てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第11回カフェ報告

2012年07月22日 08時33分54秒 | 定例てつがくカフェ記録

第11回てつがくカフェ@ふくしまが、アオウゼ福島で開催されました。
テーマは「教育を再生するとは?」です。
つかみどころのない大きなお題になってしまいでしたが、今回もまたご参加いただいた20名の方々には自由な議論を交わしていただきました。


今回は開催ポスターからして、いかにも教育=学校をイメージさせるものが張り出されていましたが、
まずはそもそも教育=学校教育でしかないのかという問いから始まりました。
もちろん、家庭教育や社会教育など教育を学校教育だけに特化できるものではありません。
しかしながら、たとえばフリースクールにはまだまだネガティブなイメージがつきまとうのはなぜなのか。
「公教育」を語る上で両者は表裏一体であり、むしろどちらかがポジであることとネガであることが、「教育の再生」を語る上での指標となるのかもしれません。

また、「教育の再生」が語られ出した背景について次の①~⑤に分けた分析も出されました。
①PISAの結果から引き出されたゆとり教育の失敗による学力低下
②右肩上がりの成長社会から成熟社会への変化
③橋下徹のようなリーダーシップ型の政治家の登場と教育改革(政治的要因)
④財界からの国際競争に勝ち抜くための人材育成の要請(経済的要因)
⑤学校制度や教員への信頼低下

たしかに、こうした背景の下で政治の世界に「教育の再生」は声高に叫ばれてきたということがあります。
しかし、一方で「20年前から教育はおかしかったのではないか」という疑問も投げかけられました。
学力低下が叫ばれるけれど、随分前からも子どもたちが勉強しなくなったといわれていたし、実はそれはいつの時代でも言われてきたということではないかという意見です。
すると、子供が変わったのではなくて大人・社会が変わったことが教育の再生を求める背景になっているのではないかということも考えられそうです。
そもそもなぜ勉強しなければならないのか、そのことをとりわけ学力の低い子にどう伝えられるか。
学校教育に携わる参加者からはそのような問いも投げかけられました。
時代とともに変わったのは子供ではなく社会から求められる学力が変わったとすれば、その習得に対応できない子供にとって学ぶ意味など見出せないのは当たり前でしょう。

しかし、そこには「教育」の意味そのものを取り違えがあるのではないかという指摘も出されました。
そもそもeducationには「もっている力を引き出す」という意味があったものを、明治期に「教育」と訳したところに間違いがあったのではないか。
そのことを福沢諭吉は「発育」と訳したことを引き合いに、「刷り込む」イメージのある「教育」を批判的に指摘する意見が挙げられました。
それによれば、そもそも教師は伸び行く子供の成長や発達を妨げないものとして存在しなければならないのに、そのことを学校では真逆に為されているとしか思えないというわけです。

そこには「公教育とは何か」を問う視点が含まれているように思われます。
それについて、公教育=学校教育を語る際は、常に「国家の求める理想の国民像」と結びつくことが「キモチ悪い」という意見が挙げられました。
国家にとって納税や徴兵など、あらゆる法制度や国家命令に服従する国民は必要不可欠です。
あるいは、何がしかの国家戦略にとって必要な能力を備えた個人をつくり上げることは公教育の使命であることは疑いえません。
その点で「個性重視」といっても所詮、国家が求める範囲内での個性に過ぎないという意見も出されます。
近代教育が近代国家の生成と同時に生まれた歴史背景を踏まえれば、その「キモチ悪さ」の原因が個人の成長発達ではなく、国家の目的に収斂されることにあることは容易に理解できるでしょう。
これについてはさらに、教育は目的論的に語られるべきではないのではないかという意見も出されます。
なるほど、須らく教育的な営みは目的や目標が設定されるものだとされます(特に学校教育は)。
しかし、その意見によれば、何か一つの目的が設定されてそこへ集約されていくことに「キモチ悪さ」を感じるというわけです。
さらに完璧な教育などない以上、何がしかの教育的な営為に合う合わないは個人によって異なるものであるし、それはめぐり合わせでしかないけれど、そうであるにもかかわらずできるだけ多くの子どもにとってよい教育は追及されるべきだとの意見も出されます。
これらの意見には公教育が国家の目的に基づくものであり、それを実体化する学校は子どもの学ぶ力の差異を均一に扱わざるを得ないことへの矛盾が示されています。

