てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第10回カフェ報告

2012年05月20日 21時25分15秒 | 定例てつがくカフェ記録


昨年5月22日にスタートしたてつがくカフェ@ふくしまも、おかげさまで1周年を迎えました。
あの頃はいつまで続くのか、参加者などいるのかなど、先の見えない不安とともに始めたものです。
けれど、今では毎回20人を越える参加者に恵まれ、とても豊かな時間を過ごさせていただいております。
昨日開かれた第10回も23名の方々にお集まりいただきました。
今回は初めて高校生の参加者もありました。
特別編第2弾で参加してくれた中学生に引き続き、福島の幅広い年齢層に少しずつ哲学カフェの文化が浸透しているようで、とても嬉しく思います。

さて、昨日のテーマは「切実な〈私〉と〈公〉、どちらを選ぶべきか?」です。
このテーマはどうしても震災原発事故と切り離せない問題です。
放射能の恐怖の中、自分の家族を守るために避難すべき(私)か、それとも事故のさなかに自らの職務を遂行すべき(公)か。
事前にその葛藤に苦しむ看護師たちの事例を挙げさせていただいたのですが、もちろん様々な職業・立場でこの問題に悩まされた人は少なくなかったでしょう。
この問いの設定自体、的を射ているかどうか難しいところですが、まずは様々な意見を出してもらうことから会は始められました。

ある学生の参加者は、南相馬市の消防士である友人が災害現場へ戻ろうとすることに対し、止めたくても何もいえなかった経験を語ってくれました。
そして、その後もそのことについて友人には何もいえないといいます。
その理由について、自分は学生で職責も何もない立場だからこそ、彼の職業上の「責任」に対して何もいえなかったといいます。
この「責任」という概念については別の参加者から3つの分類が示されました。
それによれば、
①自分の財産や生命を守るための「自然的普遍的義務」、
②自ら契約を結ぶことによって生じる「自発的責務」、
③自らが所属する集団(地域や家族など)に対する「忠誠心」という義務
に分けられるとのことです。
たとえば、看護師のケースに関していえば、看護師としての職を自ら選び契約したという点で②の義務が発生すると同時に、母親という立場において子どもの生命を守る義務という点で①、さらに家族を守るという点で③の義務が発生します。
つまり、ここには看護師としての②の義務と母親としての①③義務との衝突という構図が認められることになります。
そして、いずれの立場を選択するかはその人の価値観の問題であるというのです。

なるほど、この意見によって問題の構図は明確化されました。
しかしこの構図に対しては、看護師対母親という立場がそんなに明確に対立しあうだろうかという疑問が出されます。
ある参加者は、母親の〈公〉の職責は子どもになんとなく伝わるものであり、そこで母子の同意が成り立つ関係性なのだから、どちらを優先したとしてもそこに対立は生まれないといいます。
また、別の参加者によれば、そのような対立軸があったとしても95%の女性であれば子どもの生命を守る〈私〉を優先するものだといいます。
「我が子である」という事実をもって、それは〈私事〉が最優先されるべき価値であるというわけです。
しかしこれに対しては、児童虐待の問題から考えても、母親だからといって無条件に「我が子を愛する」という価値はけっして絶対的な価値として引き出せないのではないかとの意見も出されました。
そもそも看護師という職は公/私を明確に分けられるのだろうか?
この職においては、もっとその境界は揺らぎつつ越えてしまうのではないか。
その意見によれば、事務職が誰にでもできる代替可能な職務であるのに対し、ケアに関わる看護師という職務はその患者にとって「かけがえのない存在」となるものであり、逆に看護師にとっても患者という存在は「かけがえのない存在」として関わるのであって、そこに公/私の揺らぎがあるのではないかといいます。
つまり、そこには単純に立場によって種類が異なる責任同士の対立軸が、それほど明確ではないということが示されるわけです。

では、いったい何が避難すべきか、職務に留まるべきかという選択を分けたのでしょうか?
そもそもテーマを設定した者(渡部)としては、なぜ〈私〉的なことを選択した際に〈負い目〉を抱くケースが多いのだろうかという疑問が根底にありました。
その点について問いを投げかけたところ、その〈負い目〉とは自分の〈私事〉の選択が誰かの〈私事〉を犠牲にして成り立つがゆえに生じるのではないかという意見が出されました。
さらに、その職責に対する社会的な期待が高いというのもその〈負い目〉を生じさせるのではないかとの意見も挙げられます。
しかし、どちらの選択をしたとしても正解はない。
それと同時に、どちらを選択したとしても結局〈負い目〉は生じるのではないか。
その瞬間の選択は、まさに〈偶然〉としか言いようのないもので、正しいかどうかはわからないがゆえに、その状況下において〈負い目〉は必然的に避けられないものとして現れるのでしょう。

