?」との問題提起に関連して、それは会津だけでなく封建的な幕藩体制下でどこでもありえた命法なのではないかとの意見が出されます。
それにしても、なぜ今日の会津で、この「什の掟」が再び脚光を浴びているのか。
これについては単に商品化されているに過ぎないとの答えが返されました。
そもそも、なぜこの命法が脚光を浴びるのかについては、会津の戊辰戦争での敗戦が関連しているのではないかとの意見も出されました。
かの戦争において会津は幕藩体制化の正義、つまり徳川家に忠義を尽くすという大儀を時局が変わろうとも貫いたがために、惨めな敗北者となりました。
この時代的で相対的な義を貫くことで会津藩は滅びてしまうわけですが、それではますますこの道徳命法が有効でないことを示してしまうのではないでしょうか。
正義は為されよ、たとえ世界が滅びるとも。
こんな言葉が思い起こされます。
しかし、そうであるがゆえに、会津の歴史的選択は道徳的効用を越えて悲劇的な「美しさ」を顕にさせます。
これが逆説的に悲劇という敗者の美学に結びつかせ、会津という地域の文化的固有性として観光産業にせよ教育分野にせよ、消費の対象としての商品として利用されているというわけです。

ところが、これは実はとても危ういことじゃないだろうか。
というのも「ならぬことはならぬもの」というのは、単なるトートロジー(同語反復)にすぎず、まったく無意味、無内容な言葉の羅列に過ぎないとの意見が出されます。
無内容な命法であるにもかかわらず、たとえば「人を殺すべからず」のような個別的な命法と混同してしまうと何か取り違えてしまうのではないか。
ひいては、道徳命法が美的なものや、それを利して教育的効果を狙うことに倒錯したものを導き出してしまうのではないか。
そんな危険性も浮き彫りにできます。
この問題はカフェの終盤で再度掘り下げられます。

こうした流れの中で、いったいどのようなときこの道徳命法を用いるのかという論点が移ります。
これには「それは説明が面倒臭いとき」、「説明がつかないけれど、なんとなく皆で共有できるものについて用いるのではないか」という意見が出されました。
これについて、ファストフード店で夜10時以降高校生が入店できない理由を店員に尋ねた際、「他のお客様に説明がつかないので」という皮肉な体験談を示してくださった参加者もいました。
しかし、この例などは典型的ですが、実は社会規範の根拠はなんとなくあるのだけれど、説明が面倒臭いあるいははっきりしないということは、それ以上揉め事を起こしたくないという事情も垣間見えてきます。
すると、これが行き着くところ、お上が決定した掟には問答無用で従えという、遵法精神を植えつけるためだけにこの道徳命法は存在しているのかもしれません。
ことに封建体制化ではその役割が果たしたこうかは大きいでしょう。
もっとも、藩士=戦士を育成するために生まれた命法ですから、その役割を担うものがいちいち上に疑問を抱いたりされては命令系統が成立しません。
問題は、こうした軍事組織や軍人養成における規範を、市民教育それに転用することの問題性は問われてしかるべきではないでしょうか。

それゆえ、「説明責任を回避するこの道徳命法を用いたときが教師として敗北だ」という発言は意味深いものであると感じました。
そもそも、いかなる道徳命法も「人類が歴史上綿々とつくりあげてきた結果なのであって、決して無内容ではない」、
むしろ「ならぬこと」など人によって異なるり、共有することが不可能だからこそ法律に文書化されるのだし、その明文化の過程において、その規範となる根拠が確認されなければならないはずだとの発言もありました。

また別の視点からは、「ならぬこと」の内容は文化的に決まっているのであり、それを理由など知らなくても盲目的に共有しているだけで、そこの人々は幸せなのではないかという意見も出されました。
白虎隊の悲劇は現時点では悲惨な結果を招いたといえるが、当時の人々にとっては割りと受け入れられるものだった。
その意味で言うと、「ならぬこと」を共有した「ふり」ができる人も幸せだということにもなるとのことです。
ただし、これに対してはその共同体に選択的に参加した人々にとってはそれはいいかもしれないけれど、炊いては人は自分の選択によって共同体を選べないのに、理由なく「ならぬこと」を強いられるという事態は納得いかないとの意見も出されました。

この段階で、どうも対人関係や伝達の仕方について議論がなされているけれど、そもそもこの道徳命法が善悪の内容として成り立つのかという議論が必要ではないかという問題提起がありました。
これについて、そもそも人間にやってはいけないことはないのだという過激な意見が出されます。
「ならぬことはならぬ、けれども犯してしまうのが人間」なのだから、それゆえにこの命法は自分の中のストッパーであり、その基準は他者基準でなければならないというわけです。
そこには「私たちは常に加害者なのだから」という事実が根本的に備わっており、それゆえにこの道徳命法は社会的規範というよりもむしろ、自分の中の行動指針として成り立つのだというのです。

しかし、人間には生まれながらにして「ならぬこと」など決まっているのだろうかという問いが、ある参加者の過激な体験談から深められていきます。
その参加者によれば、子育ての中で自分の子どもが他者を殺害したいとの相談をされたというものです。
毎日2時間かけて話し合う中で、しかしその参加者は殺害をとめることはできないのではないかという思考地点に立ったというのです。
これは積極的に殺人を肯定しているわけではありません。
むしろ、その方は自分の子どもに他者を殺害させたくないという強い思いで関わったといいます。
しかし究極のところ、本人が心底わかっていない状況で「ならぬことはならぬ」とといても無意味であることに気づいたというのです。
すると、他者を殺害して生じるその後の法外な負のエネルギーを背負い込もうとも、その後になぜ殺害がいけないのかわかるのであれば、その選択を否定できないというのです。
経験しなければ真理を知り経ないという点で、これは究極の経験主義とも言えます。
殺害される側の立場になってみれば、到底容認できない理屈でしょう。
なぜならば、ここには自分の子どもの「知る」という視点はあっても、それによって奪われる側の視点が欠如しているからです。
しかし、どこかこの意見には深く考えさせられることを会場全体が感じていたように思われます。
これは、先ほど自分のこことのストッパーとしての基準が「他者基準」とした意見に対して、「自分基準」であるといえます。
つまり単に世間で決まっているからとか、他者に思いを至らせて禁じるだけの命法ではなく、それが自分のこととして腑に落ちた上でこそ、「人を殺すべからず」という命法は成り立つのではないかというわけです。

カフェの終盤、論点はさらに「ならぬことはならぬもの」というのは、「例外なく」そうであるものにしか当てはまらないことが確認されます。
そうであるがゆえにこの命法は普遍性を得るわけですが、翻って「人を殺すべからず」という命法でも、たとえば死刑問題などを考えればわかるように「例外」を設けています。
つまり、実は例外のなさそうな道徳命法というものを一つひとつ調べていくと、けっきょく最後に残ったのは大枠の「ならぬことはならぬもの」という真理だけだったということになるのではないかという意見が提起されました。
たしかに、これ自体は普遍性を含んでいるけれども、その個別具体的な例を見ていくと例外のない命法などない。
それが「ならぬことはならぬもの」の空虚さという正体なのではないだろうか。
この言葉は真理ではあります。
しかし、空虚な真理です。
その空虚な真理に美しさや道徳的効用を付加しようとするとき、全体主義や戦争遂行といった無思考の暴力をもたらすのではないか。
そのような結論めいたものが引き出されました。

すると、そもそも「成らぬもの」は生物的法則など、自然法則であれば通用するものなのに、それを人間社会の道徳論に転用したがゆえに過ちが生じるのではないかという意見も出されました。
けっきょく、人間世界に問答無用の道徳命法などありえない。
ところがこれに対しては、人間と人間が関係すると必然的に対立や争いが生じてしまうものなのだから、むしろそうした状況下においてこそ「ならぬもの」は要請されるのではないかという反論も提起されました。
無内容かもしれないけれども、それを希求せずにはいられない、しかし現実の世界に応用したとたんまがい物になってしまうという意味では、プラトンのイデア論に似ているなと感じたものです。

今回の議論はわりと最終版に「ならぬことはならぬ」の内実が見えてきたように、個人的には思いましたが、何よりも今回はじめて参加していただいた高校生が最後に「学校の授業よりたのしかったです」といった一言が今回のカフェの成功を示しているように思われました。
ご参加いただいた皆様にはあらためて感謝申し上げます。
2周年を目前に控え、ますますこの空間を盛り上げていきたいという意欲が生まれました。
次回は5月18日(土)16:00~18:00 サイトウ洋食店にて本deてつがくカフェが開催されます。
多くの方々のご来場をお待ち申し上げます。

第15回てつがくカフェ報告・「躾と体罰はどう違うのか?」

2013年02月18日 10時34分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第15回てつがくカフェ@ふくしまが17名の参加者でアオウゼにて開催されました。
テーマは「躾と体罰はどう違うのか?」。
現在、大阪の高校で起きたいたましい事件をきっかけにスポーツ界や学校教育の場での体罰が問題化される中、このような悲劇を2度と引き起こさないためには場当たり的な対処ではなく、問題の根本的な解明が必要でしょう。
参加いただいた皆さまには、子育て経験や学校教育、企業教育など幅広くかつ具体的な話を挙げていただきながら問題を掘り下げていきました。