一方、学校教育の矛盾を市場との関係で指摘する意見も見られました。
それによれば、学校において教育はもはやサービスと同一視されているのではないかということです。
そもそも学校には知育・徳育・体育を教える役目があったものの、「学校の塾化」という現象にあっては予備校教育と学校教育の差がなくなっているのではないかといいます。
すぐに結果が見えることを評価の基準にせざるを得ないことは理解できますが、それによって後々伸びる可能性を育てる教育力が学校教育から失われているのも事実でしょう。
数年前に問題となったいわゆる「未履修問題」などは、いわば市場の失敗ともいえる出来事かもしれません。
それによって受験に必要ではなかったかもしれないけれど、「いつか使うかも知れない知識の可能性」を奪われたともいえるのではないか。
そんな意見も出されました。

そうしたなか、教育の再生といっても、誰がそれを求めているかによって教育のイメージは変わるのではないかという意見も出されました。
たしかにそれまでの議論からも、国家=支配層が教育の再生を求める場合、そこにはかつてあったとされる日本人の美徳を強調する徳育や修身の復活を意味することがあります。
一方で、既存の学校制度ではもはや持ちこたえられない層も存在します。
たとえば、増え続ける不登校児童生徒たちは、公教育制度からみ出す層といえるでしょう。
彼・彼女らにとっては、何か現在の学校教育では失われたものを回復する場としてフリースクールのようなインフォーマルな空間を必要としています。
あるいは、以前から存在する自由学園のようなタイプもそうした公教育によって失われた教育」の回復を志向した場と考えてもよいかもしれません。
その例を江戸時代の寺子屋から引用し、「庶民の教育」と位置づけた加者もいます。
いずれにせよ、それらは国家にも公教育にも、そして市場にも取り込まれない「教育」の自律性が確保された場といってもよいでしょうか。
教育の再生を求めるのは国家だけではなく、一般市民から求められるのはどこかそのような意味合いがあるように思われます。
それは、どこか「理想の教育」を想定しているのかもしれません。
教育を営むに際しては「こういう人間であってほしい」と願いながら行うのは万人に共通だからです。

ただし、その場合、何かをモデルにするということは往々にしてありうることです。
そして教育政策の場合、結局モデルといっても外国の教育先進国の物まねにしか過ぎないではないかとの意見も出されました。
PISAショックから学力低下が問題視されると、すぐにフィンランドの教育政策をモデルに倣おうとする流れが起きましたが、
実はフィンランド自体が戦後日本の教育をモデルにしていたという事実が指摘されました。
つまり、各国はそれぞれにいいとこ取りをしながら教育政策を行っているのではないかというわけです。

とはいえ、そのモデルの物まねは果たして無意味であるかといえば、そうとも言い切れないのではないか。
たとえば敗戦直後、日本には「民主主義」という新しい概念が様々な分野に持ち込まれましたが、その教育-学習過程のなかから有意義性を見出そうとする意見も挙げられました。
その意見によれば、当時の人々にすれば、誰もそれが何を意味するかわからないままに、しかし手探りで「民主主義とは何か」を模索したといいます。
それが今では結局擦り切れてしまい、空虚な言葉になりつつあるものの、ある意見によれば、その何かわからないけれど未知の概念をみんなであーでもないコーでもないと模索したこと自体が大事だったのではないかといいます。
そのことを通じて、今までになかった「新しい言葉」を導き出したとき、社会は変わるのではないか。
それは、いま原発事故をきっかけに大きく変われるかどうかを試されている日本社会の火急の課題であるし、その意味において「教育の再生」に通じるのかもしれません。


