結局、伊東行きの一本前の電車に乗って、熱海で時間調整することにした。
小田原を出て少し行くと左手に海と高速道路が見える。大きく右にカーブを切りながら登っていく高速道路を懐かしげにぼくは眺める。いつだったか、あのカーブの先にいっぱいに膨らんだ未来を予感しながら車を走らせた。現実はそうでもなかったし、実際、一緒にあの先を見つめた隣の女の子はもうどこにもいないけれど、でも、未来は実現することよりも、まず、そんな未来を思えること自体が幸せなのかもしれない、と今では思う。
読んでる東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」と内容がかぶる。旅に出ることは面白い。現実と、読んでいる本の内容と、自分の来し方がいろいろ混ざって、家で読書するのとは違う模様を描く。
「人間は、現実と非現実のあいだ、複数の世界が交わる水準に位置するメタ物理的(メタフィジッシュ)な存在である。石は並行世界をもたない(ヴェルトロース)が、人間はたえず並行世界を作り出している(ヴェルトビルデント)。だからこそ、人間はつねに、並行世界からの干渉が要請する反実仮想の想像力、「できたかもしれない」という罪(シュルト)の意識に苛まされるのだ」東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」
熱海。懐かしい街。初めてスマートボールをやった街。そして今まで熱海以外でやったことのないスマートボール。
閉店してしまった店には一枚の張り紙があった。
「突然の閉店ごめんなさい。熱海を愛し旅行にいらっしゃいまして、その都度のご来店本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます」決して名文ではないとつとつとした文章が何か悲しい。人間がつかの間の存在であることをぼくたちはわかりつつも、何十年の人生というスパンに対して、あまりにもつかの間の存在であることに戸惑う。
駅前に足湯があった。
足湯は最近のものだろうけれど、懐かしかったのは、このSL。このSLの中で小学校低学年のぼくと、幼稚園に通っていた弟が二人してひょっとこのような変な顔をして映っている写真があった。ずっと忘れていたのに、このSLを見て急に思い出す。
おい、なんだ、東海道線でこんなに過去を回帰しているのは、なぜだ。
小田原を出て少し行くと左手に海と高速道路が見える。大きく右にカーブを切りながら登っていく高速道路を懐かしげにぼくは眺める。いつだったか、あのカーブの先にいっぱいに膨らんだ未来を予感しながら車を走らせた。現実はそうでもなかったし、実際、一緒にあの先を見つめた隣の女の子はもうどこにもいないけれど、でも、未来は実現することよりも、まず、そんな未来を思えること自体が幸せなのかもしれない、と今では思う。
読んでる東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」と内容がかぶる。旅に出ることは面白い。現実と、読んでいる本の内容と、自分の来し方がいろいろ混ざって、家で読書するのとは違う模様を描く。
「人間は、現実と非現実のあいだ、複数の世界が交わる水準に位置するメタ物理的(メタフィジッシュ)な存在である。石は並行世界をもたない(ヴェルトロース)が、人間はたえず並行世界を作り出している(ヴェルトビルデント)。だからこそ、人間はつねに、並行世界からの干渉が要請する反実仮想の想像力、「できたかもしれない」という罪(シュルト)の意識に苛まされるのだ」東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」
熱海。懐かしい街。初めてスマートボールをやった街。そして今まで熱海以外でやったことのないスマートボール。
閉店してしまった店には一枚の張り紙があった。
「突然の閉店ごめんなさい。熱海を愛し旅行にいらっしゃいまして、その都度のご来店本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます」決して名文ではないとつとつとした文章が何か悲しい。人間がつかの間の存在であることをぼくたちはわかりつつも、何十年の人生というスパンに対して、あまりにもつかの間の存在であることに戸惑う。
駅前に足湯があった。
足湯は最近のものだろうけれど、懐かしかったのは、このSL。このSLの中で小学校低学年のぼくと、幼稚園に通っていた弟が二人してひょっとこのような変な顔をして映っている写真があった。ずっと忘れていたのに、このSLを見て急に思い出す。
おい、なんだ、東海道線でこんなに過去を回帰しているのは、なぜだ。
2度目は3年ほど前の春、横浜からひとり電車に乗って、MOA美術館に光琳を見に行きました。とてもお天気のいい日ですっきりと晴れ渡り、車窓から見えたひとかけらの雲もない富士山やきらきら輝く海、同時に咲く梅と桜など、光琳の紅白梅よりも生の景色のほうがうんと印象的でした。
(今度長期に出かけるときはパソコンを持っていきたいなぁ)
冬になったら、また青春18で行こうかな、と思ってます。