東北6県で唯一足を踏み入れたことのない山形。
その山形に土日きっぷで行ってみようと思い立ったが吉日。台風を追いかけるように上野駅から山形新幹線に乗った。最初は普通の新幹線なのだけれど、福島からは在来線となり、ぐっと旅情を感じる路線となる。踏切があったり、単線だったりするのだ。
山形駅でレンタカーを借り、まずは山寺へ。
山寺、本当は立石寺(りっしゃくじ)。でも、山寺の方が通りがよいかもしれない。
これがまあ、結構な観光地で、規模の小さな中尊寺のよう。

山寺に入り口にある日枝神社。日枝山(比叡山)の神社で、延暦寺の地主神である。もちろん山寺は天台宗のお寺。この先住神という考え方は面白い。先住神と今来神がその場をめぐって対立するのではなく、保護・被保護者の関係を持つ。ユニークである。
津島神社縁起では、日本の地主神は牛頭天王で、今来神が天照大神という。古代神話とは別の仏教的な中世神話の面白いストーリーである。明治期の神仏分離の薄っぺらさには想像もつかない歴史の重層がそこにある。

力こんにゃく。登る前にこれで力をつけて、というがこんにゃくであまり力はつかないのではないか、と思う。しかし、おいしかったので、これでいいのだ。

奪衣婆。米朝が復活させた「地獄八景亡者戯」では、ずいぶん、くたびれた風俗老女として描かれていた。隈取りがきつすぎて、怖さよりも遊園地のお化け屋敷にちょっと通じるキッチュさを感じる。

木の卒塔婆はよく目にするが、これは岩卒塔婆。
最初のにぎわい観光気分が次第に大人しくなってくる。
寺というのは、観光の場所であると同時に、宗教施設でもある。その宗教性が強ければ強いほど、宗教心のない人間を排する雰囲気も濃厚になってくるものだ。

後生車。若くして亡くなった人を弔うもの。この車の部分に「南無阿弥陀仏」と六字の名号が書いてあり、回すことによって供養する。
ここに至ると風光明媚な寺としてだけでなく、人の生き死にに強く結びついた宗教施設なのだと強く思う。

このような穴がいくつもあいている。
民俗信仰では山寺は死後の世界の入り口と考えられている。だから遺族たちは死者の歯や骨などをこうした穴に納めるのだ。穴に吹く風の音は死者たちのすすり泣きにも似ていることだろう。

そして奥の院。撮影禁止なので撮らなかったが、ここにムカサリ絵馬があった。
ムカサリ絵馬についてはこちらの動画をどうぞ
絵馬だけではない。この奥の院では死者の結婚式も行われる。年若くして亡くなった子どもの親が同じくらいの亡くなった子どもを捜して結婚させるのだ。この世で結婚できない子どもたちはあの世で結婚する。つまり、この世とあの世の接点がここ山寺なのである。奥の院の周囲で死の匂いを感じる。

頂上間近にある三重小塔。塔そのものは格子の中にある。確かに小塔だ。しかし、塔よりもその岩に強く惹かれるものがあった。2日後、こんな岩に引き寄せられるようにまた出かけることになるのだが、それはいずれまた。
さっきまでの雨が上がり、急に晴れ間がひろがった。
どこからともなくセミの声が聞こえてきた。なんというタイミング。300年以上前、この山寺で「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」と松尾芭蕉は詠んだ。急な晴れ間は単なる偶然だろうが、ここで蝉時雨を浴びたことは、なんだか山寺とのいい出会いを象徴しているような気がして、気分上々であった。
その山形に土日きっぷで行ってみようと思い立ったが吉日。台風を追いかけるように上野駅から山形新幹線に乗った。最初は普通の新幹線なのだけれど、福島からは在来線となり、ぐっと旅情を感じる路線となる。踏切があったり、単線だったりするのだ。
山形駅でレンタカーを借り、まずは山寺へ。
山寺、本当は立石寺(りっしゃくじ)。でも、山寺の方が通りがよいかもしれない。
これがまあ、結構な観光地で、規模の小さな中尊寺のよう。

山寺に入り口にある日枝神社。日枝山(比叡山)の神社で、延暦寺の地主神である。もちろん山寺は天台宗のお寺。この先住神という考え方は面白い。先住神と今来神がその場をめぐって対立するのではなく、保護・被保護者の関係を持つ。ユニークである。
津島神社縁起では、日本の地主神は牛頭天王で、今来神が天照大神という。古代神話とは別の仏教的な中世神話の面白いストーリーである。明治期の神仏分離の薄っぺらさには想像もつかない歴史の重層がそこにある。

力こんにゃく。登る前にこれで力をつけて、というがこんにゃくであまり力はつかないのではないか、と思う。しかし、おいしかったので、これでいいのだ。

奪衣婆。米朝が復活させた「地獄八景亡者戯」では、ずいぶん、くたびれた風俗老女として描かれていた。隈取りがきつすぎて、怖さよりも遊園地のお化け屋敷にちょっと通じるキッチュさを感じる。

木の卒塔婆はよく目にするが、これは岩卒塔婆。
最初のにぎわい観光気分が次第に大人しくなってくる。
寺というのは、観光の場所であると同時に、宗教施設でもある。その宗教性が強ければ強いほど、宗教心のない人間を排する雰囲気も濃厚になってくるものだ。

後生車。若くして亡くなった人を弔うもの。この車の部分に「南無阿弥陀仏」と六字の名号が書いてあり、回すことによって供養する。
ここに至ると風光明媚な寺としてだけでなく、人の生き死にに強く結びついた宗教施設なのだと強く思う。

このような穴がいくつもあいている。
民俗信仰では山寺は死後の世界の入り口と考えられている。だから遺族たちは死者の歯や骨などをこうした穴に納めるのだ。穴に吹く風の音は死者たちのすすり泣きにも似ていることだろう。

そして奥の院。撮影禁止なので撮らなかったが、ここにムカサリ絵馬があった。
ムカサリ絵馬についてはこちらの動画をどうぞ
絵馬だけではない。この奥の院では死者の結婚式も行われる。年若くして亡くなった子どもの親が同じくらいの亡くなった子どもを捜して結婚させるのだ。この世で結婚できない子どもたちはあの世で結婚する。つまり、この世とあの世の接点がここ山寺なのである。奥の院の周囲で死の匂いを感じる。

頂上間近にある三重小塔。塔そのものは格子の中にある。確かに小塔だ。しかし、塔よりもその岩に強く惹かれるものがあった。2日後、こんな岩に引き寄せられるようにまた出かけることになるのだが、それはいずれまた。
さっきまでの雨が上がり、急に晴れ間がひろがった。
どこからともなくセミの声が聞こえてきた。なんというタイミング。300年以上前、この山寺で「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」と松尾芭蕉は詠んだ。急な晴れ間は単なる偶然だろうが、ここで蝉時雨を浴びたことは、なんだか山寺とのいい出会いを象徴しているような気がして、気分上々であった。
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