次第に論点は「そもそも公/私などそれほど明確に分けられるのか?」という点に移っていきました。
ある参加者は、いわゆる〈公〉には「責任」や「美徳」、「ヒーロー」など「男っぽい(マッチョ)」イメージがある一方、〈私〉には「子どもを守る」など弱々しいイメージがあるといいます。
ここには〈公〉なるものが社会的に賞賛される事柄であるのに対し、〈私〉なるものは社会的に晒せないもの、晒せばみっともないものという意味が含まれることが抽出できます。
また、〈公〉には「世間」や「故郷」といったもの抑圧的なものをイメージするという意見も出されました。
そのことを東北独特の共同体的な抑圧とみる意見も出されます。
これらの意見から見えることは、それまでの議論に挙げられた〈公〉が職業や組織、集団といった割と領域が明確なものとしてきた対象であったのに対し、目に見えない力のようなものをイメージしているようです。
実際、〈私〉は目の前の他者や家族といった具体的に目に見える対象であるのに対し、〈公〉は国家や集団といった目に見えない対象であるとする意見も出されました。
ただし、その〈公〉は〈私〉のために存在するのだし、できる限り多くの〈私〉が幸福になれるために存在するはずだといいま
す。

すると、次第に議論のなかで公/私の境目が重なり合いつつ、境界が曖昧に揺れ始めます。
職務を全うすることは〈公〉のためだけれど、しかし〈私〉を優先して避難した人たちでもそのことによって社会的な利益をもたらしていることだってあるじゃないか。
逆に、むしろ公的と思われていた職務の遂行が実は個人(私)的な意欲の現れの場合だってあるではないか。
マスコミ記者が社命として福島からの退避命令が出たにもかかわらず、新聞記者として取材しなければならないと現地に戻った例などは、職責というよりも個人(私)的な意欲に基づいた行為だったはずだ。
原発事故から家族を守るために避難した人たちも、「家族」という最小単位の集団=〈公〉を守るための選択だったといえるのではないか。
このように考えると、〈公〉=職務/〈私〉=家庭という単純な二分法では割り切れないことが浮き彫りにされてきました。

実は〈私〉のための選択が〈公〉のことに通じているのではないか。
そうした意見が次第に挙げられ始めました。
たとえば、三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」は津波が襲って来たら、周囲になりふり構わず高台へ上れという教訓が含まれていますが、それはその被災地域を復興するための人材を残す事であり、結果的にその集団の存続を維持する〈公〉につながるのだという意見も挙げられます。
ある集団はその集団の存続を維持するために強力な「倫理観」を必要としますが、それは結果的に個人を守る〈公〉を存続するために人間が作り出してきた文化といえるでしょう。
それは個人主義の現代にあっては当たり前に思えるかもしれませんが、人類は無意識に(?)〈私〉を守るものとしての〈公〉の存続を可能にする知恵を作り続けて来たのではないでしょうか。

さて、議論も終盤に入り、論点は消防士や警察官、看護師、教員といった「専門職」にとって切実な〈私〉を優先することの価値判断は可能か?といった点に絞られました。
これらは誰にでも代行できない専門性を必要とする職といった意味で公共性が高く、またそうであるがゆえに一段高い職業倫理観がなければ成り立たない職といえます。
ある参加者は、自衛官と対話した経験をもとに、彼らの「人に役に立ちたい」といった意志がそのまま職責と一致しているという意味で、専門職に就く人々はその就職選択の時点で〈私〉はありえないといいます。
つまり、その職責の前提である自らの意志には滅私の「覚悟」が含まれていなければならないということでしょう。
これについて、総理大臣が国外逃亡した場合、私たちはその行為が〈公〉に反すると判断するする場合、何を以ってそう判断するのかという問いが投げかけられました。
この根底には、私たちがその職に何を期待しているのかその根拠は何かという問いが含まれています。
さらに、それは職によってその期待度のレベルが異なるのか、異なるとすればどう異なるのかという問いも投げかけられました。
とりわけ、教職を目指す参加者からは教員の職業倫理と公/私の問題をどう考えればよいかとの問いも挙げられました。
これは筆者に差し向けられた問いでもあります。
ファシリテーターの立場上どう答えればよいか迷いもありましたが、〈3.11〉の経験を踏まえ私は次のように考えたことを発言させていただきました。
その場では言葉足らずだったと思うので、少し補足しながら書かせていただきます。