すると、問題は何を教え何を学ぶのかという点であるのではないか
終盤にさしかかり、そんな問いの投げかけがありました。
これについても各人それぞれが多様な考え方を示します。
ある参加者によれば、やはり義務教育の段階が最も重要であるといいます。
その段階は何か役に立つ知識を覚えこませるというよりも、思考のための手続きを鍛える訓練が必要な段階であり、その段階はいわば遊びを通じて可能になるのであって、むやみやたらと教師が知識を振りかざして覚えこませるべきではないということです。
あるいは、経済格差が教育格差に通じるというのならば、やはり義務教育の拡充こそが最重要課題だとも言います。
別の参加者は、このたびの原発事故に対して県内の小学生の半数近くが「仕方がない」との意識を持つことに対し、やはり幼少期の教育の重要性を指摘しつつ、教師自身も批判精神を持ちながら教育に携わるべきであるとします。
その中で、「教育の中立性」という問題が提起されました。
教員が政治的に中立でなければならないことは教育基本法にも定められています。
しかしながら、原発事故に対して中立を装い教師自らの判断を示さないことは事勿れの無責任ではないのか。
教育において政治的中立とは、政治的支持=服従と同義ではないか。
まさに教育現場ではそのことが問われているかもしれません。

さらに、そこから「教える-学ぶ」関係性に話題は展開します。
ある参加者によれば、ケータイ端末機やインターネットなどにより、現在の子どもたちは情報収集能力などかつてないほどに高度化しています。
しかし、実はそれが子どもたちに「万能感」を与えてしまい、教師との差異を見失ってしまうことに危惧を抱くとのことです。
その結果、自分の欲望が満たされないのは、教える側の技術不足であったり責任を転嫁する傾向が生まれないかというわけです。
これは教育のサービス化、市場化とも結びつく問いでしょう。
したがって、その意見によれば、世界というのは自分の思うがままならないこと、世界はあらゆる「差」が存在するということを教える必要があるのではないかというのです。
一方これに対しては、「教える-学ぶ」の関係性が「対等性」で結ばれることを望む声もありました。
そこには生徒が沈黙のまま服従を強いられることへの批判が込められています。
このことを、教育とは希望をともに語り合える関係性であると規定した参加者もいました。
そして、いま教育に求められるのは子どもたちが自分で自分の存在を受け入れられる自己肯定感ではないかという意見も出されました。

ところで、冒頭でも確認されたように、教育=学校教育に限定されるわけではありません。
親、地域の大人たちなど、教育の担い手は様々です。
そしてその担い手自身は、実は人間である以上不完全な存在に過ぎません。
最後に、理想的な教育の実現が困難なのは、その担い手が不完全な人間であることに起因しているのであり、その不完全な人間によって不完全な教育がなされざるを得ない面を反省的に見つめなおす必要があるのではないか、との意見が提起されました。
まさに教育の再生とは、その矛盾とも言える教育の本質をじっと見つめることから始まるのかもしれません。

奇しくも、福島県の教員採用試験日と今回の教育を問うカフェの開催が重なり、その受験後に駆けつけてくださった参加者もありました。
試験が終わればそれで終わるわけではないという教育課題へのあくなき探求の姿勢に感銘させられたものです。
また、次回も多くの皆様にご参加いただけることを楽しみにしております。