 

まず議論は「躾と体罰は同じか否か?」という論点から始まりました。
基本的に躾と体罰は同じものだという意見では、それが必要かどうかの判断基準こそが重要ではないかという点が提起されます。
そもそも対話が成り立つものに対しては言葉による説得や教育は可能かもしれないけれど、それで通じない幼子に対しては身体的苦痛でわからせることも必要ではないかとのことです。
少なくとも小学生くらいまではこうした身体的に罰を与えることでわからせる必要があるとの意見には、子育てを経験された参加者にわりと肯定的に受け入れられたように思われます。

それに対し、躾と体罰は異なるとの意見からは、その異同が「愛情」の有無によって区別されるとの意見が出されました。
愛情とはすなわち、相手のためを思う情念のことです。
したがって、躾が相手を思う愛情に基づくのに対し、体罰は単に親や指導者の個人的な怒りをぶつける私的な行為だということになります。
それは叱る」が相手のために為される行為であるのに対して、「怒る」が個人的な感情の発露であることに対応するとのアナロジーで説明する意見も出されました。
さらに前者が理性的な行為であるのに対し、後者が感情的な行為であるとの意見も出されます。

とはいえ、必死に子育てをする中ではなかなか理性的にふるまえないという親としての告白も吐露されました。
その中で思わず親として感情をぶつけ、手が出てしまったとき、それは体罰といわざるを得なかっただろうといいます。
興味深かったのは、親として体罰だったという認識(記憶)と、それをなされた子供の側の認識とのズレです。
ある参加者は子どもの悪さに対して思わず感情的に外へ追い出したのは体罰だったと認識していたのに対し、子どもの側にはそんな記憶はなく、むしろ押入れに閉じ込められたときが体罰だと思ったというエピソードが出されました。
この親子の体罰の認識に対するズレは、決定的に重要であるように思われます。

というのも、議論の中では同じ暴力的行為であっても、体罰を振るった側と振るわれた側の関係性によってその評価が異なるという意見が肯定的に受け入れられていったからです。
つまり、親-子や教師-生徒などの関係に信頼関係が成立していれば、同じ「殴る」という行為であっても体罰にはならないという論理です。
その意味で言うと、「体罰は躾の一手段として位置づけられる」という意見も論理的には成り立ち、「いくら周囲から見て異常な体罰的行為であっても、その行為は関係性を壊さない限り肯定される」ということになります。

とはいえ、躾=善であり体罰=悪であるという評価は暗に共有されているのではないかとの指摘もなされました。
そこから議論は体罰の否定的評価の内実に迫っていきます。
まず、体罰については身体的暴力に加え、精神的暴力も含まれることがカフェの場では共有されました。
その上で、なぜ体罰がくり返されるのかその背景について吟味されます。
いわく、成果主義などのように指導者が結果を求められる場合や、指導者自身のプレイヤーとして体罰を受けてきた成功体験がそのまま指導方法として肯定され続けている背景、軍隊や体育会系の世界でふるわれる理不尽さに郷愁をもつ文化が根深いこと、それが企業研修においても反映されることなどが挙げられました。
なるほど、スポーツ界において体罰を肯定する論理の一つには「プレイヤーを発奮させる」という理屈があります。
こうした気合と根性でもって成功を得るという意見については、高校生の参加者からも理解できるとの意見も出されました。

しかしながら、その一方でこうした相手を否定するような「負の力」で成長を促そうとする日本の教育風土にうんざりするとの意見も出されます。
さらに、その風土は学校において教師生-生徒という関係だけではなく、同輩である生徒-生徒同士でも否定し合いながら発奮させる文化が醸成されているのではないかとの指摘も出されました。
これは「いじめ」という問題にもつながる指摘だと思います。
昨今のプロスポーツの世界では精神論よりももっと合理的な方法論で成功していく例が増えているのだから、学校教育でももっと理論的な指導方法によってなされるべきだとの厳しい意見も挙げられました。
それはコーチングなど暴力を伴わないメンタル面での方法が広がっていることにも通じます。
そこにおいては指導者とプレイヤーとの関係は、支配・服従関係ではなく同じ目的を目指すパートナーとしての関係であるといえるでしょう。

ところで、これらの意見からは非合理で理不尽な力によって成長させる教育論と、合理的な方法で成長を促す教育論の相克が窺えます。
しかし、前者の教育論がしばしばパワハラや暴行として問題化することについては、なお考えなければなりません。
これについて、そもそもスポーツ競技においてはミスはあっても、罪を犯すわけではないのだから体罰という理屈自体無効のはずだとの意見が出されました。
たしかに「体罰」という以上、それは罪に対応した罰という意味が含まれていますが、スポーツにおいて罰とはルール違反以上のものではありえないでしょうし、それはルール内でペナルティが下されるもので、指導者の権利ではありません。

あるいは子育ての場面で、子どもが罰するほどの罪を犯すものだろうかとの問いも挙げられます。
では、子どもはそれに値する罪を犯すものなのでしょうか。
そこには子どもがその行為のよしあしを判断できているのかどうかという視点も必要になってきます。
というのも、罪と罰という以上、それは予めルールが共有されているものに対して為されるものであって、それを知らない子どもに対しては罰を与えるという概念は当てはまらないだろうということになるからです。
ただし、これについては子どもが社会のルールをわかっていないがゆえに罰で知らしめるという理屈も成り立つものです。
その意味で、生活指導において罰の必要性はあるかもしれないとの意見も出されました。
どうもそこには罰によって理解させるという意味が含まれているようですが、そもそも罰という概念自体は損なわれた秩序を回復させるという意味があるはずです。
すると、そこには何かズレがあるのではないでしょうか。

次第に論点は、暴力を伴わない躾は可能なのかという方へシフトしました。
ある参加者によれば、身体的接触のある罰は家庭では認めても学校では認められない、学校では極力言葉に信頼をもってしどうしてほしいとのことです。
これに対して、教師1人-生徒30人という状況にそれがどこまで可能か、むしろ学校教育には授業以外に道徳教育や部活指導など過重な要求があるのに、すべて言葉や対話で対処できるのだろうかとの疑問が出されました。
むしろ、家庭でこそ対話が必要だとの意見も出されます。
興味深かったのは、自分の子どもであれば殴ってしつけることは受け入れられても、他人である教師にわが子を殴られたくないとの意見です。
では、他人であれば許しがたい暴行としての体罰が、なぜ自分の子どもに対しては許容できるのでしょうか?
ここには親子関係の方が教師-生徒、指導者-プレイヤー関係よりも厚い信頼関係が前提にされているのかもしれません。
しかし、実はその前提にこそ躾と体罰、あるいは暴力/非暴力による教育の矛盾を解く鍵があるように思われます。

体罰をくり返す教師にしても、その子が憎くてそうするというよりも、その子を伸ばそうとの目的で働きかけるものなのではないでしょうか(もしこの目的がタテマエでもなければ、ただの虐待になります)。
むしろ、その目的が共有されるがゆえに、体罰という手段がその集団で許容され続けるという力学が働くものでしょう。
この子どもを伸ばすという目的の点では親も教師(指導者)も一致するわけです。
すると、そこには親の愛情であったとしても、その子のためを思ってなす行為である以上、暴行としての躾の可能性はありうるわけです。
むしろ、既に述べた躾の行為者と受け手とのズレにおいて、そうした事態が生じることは確認済みです。
それが、なぜ家庭の躾においては許容できるのか?
実は、信頼関係さえ成り立てば体罰にはならないという理屈は、この事象を関係概念で捉えるものですが、しかしその場合には、同じ行為でも関係性によって評価が異なるという問題が生じます。
しかし、関係概念で体罰の有無を捉えようとすれば、体罰を躾なのだする側の思い込みによって暴行が為されることを許容する可能性は否定できないのではないでしょうか。
中には目的(理由)でその暴力的行為が許容されるのだとすれば、戦争の暴力も肯定されかねないという意見も出されました。

その一方で、「いかなる目的があろうとも肉体的・精神的苦痛を伴う体罰は認められない」との意見も出されましたが、では、その行為のみにて体罰を禁ずることは可能かといえば、ある教員経験者から荒れる教室の秩序を保とうとする中で、一律的に体罰を文言によって禁じられる困難も吐露されました。
むしろ、一律に体罰を具体的な行為で定義づけることは、教師の側に萎縮をもたらしてしまうのではないかとの意見も出されます。

こうした体罰の定義をめぐっては関係概念で捉えるべきか行為概念で捉えるべきかで、その結果がまったく異なることに気づかされます。
問題は果たして、非暴力の躾は可能かという問題です。
これについては興味深い体験談を披露していただいた参加者がいます。
彼によれば、幼い頃に無自覚に悪事を為した際、それまで一度も手を挙げたことのない父親が泣きながら何度も殴り諭したことで、自分の犯した罪の重さを理解できたといいます。
これは関係性や行為の問題ではなく、その人の思いを伝える最終手段が暴力であるとしたら、これは肯定されるべきなのかという非常に深い問いが孕んでいます。
倫理的には誤っているが教育的に正しいということなのでしょうか?
しかし、それを言ってしまえばたいていの体罰は肯定されます。
果たして非暴力の教育は可能なのか?
いつものごとく開かれた2次会、3次会でもこの話題に対する議論は尽きず、「果たしてお父さんは殴らずに伝えることはできなかったのか?」、「普段殴らない人が殴ったから伝えられたのか?」など喧々諤々夜が更けていきました。

