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てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第9回カフェ報告

2012年04月22日 08時41分34秒 | 定例てつがくカフェ記録


第9回てつがくカフェは12月以来のA・O・Z(アオウゼ)で開催されました。
また、ここ二月は書評カフェ(2月)、特別編(3月)と続いたため、定例の哲学カフェとしても久しぶりです。
今回のテーマは「悪法にも従わなければならないのか?」。
23名の方々にご参加いただき活発な対話が交わされました。

まず話題は「法に善悪はあるのか?」という問題提起から始まりました。
なるほど「悪法に従うべきか?」という問いかけ以前に、「悪法」とは何かが確定されなければなりません。
これについて、そもそも「悪法」といった場合、それはどのような手続きを経て制定されたのか、あるいは個人の自由・生命・財産、尊厳を奪うような内容かという観点から、その吟味ができるのではないかとの指摘がありました。
このような投げかけに対し、前者に関しては一般法律の正当性を担保するのが憲法であるのならば、さらにその憲法を根拠づける上位法を遡って考えていくと、けっきょくそれは実体のないフィクションにすぎないのではないかとの意見が出されました。
つまり、法とは無根拠であり、無根拠である以上そこに善悪を問うことは無意味であるというわけです。
また、法とはその時代や社会、あるいは立法者の意思によって変わるものであり、その意味でやはり「法に善悪はない」という意見も挙げられました。

こうした論点は「法を変える」という論点でも話題になりました。
ある教員の参加者は、校則を生徒に守らせる際に、そのルールの根拠を示しつつも生徒には「変える権利」があることを提示していると言います。
これに関連して、「法に従わない」という選択行為は、その悪法性を批判する意思表明の方法だとする意見も出されます。
その参加者は「拒否権」という言葉を用いながら、この「拒否権」によって悪法性を指摘する行為がなければ、法はよりよいものに変わっていかないのではないかといいます。
これに関して教育基本法改正(悪?)の際に、国会周辺でのデモで反対の声を上げた経験がある参加者からも同様の発言がありました。
その参加者によれば、愛という心の問題を法によって強制されてしまうことへの危機感から反対意見の表明という行動を選択したといいますが、こうした単なる意見の表明に止まらず、君が代斉唱の罰則化に対する不起立など、自らの思想・良心にかけて「拒否権」を発動することはやはり法の正常化への働きかけだということになります。
しかし、だからといってその個人的意見が客観的に正しいかといわれると、どうもそう言い切れないという問題が残るようです。
すると、やはり「悪法」といってもその人の立場や意見によって評価がやはり変わるという相対性が払しょくできません。

こうした法の善悪問題を残しつつも、議論は次第に「従うべき/従うべきではない」という論点へ移っていきました。
「拒否権」の存在を支持する参加者からは、「悪法には従うべきではない」という立場が肯定されました。
また、法は権力者を縛るものとの観点に立つ参加者は、その役割を果たしていない方である以上、それに従う必要はないとも言います。
それが法治国家というべきものでしょう。
さらに音楽家である参加者からは、ナチス時代の頽廃芸術を規制する法律の例に即して、自分であったら「法に制限されて自分の作品を表現できないくらいなら死んだ方がマシ(というか、死んでいる)」という意見も出されました。
そこには自分の信条や信念、実存といったものが剥奪される場合には、不服従が肯定されることが確認されます。

しかし、こうした「悪法には従うべきではない」という意見に対し、そもそも「従わない」とは何かという疑問が投げかけられました。
たとえば、大義を掲げてテロルが実行された2.26事件や5.15事件は、国家の腐敗を根底から変えなければならないという青年将校たち(その多くが困窮する東北出身者)によって引き起こされました。
彼らに対する少なからぬ歴史評価は、その暴挙にもかかわらず心情的には理解できるというものでしょう。
しかし、彼らはその当時の法秩序においては殺人を行ったのであり、テロリズムを犯した犯罪者としてその法の下に裁かれました。
すると、彼らはテロルという反国家的行為を犯しつつも、その結果において刑罰を受けた=法に服したということにならないでしょうか。

これについて、そもそも「悪法に従うべき」であるよりも、革命のようにその国家の法秩序を完全に破壊するのではない限り、それは「法に従わざるを得ない」のではないかという意見が挙げられました。
つまり、ある法秩序内で法に反する行為をとったとしても、それによって課された刑罰に服す限り、それはその「法に従っている」ことになるわけです。
たとえ、自分の意志を貫いて違法行為を選択した結果、死刑を受け入れたとしても、それは「法に従った」ことになるのです。
ただし、その行為を通じてその悪法性を批判するという点において、この行為は一つの「拒否権」の発動になります。
この点につき、単なる犯罪とどのように区別するのかといった質問に対し、それが誰にでも見られる形で行われるか否かという点にその区別の基準があるということも挙げられました。
この意見に対しては、やはりそれは自分の意志が法に反発しているという意味において、「法に従わない」ことなのではないかとの疑問も投げかけられました。
この点は「従う」という言葉の理解の違いに基づくかもしれません。

さらに、「法に従う/従わない」という論点は、果たして法は個人を縛りつけるものか、個人を守るものであるのかという話題に展開していきます。
なるほど、法は縛りをかけるという意味で不自由なイメージがある一方、法によって個人は保護され、自由を可能にするともいえるでしょう。
これに関して、縛りをかける法の機能は罰則など体感的に理解できるのに対し、個人を守るという法の機能は体感しにくいからだとの指摘がありました。
この法の両面性を踏まえた上で、そもそも悪法だというものがあるのだとしたら、それは選挙やリコールなどの住民が直接政治参加できる制度を通じて変えることができるのだという意見も出されました。
あるいは身近な政治家を活用しましょうということも、ここには含まれます。
むしろ、それがなされない以上、それは悪法(があるとして)と言えどその社会で肯定された法なのだというわけです。
たしかに政治の原理原則はその通りでしょう。
中学校の「公民」あるいは、高校の「政治・経済」のオベンキョーでもそのように習います(教えます)。
しかし、そんな原理原則が、市民にとってまったく社会を変える術としてリアリティを得られないのも、この政治社会の現実ではないでしょうか。
それは単に活用できない市民の未熟さに原因を還元して解決できる問題なのでしょうか。
むしろ、哲学の醍醐味はこうした原理原則へ疑いを投げかけ、新しい可能性を切り開いていくことにあるのですが。

さて、終盤にさしかかたところで、論点は再び「法に善悪はあるのか?」に戻されます。
前半の議論において、法は時代・社会によって変化するという相対性が主張されたのに対し、そこでは法に含まれる普遍性もあるのではないかとの意見が出されました。
その参加者はガンディーの言葉を用いながら、時代や社会を超えて人類が共通に感じる正しさがあるのではないかといいます。
そして、法にもそのような普遍的値が含まれる場合があるのではないかというのです。
たしかに日本国憲法も「人類普遍の原理」を採用したと前文で謳っています。
しかしその一方で、なぜ普遍的価値があるといえるのかその根拠がよくわからないとの疑問も出されました。
人間が生まれながらにして持つとされる基本的人権も高々ここ200年ほどの歴史しかありません。
どこか普遍的価値というと宗教性すら感じるかもしれません。
やはり、法は相対的なものなのでしょうか。

これに対して、法は時代によって変わるといっても、たとえば治安維持法のように当時でも少数かもしれませんが反対を主張した人々もいます。
その意味で、その時代にその法は正しかったのだからすべての人に正しい法として支持されていた、という理屈にはどこか強引さを感じます。
むしろ、法とは不完全性を含みつつも、その不完全性を指摘する人々の存在によって、その法の普遍性へ常に開かれていると考えてもよいのではないでしょうか。

今回は今まで以上に抽象度の高い意見が飛び交いました。
その意味で哲学らしいといえば哲学らしい対話になったともいえますが、他方で若干の専門用語や横文字言葉が飛び交い、そのために理解や発言がしにくかった状況があったかもしれません。
参加者全員が言葉一つひとつの理解を共有することが哲学カフェの大前提ですから、そのことの難しさを反省しつつもさらなる刺激的な対話空間が参加者同士でつくられていくことに期待感が高まる会となりました。
次回のてつがくカフェ@ふくしまは5月19日(土)に、同じA・O・Z(アオウゼ)小活動室1で開催されます。
またのお越しを心よりお待ち申し上げます。

第8回カフェ報告

2012年01月22日 11時20分27秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第8回てつがくカフェ@ふくしまは、雪が降りしきる中、サイトウ洋食店に21名の方にお集まりいただいて開催されました。
テーマは「幸せって何だろう」。
誰でも話しやすいテーマだろうし、震災以来〈幸せ〉をめぐって考えない人はいなかったのではないか。
そんな思いでこのテーマを設定させていただきました。

さて、割とハッピーな気持ちで対話が交わされるかなと思われたこのテーマですが、思いのほか対立点が際立つ話し合いとなりました。

まず〈幸せ〉については2つの〈幸せ〉概念が挙げられました。
一つは、過去の不幸だった自分と比べることでわかる〈幸せ〉です。
それは過去の自分をふり返ることによって認識できる「考える幸せ」であり、時間的な距離を置いて対象化できる〈幸せ〉のことです。
すると、〈幸せ〉とは不幸な状態があってはじめて成立するものということになりそうです。
「〈幸せ〉と不幸は表裏一体である」、あるいは「〈幸せ〉と不幸は段階的に連続しているものだ」との意見も同様の趣旨として理解してよいでしょう。
ただし、それは必ずしも自分の不幸な状態との比較に限られず、たとえば戦争のニュースなど外部情報との比較を通じて認識できるものだとの意見も出されました。

