てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第13回カフェ報告

2012年09月30日 16時56分42秒 | 定例てつがくカフェ記録
    

第13回てつがくカフェ@ふくしまは「おカネは大切か?」をテーマに、ホテル辰巳屋8階琥珀の間で開催されました。
すばらしい眺望の琥珀の間を、今回のテーマにふさわしくおカネをかけて借り切ってしまいました。
その優雅な空間に、今回は15名の方々にご参加いただきました。

さて、今回はフレンチレストランのシェフからランチの値のつけ方の難しさから始まりました。
それは、すなわち客と飲食店側との価値観の一致の難しさです。
価格自体は明確な数値で示される一方で、実は客-店の価値観が一致しなければそれは意味を成しません。
しかし、その商品に対する価値観自体は気分によって変わってきます。
どんな金持ちでも無駄遣いはしたくない一方で、旅先ではカネに糸目をつけずに豪遊したがるものです。
気分によってはその価値観も変動する、それが価格設定の難しさということでしょう。

このように異質な価値観を一致させ、交換可能にするものこそがカネに他なりません。
では、それが大切かどうかといえば、資本主義社会に生きる以上、それがないと精神的にすさんだり病んでしまうという意味では大切という他ないでしょう。
貧すれば鈍すともいいます。
しかし、一方でカネによって失われてはならないものもあるのではないか。
そのことをマイケル・サンデルの議論を引用しながら「お金で買えないものはあるか?」との問いが立てられました。
たとえば、ボランティアに報酬を加えることの是非などがそれにあたるでしょう。
利他行為や善意にカネが入り込むという意味では、その価値を壊すのではないか。
そうした道徳的な価値にカネが介入することで失われるという懸念は、すでに300~400年まえの経済学者らが懸念していたことであるとの意見も出されました。

道徳的な価値とは若干異なりますが、町内の草刈作業が5000円を支払えば免除される例を挙げた参加者もいました。
たしかに、忙しいとされる現代社会では、かつて住民が協同で行っていた草刈などの作業も職業によっては参加が困難になってきています。
その不参加の負い目をカネで払拭できるというわけです。
別の参加者からは、そこには不参加のペナルティという面もあるといいます。
その一方で、カネでは換えられない目に見えない協同作業の意味が失われるという反対の声もあるといいますが、
しかし時代の変化とともに、少しずつ便利さや効率が優先される功利主義に社会は進んでいくのではないかとのことです。
すると、草刈の免除金は住民による共同作業の非効率性を理由に、外部サービスの委託という方向に進んでいくでしょう。
このことはたしかに便利で効率的かもしれません。
誰しも、かつて村の共同作業で川から水を汲んできた時代社会に戻りたいとは思わないでしょう。

それに対して、託児所に子供を預ける時間の超過料金制度を導入した結果、それまで子供を預かってもらえることに感謝する態度であった保護者が、カネを払えば済むのだということで感謝の気持ちもなくなってしまった例を挙げる参加者がいました。
そこには「カネを出せばそれで済む」という感覚への違和感が示されています。
そのことを自動車事故を例に、保険でカネが下りても謝罪がなければ解決に至らないケースがあることも示されました。
その一方で、介護の問題など、それまで家庭の中の女性がただ女性というだけで当然に請け負わなければならなかった労苦から、介護保険やサービスの進展は女性を解放したという面もあるとの意見も出されます。
そこには親は実の子供(特に女性)あるいは嫁が世話をしなければならないという、ジェンダーバイアスの価値観をカネが切り崩したという面があることを否定できないでしょう。
しかし、こうした意見に対しても、たとえば学校の清掃活動に外部サービスに委託した方が楽だけれど、あえてそこにカネには換えられない教育的価値があるという主張がなされます。
果たして、カネによって壊されてよい価値と壊されてはいけない価値があるというになるでしょうか。

また、草刈免除においてカネのやり取りが不自然であるのは、そこに市場がないからだろうとの意見も出されます。
つまりそれがなぜ5000円なのか、その相場はどうやって決められるのかといえば、それはまさに市場の原理があって始めて形成されるからでしょう。
それに対して草刈という共同作業は、儲けを出すための営みではありませんから、そもそも市場など存在しようがありません。
それこそ社会の常識によって決められるものなのかもしれません。

とはいえ、原発被災の損害賠償のように、未曾有の事故を後にしてはそもそもカネによっては解決されない物事も含んでいます。
カネによって失った故郷は取り戻せませんし、分断された人間関係も取り戻せません。
では、謝罪すればそれで済むかといえば、それで解決するはずもありません。
だから補償はカネでしかできないのではないかという意見も出されます。
それに対しては、カネによる損害賠償は紛争解決のための一つの擬制(フィクション)に過ぎないのであって、それですべてが解決するはずもないけれど、さしあたりそれで一応の解決を図ることを社会的合意がなされたものだとの意見も出されます。
資本主義社会で生きる以上は、やはり生活のためにカネは必要になるわけですから。