             

ところで、今回の議論は個人的に職業上の問題としても、かなり考え込まされるものでした。
その点でいくつか個人的に考えさせられたことを最後に書かせていただきます。

そもそも暴力の概念は歴史的社会的に変遷するものでしょう。
その点で、かつて暴力とは考えられてこなかった行為も、現在の文脈では暴力であると認定されることもありえるわけです。
かつて家庭内の暴力は躾の名の下に不問にされてきたわけですが、DVのような親密な関係性での暴力の凄まじさがここ20年程のあいだに明らかにされてきたケースは、その典型例です(セクハラやパワハラも同様でしょう)。
この問題の深刻さというのは、「これは暴力である」と認定されないあいだは、暴力を受けている側もまた自覚しにくいことが常態であるという点です。
こうした加害者側も被害者がも暴力性の自覚がない状態を、実は「信頼関係が成り立っている」と見なしてきたのではないでしょうか。
すると多数派にとっては容認できる体罰も、それで苦しむ少数派を自己責任の名の下に排除してしまうことにつながりかねないでしょう。
ここはスポーツ指導者の立場であれば、なかなか悩ましい点であることは理解できます。
体罰を用いずとも、厳しい練習についてこれずにプレイヤーがやめていくケースがあることは少なくありませんから。
この点につき議論の中では、「たとえ一人でも脱落者を出した時点で指導(教育)者としては方法を失敗したのだ」という厳しい意見も出されました。
これは生涯スポーツとして指導するのか、勝利のために指導するのかという目的によっても、その評価は変わるでしょう。

一方、行為論のように特定の行為を定義づけてしまえば済むかといえば、それもなかなか難しいことは既に上の議論で指摘されました。
いわゆる教師を「事なかれ」にさせてしまわないかという問題です。
けれど、そこには教師としての厳しさには身体的に暴力を加えることで担保されるという論理を肯定するのかという問題を考えねばなりません。
議論の中では、それをあくまで言葉の力で伝えてほしいとの願いも提起されましたが、やはり最小限度の体罰は最終手段として認めざるを得ないという意見が歯切れ悪くも多数派として受け入れられていたように感じました。
言い換えれば、それはコミュニケーションの最終手段としての暴力は存在するという理屈を含み込むものでしょう。
とりわけ、わが子に対して体罰をしてしまったと告白された方々からは、理性では伝わりきれない思いをそれによって伝えざるを得なかったとの声を聴かせていただきました。
すると、やはり言葉だけでは伝わりきれないコミュニケーション手段としての暴力は、積極的に肯定はできないけれど、最終手段としては認めざるを得ないということでしょうか。
僕は単純に他人に殴られたくはないし、殴られて成長したという実感もないので、その立場に与しかねますが、しかし相手に暴力を振るわれた際に、そこまで相手を追い込んでしまったと反省させられた経験はあります。
その意味で言うと、暴力的手段ではっと気づかされることはありうるだろうなとは思うわけです。
しかし、ありうるだろうなとは思いつつ、だからといってその手段を積極的に容認することしかねます。
むしろ、そうではない方法で相手を気づかせることはできないのか、そうした一見不可能だと思われることへの可能性を探求してみたいなと思うわけです。
その点で、非暴力の教育は可能かという小野原さんの問題提起は、ものすごく惹きつけられますし、そこに至るに非暴力文化への根本的転換の可能性の探求と努力をあきらめたくはないなと思っているところです(実践的に矛盾している可能性は別として)。

長くなってしまいましたが、次回は3月10日(日)に、あの大震災・原発事故をめぐっての特別編が同じくアオウゼで開催されます。
ぜひ、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

第14回カフェ報告

2012年11月26日 07時47分11秒 | 定例てつがくカフェ記録
 



第14回てつがくカフェ@ふくしまはA・O・Z(アオウゼ)の大活動室4にて、17名にご参加いただいて開催されました。
ここは中学校の技術室のような空間で、いつもと雰囲気の異なる空間です。
テーマは「わたしの身体はわたしのものか?」。
わりと身近で具体的な話題にもなるかと思いましたが、抽象的な議論が中心に展開されていきました。

まず「自分の身体は自分のものか」という点について、自分のものではない気がするという意見が出されます。
そのことを自分を越えた何ものかからの「預かりもの」、「借りもの」と表現された参加者がいました。
「自分を超えたもの」とは、宗教的に言えば「神」と言い切れるかもしれませんが、そう言い切ってしまっていいのか。
そんな逡巡を交えながら、自分を超えた存在から借りたものであり、それを用いて自己を表現する、いわば楽器のようなものが身体ではないかというわけです。
あるいは「自然」と言い換える考え方も示されましたが、いずれにせよそのような自己超越的な存在を想定して議論を進めるべきかどうか歯切れの悪いまま議論は進行します
それについては、スピリチュアルな観点から、わたしの身体は生まれる以前にわたし自身が選んだものであるという意見も出されました。
この二つの意見には「わたしの身体はわたしのものだけれど、同時に全体のものである」という理屈が含まれています。
これらの意見のように、いきなり身体論が超越的な存在との関係で論じられるとは予想外でした。

しかし、こうした意見に対しては「恵まれたものの論理」ではないかという意見が出されました。
世の中には、生まれながらにして苦痛を抑えることのできない難病を負って生まれてくる人々が無数に存在します。
あるいは紛争に巻き込まれて、身体を損傷する人々も無数に存在します。
そのような人たちに向かって、「神からの預かりもの」や「わたしが選んだもの」という論理は果たして通用するのか。
厳しくも考えさせられる意見です。

一方、やはり自分の身体は自分のものであるという意見も出されます。
病気になったり生命を脅かされないために、自分で自分の身体のケアに努めるのはやはり自分です。
それが自分のものでなかったとしたら、ではいったいこの身体は誰のものなのか?
たしかに、この身体を他人に勝手に侵されたのではたまったものではありません。
その意味でわたしの身体は不可侵のものです。
そのことを人権や権利という概念と関係しているのではないかという意見も出されました。
では、果たして、この理屈によって、自分のあらゆる身体を自由に処理できることは可能なのでしょうか

これについては、「自分の生命に危険を及ぼさない限り認められる」という意見が出されました。
なるほど、生体肝移植や骨髄移植は生命に影響はない上で合法的に認められています。
とはいえ、それらには体調が不調になる恐れや身体的苦痛を伴うでしょう。
いくら我が子のためとはいえ、それらの理由で移植を拒むケースは当然ありえます。
すると、けっきょくその選択を分ける基準は、その人の価値観によるということになるのでしょうか。

てつがくカフェでは議論に行き詰まると、「最終的にはその人の価値観である」という点に帰着するケースがしばしば見受けられます。
今回もまた、ピアスや刺青などの身体加工についても、自分の生命に危機を及ぼしたり他人に迷惑をかけない限り、その人の身体をどう処分するかは、その人の価値観であるという意見が出されました。
いわゆる自由主義に立つ正当な考え方でしょう。
しかし、けっきょくその基準は相対的ですし、いわゆる許容される基準を決めるといった「線引き」論は法律論としては通用しても、根本的な問いに向かい合う哲学的思考にはふさわしくないように思われます。
「状況や目的によってその許容基準は異なる」という答えも同様でしょう。
会場からは、まさにそのような無限後退的な思考法の限界を指摘する意見も出されました。
たとえば、議論の中ではどこまで身体を切り刻んでいけば「わたし」ではなくなるのかという問いも投げかけられましたが、その結論が無限後退していくだけで根本的な解明に向かわないのではないかという疑問です。
「どこからどこまで」がという、ある種、空間的な幅で問おうとする方法の適用の仕方の誤りといえばよいでしょうか。

では、どのように問うべきなのか。
これに対して、あらためて「そもそもなぜ生命が大事だといえるのか? 自殺はなぜいけないのか?」という問いが投げかけられます。
身体は生命そのものを保つために必要なものならば、生命そのものを失わせるのでは身体にとって本末転倒ということになります。
しかし、なぜ生命そのものが優先される価値を持つのか、そのことを考えてみたいという問いです。

また、「わたしのものである」とは、いかなる権利をもってそういえるのか、そのことを考えるためには「所有とは何か?」について考える必要があるだろうとの問いも投げかけられます。
そもそも「わたしの身体はわたしのものである」という命題は、この「所有」という制度を前提にして成り立つ問いであって、「所有」そのものの観念がなければそのような問いは成立しないのではないか、というわけです。
なるほど、「所有」は近代社会の勃興とともに整備されてきた概念です。
先述の身体に対する権利や人権が関係するのではないかとの意見も、こうした所有権という制度の成立と不可分であるともいえそうです。
では、所有の対象とは何かといえば、たとえばそれは働いて稼いだおカネで入手できるものとか、自分の努力の成果として正当に獲得しうるものを指すのではないでしょうか。
さらに、自分のものにするということは自分の支配権が及ぶものとなり、その点でコントロール可能なものが所有物ということになります。