一方、〈幸せ〉は不幸があってはじめて際立つのかといえば、そうではない〈幸せ〉の瞬間もあるようです。
たとえば、ある晴れた日に縁側でぽかぽかした太陽にあたっているときに「しあわせだなぁ~」と、ふと感じる瞬間などがそうでしょう。
その瞬間は何かとの比較ではなく、それ自体としての〈幸せ〉というべきものです。
そして、それは不幸との比較ではなく、「自然」と心にわいてくるものであり、その意味で「瞬間的な幸せ」と名づけられました。
一見、この〈幸せ〉観は〈幸せ〉は持続するものではないという定義にもつながり、したがって人生はこの〈幸せ〉と不幸をくり返す不断のプロセスであり、絶頂期に行ったかと思えばそこから不幸に移り変わるいう〈幸せ〉観とも結びつきそうです。
しかし、その意見によれば、そのようなプロセスとは切り離された「絶対的な〈幸せ〉」があるというのです。

この他にも、「やりたいことができる状態」、あるいは「やりたいことがある状態」が〈幸せ〉であるとの意見、さらには「家族のためにする満足が〈幸せ〉」との意見も出されました。
そこで共通するのは「満足感」あるいは「自己満足」というものです。
すると、それは「家族のため」と称しつつ、実は家族にとっては傍迷惑な場合もあるのではないか。
つまり、本人と家族とのあいだに〈幸せ〉感のズレがあるのではないか。
そのような疑問に対して、そこにズレが生じることが認められ、その意味で「家族のための〈幸福〉」とは、すなわち自分にとっての満足であるとの意見が示されました。

ここから「〈幸せ〉とは本人がその事柄についてどう思うかの問題である」という明快な命題が引き出されます。
そして、その根底には〈幸せ〉とは人によって感じ方が異なるものであり、人の数だけ〈幸せ〉感(観)があるということになります。

ところが、この命題が確定された直後、異論が提起されました。
それによれば、各人がそれぞれの〈幸せ〉を追求していったとき、他人の〈幸せ〉が衝突することで不幸な事態が生じる問題もあるのではないかとのことです。
さらにいえば、これは「他人に迷惑をかけても幸せは成り立つのか」という問題に突きあたることになります。
この問題については、たとえばストーカーの例が挙げられました。
ストーカーは追いかける相手に執着することを〈幸せ〉と感じているかもしれないが、相手にとってそれは迷惑以上の不幸に他なりません。
果たしてこれを〈幸せ〉といえるのか。
あるいは、パレスチナ問題に対して、お互いが領土確保によって〈幸せ〉を得ようとするなかで、凄まじいまでの殺戮がくり返される状態を、私たちは〈幸せ〉と呼ぶことはできないでしょう。
ここには「他者の了解」を得ることで成り立つ〈幸せ〉もあるのではないかということになりそうです。
さらには、〈幸せ〉という言葉が自分の気持ちを表現することに違和感を覚えるとの意見も出されました。
あくまで、それはある事柄や事態を客観的にみて評価する際に用いる言葉ではないかというわけです。
すると、「第三者的な視点」によって〈幸せ〉は評価されうるのかもしれない。
そのような視点も浮かび上がりました。

両者の〈幸せ〉観の相違を言い表せば、「主観的な〈幸せ〉」と「客観的な〈幸せ〉」、あるいは「自分にとっての〈幸せ〉」と「みんなにとっての〈幸せ〉」ということになりそうです。
さらにいえば、前者の〈幸せ〉観が個人の心理状態の評価を指すのに対して、後者が「事柄の状態」の評価を指す点に相違があるようです。

さて、こうした異なる〈幸福〉観が明確されたことで、議論は相互に何が違うのかについて展開しました。
まず、「みんなの〈幸せ〉」を想定した場合、結局それは「最大公約数」を集約することになるだけであって、小数の〈幸福〉を疎外しかねないし、無理が生じるという意見が出されました。
また、〈幸せ〉を決めるのは「方向性」の問題であり、その「方向性」を決められるのは結局本人しかできないという意見も出されます。
これについてストーカーの例を考えてみれば、ストーカーにとっての〈幸せ〉は「追いかける」という「方向性」に〈幸せ〉が見出されるのであって、追いかけられる相手と結ばれること、つまり「他者(相手)の了解」を獲得することが〈幸せ〉になる条件ではないということになります。
結局は、その人が〈幸福〉になるためには、その人がどのような対象に向かっていくか選択するものであるし、その意味で言うと「自分がやりたいことができる状態」という〈幸せ〉の定義がしっくりくるとのことです。
さらに、その状態が実現するために自由な場や環境という下地が必要であるとの意見も付け加えられました。
ここには〈幸せ〉とは本人にしか知り得ないものであり、持続できるかどうかは「個人の基準」や取り組み次第ということになるとの考え方が示されています。
そして、そこにおいて「他者(第三者)の目(評価)」は自分の〈幸福〉に対して限界づけるものでしかないということになります。

ここには〈幸せ〉が「自由」と関係することが示されているようです。
個人の選択の自由を保障することが、結局は「みんなにとっての〈幸せ〉」になるのではないかという意見もこれに近いでしょう。
ただし、これに対しては自由の保障が必ずしも〈幸せ〉を可能にする必要条件ではないとの意見も出されました。
たしかに、自由が保障されている社会は〈幸せ〉を可能にする十分条件ではあるかもしれないけれど、それによって皆がみんな〈幸せ〉になっているとは限らないというわけです。
では、そうであるとすれば〈幸せ〉は何によって可能になるのでしょうか。

このあたりから議論は、「〈幸せ〉は個人的なものだから国が何をしなくてもよいのか?」という「みんなにとっての〈幸せ〉」の問題にシフトされました。
たとえば、民主党の管直人政権は「最小不幸社会」の政策的実現を標榜しました。
そこには、たしかに〈幸せ〉は個々人によって異なるのであろうけれども、やはり客観的にみて「不幸」であるものを放置しておいてよいのかとの問いがあります。
憲法25条には「最低限度の生活」の保障が規定されています。
それは「衣食住」の確保というレベルかもしれませんが、たしかに客観的な〈幸せ〉を確保するための条件が示されているものともいえます。
また、自分の力で〈幸せ〉は実現するものという意見に対しては、個人の力ではどうしようもない「不条理」による不幸を個人の問題に還元することに違和感を覚える意見が出されました。
それによれば〈幸せ〉は個人の力で何とかなるとしても、不条理に襲ってくる不幸はいかんともしがたい問題をどのように考えるべきかという視点です。
これに対しては、それは受け入れるべきものであって、いちいち不条理を理由に「他者の評価」が介入すべきではないという意見も出されました。
では、いったい政治は何を目指すべきなのか。皆が目指す〈幸せ〉というものはないのか。
「みんなの幸せ」を放棄することへの違和感が、やはり示されます。
そこにはすべてを自己責任に還元して、他者に関与しないことをよしとする社会への違和感が表明されているように思われました。
しかし、一方で「〈幸せ〉は個人の基準である」という考え方を放棄してしまえば、社会すべてが一方向の価値に向くように強制される全体主義的な違和感も残るでしょう。
個人の〈幸せ〉の追求を阻害しない形で、しかし誰にとっても共有できる〈幸せ〉を政府が必要最低限補完できるような社会は可能だろうか。
果たせるかな、〈幸せ〉の問題は政治的な自由と平等の問題へと接続していくような展開となっていきました。

ファシリテーターから見れば、この両者の立場は対立しつつも、どこか共有している部分があるように思われ、その異同について、もう少し明確化できればよかったのですが、残念ながら毎度のこと時間切れとなってしまいました。
消化不良感は毎度のことですが、ぜひこれをきっかけに〈幸せ〉について考え続けていき、また新たな考えが思いついたときブログのコメントにでもお考えをお寄せいただければ幸いです。

第7回カフェ報告

2011年12月28日 23時53分04秒 | 定例てつがくカフェ記録


渡部です。
朝鮮半島情勢を視察しにいっていたためカフェ報告のアップが遅れました。
さっそく拙い記憶を辿りながら、私なりにどのような議論が交わされたかまとめてみましょう。

第7回のテーマは「〈対話〉と〈和〉の精神」。
そもそもは前回のカフェを踏まえて、〈対話〉は〈和〉を乱すものなのか、という問題意識のもと設定されたテーマでした。
もちろんてつがくカフェでの議論は前回の問題意識にとらわれる必要はまったくないのですが、
今回の導入では〈対話〉や〈和〉に対する各人の解釈やイメージのズレを確認することから始まりました。
というのも、迂闊にも世話人の認識では〈対話〉と〈和〉は対立するものと考えていたのに対し、
中には〈和〉を〈対話〉が成立するための前提であると認識されていた参加者もいらしたからです。
あらためて各人の言葉に対する解釈や意味づけを確認する作業の大切さを認識させられました。

さて、毎度ながら序盤は話題の起点や論点がどこにあるのかの探り合いから始まります。
あちらこちら話が散らばったところで、ある参加者から「会議が終わってから往々にしてみんなホンネを喋りだす」という経験談が示されたあたりから、発言のしにくさをつくり出す〈和〉をめぐって議論が展開しました。