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5 コメント

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お疲れ様でした。 (千葉あや)
2012-07-22 18:41:12
その後の展開が気になり、後ろ髪引かれる思いで場を去りましたが、報告を読ませて頂き、顔が綻びました。非常に興味深い内容でした。私の今後は分かりませんが、不完全の我々は一緒に楽しく考えて生きていきましょう。
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お疲れ様でした (タカハタ)
2012-07-24 12:32:21
あれだけのまとまらない話を短時間でまとめてアップした渡部さんに脱帽です。
終わった後モヤモヤしてるのはお約束ですが、今回は特にモヤモヤしながら会場を後にしました(笑)
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まさに脱帽です (T)
2012-07-26 14:08:47
教育を再生するとは?という題をみて、世話人を含め教育に携わっている方々がどのような考えを持っているのかを純粋に知りたいと思い参加しました(決して冷やかしではありません)。
僕にとっての教育問題は“なぜ勉強しなくてはならないか”に自動的に読み替えられてしまい、極めて自己本位な卑近な話しに落とし込んで考えていました。国家や財界の影響を受けるサービス化された教育なんて、自分の概念には全くなかったことで非常に驚きました。
教育の再生は、義務教育の改善という意見が多数派のように見受けられました。しかし僕にとっての教育は受験とほぼ等しいといった感覚なので、僕的には高校時代が相応する時期なんだけどなあと思いながら聞いていました。
高校時代にどうして勉強をするのかなぁ~と思っていたころに、“教えるということはともに希望を語ることである”と語った師に出会い衝撃を受けたことやエミールだったと思いますが“教育とは最も重要で最も難しい問題である”(←いい加減な引用だと思いますので信用しないでください)との言葉から考えてもしょうがないんだと諦めをつけて考えることはやめようと決意してしまったことなどが20年以上の時を超えて、その当時の想いがよみがえってきました。
最後まで、聞くだけで参加しようと思っていたのですが、あまりにも久しぶりの参加でちょっと調子こいてしまい、いらんことを言ってしまいました。さらになお、いらんことですがこうしてまた調子に乗ってコメント入れたりしています。(アホですね~、僕って)
発言するまでなるたけ心をフラットにして聞いていて、僕が疑問に感じたのは、
ゆとり教育は失敗といっていいのかということと現在日本にのぞまれる教育はどのようなものかという2点がどうも引っ掛かりました。
その他、様々に細かく議論を深めるべき論点が数多く派生した素晴らしいお題であったと感じました。
世話人の皆様、どうもありがとうございました。この場をかりて厚く御礼を申し上げます。
2次会からほとんどメンバーが欠けることなく翌日を迎えるというのにも驚きでした。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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こんばんは (鹿島潤)
2012-07-29 04:03:35
3月から毎月参加させていただいている鹿島です。
いつもありがとうございます。
8月は、東京からもう一人誘っています。

そこでお願いなのですが、
テーマなどは未定にせよ、日程だけはこのページで告知していただけませんでしょうか。
前回、口頭での今後の予定は聞きましたが、東京から行くとなると新幹線や宿の手配などだけは事前にしておきたいので、FIX情報として流してほしいのです。

あと、僕のブログのURLを載せましたので、時間がある方はぜひ。

前回、夜中の何次会だか忘れましたが酔っ払って小野原さんと「真偽と善悪」について語ってしまいましたが、以前のブログ記事ではそんなことも書いています。

よろしくお願いします!

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実践してみます! ()
2012-08-12 12:28:36
ぢゅんさんが「なぜ学ばなければならないのか」の問いに対しての例えで出された、「スポーツなどは意味がわからないままに~」、かなりしっくりきました。「教えるー学ぶ」関係の非対等性は、お勉強に限らずにあるという普遍性をまさに表現しているような。

ので、今度生徒にその問いを言われたら、もしくは、生徒を誘導させてその問いを言わせてから、さっそくその例えを使わせてもらいます。必死で部活に取り組んだ生徒ほど実感もつのかなとか、はたまた、こっちが予想もしない返しをしたりするのかなどなど楽しみです。


といいつつ、一方で「教員と生徒は対等でなければ」という言葉にも同意する自分がいます。ここでいいう「対等」の意味が異なるのだと思いますが。
個人的には、この言葉においての「対等」とは「生徒である前に自分(教師)と同じ一個人としてみる」「なんもわかっていない未熟な『子ども』としてみない」ってことなのかなと思っています。生徒にとっては「教員(教える側)に見下されていない」という実感をもつような。

う~ん、ひとまず今の段階での意見です。
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