しかし、なぜかそれら「所有」の理屈が身体に関してはしっくりきません。
そもそも生まれながらの自分の身体は親につくられた(与えられた)ものであって、自分で選んで獲得したものとはいえないでしょう(スピリチュアルな意見ではそうではないのですが)。
だからといって、自分の身体は自分以外のものだという理屈もしっくりこないでしょう。
健康管理の主体はあくまで自分の責任においてなされるものだ、という意見はそのことを言い当てています。
ところが、その当の発言者もまた、その直後に「高熱に浮かされているときは、まるで自分の身体ではない感じがしますが…」と身体が自分のコントロールの利かない事態があることも指摘していました。
たしかに、内臓などは自分の意志でコントロールできるものではありません。
その意味で、内臓などは自分の内なる他者、外部と言いうるかもしれません(はじめて胃カメラを飲み込んで自分の胃袋を見たときの衝撃!)。
にもかかわらず、わたしの生命維持にとっては必要不可欠ものです。
それを自由処分しうるのは、いかなる根拠があってのことなのでしょう。
その疑問については、そもそも所有というのは自分の外部にあるものを対象とする概念であるのに対し、身体論の場合は自分の内部に向かって用いようとすることに、その問いの難しさがあるという指摘が挙げられました。

校則を例に身体を加工の問題を考えれば、自分の身体は自分のものなのだから、ピアスだろうが茶髪だろうが自由でいいじゃないかといいたくなる一方、しかし何かしっくりしない答えの気持ち悪さが、しばしカフェの時間に漂います。
ある参加者によれば、教員などやってしまうと、生徒に示しがつかないなどの理由から茶髪はおろかピアスすら断念せざるを得ないという声さえ出されました。
公務員のタトゥーが解雇問題につながるような時代です。
こうなってしまうと、「わたしの身体は世間のものである」とも言いたくなるでしょう。
たしかに、身体が社会的側面をもつことは否定しようがありませんが、だからといってそう割り切る論理が支配的な社会になるのも、ずいぶんと息苦しくはないでしょうか・・・・・・。



そのことを身体は「アイデンティティ」とつながっていると表現する意見も出されました。
あるいは「自己表現」の手段や媒体との意見も同様でしょう。
とはいえ、これは必ずしもアイデンティティの手段や道具と位置づけることを割り切れないようです。
それはまさしく「所有」という概念ではなく、暫定的でも「所属」という言葉の方が言い当てているように思われるとの意見が出されました。
「所有」が身体を手段としてみなしているのに対し、「所属」とは自分のアイデンティティと一体不可分であること言い表しているように理解できるのではないか、というわけです。
あるいは、その言葉の意味を先述の「神」や「自然」からの預かりものという考え方に即して言えば、自分を超えた存在に属すものという見方にもつながるかもしれません。
ともかく、身体について自分の内部に向かって捉えようとする限り、所有概念ではつかめ切れない事だけは浮かび上がってきました。

この問題は、ふつう「心身二元論」と言われる身体に対する見方に対しても、異なる視角が提示できそうです。
つまり、心身は分かれず、その人の存在そのものである、と。
いや、それでも身体は精神を根拠とする「わたし」=自己が入り込む「箱」や「器」ではないかという意見も出され、心身二元論から離れて考えることの難しさを示しています。
終盤、この問題を考えるためには、やはり「わたし」とは何か突き詰めないところでは答えが出ないのではないかという問題提起が為されましたが、残念ながらそれは次回以降のテーマへ譲ることになりました。

さて、今回の議論は、どんどん遡行的に問いが根源へ向かっていき、そこへ向かえば向かうほど抽象的な議論となってしまい、なかなか対話に参入しにくい難しさがあったかもしれません。
時として対話が途絶え、「あれいま何議論してるんだっけ?」という瞬間も多々ありました。
そういう沈黙のストップモーションは、実はファシリテータにとって、とっても重苦しい瞬間であるのですが、しかし今回のカフェは訥々とでも、すごく哲学的な、つまり遡行的な思考へ登りつめていく感触がありました。
その理由を今考えると、今回ほど問題状況をどの言葉で言い当てればよいのかはっきりしない、ものすごく気持ち悪い感覚が参加者の皆さんに共有できていたからではないかと思います。
その意味で、今回のカフェでの議論は、いつも以上に言語の限界を突き抜けようと足掻く参加者の皆さんの姿が見受けられたようの思われます。
ひょっとすると、自分の身体を言葉でつかもうとするのは、言葉の限界を突き抜けている事態なのかもしれません。自分の生の顔を一生見ることができないのと同じように。

このような時間をさらに皆さんと深めながら共有していきたいと思います。
ご参加いただいた皆様、また次回以降もお会いできることを楽しみにしています。
そして、少しでもこのてつがくカフェ@ふくしまにご関心をお持ちの皆さま、まったく自由に誰でもこの場は開かれています。
多様な人が集まれば集まるほど、この空間はおもしろさを増します。
多くの方々にお越しいただけることを、心よりお待ち申し上げます。

第13回カフェ報告

2012年09月30日 16時56分42秒 | 定例てつがくカフェ記録
    

第13回てつがくカフェ@ふくしまは「おカネは大切か?」をテーマに、ホテル辰巳屋8階琥珀の間で開催されました。
すばらしい眺望の琥珀の間を、今回のテーマにふさわしくおカネをかけて借り切ってしまいました。
その優雅な空間に、今回は15名の方々にご参加いただきました。

さて、今回はフレンチレストランのシェフからランチの値のつけ方の難しさから始まりました。
それは、すなわち客と飲食店側との価値観の一致の難しさです。
価格自体は明確な数値で示される一方で、実は客-店の価値観が一致しなければそれは意味を成しません。
しかし、その商品に対する価値観自体は気分によって変わってきます。
どんな金持ちでも無駄遣いはしたくない一方で、旅先ではカネに糸目をつけずに豪遊したがるものです。
気分によってはその価値観も変動する、それが価格設定の難しさということでしょう。

このように異質な価値観を一致させ、交換可能にするものこそがカネに他なりません。
では、それが大切かどうかといえば、資本主義社会に生きる以上、それがないと精神的にすさんだり病んでしまうという意味では大切という他ないでしょう。
貧すれば鈍すともいいます。
しかし、一方でカネによって失われてはならないものもあるのではないか。
そのことをマイケル・サンデルの議論を引用しながら「お金で買えないものはあるか?」との問いが立てられました。
たとえば、ボランティアに報酬を加えることの是非などがそれにあたるでしょう。
利他行為や善意にカネが入り込むという意味では、その価値を壊すのではないか。
そうした道徳的な価値にカネが介入することで失われるという懸念は、すでに300~400年まえの経済学者らが懸念していたことであるとの意見も出されました。

道徳的な価値とは若干異なりますが、町内の草刈作業が5000円を支払えば免除される例を挙げた参加者もいました。
たしかに、忙しいとされる現代社会では、かつて住民が協同で行っていた草刈などの作業も職業によっては参加が困難になってきています。
その不参加の負い目をカネで払拭できるというわけです。
別の参加者からは、そこには不参加のペナルティという面もあるといいます。
その一方で、カネでは換えられない目に見えない協同作業の意味が失われるという反対の声もあるといいますが、
しかし時代の変化とともに、少しずつ便利さや効率が優先される功利主義に社会は進んでいくのではないかとのことです。
すると、草刈の免除金は住民による共同作業の非効率性を理由に、外部サービスの委託という方向に進んでいくでしょう。
このことはたしかに便利で効率的かもしれません。
誰しも、かつて村の共同作業で川から水を汲んできた時代社会に戻りたいとは思わないでしょう。

それに対して、託児所に子供を預ける時間の超過料金制度を導入した結果、それまで子供を預かってもらえることに感謝する態度であった保護者が、カネを払えば済むのだということで感謝の気持ちもなくなってしまった例を挙げる参加者がいました。
そこには「カネを出せばそれで済む」という感覚への違和感が示されています。
そのことを自動車事故を例に、保険でカネが下りても謝罪がなければ解決に至らないケースがあることも示されました。
その一方で、介護の問題など、それまで家庭の中の女性がただ女性というだけで当然に請け負わなければならなかった労苦から、介護保険やサービスの進展は女性を解放したという面もあるとの意見も出されます。
そこには親は実の子供(特に女性)あるいは嫁が世話をしなければならないという、ジェンダーバイアスの価値観をカネが切り崩したという面があることを否定できないでしょう。
しかし、こうした意見に対しても、たとえば学校の清掃活動に外部サービスに委託した方が楽だけれど、あえてそこにカネには換えられない教育的価値があるという主張がなされます。
果たして、カネによって壊されてよい価値と壊されてはいけない価値があるというになるでしょうか。

また、草刈免除においてカネのやり取りが不自然であるのは、そこに市場がないからだろうとの意見も出されます。
つまりそれがなぜ5000円なのか、その相場はどうやって決められるのかといえば、それはまさに市場の原理があって始めて形成されるからでしょう。
それに対して草刈という共同作業は、儲けを出すための営みではありませんから、そもそも市場など存在しようがありません。
それこそ社会の常識によって決められるものなのかもしれません。