ある参加者からは、それはすなわち「空気」のことであるとの明快な答えが示されました。
たしかに「空気を読む」とは、日本的なコミュニケーション方法の一つであるとされます。
その意味で〈和〉であるともいえるでしょう。
では、「空気」あるいは「空気を読む」とはどのようなことなのでしょうか。

ある参加者によれば、それは「私が何を言いたいか」よりも、「相手に何を求められているのか」考えることを強いるものであり、それによって「その場の流れ」をよい方向にもっていくことを最優先させるものだということになります。
言い換えれば、それは「みんなで仲よくする」ことであり、さらに言えば「調和(ハーモニー)」を生み出すものと言えましょう。
これこそが〈和〉の精神だというわけです。

この個人の「発言」や「意見」を封じる〈和〉=〈空気〉をめぐって議論が展開するにつれ、次第に論点は「対話ができる空間/できない空間」に移っていきます。
まず「対話できない空間」については、「親しい人」や「多数の集団内」、あるいは「長い時間を共有する相手」といった関係性が挙げられます。
曰く、「相手を裏切ってはいけない」や「相手を気にする」不安などがその原因だともされました。
しかし、よく見ていくと、実はそれは「相手の考えがわからない」という「未知」への「恐れ」なのではないかとの点も確認されました。
ある参加者からは、このたびの放射能をめぐる〈温度差〉から友人と疎遠になった原因は、お互いに知りえない部分が見えたことにあるのではないかとの意見も出されました。
これはその人がもつ「予測不可能性」とでもいえばよいでしょうか。
人が誰かとつきあうときには、ある程度その人のイメージをもって関係をとっていくものですが、それが破綻したとき、相手に対する「未知」の「恐れ」が生じ、〈対話〉が不可能となるのではないか。
そんな仮説が浮かび上がりました。

また、「対話ができない空間」に関しては、「相手に否定(論破)されるとき」や「まちがってはいけない」、「同意を強要される場面」などが挙げられました。
とりわけ、ここでの「恐れ」とはその人の「意見」とその人の「存在」を同一視することから生じるのではないかという見方は興味深いものでした。
その意見によれば、そもそも「意見」は対立することはあっても「存在」が対立することはないのではないか、とのことです。
したがって、ここから「意見」は否定しても「存在」を殲滅しない〈対話〉のマナー、というか文化を創り上げることの重要性が確認されます。

すると、逆にいえば「対話しやすい空間」というのは、その「恐れ」がない状態、あるいは相手に関心を持ってもらえる状態であることが見えてきます。
つまり、「対話しやすい空間」とは「何を発言してもOK!」、「空気を読まずにしゃべっていこうよ!」との前提が共有されている「安心感」が確保された状態なのです。

この「安心感」に基づく〈対話〉状態とは、まさに「〈和〉に基づく対話」ということができるのではないでしょうか。
ただし、ここでの〈和〉とは「みんなと足並みを揃える」という意味での「和」の意味ではありません。
むしろ、相手と意見が異なり、対立していようともそれを許容し、「尊重」できる関係性を保つものです。
ここに、世話人が設定した当初の問題意識とは異なる〈対話〉と〈和〉の関係性が浮き彫りにされました。
そのことを、何でも言い合える「根幹がつながっている」関係性と表現した参加者もいます。
「対等」な関係性がその「尊重」を保持すると発言した参加者もいました。
〈対話〉が成り立つ条件として「理性」と「知性」がその信頼の根拠であると発言した参加者もいます。
「結果」や「正しさ」を気にせずに、一つのテーマをめぐって「対話そのものが目的となる対話」。
これがいわゆる〈対話〉だとすれば、それは安心して発言できる「信頼感」、そしてそれを保持するための「尊重」といった条件があってはじめて成り立つものではないか。
そんな意見が多くの参加者から挙げられました。

こうして後半の議論は「〈対話〉とは何か」という論点に移っていきます。
まず、これまでの議論のなかで揺れ動く〈対話〉概念の再定義が求められました。

これまで論じられた〈対話〉は、一つのテーマを自由に安心して語り合える営みを指しているようで、どうもその中には会議での話し合いは含まれていないのではないか。
そんな問題が提起されました。
たしかに、これまでの議論からすると、一つのテーマについて結論を求めずになされる〈対話〉とは、自由と対等性と安心感をその構成条件としています。
しかしながら、集団で一つの結論を出さなければならない話し合いの場合、それらの条件を確保するのは難しいでしょう。
とりわけ、今回の〈放射能〉問題では、その対応に関する合意形成をめぐって〈対話〉のあり方が問題となりました。
先に挙げた、会議の場では語らずとも私的な場では個人的な思いを語るという例がそれに当たるでしょう。
解決の方策の見えない未曾有の事態にあって、個人的な考え方を圧し殺し「公的な(職務上の)立場」でしか発言できない(考えられない)状況を露出させたという危うい事態も引き起こされました。
そもそも緊急事態の合意形成にあって、話し合いをもつことは内部分裂を引き起こす好ましからざるものである、との見解もあり得ました。

これについてある参加者からは、集団的決定に際しての話し合いは〈対話〉ではなく「議論」であると定義づけられました。
すると、集団的な意思決定に際して、〈対話〉は無力なのでしょうか?
この問いは開いたままにしておきましょう。

また、ある参加者からは「信頼感」がなければ「〈対話〉は成り立たないのだろうか」との問題も提起されました。
その意見によれば、そもそも〈対話〉とは「話す」・「聞く」・「考える」の3つによって単純に構成されたものであり、そこに「信頼」という要素が必要であるというのは違和感があるとのことです。

この問題提起に対して、ある参加者が音楽の「対位法」を用いて比喩的に論じた意見がヒントになるのではないかと思っています。
もともとこの意見はまったく別の論点で示されたものですが、むしろここでの問題提起にこそ意味をなすものと理解し、紹介します。
その意見によれば、そもそも西洋音楽史において和声や和音なるものは、時代とともに伝統的なその正統性を破壊しながら、新しい調性を創り出してきたのだといいます。
現代音楽など、おそよハーモニーとは言えない不協和音同士の衝突が新しいハーモニーを創り出している。
そして〈対話〉も同様に、不協和音としか思えないような異質性とのぶつかり合いの中で、すべてが壊されたと思っても必ずや新しい調性が生み出されているのだというわけです。
つまり、「信頼感」といった条件がなくとも、思い思いの意見をぶつけ合うことそのものが〈対話〉を可能にするわけであって、必ずしも「安心」や「信頼」が前提とされなければ成り立たないというわけではない、
むしろ、その前提条件がなく、話し合いが破綻したとしても〈対話〉は新しい調性を生み出すのではないか、
この「対位法」の比喩からは、そんな〈対話〉のありようが示されたように思われます。

ここにカフェ記録の執筆者として個人的な意見を書くことはあまり好ましいことではないのかもしれませんが、
今回の議論で気になった点を最後に少しだけ書き連ねてみます。
それは、まさに何を発言しても許される「自由」や「信頼感」など、〈対話〉の前提条件が共有されない相手との〈対話〉は成り立たないのか、という問題です。
ある参加者からは、キリスト教文化が共有されているヨーロッパ社会だからこそ〈対話〉は可能となるという見解が示されました。
まさに個人的に問いたいのはそこです。
〈対話〉が求められている相手とは、こうした文化的条件が共有不可能な相手にこそ求められるものではないのでしょうか。
それは議論のなかに挙げられた「予測不可能性」を孕んだ相手といってもよいでしょう。
それはひょっとしたら理性や知性を持ち合わせていない存在かもしれません。
あまり議論の射程を広げるつもりはありませんが、その条件の共有不可能な相手が〈対話〉の対象とされないとすれば、それは随分と閉じた関係においてしか成り立たない営みではないか、といったら言いすぎでしょうか。
いささか〈対話〉の日常性からかけ離れた問いかけになってしまうかもしれませんが、割とこの問題は身近な社会問題としても考えることが可能だとと思っています。
この点については、いずれまた皆さんと語り合える機会があれば幸いです。

とはいえ、今回の議論のなかで〈対話〉の自由さを経験できる例として、この「てつがくカフェ@ふくしま」の場を挙げていただけたご意見には、世話人としてとても嬉しく感じます。
何より、この場での唯一の「信頼」の根拠として「てつがくカフェ@ふくしま趣意書」を挙げていただき、むしろその紙切れ1枚だけで〈対話〉が成り立つ奇跡を、あらためて趣意書作成者の一人として教えていただきました。
ご参加いただいた皆様にはあらためて感謝申し上げます。
またぜひ自由に語り合って考えあいましょう!

