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茅の輪

2010年11月02日 22時28分16秒 | らくがき

 神楽を観たあと、飲みに行った席で「高田純次に似てる」と言われて、喜んでいいのか、悲しむべきなのか、少し悩んだわたくしです。まあ、ぼく、たいがいいい加減なこと言ってますが、高田純次のいい加減は至芸ですから、名誉なことかもしれません。実は若い頃もそれ言われたことあって、鏡を見て首をかしげたものです。
 さて、何番か観て「茅の輪」。武塔神=牛頭天王=スサノオとして、スサノオが巨旦将来、蘇民将来のもとを訪れます。ストーリーは前回ご説明した通り。ところが、襲いかかるのはスサノオではなく、疫病神。つまり、スサノオは善神であり、病は疫病神がもたらす、と。いや、そもそもスサノオって善神か? この神楽の前に天岩戸やってたろう? あれ、誰のせいよ。スサノオに特に漂う、ヒーローやトリックスターとしての二面性を完全に否定しちゃってる。で、これ、やっぱり近代になって作られた演目らしい。つまり、善=善、悪=悪、という分かりやすい合理的な図式なのだけれど、近代合理主義の薄っぺらさがありありと散見される内容。
 神が大切に崇められるのは、その神が恵みをもたらす神であるだけではなく、その神が同様に災厄をもたらす力を持つ神であるであるからだ。善=A、悪=Bであるなら、A≠Bであるとするのが、近代的合理主義だけれど、それは神楽の世界とは相容れない。というか、神職がこういう神楽を新作してしまうことが、ちょっと怖い気がするのだ。
 保守的な政治家などが口にする「日本の美しい伝統」というのが、何を指しているのかわからないけれど(たぶん明治以降だけの浅い歴史認識なんだろうけれど)、古い伝統の側にいるはずの神職が同じように明治以降の浅い歴史認識を抱いているって、怖い。明治の神仏分離以降、中世以来の神話性豊かな神々の物語は失われ、ただ、素晴らしい神様であります的な説明ばかりが眼に入る昨今、その薄っぺらさは日本人の精神的支柱をも薄っぺらくしてしまうのではないか。そして、その薄っぺらいものを日本の伝統として考え、「日本の伝統大切にしましょうね、昔の日本人は今の日本人と比べて…」、なんて語りをしてしまうのではないか、分かった風な大人たちは。
 そういうのって、なんだかすごくイヤ。

 ところで、茅の輪って、言ってみればしめ縄を円環状にしたもので、そしてしめ縄は蛇を象徴するもの。蛇に対する古層からの信仰って根深いものがあって、それはたいへん興味深いと思う。
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