とはいえ、原発被災の損害賠償のように、未曾有の事故を後にしてはそもそもカネによっては解決されない物事も含んでいます。
カネによって失った故郷は取り戻せませんし、分断された人間関係も取り戻せません。
では、謝罪すればそれで済むかといえば、それで解決するはずもありません。
だから補償はカネでしかできないのではないかという意見も出されます。
それに対しては、カネによる損害賠償は紛争解決のための一つの擬制(フィクション)に過ぎないのであって、それですべてが解決するはずもないけれど、さしあたりそれで一応の解決を図ることを社会的合意がなされたものだとの意見も出されます。
資本主義社会で生きる以上は、やはり生活のためにカネは必要になるわけですから。

そうはいってもカネは精神を豊かにするものでしょうか。
たしかに消費それ自体が快楽だという意見も出されましたし、カフェの冒頭ではカネがない生活は精神もすさむという発言がありました。
一方で、多額の補償金が人をギャンブルや薬物に走らせるだけであるという事例も挙げられます。
このことについて、自分から出すものなしにカネだけが入ってくるという事態が人を自立から遠ざけると発言した参加者もいます。
つまり労働対価がないカネは、社会のために働く意味や自己実現のような本当の欲求を満たさないままに与えられたカネであって、その意味でカネと精神は結びついているということになりそうです。

そのことは現代のカジノ資本主義のグローバリズムとも関係しそうです。
ワンクリックで何億円ものカネを移動させることは、この労働対価のないカネではないでしょうか。
これについて、マネーロンダリングというまさに不労所得によってカネがカネが生み出すシステムをこのまま維持増強させてよいのかという問いも投げかけられました。
この問いに対して「おカネは悪い!」という立場の参加者から、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引き合いに「白いカネ」と「黒いカネ」の例が出されます。
「白いカネ」とは、いわば実体経済で動く裏づけのあるカネのことであり、「黒いカネ」とはカジノで動くようないわば裏づけのないカネのことです。
後者はまさに世界を通貨危機にまで陥らせるようなカネであることがわかります。
これによって一気に何十~百億円という巨額を得る人々がいることは理解できますが、わからないのはそれだけのカネをどうしたいのかという点です。
おそらくそれはカネがカネを生み出すことにしか関心がなく、カネそれ自体が自己目的化してしまったような人々なのでしょう。

また、別の参加者から提起された「金儲けをするのはよくないことなのか?」という問いに対して、「必要のないカネはないけれど、楽して金儲けする必要はない」という答えも示されました。
というのも、たしかにカネがすべてという風潮がある一方で、カネは必要な文だけあればよく、金儲け以外の生き方を追及する若者も増えつつあるような気がするとの意見も出されます。
とりわけ東日本大震災以降、ボランティア活動に取り組む若者やあえて離島や無医村で仕事に就こうとする若者たちの増加は、「おカネは大切である」という価値観とは別の論理があるようです。
そのことは参加した大学生からも必要以上にカネを必要とは思わないとの意見も出されました。
これは日本社会が一定の物質的豊かさを達成したことと、人間の欲望との関係を示しているのかもしれません。
「人間の欲望には限りない」とはよくいわれたことですが、その一方で、これまでの欲望の種類がカネに関するものにしか限定されてこなかったこと自体が限界に来ているのかもしれません。
「人間の欲望には限りない」というのは、欲望の種類がもっと多様であることを示しているのではないかと思うわけです。

それは草刈免除で失われることの意味にこだわったこととつながります。
草刈免除は、たしかに効率性を求める社会にあっては欲望を満たしているかのように見えるかもしれません。
しかし、実はそのことによって失われるものがあるのではないか。
おそらくそれは人間関係やコミュニケーションであるでしょう。
いわばカネが分断させるものがそれらではないでしょうか。
ある参加者からは、意を決して参加した草刈に意外にもそこでのコミュニケーションを通じて、町内のことを知ることができた経験が語られました。
したがって、これだけ孤立化が問題となっている現代社会で求められるものとは、こうした人間関係やコミュニケーションへの欲求とではないでしょうか。
これがカネで利便性と交換可能になるという問題を、やはりいまいちど問い直してもよいように思われます。

それにしても冒頭に挙げられた問いのように、いかにしてあるものの価値がカネの尺度で決められるのか、まったく持って謎です。
なぜ、時給が○○円なのか。
自分の労働対価がなぜこの額なのか。
同じ仕事でも、相手の経済事情を考慮すると時給に差をつけてしまう問題をどう考えればよいのか。
介護や保育、教育のような形のないものをカネで交換することの難しさ。
やはり、カネの不思議は不等価なもの同士を交換させてしまう魔術的な部分にあるでしょう。
そして、そこに生じる倫理的な問題は臓器売買や売買春の問題などにも接続していきます。
今後もカネの問題をこうした多様なもんだ意見と結びつけながら、継続して考え続けていきたいと思います。

ご参加いただいた皆様方には感謝申し上げます。
次回は10月27日(土)16:00~18:00、サイトウ洋食店にて本deてつがくカフェです。
課題図書はジョージ・オーウェルの『動物農場』です。
多数の参加をお待ち申し上げます。

第12回カフェ報告

2012年08月28日 20時27分46秒 | 定例てつがくカフェ記録
  

気温35℃を越える猛暑のなか、いつものアオウゼで第12回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
このような猛暑にもかかわらず、15名の参加者で「愛と恋は何が違うの?」をめぐって活発な対話が繰り広げられました。

いつものように自由な意見を出し合いながら議論が展開されるかと思ったのですが、さすがに今回はテーマがテーマだけに皆さん、なかなか発言しにくい様子です。
そんな中、ある参加者から愛は恋の延長線上にあるのか、それともそもそも別の事柄であるのかを問いたいとの提起がありました。
その問題提起者によれば、愛という場合は家族愛や兄弟愛のようにその対象に広がりがあるのに対し、恋は異性愛あるいは同性愛のように対象が限定されているのだから、それらは別の事柄ではないかとのことです。
あるいは、愛が相手を大切するものであるのに対し、恋は憧れの様に自分中心のものであるとの意見も示されます。
なるほど「愛し合う」という言葉はあっても、「恋し合う」とはあまり言いません。
その意味で言えば、愛が相互行為であるのに対し、恋は一方的であるイメージがあるようです。

それに対して、別の参加者からは、恋が愛に成熟し最終的に結婚や家族に至るというイメージがあるとの意見が出されます。
いわゆるプロテスタンティズムの恋愛-結婚観ともいえるこのモデルは、戦後日本社会に広まったロマンティックラブイデオロギーそのものですが、そのイメージを抱いている人は社会の多数派ではないでしょうか。
ところが、これに対しては別の参加者から、「愛しているがゆえに別れることもある」という意見が出されます。
つまり愛しているからといって、その最終形態が家族であるとは限らないということです。
これもまたあいてのことを考えるならば、別れることが愛の実現であるという利他的な意味が込められています。
その参加者によれば、恋という状態が身体的には胸の辺りに上下前後左右に動きのある感覚であるのに対し、愛はみぞおちの奥に無限の広がりがあるような感覚であるとも言います。
そして恋が自分の中の様々な感情が動き回る落ち着かないものであるのに対し、愛とは平穏で不動の境地であるとのことです。

また、動物に対して恋はしないという問題をどう考えるかという論点も提起されました。
つまり、人間的なものにしか人は恋をすることができないのではないかという問題です。
しかし、これに対しても基本的にペットを手に入れるときに「かわいい」とか「手に入る」感覚に喜びを得る感情は、「恋=請う」という語源からしてやはり恋ではないかとも言えそうです。
したがって、恋とは相手の気持ちがどうにもならないことが前提であり、ないものを欲しがるような状態のことを指し、それゆえに恋は基本的に片思いであるのではないかということになりそうです。

さらに、感情が動き回る恋の状態は、基本的に不安と恍惚が同居するからではないかとの意見も出されます。
これは言い換えれば、恋する過程では自分と相手の関係の中で自分を見つめなおしたり、自分を再構築するがゆえに揺れ動くことと関係するとのことです。
その際、私淑という言葉にあらわされるように、恋とは一方的に相手をリスペクトする営みであり、それはひょっとすれば異性愛や同性愛、あるいは性愛を超えた関係においても実現しうるかもしれません。
ただし、その発言によれば恋の関係は基本的に二人でのゲームのような二人関係で営まれるものだといいます。
これについては、同時複数で恋することは可能か不可能かという議論を巻き起こしました。
参加者の経験談から、男性(女性)の浮気問題など、同時に複数の相手に恋することは可能か、それともそれには限界があるのかといった興味深い論点が深められたものです。
中には、それまで未経験であった同時複数恋愛の経験を経た後、「恋愛は1対1の関係性」という摺りこみが変容させられたと語る参加者もありました。

こうした議論の展開の中、ある参加者からは恋は基本的に「相手にやられてしまうもの」であり、あくまで相手発のものであるとの意見も出されました。
その意味で、恋は自発的というよりは、むしろ自分に先立つ何者かに触発されることを始まりとし、その触発するものに執着してしまう状態ではないかというのです。
それに対して愛は相手のためを優先させる状態だというわけですが、さらにそのことをキリスト教の「無償の愛」(アガペー)にまで結びつける展開になりました。
ただし、
その場合の無償の愛とは、「見返りを求めずに与えるだけの愛は神にしかできない」という宗教上の解釈に躓くとの意見も出されます。
その意味で、「無償の愛」とは理想化された愛であるというわけです。
それに対して、ある参加者は募金やボランティアにはけっして見返りを求めて行っているわけではないのだから、それは十分人間的な行為であるといいます。
たしかに、募金やボランティアが自分の利益となることを見越して行うことに、私たちは偽善性を覚えます。
だからこそ、募金やボランティアに自覚的に自己利益の追求を意識化しないことをわれわれはよしとする文化を持っています。
しかし、厳しく言えば、そのような行為によって満足する自分がいるとすれば、それもまた「見返り」なのではないか。
そのような指摘も出されました。
つまり、「見返り」を自覚しなくとも結果としていかなる満足感も払拭できないことこそ、人間の愛なのではないかということです。
逆説的に言えば、人間は自ら不幸になるために自己犠牲的にならない限り、神の愛に近づくことができないという点で有限性を払拭できない存在だということでしょう。
子どものために自ら死を賭す母親などは、その神の愛に限りなく近いものといえるかもしれません。どうでしょう?