第6回カフェ報告

2011年11月28日 22時46分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
第6回のテーマは「〈安心〉は共有できるか―放射能をめぐる〈温度差〉とは何か?」です。
参加者数はこれまで最多の27名。
前回の特別編での論点を引き継いでのテーマでしたが、やはり皆さんの原発問題への関心の高さが窺えます。
残念なことに、サイトウ洋食店が満席になる盛況ぶりだったにもかかわらず、議論があまりに盛り上がりすぎたために開催風景の撮影をすっかり失念しておりました
今回ばかりは、文章だけになってしまいますが、世話人なりの議論のまとめ(解釈)をお読みいただければ幸いです。

今回のファシリテータは、前回に引き続き小野原さんです。
まずは〈温度差〉とは何かをめぐって、各人の体験談や思うことを述べていただきながら、さまざまなキーワードを拾い上げていきます。
はじめに夫婦間での子育ての場所をどうするかについて、母になるものとそれ以外のものとの温度差があるのではないかとの意見が提起されます。
ここには子を守る母の思いの強さが放射能に対して過敏になるのではないかという意味が含まれていますが、しかし一方でこの意見に対しては、前回の特別編においてそれが「母親」に過剰に罪悪感を抱かせる問題が提起されたことを思い起こします。
また、この意見に対しては別の参加者から女性であっても放射能に対する危機感の薄いケースも紹介されました。
すると〈温度差〉の源は必ずしも「性差」や「母性」に限定されるだけでは解決されないようです。

また、別の参加者からは「知識の差」が温度差と関係するのではないかという視点が挙げられました。
その意見によれば、今回の出来事を通じて知識を補強すればするほどその温度差は拡がるという現象が見られたということです。
この問題は興味深いものです。
私たちはどこかで無知が不安をもたらすと思うところがありますが、むしろ放射能の知識を知れば知るほどその不安が増大するケースもありうる。
そして、それは知識を得ようとするものとそうでないもの同士の温度差は更に拡がるものでしょう。
そのことをこの意見からは示しています。

それは「地域差」による温度差にも関係するかもしれません。
ある参加者には、実家があるいわき市での人々の原発に対する警戒心や不安と、福島市との温度差のギャップに驚いたという話をしていただきました。
それによれば危機が「どれだけ自分に即しているか」ということがその温度差を生み出しているのではないかということです。
なるほど、私の浜通りの友人知人たちも一様に原発事故後、いっせいに遠隔地へ逃げ出したものです。
聞いた話によれば、原発近辺の学校では東電から安全教育を年に一度あったとのことです。
やはり、原発に近い浜通りの人々の放射能に対する知識の豊富さは、それ以外の地域以上の警戒心を形作っているのではないか。
しかし、この意見に対しても同じ相双地区出身の参加者から、そのような原発の安全性教育を受けたことはないという反証も示されました。
すると、温度差の源は「性差」と同様に「地域差」もそれほど普遍性を帯びるものではないようです。

むしろ、福島から離れた地域の方が過剰に不安を感じている状況と、福島にいながら危険であると知りつつ次第にマスクをしなくなっていくなど、どこか現実に自分が溶解していくかのような状況とのギャップの不可解さを指摘する意見も挙げられました。

次第に議論は、客観的な数値や知識というよりも、「価値観」が〈温度差〉の源ではないかという論点にシフトしていきます。
ある客観的な数値一つ取ってみても、そこには経済的な価値を優先するか、生命の価値を優先するかでその尺度は変わります。
より被曝の健康被害を大きく受ける可能性のある若者や子ども、あるいはその親などは、放射能に対する危機感が強いのに対し、その可能性の低い人たちは自らの問題としてとらえる危機感が薄いのではないか。
それは言い換えれば、自分の未来に何が必要かを考えられる人とそうでない人との差、つまり自分や子ども、子孫たちの未来に何が必要かを考えられるかという将来への「想像力」によって温度差が生じるのではないか。
そんな視点も浮かび上がってきました。
すると、もしこの視点に基づけば、同じ被災経験をしていないもの同士でも、相手の境遇への「想像力」を働かせることで温度差を埋める可能性もあるかもしれません。そんな可能性も見出せそうです。

では、果たして「想像力」でもって温度差を埋められるでしょうか。
これに対しては「想像力」で体感の不安や恐怖心を埋めるのは難しいとの問題も提示されました。
ここに「見えない敵」としての〈放射能〉という固有の難しさが浮き彫りにされたように思われます。
なるほど、これが量や匂い、色など五感でとらえられるのであれば、私たちの放射能に対する不安の温度差もそれほど揺れ幅が少なかったかもしれません。
しかし、体感できない放射能、「ただちに身体に影響はない」放射能は「わからない」ことだらけの厄介なものです。
体感で確認できない「わからない」ものに対しては、果たして「想像力」でもって温度差を埋めようとしてもなかなか埋まらないのではないか、むしろ、ますます互いの想像力によって温度差は拡大されるのではないか、そんな悩ましい問題も浮上しました。

とはいえ、客観的な数値や科学的な知識とは別に、各々価値観によって温度差が生じているという点では概ね共通理解が得られたように思われます。
すると、問題はその各人の価値観に基づいた決断に対してどのように向き合うべきかという点です。
まず、いかにして人は決断するのかという問題があります。
ある意見によれば、それは「近しい人の存在」が大きな要素になるとのことです。
「子どものいる/いない」や「留まらざるを得ない家族の存在」など、その決断は誰と共に生きたいかということが重要になってくるようです。
また、価値観は行動の選択だけに影響を与えるわけではありません。
どの科学的情報を選択するかという点も、実はその人の価値観に大きく左右されるものではないでしょうか。
このたびの原発事故で最も悩ましい問題の一つは、専門家ですら見解が一致しないという点です。
ある専門家はこの福島市の状況は安全だといい、ある専門家は危険だといいます。
どちらを選ぶかは、実は自分の価値判断によらざるを得ない面があるのではないでしょうか。
そこで重要なのは、「自分が納得する」という点である。そんな意見が出されました。
いくら答えが出なくても、自分が納得して選択であればそれを尊重しよう。
それがどうしても一致しない〈温度差〉によって人間関係が分断されないために、その人の決断を責めない文化が必要ではないだろうか。
「各人の決断への尊重」、この言葉に今回の議論のもう一つの了解がなされたように思われます。

しかし、その自律的な判断・決断をいかに形成するかという条件を私たちの社会は育ててきたでしょうか?
実は、このたびの原発事故をめぐっては、各人が不安に思うことを、同じ〈温度差〉の人であることを確かめた上でなければ語れないという問題がありました。
なぜ、異なる〈温度差〉のもの同士が言葉を交わせないのか。
そこには何か日本的なもの、つまり世間的なものによる言葉の圧殺が働いているのではないでしょうか。
すると、いくら自律的な判断を尊重しようとしても、その基礎がまずないところで〈尊重〉の文化は育たないでしょう。
ちなみに、この「世間的なもの」や集団内における発言を封じる力について関心があると、アンケートに書かれた参加者は少なくありませんでした。

さて、〈尊重〉というキーワードが確認されたところで、後半の議論はこれから〈温度差〉とどのようにつきあっていくかという点について議論が進められました。
そもそもこのテーマが設定された背景には、〈温度差〉による人間関係の分断という問題がありました。
そうであれば分断された社会をどう再生するかという論点が必要ではないかとの問題提起がなされましたが、しかし、それよりはむしろこれから「新しい関係を構築していく視点」について論じる方が前向きであるとの意見が多く出されました。
それは避難先で同じ境遇のもの同士の関係、あるいは新たな生活拠点の地域での関係をどうつくり上げるかという問題と関係します。
その意味で言うと、この暗い状況を前向きにとらえられるとすれば、この出来事によって出合うはずもなかった人々と出会うことができたという面をもっと積極に評価していこうということにもなります。
そもそも、このてつがくカフェという場もその機会の一つであるはずです。
そこでも、もちろんお互いの意見や選択を「尊重する」ことが原則であることは変わりません。

それにしても「尊重する」とはどのようなことなのでしょうか?
それは私とあなたの価値観は違うからバラバラに行動しましょうね、という放任だけを意味するのでしょうか?
もちろん、それで済むケースならよいでしょう。
しかし、〈尊重〉が求められる機会というのは、むしろバラバラになれない関係性において、各人が分断せずに、しかしお互いの判断を認めあうという非常に緊張した状況に必要な概念です。
この問いをめぐっては、ある参加者から最後にとても興味深い経験談が挙げられました。

その経験談によれば、放射能に対して家庭内での〈温度差〉が激しい中、相当ないざこざを起こしながら、自分や家族の価値観が変容し、新たな価値観が構築されてきたというのです。
放射能に関する情報、あるいは行動において、お互いの判断や解釈を非難しあったご苦労もあったのでしょう。
しかし、そのいざこざをくり返しながら「不思議と」お互いの関係が収まってきたというのです。
けっしてそれは水平化されたり、一枚岩になったという意味ではなく、相変わらずそれぞれの価値観はバラバラなはずなのに、しかし妙に今まで否定してきた相手の行動を自分がしていたりするなど、自分の中での〈温度差〉が変容しながら家族内での調和が生まれてきたというのです。
その参加者の言葉を借りれば「波を越えてその人の価値観がつくり上げられ、それによって相手への〈尊重〉が生まれ新しい関係性が構築された」というわけです。
ここに、非常につらくはあっても自分の言葉を交わし合うことで生まれる新しい関係の可能性、そしてそれを生み出す原理としての〈尊重〉が見事に示されていたのではないでしょうか。
その意味で言えば、別の参加者から出された「声高に叫ばなくても意思表示できる勇気や機会があれば世界は変わっていくのではないか」という意見もまた、このことと関係するでしょう。

このほかにも、この非日常を日常化させていく状況をどう生きていけばよいかなど、とても興味深い問題提起がなされるなど、以上に尽きない発言が多数出されました。
残念ながら、毎度のこととはいえそれらすべてをここに挙げることはできません。
しかし、回を重ねるごとに対話のおもしろさを世話人としてビシビシ感じております。
次回は12月23日(金)にAOZにて開催されます。
この新たな出会いに感謝するとともに、また皆様とお会いできることを楽しみにしております