あのとき、放射能が拡散する状況下で「個人的には(避難しないと)まずいと思うけれど、立場上それは言えない」という言葉を何度か耳にしたことがあります。
公務員という「立場」上、国や県の決定に従うことがその職務上の義務となります。
上の判断と異なる判断に基づいて行動することは、「立場」上禁じられているものです。
その命令系統が個人的な判断で狂わされては成り立たないのが官僚制であり、その命令に従うものこそ〈公〉職に就くものの責任義務に他なりません。
しかし、これが〈公〉的なふるまいなのだろうか?そんなことをその言葉から根本的に考えさせられたものです。
「自ら考え、判断できる」ような人間を育てること。
それが教育公務員の職業上の責務の一つだとすれば、自らの思いや考えを停止させ、命令系統の下にある立場を貫くことはむしろ〈私〉的にふるまうことではないか、といったら言いすぎでしょうか。
たしかに、あの未曾有の事態にどのような判断が適切なのかは誰にもわからなかったかもしれません。
しかし、だからといって思考を停止し、自らの判断を停止したことが、もし「立場上いえない」という結論に至ったとすれば、それは果たして教職という〈公〉的な職責を全うしたとはいえないように思われます。
あのとき、身の内側から生じ、止まらなかった震えや慄きは、まさに私的なものです。
しかし、それは果たして個人的なものに過ぎなかったのだろうか?
むしろ、少なくない人々にもそれが生じていたのだとすれば、それはけっして〈私〉的なものに留まらないはずです。
「個人的なことは政治的なことである」とはフェミニズムのスローガンですが、その言葉通り私的な思いから出発し、それが他者にとっても切実な問題であったと共有されるるとき、単なる〈私〉的なものに留まらない可能性が胚胎されているものと考えられます。
それが他者に共有されるものとして意見を磨き、公示することこそが、実は〈公〉的な職責を果たすということに通じるのではないでしょうか。
少なくともその過程を避けて、不問のまま服従する姿勢は教職に携わる〈公〉的な立場のふるまいとは言えないと考えます。

これについては、切実な〈私事〉と公の職務に引き裂かれる中で矛盾を生じる人間にこそ、〈公〉なる可能性が含まれているのではないかという興味深い意見も挙げられました。
ここには葛藤が生じずに職務を遂行できる人間、すなわち無矛盾の人間とは実は〈私〉的な存在ではないのかという批判的視点が含まれているように思われます。
そしてその意見によれば、そうであるがゆえに、〈公〉のシステムは〈私〉を優先せざるを得ないケースでその人に〈負い目〉や〈罪悪感〉を抱かせない保障をする必要があるのだというのです。

さて、最後に当初の目論見だった「何が切実な〈私〉、あるいは〈公〉選ばせるのか?」という問いについて出された意見を紹介して終わりましょう。
ある意見によれば、そのどちらかを優先するかというのは、けっきょく〈偶然〉によるものだといいます。
本来、物事は単純な二者択一にあるものではなく、生きるうえでは仕事も生命もそれらは双方にとって必要なものでしょう。
その意味で言うと、両者いずれかを選択せざるを得ないという状況は一時的なものだということになります。
すると、その一時的な瞬間の判断というのは、各々の価値判断やその時々の具体的で複雑な状況が絡まりあった〈偶然〉によって下さざるを得ないものだということです。
それについて、別の参加者はその瞬間、時間的にも空間的にもっとも間近にあることを優先するといいます。
つまり、その瞬間、他人であろうが間近に切羽詰っている人がいればその人を助けるだろうし、家族が遠くにいればそれは後回しにするというのです。
この意見からは緊急時の判断に公/私という基準以外の要素が新しくもたらされたように思われました。

公/私という概念がそうとうに難しいものであるにもかかわらず、さまざまな視点からその境界線を揺るがす議論が、ジェットコースターのように展開する時間でした(少なくともファシリテーターにとっては)。
今回はドキュメンタリー映画の撮影も入り、話にくい環境になるかとも懸念されましたが、まったくそんなことに意を解さず発言される方々ばかりに、着実に哲学的対話の力が福島の地に根づいているのだと実感させられました。
次回もまた多彩な参加者の皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。


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