こうした愛については、ある参加者がふと街を歩いていると、そこにいる子どもたちが皆「我が子」に思えてしまったという経験が語られました。
これは一種の啓示といってもいいのではないでしょうか。
たしかに3.11の震災を経て、あの出来事を映し出す様々な場面を見て、名も知らぬ人へ共感せざるをえない経験をしたとすれば、それは「人類愛」の啓示とでも呼ぶべき経験ではないだろうか。そのような意見も出されました。

こうした人類愛といった壮大な規模の愛について議論が展開したとき、ある参加者から「それでは愛の強い人は恋ができないのではないか」という問題提起がありました。
当初、愛は恋が発展したものであるというイメージが語られましたが、これまでの議論を経て愛と恋は別物どころか、むしろ対立するものとして立ち現れています。
これは男女愛や同性愛ではなく人類愛という、より高次の愛について論じるからそうなるのだという異論も出される一方、いやそれぞれは別ではなくむしろ行動において利他的であるという意味では同じであるという意見も出されました。
はたしてこの問題を読者はどのように考えるでしょうか?

カフェの終盤、落語の「芝浜」にこそ、究極の愛が立ち現れているという意見が出されました。
ストーリーはさておき、そこには夫の弱さを見つめる妻と、その妻が自分の弱さを見つ直すことが描かれているといいます。
この他者への眼差しと同時に自分の再構築を同時に可能にさせる営みこそが、究極の愛であるという事でしょうか。
さらに母親との関係こそが恋や愛の関係のベースとなるという意見も出されました。
これについては、子育ての愛情のかけ方でその後の人生が変わったり、幼少期にかけられなかった愛情も、必ず事後的にかけ直す事ができるという経験談も補足されました。
たしかに、幼少期の愛情がその人の存在の根底を基礎づけるという事は否定できないでしょう。
しかし、世の中には、その愛情をかけすぎたがゆえに破綻する人もいれば、どのような愛情がその後の振る舞いを決定付けられるかということについては、もう少し丁寧に腑分けして考える必要があるでしょう。
さもなくば、単なる愛情イデオロギーですべてが決定付けられてしまうことになりかねません。
その意味で「愛」をめぐってはまだまだ議論を深める必要があるようです。

今回は幅広い年齢層から様々な個人的な経験談や恋愛観を生々しく語っていただく場面もありました。
そうした個人的なことは語りにくいこともありますが、それが誰にでも伝わるように言葉を磨いていくときにこそ、そして相手に伝わったときにこそ、哲学の力が発揮されるのだと思います。
次回もまた刺激的な対話が実現できることを期待します。 

第11回カフェ報告

2012年07月22日 08時33分54秒 | 定例てつがくカフェ記録

第11回てつがくカフェ@ふくしまが、アオウゼ福島で開催されました。
テーマは「教育を再生するとは?」です。
つかみどころのない大きなお題になってしまいでしたが、今回もまたご参加いただいた20名の方々には自由な議論を交わしていただきました。


今回は開催ポスターからして、いかにも教育=学校をイメージさせるものが張り出されていましたが、
まずはそもそも教育=学校教育でしかないのかという問いから始まりました。
もちろん、家庭教育や社会教育など教育を学校教育だけに特化できるものではありません。
しかしながら、たとえばフリースクールにはまだまだネガティブなイメージがつきまとうのはなぜなのか。
「公教育」を語る上で両者は表裏一体であり、むしろどちらかがポジであることとネガであることが、「教育の再生」を語る上での指標となるのかもしれません。

また、「教育の再生」が語られ出した背景について次の①~⑤に分けた分析も出されました。
①PISAの結果から引き出されたゆとり教育の失敗による学力低下
②右肩上がりの成長社会から成熟社会への変化
③橋下徹のようなリーダーシップ型の政治家の登場と教育改革(政治的要因)
④財界からの国際競争に勝ち抜くための人材育成の要請(経済的要因)
⑤学校制度や教員への信頼低下

たしかに、こうした背景の下で政治の世界に「教育の再生」は声高に叫ばれてきたということがあります。
しかし、一方で「20年前から教育はおかしかったのではないか」という疑問も投げかけられました。
学力低下が叫ばれるけれど、随分前からも子どもたちが勉強しなくなったといわれていたし、実はそれはいつの時代でも言われてきたということではないかという意見です。
すると、子供が変わったのではなくて大人・社会が変わったことが教育の再生を求める背景になっているのではないかということも考えられそうです。
そもそもなぜ勉強しなければならないのか、そのことをとりわけ学力の低い子にどう伝えられるか。
学校教育に携わる参加者からはそのような問いも投げかけられました。
時代とともに変わったのは子供ではなく社会から求められる学力が変わったとすれば、その習得に対応できない子供にとって学ぶ意味など見出せないのは当たり前でしょう。

しかし、そこには「教育」の意味そのものを取り違えがあるのではないかという指摘も出されました。
そもそもeducationには「もっている力を引き出す」という意味があったものを、明治期に「教育」と訳したところに間違いがあったのではないか。
そのことを福沢諭吉は「発育」と訳したことを引き合いに、「刷り込む」イメージのある「教育」を批判的に指摘する意見が挙げられました。
それによれば、そもそも教師は伸び行く子供の成長や発達を妨げないものとして存在しなければならないのに、そのことを学校では真逆に為されているとしか思えないというわけです。

そこには「公教育とは何か」を問う視点が含まれているように思われます。
それについて、公教育=学校教育を語る際は、常に「国家の求める理想の国民像」と結びつくことが「キモチ悪い」という意見が挙げられました。
国家にとって納税や徴兵など、あらゆる法制度や国家命令に服従する国民は必要不可欠です。
あるいは、何がしかの国家戦略にとって必要な能力を備えた個人をつくり上げることは公教育の使命であることは疑いえません。
その点で「個性重視」といっても所詮、国家が求める範囲内での個性に過ぎないという意見も出されます。
近代教育が近代国家の生成と同時に生まれた歴史背景を踏まえれば、その「キモチ悪さ」の原因が個人の成長発達ではなく、国家の目的に収斂されることにあることは容易に理解できるでしょう。
これについてはさらに、教育は目的論的に語られるべきではないのではないかという意見も出されます。
なるほど、須らく教育的な営みは目的や目標が設定されるものだとされます(特に学校教育は)。
しかし、その意見によれば、何か一つの目的が設定されてそこへ集約されていくことに「キモチ悪さ」を感じるというわけです。
さらに完璧な教育などない以上、何がしかの教育的な営為に合う合わないは個人によって異なるものであるし、それはめぐり合わせでしかないけれど、そうであるにもかかわらずできるだけ多くの子どもにとってよい教育は追及されるべきだとの意見も出されます。
これらの意見には公教育が国家の目的に基づくものであり、それを実体化する学校は子どもの学ぶ力の差異を均一に扱わざるを得ないことへの矛盾が示されています。

一方、学校教育の矛盾を市場との関係で指摘する意見も見られました。
それによれば、学校において教育はもはやサービスと同一視されているのではないかということです。
そもそも学校には知育・徳育・体育を教える役目があったものの、「学校の塾化」という現象にあっては予備校教育と学校教育の差がなくなっているのではないかといいます。
すぐに結果が見えることを評価の基準にせざるを得ないことは理解できますが、それによって後々伸びる可能性を育てる教育力が学校教育から失われているのも事実でしょう。
数年前に問題となったいわゆる「未履修問題」などは、いわば市場の失敗ともいえる出来事かもしれません。
それによって受験に必要ではなかったかもしれないけれど、「いつか使うかも知れない知識の可能性」を奪われたともいえるのではないか。
そんな意見も出されました。

そうしたなか、教育の再生といっても、誰がそれを求めているかによって教育のイメージは変わるのではないかという意見も出されました。
たしかにそれまでの議論からも、国家=支配層が教育の再生を求める場合、そこにはかつてあったとされる日本人の美徳を強調する徳育や修身の復活を意味することがあります。
一方で、既存の学校制度ではもはや持ちこたえられない層も存在します。
たとえば、増え続ける不登校児童生徒たちは、公教育制度からみ出す層といえるでしょう。
彼・彼女らにとっては、何か現在の学校教育では失われたものを回復する場としてフリースクールのようなインフォーマルな空間を必要としています。
あるいは、以前から存在する自由学園のようなタイプもそうした公教育によって失われた教育」の回復を志向した場と考えてもよいかもしれません。
その例を江戸時代の寺子屋から引用し、「庶民の教育」と位置づけた加者もいます。
いずれにせよ、それらは国家にも公教育にも、そして市場にも取り込まれない「教育」の自律性が確保された場といってもよいでしょうか。
教育の再生を求めるのは国家だけではなく、一般市民から求められるのはどこかそのような意味合いがあるように思われます。
それは、どこか「理想の教育」を想定しているのかもしれません。
教育を営むに際しては「こういう人間であってほしい」と願いながら行うのは万人に共通だからです。