第5回カフェ報告

2011年09月25日 08時25分30秒 | 定例てつがくカフェ記録
第5回てつがくカフェ@ふくしまがサイトウ洋食店で開催されました。
今回はオーナーである齋藤さんのご協力のもと、初めて本格的なフレンチカフェ(レストラン?)で開催させていただくことができました。
ゆったりしたカフェ空間の中での議論はさらに充実したものになっています。
今回は12名の方々にご参加いただきました。
テーマは「〈正義〉って何だろう?」です。
いつものように参加者から自由に正義に関して思いつくことを挙げていただくところから始めました。

まずは正義は青臭く、まじめで血気盛んなイメージがあるとの意見が出されました。
あまり日常生活で用いる概念ではなく、自分の中では高い位置づけにないという意見です。
たしかに日常で私たちは正義を振りかざすことはあまりないでしょう。
すると、それはどのレベルで用いられるのかという問題が浮上します。
それに対して、正義は戦争や国家レベルで用いられる概念ではないかとの意見が出されました。
その際、正義は悪を排除するために戦うものとして用いられます。
9.11以降のアフガン攻撃やイラク戦争をふり返れば、「対テロ」や「対悪の枢軸」というアメリカの正義が喧伝されたことが思い出されます。
とはいえ、議論の中ではいじめの問題を材料として挙げられるなど、「正しさ」を問う場面が日常レベルでもありうることが示されました。

では、その際に正義/悪の基準は誰が決めるのでしょうか。
これは絶対的な位置での正義を決めることは可能かという問いを孕みます。
これに対しては、さらに正義の反対は悪なのかとの反問も出されました。
すなわち、誰かが正義を振りかざせばそれに対する正義も立ち上がるのであり、したがって究極的にいえば正義などこの世界に存在しないのではないか。
そんな過激な意見も出されました。
ふり返ってみれば、9.11以降、正義に対して私たちはずいぶんと懐疑的になったように思われます。
これについて、その発端は正義が戦争遂行の「大義名分」として用いられ、自らの行動を正当化するためだけに用いられるようになったことにあるとの意見が出されました。
しかも、その実、当の行為者はそれが正義でもなんでもないと思いながら用いているだけではないかというのです。
たしかに、政治の二枚舌がまかり通っていることへの不信が、「ニセモノの正義」という懐疑をもたらしたというのはその通りでしょう。
けれど、それは裏を返せば本来(真)の正義が存在することを示すものでもあります。

では、本来の正義とは何か?
その意見によれば、それは「自己犠牲」が発生するものだとのことです。
社会保障など観点から見ても、たしかに税金などは自己犠牲による正義の実現といえなくもありません。
しかし、正義がつねに自己犠牲を伴うものだとすれば、それは非常に重いものではないでしょうか。
何より、戦争こそは最大の自己犠牲が強いられるものです。
たとえ、それが洗脳や大義名分による嘘とわかっていたとしても、やはり国家的正義の実現を自己犠牲のもとに強いられる事態であることに変わりはないでしょう。
これに対しては、正義とはみんなが納得しなければ成立しないものではないかとの意見が関係しそうです。
たしかに自己犠牲という立派な行為が正義と結びつくことは直感的に理解できるけれども、誰しもそのような厳格な自己犠牲を強いられることには抵抗を覚えるものでしょう。
むしろ、それを前提としている運営される社会システムというのは、戦争状態がまさにそうであるように、相当破綻しかけているのではないでしょうか。
すると、問題は自己犠牲の許容範囲について共通認識が形成されているかという点が、その社会における正義の実現にとって重要であるということになります。

以上の意見や問題提起を踏まえ、まずは「普遍的な正義はありうるか」という論点から議論は深められました。

まず正義は何のために必要とされるのか。
それは誰かの平和や幸福を守るために必要とされるのだけれども、その範囲が国民という枠で語られる場合、それは国家同士の利害対立という事態を招くことになります。
そこにおいて利害対立するもの同士が共有し合える正義はないことが示されますが、果たして国家の枠組みを超える正義はありうるかという問題があります。

これに関しては、果たして正義の共通理解が可能だろうかという問題が関係します。
宗教や文化の多様性は時としてその障害になるでしょう。
そもそも個人の多様性を考えれば、その利害が一致することなどほとんどありえないというのが、普遍的正義に対する懐疑をもたらします。
けれど、戦争など悲惨な出来事は歴史上数あれど、大きい視点で見れば国家の枠を超えて国際的な差別や暴力は縮減される努力がなされてきているのだから、それは少しずつでも普遍的な正義へ向けて歴史は動いているのではないかとの意見も出されました。
たしかに、タテマエとはいえ正義を根拠に戦争を起こすという国家行為は、あからさまに私利私欲によって戦争を起こすことを国際社会が許容しないようになったことに対応するためだともいえそうです。
その意味で言えば、少しずつではあるけれど共通理解を進めながら普遍的正義は実現していっているのかもしれません。
ただし、それは常に正義を称揚することに警戒しつつ進むことに注意が払われました。
すなわち、わたしたちは正義の内実を疑い、考えながら、求め続けるべきものではないかというわけです。
これに関しては、他者の立場に身を置き換えて考えることが、正義の実現に通じていくのではないかとの意見とも符合します。
これらの意見を踏まえると、普遍的な正義とは挫折しつつも、いつか到達できるだろうと希望されるものということができそうです。
むしろ、その希望があるからこそ、人は正義へ向けて行動しようとするものともいえるでしょう。

一方、そうはいっても歴史は勝者の側に正義を独占させてきたという面があります。
国家間の戦争も勝ち残った側にこそ正義の判定が下されてきました。
テロ行為も失敗すれば犯罪者ですが、反政府行動によって政権の座を奪えば、それは正義の実現と評価されます。

また、現実の社会においては多数者の利益を優先することが社会的正義にかなっているという面も指摘されました。
社会が危機に瀕しているとき損害は最小限度にとどめるという意味では、最大多数の利益が優先されるというのは社会的正義にかなった判断だともいえます。
すると、正義とは数の多さや多数派の利益にかなうものだということになりますが、言い換えれば、それは力を持つものこそが正義をもちうるということにも通じるでしょう。

こうしてみると歴史の勝者といい社会的多数派といい、正義を称することには何か権力性を帯びるような面も浮かび上がります。
そして、そこでは「弱いものを助ける」という意味での正義の意味は後退しているようにも思われます。
これに関しては、みんな不正だと思っているにもかかわらず誰もその行為を止めないという例として、学校でのいじめの問題も論じられました。
正義なき力は暴力だが、力なき正義は無力であるということもあります。
そうなると、正義を考える上では「力」との関係を議論する必要もあるようです。

これについて、「俺が正義だ」と前もって言うことは正義とは思えないという意見は興味深いものでした。
というのも、それが正義であるか否かという判断は、実はその周囲の人々やあるいは後の時代の人々といった、実行者以外の人々ができる判断であって、その当の実行者が前もって語る瞬間に胡散臭いものになるというのです。
私たちは時として、歴史の勝者や権力者の所業について「不正である」と判断することがあります。
しかも、それは歴史の敗者や少数者の側に立ちながら、より普遍性を帯びた正義の判断を下す場合があります。
たとえば、正義を振りかざしてイラク戦争を開始したアメリカの行動に対し、国際社会の多くは不正の判断を下しました。
その意味で言えば、力の大小が必ずしも正義の判断と一致するわけではありません。
しかし、問題はそのよう不正の判断が国際社会において示されたにもかかわらず、アメリカの軍事行動をとめることはできませんでした。
すると、これは正義の無力だったのでしょうか。

これについては正義の判断は普遍的に共有される可能性があるけれども、その実践の段階になるとそのことが困難になるという面が指摘されました。
それはやはり正義には力の行使が必要とされなければならないということが確認されます。
国家であれば裁判所を中心とした司法権がそれを担わなければならないでしょう。
しかし、その反面、ここには力の行使が正義を損なうという面も指摘されます。
判断において普遍性を帯びていたものが、いざその実現に向けて行動すると不正を帯びるという問題は、やはり国際社会において紛争を中止させるために武力介入する問題において生じるでしょう。
果たして、正義の判断と実践という問題でまたもやアポリアに陥ってしまったように思われます。

今回の議論は普遍的な正義を求めつつも、しかしなぜかそれを語ることへの違和感が入り混じりながら活発に展開しました。
毎度のことですが議論はこれに尽きません。
不正を犯したことに対する正義の回復と死刑の問題、あるいは何を持って公正としての正義を実現できるのかといった問題など、まだまだ語り合うべき課題は数多く積み残したまま終了せざるを得ませんでした。
しかし、正義に関するてつがくカフェは、これを皮切りに具体的なテーマを変えながら引き続き取り組んでいきたいと考えておりますので、今後にご期待下さい。

お忙しい中、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
回を重ねるごとに議論の密度が濃くなっているように思います。
さらなる活性化を期して、ファシリテータとして技量を磨くことに邁進していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

第4回カフェ報告

2011年08月28日 13時30分08秒 | 定例てつがくカフェ記録


第4回テーマ「血は水よりも濃いのか?―家族はどこまで他人か?―」

「血は水よりも濃いのか?」
この言葉は、家族のつながりの強さは他人以上であるという意味で用いられます。
しかし、この場合の「血」とは何か?「水」とは何か?「濃い」とは何か?
その内容をめぐって、そしてその関係性の優劣をめぐって議論は深められました。

まず「血」といった場合、それは血のつながった家族を指し、「水」といった場合はそれ以外の他人を指すものです。
「濃い」とはその血のつながりのゆえに、家族同士の愛情は深いのだという意味でしょう。
けれど、「生みの親より育ての親」という言葉もあるように、単なる血のつながりだけでは愛情の深さを意味しないのではないでしょうか?
これについては、ほとんどの参加者がテーマの問いに対して「NO」と答えていることからも確認されました。
しかし、「NO」と答えるにもかかわらず、「あたたかい家族が欲しい」や「子どもは欲しい」、「神から与えられた生殖機能は使わなければならない、子どもを持つことは義務である」との意見も少なくありません。
これはどうしたことでしょう?