そうはいってもカネは精神を豊かにするものでしょうか。
たしかに消費それ自体が快楽だという意見も出されましたし、カフェの冒頭ではカネがない生活は精神もすさむという発言がありました。
一方で、多額の補償金が人をギャンブルや薬物に走らせるだけであるという事例も挙げられます。
このことについて、自分から出すものなしにカネだけが入ってくるという事態が人を自立から遠ざけると発言した参加者もいます。
つまり労働対価がないカネは、社会のために働く意味や自己実現のような本当の欲求を満たさないままに与えられたカネであって、その意味でカネと精神は結びついているということになりそうです。

そのことは現代のカジノ資本主義のグローバリズムとも関係しそうです。
ワンクリックで何億円ものカネを移動させることは、この労働対価のないカネではないでしょうか。
これについて、マネーロンダリングというまさに不労所得によってカネがカネが生み出すシステムをこのまま維持増強させてよいのかという問いも投げかけられました。
この問いに対して「おカネは悪い!」という立場の参加者から、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引き合いに「白いカネ」と「黒いカネ」の例が出されます。
「白いカネ」とは、いわば実体経済で動く裏づけのあるカネのことであり、「黒いカネ」とはカジノで動くようないわば裏づけのないカネのことです。
後者はまさに世界を通貨危機にまで陥らせるようなカネであることがわかります。
これによって一気に何十~百億円という巨額を得る人々がいることは理解できますが、わからないのはそれだけのカネをどうしたいのかという点です。
おそらくそれはカネがカネを生み出すことにしか関心がなく、カネそれ自体が自己目的化してしまったような人々なのでしょう。

また、別の参加者から提起された「金儲けをするのはよくないことなのか?」という問いに対して、「必要のないカネはないけれど、楽して金儲けする必要はない」という答えも示されました。
というのも、たしかにカネがすべてという風潮がある一方で、カネは必要な文だけあればよく、金儲け以外の生き方を追及する若者も増えつつあるような気がするとの意見も出されます。
とりわけ東日本大震災以降、ボランティア活動に取り組む若者やあえて離島や無医村で仕事に就こうとする若者たちの増加は、「おカネは大切である」という価値観とは別の論理があるようです。
そのことは参加した大学生からも必要以上にカネを必要とは思わないとの意見も出されました。
これは日本社会が一定の物質的豊かさを達成したことと、人間の欲望との関係を示しているのかもしれません。
「人間の欲望には限りない」とはよくいわれたことですが、その一方で、これまでの欲望の種類がカネに関するものにしか限定されてこなかったこと自体が限界に来ているのかもしれません。
「人間の欲望には限りない」というのは、欲望の種類がもっと多様であることを示しているのではないかと思うわけです。

それは草刈免除で失われることの意味にこだわったこととつながります。
草刈免除は、たしかに効率性を求める社会にあっては欲望を満たしているかのように見えるかもしれません。
しかし、実はそのことによって失われるものがあるのではないか。
おそらくそれは人間関係やコミュニケーションであるでしょう。
いわばカネが分断させるものがそれらではないでしょうか。
ある参加者からは、意を決して参加した草刈に意外にもそこでのコミュニケーションを通じて、町内のことを知ることができた経験が語られました。
したがって、これだけ孤立化が問題となっている現代社会で求められるものとは、こうした人間関係やコミュニケーションへの欲求とではないでしょうか。
これがカネで利便性と交換可能になるという問題を、やはりいまいちど問い直してもよいように思われます。

それにしても冒頭に挙げられた問いのように、いかにしてあるものの価値がカネの尺度で決められるのか、まったく持って謎です。
なぜ、時給が○○円なのか。
自分の労働対価がなぜこの額なのか。
同じ仕事でも、相手の経済事情を考慮すると時給に差をつけてしまう問題をどう考えればよいのか。
介護や保育、教育のような形のないものをカネで交換することの難しさ。
やはり、カネの不思議は不等価なもの同士を交換させてしまう魔術的な部分にあるでしょう。
そして、そこに生じる倫理的な問題は臓器売買や売買春の問題などにも接続していきます。
今後もカネの問題をこうした多様なもんだ意見と結びつけながら、継続して考え続けていきたいと思います。

ご参加いただいた皆様方には感謝申し上げます。
次回は10月27日(土)16:00~18:00、サイトウ洋食店にて本deてつがくカフェです。
課題図書はジョージ・オーウェルの『動物農場』です。
多数の参加をお待ち申し上げます。


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