ただし、その場合、何かをモデルにするということは往々にしてありうることです。
そして教育政策の場合、結局モデルといっても外国の教育先進国の物まねにしか過ぎないではないかとの意見も出されました。
PISAショックから学力低下が問題視されると、すぐにフィンランドの教育政策をモデルに倣おうとする流れが起きましたが、
実はフィンランド自体が戦後日本の教育をモデルにしていたという事実が指摘されました。
つまり、各国はそれぞれにいいとこ取りをしながら教育政策を行っているのではないかというわけです。

とはいえ、そのモデルの物まねは果たして無意味であるかといえば、そうとも言い切れないのではないか。
たとえば敗戦直後、日本には「民主主義」という新しい概念が様々な分野に持ち込まれましたが、その教育-学習過程のなかから有意義性を見出そうとする意見も挙げられました。
その意見によれば、当時の人々にすれば、誰もそれが何を意味するかわからないままに、しかし手探りで「民主主義とは何か」を模索したといいます。
それが今では結局擦り切れてしまい、空虚な言葉になりつつあるものの、ある意見によれば、その何かわからないけれど未知の概念をみんなであーでもないコーでもないと模索したこと自体が大事だったのではないかといいます。
そのことを通じて、今までになかった「新しい言葉」を導き出したとき、社会は変わるのではないか。
それは、いま原発事故をきっかけに大きく変われるかどうかを試されている日本社会の火急の課題であるし、その意味において「教育の再生」に通じるのかもしれません。


すると、問題は何を教え何を学ぶのかという点であるのではないか
終盤にさしかかり、そんな問いの投げかけがありました。
これについても各人それぞれが多様な考え方を示します。
ある参加者によれば、やはり義務教育の段階が最も重要であるといいます。
その段階は何か役に立つ知識を覚えこませるというよりも、思考のための手続きを鍛える訓練が必要な段階であり、その段階はいわば遊びを通じて可能になるのであって、むやみやたらと教師が知識を振りかざして覚えこませるべきではないということです。
あるいは、経済格差が教育格差に通じるというのならば、やはり義務教育の拡充こそが最重要課題だとも言います。
別の参加者は、このたびの原発事故に対して県内の小学生の半数近くが「仕方がない」との意識を持つことに対し、やはり幼少期の教育の重要性を指摘しつつ、教師自身も批判精神を持ちながら教育に携わるべきであるとします。
その中で、「教育の中立性」という問題が提起されました。
教員が政治的に中立でなければならないことは教育基本法にも定められています。
しかしながら、原発事故に対して中立を装い教師自らの判断を示さないことは事勿れの無責任ではないのか。
教育において政治的中立とは、政治的支持=服従と同義ではないか。
まさに教育現場ではそのことが問われているかもしれません。

さらに、そこから「教える-学ぶ」関係性に話題は展開します。
ある参加者によれば、ケータイ端末機やインターネットなどにより、現在の子どもたちは情報収集能力などかつてないほどに高度化しています。
しかし、実はそれが子どもたちに「万能感」を与えてしまい、教師との差異を見失ってしまうことに危惧を抱くとのことです。
その結果、自分の欲望が満たされないのは、教える側の技術不足であったり責任を転嫁する傾向が生まれないかというわけです。
これは教育のサービス化、市場化とも結びつく問いでしょう。
したがって、その意見によれば、世界というのは自分の思うがままならないこと、世界はあらゆる「差」が存在するということを教える必要があるのではないかというのです。
一方これに対しては、「教える-学ぶ」の関係性が「対等性」で結ばれることを望む声もありました。
そこには生徒が沈黙のまま服従を強いられることへの批判が込められています。
このことを、教育とは希望をともに語り合える関係性であると規定した参加者もいました。
そして、いま教育に求められるのは子どもたちが自分で自分の存在を受け入れられる自己肯定感ではないかという意見も出されました。

ところで、冒頭でも確認されたように、教育=学校教育に限定されるわけではありません。
親、地域の大人たちなど、教育の担い手は様々です。
そしてその担い手自身は、実は人間である以上不完全な存在に過ぎません。
最後に、理想的な教育の実現が困難なのは、その担い手が不完全な人間であることに起因しているのであり、その不完全な人間によって不完全な教育がなされざるを得ない面を反省的に見つめなおす必要があるのではないか、との意見が提起されました。
まさに教育の再生とは、その矛盾とも言える教育の本質をじっと見つめることから始まるのかもしれません。

奇しくも、福島県の教員採用試験日と今回の教育を問うカフェの開催が重なり、その受験後に駆けつけてくださった参加者もありました。
試験が終わればそれで終わるわけではないという教育課題へのあくなき探求の姿勢に感銘させられたものです。
また、次回も多くの皆様にご参加いただけることを楽しみにしております。

第10回カフェ報告

2012年05月20日 21時25分15秒 | 定例てつがくカフェ記録


昨年5月22日にスタートしたてつがくカフェ@ふくしまも、おかげさまで1周年を迎えました。
あの頃はいつまで続くのか、参加者などいるのかなど、先の見えない不安とともに始めたものです。
けれど、今では毎回20人を越える参加者に恵まれ、とても豊かな時間を過ごさせていただいております。
昨日開かれた第10回も23名の方々にお集まりいただきました。
今回は初めて高校生の参加者もありました。
特別編第2弾で参加してくれた中学生に引き続き、福島の幅広い年齢層に少しずつ哲学カフェの文化が浸透しているようで、とても嬉しく思います。

さて、昨日のテーマは「切実な〈私〉と〈公〉、どちらを選ぶべきか?」です。
このテーマはどうしても震災原発事故と切り離せない問題です。
放射能の恐怖の中、自分の家族を守るために避難すべき(私)か、それとも事故のさなかに自らの職務を遂行すべき(公)か。
事前にその葛藤に苦しむ看護師たちの事例を挙げさせていただいたのですが、もちろん様々な職業・立場でこの問題に悩まされた人は少なくなかったでしょう。
この問いの設定自体、的を射ているかどうか難しいところですが、まずは様々な意見を出してもらうことから会は始められました。

ある学生の参加者は、南相馬市の消防士である友人が災害現場へ戻ろうとすることに対し、止めたくても何もいえなかった経験を語ってくれました。
そして、その後もそのことについて友人には何もいえないといいます。
その理由について、自分は学生で職責も何もない立場だからこそ、彼の職業上の「責任」に対して何もいえなかったといいます。
この「責任」という概念については別の参加者から3つの分類が示されました。
それによれば、
①自分の財産や生命を守るための「自然的普遍的義務」、
②自ら契約を結ぶことによって生じる「自発的責務」、
③自らが所属する集団(地域や家族など)に対する「忠誠心」という義務
に分けられるとのことです。
たとえば、看護師のケースに関していえば、看護師としての職を自ら選び契約したという点で②の義務が発生すると同時に、母親という立場において子どもの生命を守る義務という点で①、さらに家族を守るという点で③の義務が発生します。
つまり、ここには看護師としての②の義務と母親としての①③義務との衝突という構図が認められることになります。
そして、いずれの立場を選択するかはその人の価値観の問題であるというのです。

なるほど、この意見によって問題の構図は明確化されました。
しかしこの構図に対しては、看護師対母親という立場がそんなに明確に対立しあうだろうかという疑問が出されます。
ある参加者は、母親の〈公〉の職責は子どもになんとなく伝わるものであり、そこで母子の同意が成り立つ関係性なのだから、どちらを優先したとしてもそこに対立は生まれないといいます。
また、別の参加者によれば、そのような対立軸があったとしても95%の女性であれば子どもの生命を守る〈私〉を優先するものだといいます。
「我が子である」という事実をもって、それは〈私事〉が最優先されるべき価値であるというわけです。
しかしこれに対しては、児童虐待の問題から考えても、母親だからといって無条件に「我が子を愛する」という価値はけっして絶対的な価値として引き出せないのではないかとの意見も出されました。
そもそも看護師という職は公/私を明確に分けられるのだろうか?
この職においては、もっとその境界は揺らぎつつ越えてしまうのではないか。
その意見によれば、事務職が誰にでもできる代替可能な職務であるのに対し、ケアに関わる看護師という職務はその患者にとって「かけがえのない存在」となるものであり、逆に看護師にとっても患者という存在は「かけがえのない存在」として関わるのであって、そこに公/私の揺らぎがあるのではないかといいます。
つまり、そこには単純に立場によって種類が異なる責任同士の対立軸が、それほど明確ではないということが示されるわけです。