これについては「家族だから愛情が深い」のではなく、苦楽をともに共有できるからこそ関係性が深くなるのであり、その「存在」が家族なのだという意見が挙げられました。
つまり、そのような関係性はやはり必要だというわけです。
「愛とはともに過ごす時間である」という考えからすれば、その通りでしょう。
すると、「血」とは必ずしも生物学的な意味で用いられるものでもなさそうです。
実際、参加者の中には、血縁関係にはない他人同士の共同生活をされた方から家族との異同はないとの意見も出されました。
けれど一方で、その共同性が最終的に死の看取りや介護などまで可能かといわれると、それはよくわからないとのことでした。

そこには「他人はしない(できない)けれど、家族にはする(できる)こと」があるのはなぜか、という問いが含まれています。
たとえば、介護において排泄処理は家族だからできるとか、他の子にはしないけれども自分の子には躾と称して暴力を振るえるなど、身体的なものへの直接性が家族においては認められているように思われます。
実は、これはDV(ドメスティックバイオレンス)のように、もっとも安心できる領域だとされてきたはずの親密圏において、なぜ深刻な暴力が可能になってしまうのかという問題とも密接です。
意見の中には「家族には弱みを見せることができる」が、それは家族に暴力を振るうこととの関連性も指摘されました。
というのも「暴力」とは「弱さ」の現れだからです。

この問いに対しては、逆に家族だからこそ排泄処理などはして欲しくない、むしろ他人の方が気楽に任せられるとの意見も出されました。
にもかかわらず、親-子関係において「イライラする」感情が生じてしまうのは、それが親子同士で「似ている」部分が見えるがゆえにであるとの意見が出されました。
ということは、「似ている」がゆえに暴力も可能になる、なぜならそれは自分だからという理屈も成り立ちます。

実際、親子とは自分と鏡の関係であり、知らない自分を映し出す関係性であるとの意見も出されました。
しばしば「近親憎悪」という言葉も用いられますが、その意味で言うと「血」とは生物学的に否応なく似る部分を共有してしまうがゆえに生じる愛憎関係のことかもしれません。
よく「愛」と「憎しみ」は表裏一体のものだといわれますが、その意味で言うと、この「血」によって「似る」ことが愛憎を生み出すということでしょうか。
すると逆に、「血」が「濃い」とは、家族関係には無条件に「無償の愛」が備わるという意味も含まれます。
果たして、この家族への「無償の愛」とは生来的に備わるものなのでしょうか?
もちろん「備わる」との意見もあります。「備わると思いたい」との意見もあります。

それについて、やはりDVとの関わりから興味深い意見が提起されました。
しばしば虐待を受ける子どもはその被害を親を庇うかのように、その事実を隠すことがあると指摘されます。
実は、それが、子どもがDVという暴力空間で生きるための対処術として用いる「無償の愛」という論理だというのです。
どのような意味か?
その意見によれば、子どもは交換的な愛によって生きることはできません。
「これができればこれをあげるよ」といったやりとりでは、身がもたないからです。
子どもは無条件に与えられる贈与としての愛がなければ生きていけない存在なのです。
もちろん親にしてみれば、わが身の分身である子どもに対する所有欲やエゴイズムの現われとしての行為があるでしょう。
DVはその極端化した現象です。
しかし、子どもにしてみれば、それが無償の愛の現れだとみなさなければ生きていけない。
さもなければ親から見捨てられたことを意味し、その子の生命は危機を意味するからです。
すると、親から無償の愛を受けているとみなさなければ生きていけない子どもにしてみれば、それが親を庇う=自分を守る行為として転化されるというわけです。
その意味で子どもにとって家族に備わる「無償の愛」とは、生きるために「あるべきもの」とみなさざるをえないものとなるわけです。
しかし、そうであるがゆえに、それは「偽装の無償の愛」という装置なのです。
なぜなら、「血」とはそれが無条件に備わっている関係性のことだと、説明なしに納得させるためのメタファーとして機能するものだからです。

これについては、歴史的にみても「血」という言葉が、説明なしに何かを結束させる力が働くメタファーとして機能してきたことを指摘する意見もありました。
しばしば家族や父性・母性の復権を求める主張が、個人主義化を批判し共同性を回復するために機能するというのはこの文脈において理解できるでしょう。
その一方で、それがヒップホップの歌詞に散見されるなど、最近の若者文化に現れているのはなぜなのかという問題提起もありました。

さて、この重い意見との関わりでは、次の意見も大切であるように思われます。
その意見によれば、家族とは自分の行動が制限される「邪魔な存在」であるにもかかわらず、「離れたくても離れられない」関係性だということです。
たとえば、日本では犯罪加害者の家族を同罪とみなすような文化があるいとされます。
その罪を当人以外に拡大させることは非合理以外の何ものでもありません。
にもかかわらず、その意見によれば法的な意味での罪ではなく、一緒に抱えていくような義務が家族にあるというのです。
なぜなら、それは「血」であるがゆえにそうだというのです。
興味深かったのは、これがけっして家族には愛が存在するからということではなく、家族とはそれを抱える関係性そのものをさすものだという点です。
したがって、その関係性においては「無償の愛」があるからではなく、「無償の愛」があるとみなさなければ、家族関係で阻害されることそのものを納得できない、自由を制限されることがやりきれないからだというのです。
これを先に挙げた「偽装の無償の愛」と呼ぶには躊躇われますが、しかし「愛」があるとみなさなければ生きていけない関係性という意味では、奇妙に符合する議論であったように思われます。

私(渡部)が個人的にこの意見を聞きながら思い出すことは、やはり親に対する子どもの家庭内暴力においても、やはり責任感が強い親ほど「自分の子どもだから」との意識から、すべてを家族だけで抱え込むケースを思い起こします。
そこにおいてもやはり「親は子どもを愛すべきもの」とみなす論理が、無条件に備わっていたのではないでしょうか。
そうであるがゆえに最悪の結末に至ったケースさえあるでしょう。
どうも、「血」が「濃い」という論理が生来自然に備わるものとみなすことには、そのような暴力性が孕んでいるように思えてならないのですが(個人的な事情が強すぎるのでしょうか・・・)。
むしろ、血縁を超えた関係による新しい関係性は時代を追うごとに多様性を増しているように思われます(フランスのPACS法しかり)。
それがよいとか悪いとか言う議論を超えて、社会自体がその関係性によってしか成り立たなくなっているのかもしれません。
その意味で言うと、「血」に結束を収斂させようとする議論は、もはや時代のスピードに追いついていないのではないでしょうか?

さて、議論は「血」と「水」、「濃い」という点に集中したため、ファシリテータとしては迂闊にも「家族はどこまで他人か?」という点について深めることを疎かにしてしまいました。
ただし、この点に関しては親の期待をどこまで子どもが背負わされるのか、という問いについて提起させていただきました。
親の世代には成し遂げられなかったことを子どもに代理させる問題、つまり分身とみなす親のエゴイズムへの問いです。
親に自分が他者であることを教えてあげるのは子どもだけではないでしょうか。
これについては、先行世代の欲望が次世代で成し遂げられてしまう時代のスピードが早くなっているがゆえに、その代理のエゴイズムが強くなっているとの意見も出されました。
いずれにせよ、この点については宿題として積み残した感があります。

毎度のことですが議論はこれに尽きませんでしたが、そのすべては書ききれません。
あるいは書き手の誤解に基づく解釈になっているかもしれません。
その点につき、、ご参加いただいた方には、ぜひコメントにてファシリテータが見逃した議論をお書きいただければ幸いです。
また、参加されなかった方もどんどんお書きいただき、ブログ上での議論が活発化すれば幸いです。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

第3回カフェ報告

2011年08月07日 11時13分42秒 | 定例てつがくカフェ記録




昨日、「〈男女〉の友情は成り立つのか?」というテーマで第3回カフェが開催されました。
参加人数はこれまで最多の17名です。

まず、議論はテーマについて「YES」か「NO」で答えながら、その理由を挙げていくことから始まりました。
「NO」側の意見では、男女のいずれか片方が[特別な感情」、「好き」、「一緒にいたい」など、恋愛感情を抱くことで友情は成立しないとの理由が挙げられます。
また、男女の友情は瞬間的には成り立つが、長期的に見れば難しいとの意見も挙げられました。
この意見もまた、異性に対する恋愛感情が芽生えることで、その持続的な友情関係は成り立たないとの理由が含まれます。
さらに、最初は友達でいても、すぐに恋愛感情を抱いてしまい友情関係が崩れてしまうのは「子ども」であるとの意見も出されました。
以上の点を踏まえ、男女の友情は一部成り立つかもしれないけれど、そのあいだに恋愛へ陥る可能性がある以上、男女間での友情は成り立ちがたいとの結論が導き出されました。

それに対して「YES」側の意見で興味深かったのは、たしかに「NO」の意見にあるように現実には難しいけれども、「男女の友情は成り立ってほしい」という理想を求める意見が目立ったことです。
どうもそこには、恋愛感情よりも友情の方に価値があるとの見方が含まれているようです。
恋愛の延長線上に友情があるとの意見も、そのことを示す見方の一つでしょう。
恋愛は瞬間的な一過性の感情であり、相手との関係性を大切にしようとすれば、それは自ずと持続性を求めるものであり、それこそが友情関係であるとのことになります。
たしかに、恋愛関係にピリオドが打たれてもなお二人の関係が継続できるかという問題は、男女の友情/恋愛を語る上で欠かせません。
そして、そこを乗り越えてなお持続できるものが、「真」の友情だということかもしれません。
では、それは可能なのでしょうか?
ある意見によれば、性的関係も含め「欲」を求める「本能」を共有し合える関係性が「情」であり、その求め合いを超えたところに成り立つものが「友情」だとのことです。
しかも、それはお互いの「信頼」を強いものにすることで現実に可能であるというのです。
どこか老成した境地という印象も否めませんが、親密圏でくり広げられる「ぐちゃぐちゃなもの」や、相手へ求めることから解放された関係という意味で、どこか「男-女」の枠を越えた理想的な関係性が現実的であるというこの意見は、個人的には大変興味深いものです。

一方、その意見に対しては、まったく「ザワザワしない」人と友だちになりたいだろうか。そんな疑問も出されました。
この「ザワザワする/しない」という感情は、相手から感じる魅力とでもいえばよいでしょうか。
その魅力が恋愛に関係するものなのか、友情に関係するものなのかはいま一つ判然としませんが、ともかく「ザワザワする」感情が男女の恋愛/友情を分けるキーワードとして頻繁に議論の中で出されたものです。

また、男女の友情が継続する条件、それを阻害する条件は何かという議論に展開します。
恋愛感情がその一つであることは既に確認されましたが、さらに「結婚」が一つの危機であるとの意見が出されました。
結婚自体は同性/異性の友人に関係なく、その友情の持続が試される機会だとの意見もありましたが、しかし異性の友人が結婚した場合は、やはりそのパートナーの存在が阻害要因であることは否定できないようです。
自分のパートナーの嫉妬や感情を害することを考えれば、自ずと異性の友人関係は疎遠になっていくでしょう。
けれど、参加者の中には友人関係も大切にしていきたいと思い、自分のパートナーに異性の友人を紹介しながら、新たな信頼関係を構築していく必要があるなどの工夫が紹介されました。

さらに議論は、「友情」と「愛情」の違いに向かいました。
ある参加者によれば、何か目的を共有しているあいだは「ザワザワ」せずに異性と関係性をとることができるため、「目的の共有」が男女の友情を可能にするのではないかとのことです。
それに対しては、前回の「〈ともだち〉とは誰か?」で議論されたように、友人とは何かの目的や利害関係を超えて持続する関係をさすものであり、それは「仲間」というものではないかとの意見が出されました。
そして、その共通目的や利害を超えた友人関係は「開かれた」ものであるようです。
それに対して「愛情」は相手を大切にしたいという意味では「友情」と共通しますが、見返りを求めない利他的な感情であり、恋愛感情が解消されてもなお持続する、より深い感情であることが確認されました。
しかし、そうであるがゆえに「愛情」は排他的で閉鎖的な関係性を意味します。
そこに男女の友情関係を成り立たせない要素も見出せそうです。

議論の後半に入ると、そもそもなぜこのテーマのような問いが生まれるのか、といった点に疑問が投げかけられました。
つまりこの問い自体が、どこか「男女の友情関係は社会的にヤバイものだ」との意識が反映されているのではないかとのことです。
ここであらためて「性的魅力」や「肉欲」という問題に触れられましたが、アジア圏より欧米圏での方が男女を友人関係とみなしてつきあえる文化圏ではないか、との興味深い経験談も出されました。
すると、この男女の友情という問題はその社会文化に影響を受けたものであり、ひょっとすると性的欲求すら文化的に規定されたものかもしれないとの仮説も成り立ちます。
さらにいえば、セックスが可能な友情関係もありうるのかといった、過激な論点も提起されました。
男女の友情の成立が、果たして文化相対的な問題なのかという点には疑問も投げかけられましたが、いずれにせよ大変興味深い議論でした。

最後にファシリテータの方から、男女の友情関係を理想としたいとした参加者に、その理由の説明を求めさせていただきました。
ある若い参加者からは、教育実習で高校生に向けて「一番の親友はこの人だ」と異性の写真を紹介したところ、非常に驚かれたという経験談が聞かせていただきました。
やはり高校生にとっても、異性が親友という事実は衝撃的なようです。
その上でその参加者は、「男-女」という異質なもの同士が、「友情」という関係性のもとでお互いに欠けた部分を補い合いながら、多様性が構築されていくのではないかとの意見が出されました。
友情が異質なもの同士の多様性を紡ぎだすということに希望を抱かされる一言でした。

今回の議論では、異性愛を前提に議論が交わされましたが、そこには同性愛の友情の問題が欠けていたことは否定できません。
今後、その点も含めた議論がさらに展開できることを期して、第3回カフェ報告に代えさせていただきます。

第2回カフェ報告

2011年06月26日 11時02分18秒 | 定例てつがくカフェ記録




「第2回てつがくカフェ@ふくしま」(2011.6.25開催) は 「〈ともだち〉 とは誰か?」 のテーマのもと、14名の参加者で行われました。

まず、自己紹介とともに 「友だち」 という言葉をめぐって、各々の関心について語っていただきました。
中でも、自分が 「友だち」 だと思っていた相手から 「あなたは友だちじゃない」 と言われたという経験談などからは、
「友だち」関係が相互承認に基づくものなのかという論点が浮かび上がりました。
たしかに、「友だち」関係においてはいちいちお互いに 「私たち、友だちだよね?」 と確認し合うことはないでしょう。
その意味で言うと、恋愛関係においては互いに「愛しているよね?」と確認し合わなければ不安であるのに対して、
友だち関係にはお互いに確認し合うことで何かが崩落してしまうかのような不安があるのかもしれないとの意見が出されました。

この不安は、ある参加者の「友だちとは関係を固定化する枠」 という発言と関係するかもしれません。
それによれば、「友だち」とは 「あたたかいもの」 であると同時に、「行動を制限するこわいもの」 だとのことです。
たとえば、友だちと同じ相手を好きになってしまった場合、
「友だち」関係を壊すような抜け駆けをするわけにはいかないと、
自分の恋愛行動にどこかブレーキをかけてしまうそうです。
つまり、「友だち」は行動の選択に際して自由度を広げるものではなく、
むしろその関係性を壊さない範囲で自由を認めるような圧力を強いる存在のようです。
そして、こうした圧力的な関係性がいわゆる「女子校」 特有の「友だち」関係と関連づけて語られたことは印象的でした。
これは男女の友情観の違いとも関連しますが、参加者によれば 「女子校」 での 「グループつきあい」 の排他性は凄まじいまでの暴力性を帯び、そこにおいて単独行動することはその空間での生命の危機を意味するそうです。
しかし、果たしてそれが「友だち」と呼ぶものなのでしょうか。
むしろ、それはその集団内空間で生き残るための 「派閥」 なのではないか。そんな意見も出されました。

また、こうした 「友だち」 関係が暴力性を帯びる背景には、
実際の友だち関係が形成される以前に、「友だち関係とはかくあるべし!」 といった「友だち規範」のようなものがあり、それに束縛されてしまっている面があるのではないかとの指摘も挙げられました。

こうしてみると 「友だち」 とは、何か自分を苦しませる存在や関係性であるかのように思えてきます。
しかしながら、これらの意見に対してある参加者からは、年齢を積み重ねるとともに、
その「枠」 から解放されていくような気がするとの意見が出されました。
その意見によれば、若いころはたしかにこの閉じた 「友だち」 関係の「枠」に苦しんだものの、
年齢とともに少しずつ自分でその相手や関係のとり方を選べる余裕が身につくと、
「友だち」 関係から自由になったように思うとのことです。
つまり、自分が相手とどのような関係性を取りうるかという「自由」 が保障されることが、
「友だち」とは何かを問う際に重要な要素となるというわけです。

さらに、この 「自由」 というキーワードは 「親友」 という概念にとっても重要であることが確認されました。
私たちは数ある友だちのなかでも、格別の存在に 「親友」 という名を宛がいます。
そこにおいて 「親友」 は 「何でも話せる」、「甘えられる」 存在で、
時には互いの壁を突き破ってケンカすることができる 「素をさらけ出せる存在」 といってよいでしょう。
しかし、この「裏表なく自分の素をさらけ出せるのが親友」との定義は、
時として「素をさらけ出せなければ真の友達ではない」というプレッシャーを与える「友だち規範」にもなりかねません。
あるいは、「親友」もまた 「恋人」 のような距離の「近さ」や、
1対1といった関係性において成り立つものであるとすれば、そこには必然的に排他性も備わるでしょう。
しかし、そこに「自由」 というキーワードから読み解くならば、
むしろそれは 「素をさらけ出す/出さない」 自由が保障される関係性こそが「親友」の名にふさわしいということになります。
さらにいえば、そこには相手との自由な距離感が確保された関係性を見ることが可能かもしれません。