では、いったい何が避難すべきか、職務に留まるべきかという選択を分けたのでしょうか?
そもそもテーマを設定した者(渡部)としては、なぜ〈私〉的なことを選択した際に〈負い目〉を抱くケースが多いのだろうかという疑問が根底にありました。
その点について問いを投げかけたところ、その〈負い目〉とは自分の〈私事〉の選択が誰かの〈私事〉を犠牲にして成り立つがゆえに生じるのではないかという意見が出されました。
さらに、その職責に対する社会的な期待が高いというのもその〈負い目〉を生じさせるのではないかとの意見も挙げられます。
しかし、どちらの選択をしたとしても正解はない。
それと同時に、どちらを選択したとしても結局〈負い目〉は生じるのではないか。
その瞬間の選択は、まさに〈偶然〉としか言いようのないもので、正しいかどうかはわからないがゆえに、その状況下において〈負い目〉は必然的に避けられないものとして現れるのでしょう。

次第に論点は「そもそも公/私などそれほど明確に分けられるのか?」という点に移っていきました。
ある参加者は、いわゆる〈公〉には「責任」や「美徳」、「ヒーロー」など「男っぽい(マッチョ)」イメージがある一方、〈私〉には「子どもを守る」など弱々しいイメージがあるといいます。
ここには〈公〉なるものが社会的に賞賛される事柄であるのに対し、〈私〉なるものは社会的に晒せないもの、晒せばみっともないものという意味が含まれることが抽出できます。
また、〈公〉には「世間」や「故郷」といったもの抑圧的なものをイメージするという意見も出されました。
そのことを東北独特の共同体的な抑圧とみる意見も出されます。
これらの意見から見えることは、それまでの議論に挙げられた〈公〉が職業や組織、集団といった割と領域が明確なものとしてきた対象であったのに対し、目に見えない力のようなものをイメージしているようです。
実際、〈私〉は目の前の他者や家族といった具体的に目に見える対象であるのに対し、〈公〉は国家や集団といった目に見えない対象であるとする意見も出されました。
ただし、その〈公〉は〈私〉のために存在するのだし、できる限り多くの〈私〉が幸福になれるために存在するはずだといいま
す。

すると、次第に議論のなかで公/私の境目が重なり合いつつ、境界が曖昧に揺れ始めます。
職務を全うすることは〈公〉のためだけれど、しかし〈私〉を優先して避難した人たちでもそのことによって社会的な利益をもたらしていることだってあるじゃないか。
逆に、むしろ公的と思われていた職務の遂行が実は個人(私)的な意欲の現れの場合だってあるではないか。
マスコミ記者が社命として福島からの退避命令が出たにもかかわらず、新聞記者として取材しなければならないと現地に戻った例などは、職責というよりも個人(私)的な意欲に基づいた行為だったはずだ。
原発事故から家族を守るために避難した人たちも、「家族」という最小単位の集団=〈公〉を守るための選択だったといえるのではないか。
このように考えると、〈公〉=職務/〈私〉=家庭という単純な二分法では割り切れないことが浮き彫りにされてきました。

実は〈私〉のための選択が〈公〉のことに通じているのではないか。
そうした意見が次第に挙げられ始めました。
たとえば、三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」は津波が襲って来たら、周囲になりふり構わず高台へ上れという教訓が含まれていますが、それはその被災地域を復興するための人材を残す事であり、結果的にその集団の存続を維持する〈公〉につながるのだという意見も挙げられます。
ある集団はその集団の存続を維持するために強力な「倫理観」を必要としますが、それは結果的に個人を守る〈公〉を存続するために人間が作り出してきた文化といえるでしょう。
それは個人主義の現代にあっては当たり前に思えるかもしれませんが、人類は無意識に(?)〈私〉を守るものとしての〈公〉の存続を可能にする知恵を作り続けて来たのではないでしょうか。

さて、議論も終盤に入り、論点は消防士や警察官、看護師、教員といった「専門職」にとって切実な〈私〉を優先することの価値判断は可能か?といった点に絞られました。
これらは誰にでも代行できない専門性を必要とする職といった意味で公共性が高く、またそうであるがゆえに一段高い職業倫理観がなければ成り立たない職といえます。
ある参加者は、自衛官と対話した経験をもとに、彼らの「人に役に立ちたい」といった意志がそのまま職責と一致しているという意味で、専門職に就く人々はその就職選択の時点で〈私〉はありえないといいます。
つまり、その職責の前提である自らの意志には滅私の「覚悟」が含まれていなければならないということでしょう。
これについて、総理大臣が国外逃亡した場合、私たちはその行為が〈公〉に反すると判断するする場合、何を以ってそう判断するのかという問いが投げかけられました。
この根底には、私たちがその職に何を期待しているのかその根拠は何かという問いが含まれています。
さらに、それは職によってその期待度のレベルが異なるのか、異なるとすればどう異なるのかという問いも投げかけられました。
とりわけ、教職を目指す参加者からは教員の職業倫理と公/私の問題をどう考えればよいかとの問いも挙げられました。
これは筆者に差し向けられた問いでもあります。
ファシリテーターの立場上どう答えればよいか迷いもありましたが、〈3.11〉の経験を踏まえ私は次のように考えたことを発言させていただきました。
その場では言葉足らずだったと思うので、少し補足しながら書かせていただきます。

あのとき、放射能が拡散する状況下で「個人的には(避難しないと)まずいと思うけれど、立場上それは言えない」という言葉を何度か耳にしたことがあります。
公務員という「立場」上、国や県の決定に従うことがその職務上の義務となります。
上の判断と異なる判断に基づいて行動することは、「立場」上禁じられているものです。
その命令系統が個人的な判断で狂わされては成り立たないのが官僚制であり、その命令に従うものこそ〈公〉職に就くものの責任義務に他なりません。
しかし、これが〈公〉的なふるまいなのだろうか?そんなことをその言葉から根本的に考えさせられたものです。
「自ら考え、判断できる」ような人間を育てること。
それが教育公務員の職業上の責務の一つだとすれば、自らの思いや考えを停止させ、命令系統の下にある立場を貫くことはむしろ〈私〉的にふるまうことではないか、といったら言いすぎでしょうか。
たしかに、あの未曾有の事態にどのような判断が適切なのかは誰にもわからなかったかもしれません。
しかし、だからといって思考を停止し、自らの判断を停止したことが、もし「立場上いえない」という結論に至ったとすれば、それは果たして教職という〈公〉的な職責を全うしたとはいえないように思われます。
あのとき、身の内側から生じ、止まらなかった震えや慄きは、まさに私的なものです。
しかし、それは果たして個人的なものに過ぎなかったのだろうか?
むしろ、少なくない人々にもそれが生じていたのだとすれば、それはけっして〈私〉的なものに留まらないはずです。
「個人的なことは政治的なことである」とはフェミニズムのスローガンですが、その言葉通り私的な思いから出発し、それが他者にとっても切実な問題であったと共有されるるとき、単なる〈私〉的なものに留まらない可能性が胚胎されているものと考えられます。
それが他者に共有されるものとして意見を磨き、公示することこそが、実は〈公〉的な職責を果たすということに通じるのではないでしょうか。
少なくともその過程を避けて、不問のまま服従する姿勢は教職に携わる〈公〉的な立場のふるまいとは言えないと考えます。

これについては、切実な〈私事〉と公の職務に引き裂かれる中で矛盾を生じる人間にこそ、〈公〉なる可能性が含まれているのではないかという興味深い意見も挙げられました。
ここには葛藤が生じずに職務を遂行できる人間、すなわち無矛盾の人間とは実は〈私〉的な存在ではないのかという批判的視点が含まれているように思われます。
そしてその意見によれば、そうであるがゆえに、〈公〉のシステムは〈私〉を優先せざるを得ないケースでその人に〈負い目〉や〈罪悪感〉を抱かせない保障をする必要があるのだというのです。

さて、最後に当初の目論見だった「何が切実な〈私〉、あるいは〈公〉選ばせるのか?」という問いについて出された意見を紹介して終わりましょう。
ある意見によれば、そのどちらかを優先するかというのは、けっきょく〈偶然〉によるものだといいます。
本来、物事は単純な二者択一にあるものではなく、生きるうえでは仕事も生命もそれらは双方にとって必要なものでしょう。
その意味で言うと、両者いずれかを選択せざるを得ないという状況は一時的なものだということになります。
すると、その一時的な瞬間の判断というのは、各々の価値判断やその時々の具体的で複雑な状況が絡まりあった〈偶然〉によって下さざるを得ないものだということです。
それについて、別の参加者はその瞬間、時間的にも空間的にもっとも間近にあることを優先するといいます。
つまり、その瞬間、他人であろうが間近に切羽詰っている人がいればその人を助けるだろうし、家族が遠くにいればそれは後回しにするというのです。
この意見からは緊急時の判断に公/私という基準以外の要素が新しくもたらされたように思われました。

公/私という概念がそうとうに難しいものであるにもかかわらず、さまざまな視点からその境界線を揺るがす議論が、ジェットコースターのように展開する時間でした(少なくともファシリテーターにとっては)。
今回はドキュメンタリー映画の撮影も入り、話にくい環境になるかとも懸念されましたが、まったくそんなことに意を解さず発言される方々ばかりに、着実に哲学的対話の力が福島の地に根づいているのだと実感させられました。
次回もまた多彩な参加者の皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。