ある参加者からは、「友情とは 、二つの人格が等しい愛と尊敬によって一つに結びつくことである」(『道徳形而上学』) というカントの思想が紹介されました。
それによれば、理想的な親友関係とは、友情とは人を引きつける「愛」の「引力」と相手を「尊敬」するがゆえに距離をとる 「斥力」とのバランスにおいて実現するとのことです。
すると、「素をさらけ出す/出さない」自由の緊張とは、この「愛の引力」と「尊敬の斥力」のバランスにおいて実現されるものなのかもしれません。

最後に、「友だち」とはいかにして成立するものなのか、という論点に関して。
参加者の一人は「友だちになってほしい」と言われた経験があるとのことでしたが、
これについては「友だち」とは意図的に作り上げられるようなものではなく、
自然になるものではないかとの意見が出されました。
それについて、また別の参加者からは、「友だち」は同じ苦しみや目的が共有される過程で形成される何かではないかとの意見が出されました。
「戦友」や「同志」といった存在はそのような経験を共有する中で形成されていくものでしょう。
しかし、その一方でまた別の参加者からは、
ある目的が達成されてしまったあとにその関係性が持続しなくなった問題をどう考えればよいかとの問いも出されました。
すなわち、同じ部活動において、同じ職場においてともに共通の目的に向かって協働したもの同士が、
その目的達成後には、その関係も自然と解消されていった状況をそう考えればよいのかといった問題です。
果たしてこの関係性は「友だち」なのか?
これについては利害を共有したもの同士で持続するのは、
「友だち」ではなく「仲間」ではないかとの意見が出されました。
そして「〈ほんとう〉の友だち」とは、そうした利害関係がなくなっても、
なお持続する関係性を指すのではないかというわけです。
では、利害を超えてなお持続可能な 「友だち」 関係が持続する条件とは何でしょうか?
ある参加者によれば、その人への「信用」であるとのことです。

さらにつっこんで、思想も言動も何もかもまったく相反する立場(つまり敵)にある相手を「友だち」とすることは可能でしょうか?
ある参加者からは、それが可能であるためには、その人の思想や言動の「本気度」が条件であるとのことです。
ある人の思想や言動をまったく受け入れられないとしても、
その人が自分の思想や言動を本気でなそうとする限りにおいて、
それは「尊敬」に値するものとして「友だち」関係は可能ではないだろうかというわけです。
しかし、現実においてそれはありうるのでしょうか?
そんな疑問を投げかけつつ、しかしそれは不可能な「友だち」、
つまり来るべき理想としての「友だち」として考えるならば、非常に興味深い考え方であるといえるでしょう。
ちなみにその発言者は 「そうであるがゆえに自分には友だちがいない」 とまでおっしゃっていたことがとても印象的でした。

為された議論は以上に尽きるものではありません。
しかし、残念ですがそのすべてをここに書き記すことはできません。
とはいえ、今回の議論では「友だち」とは何か、
その条件をめぐって参加者の皆さんから重要なキーワードがいくつも提起されながら建設的な議論が展開されたように思われます。
こうした貴重な経験を皆さんで共有しあいながら、次回もまた有意義な哲学的対話を実現していきたいと思います。
ぜひ、次回も多数のご参加をお待ち申し上げます。

なおご参加いただけた皆様にはコメントやメッセージ欄、あるいはメーリングリストをご利用の上で議論を引き続き交わせれば幸いです。
ぜひ、そちらにもメッセージをお寄せ下さい。

第1回カフェ報告

2011年05月23日 08時13分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
「いま、〈ふくしま〉 で哲学するとは?」

3.11以降、「フクシマ」 は特別な意味に変わってしまいました。
その地において哲学するとは、どのような意味があるのだろうか。
そのことを第1回のテーマとして参加者とともに考えてみたい。
まずは主催者側から、そのような趣旨を説明させていただいた上で、
3.11以降の 〈出来事〉 の意味を参加者から意見を出していただきながら議論に入っていきました。

まず、この 〈出来事〉 のさなかに考えようとしても、
誰かと面と向かって話すことができずに頭が整理されないままだったという意見、
自分がこの状況において何もできないことや、なぜあの人が犠牲になり自分が生き残ったのか、
その問いに答えが出ないことがわかっていながら考え続けてしまう自分、
逆に考えることに疲れ、思考停止した方が楽だったという意見など、
この 〈出来事〉 の意味に答えが出せないことの苦しみが出されました。
これに関しては、やはり震災をテーマにした東京の哲学カフェでは、
体験の共有に終始したというお話が挙げられましたが、
そこにもまたこの 〈出来事〉 の意味の捉え難さが示されています。

しかしながら、そのように理解不能な状況であるからこそ、
言語化することによって整理する必要があるとの意見も出されました。
それについては、自助やセルフカウンセリング的な癒しの効果を期待する意見が挙げられました。
むしろ、食糧難に見舞われる被災状況の中では、生命維持や生活のために必要なものとは違った意味で、
この事態を言語化する機会の必要性を感じたとの意見も出されました。
もちろん、言語化すること自体がロゴスを纏う哲学の本質的な部分と関わることは言うまでもありません。
では、「哲学する」 とはカウンセリングや自己確認のためのお喋りのことなのでしょうか?
もちろん、それとは重なる部分があるにしても、それらとは異なる哲学の固有性を析出してみたい、
実はそんな思いが主催者側にはありました。

これについて議論では、単なるお喋りとは区別される 〈対話〉 と哲学の結びつきが指摘されました。
その意見によれば、〈対話〉 とは相手との意見とのぶつかり合いの中で
相互の異質性を際立たせながら展開されるものであるとのことです。
その点で、今回の哲学カフェのテーマは対立点や論点が明確化しにくいとの指摘もありましたが、
たしかに哲学カフェの醍醐味もこうした他者との異質な意見の交錯にあるといえるでしょう。
しかし、これに対しては論争的ではないまでも、多様な意見が出される中で、
各人がそれを受け止めながら自分の思考を深めたり変容させたりする要素として、
他者の意見を聞く意味があるのではないかとの意見も提起されました。
いずれにせよ、哲学カフェの本質や課題を衝く議論であったように思われますし、
この問いは哲学カフェを続ける中で常に問い続ける必要があるように思われます。

一方、この出来事によって 「自分が何をなすべきか」 が明確に認識できたという意見が挙げられました。
このように、この 〈出来事〉 によって日常では気づかなかった目線の変更というものは、
災害によって当たり前のことが当たり前ではないことに気づかされたり、
誰かがそばにいてくれることの有難さをみつけたという意見にも見られたものです。
また、この究極の共通話題として、それまで無関心であった政治に、
本気で向き合わなければならないことに気づかされたとの意見、
国家や社会の根底にあるものが露呈されたという意見も挙げられました。

これらの意見からは、この 〈出来事〉 によって
「本来的なもの」 が見えてきたり認識されたりする様子が窺われますが、
では、人はこうした危機においてしか本来性に目覚めないということなのでしょうか?
いずれにせよ、この 〈出来事〉 をめぐって答えが出ない問いに悩まされる意見と、
顕現する何かに気づかされたという意見とのあいだには大きな振幅があるように思われました。

また、今回のテーマでは、この 〈出来事〉 を意味づける過程で、
〈出来事〉 そのものが縮んでしまったのではないかという論点が提起されました。
つまり、何かこの 〈出来事〉 をめぐっては、
現場にいる者 (被災者、救援者、ボランティアなど) だけが 〈出来事〉 を語る資格があり、
その外部にある者は口をつぐまなければならないかのように、
価値観が一元化されてはいないだろうかという問いです。
そして、それはこの 〈出来事〉 に際して自分は何もできないという
「後ろめたさ」 とも結びついているでしょう。
あるいは、私たちが感じた 「こんなときに哲学などやっている場合だろうか…」 という躊躇感も、
それに関係しているのかもしれません。
しかし、その意見によれば 〈出来事〉 を問うこととは、
そうした目に見えたり経験される範囲のものへの解釈ばかりではなく、
もっと 「見えないこと」 への解釈といった拡がりのあるものだということです。
そして、そこにおいて哲学は即効性のある支援や活動とは異なるスピード感をもった営みとして、
つまり、この 〈出来事〉 の見えない部分を含めた意味づけや思考を可能にする営みとして
役割をもつものではないかというのです。
もし、このような意味において哲学カフェの可能性が開かれているのだとすれば、
私たち、「てつがくカフェ@ふくしま」 の始まりに希望の光が与えられたような気がします。

今回は3.11以後の 「てつがくカフェ@ふくしま」 の旗揚げ的な意味で、
テーマを設定させていただきました。
しかし、テーマの難しさや重さ、何よりファシリテータの未熟さから、
論点を散逸させるばかりで、参加者同士の対話をかみ合わせることが不十分なものになってしまい、
参加された皆様には不満足感が残ったのではないかと反省しております。
とはいえ、以上の報告からも明らかなように、参加者から提起された論点はきわめて興味深く、
今後の哲学カフェを取り組む中で明らかにしていきたいようなものばかりでした。
そのような成果を得られたことは参加いただいた方々のご発言のおかげであり、
世話人としてもカフェ運営の研鑽に努めながら、
今後とも 「哲学/カフェとは何か?」 を追求して参りたいと思います。
参加された皆様におかれましても、これに懲りずまたのご参加を心よりお待ち申し上げます。