毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

竹寺 東西の来訪神

2010年11月01日 01時22分42秒 | 観光


 訪れた神をもてなすこと、それは人類共通のごくごく古くから根ざした感情である。何もかも持っている超人間的な神の姿ではなく、「もてなされる者」として神は往々にして乞食に身をやつして現れる。
 神をもてなした者には幸いが訪れ、もてなさなかったものには災がもたらされる。
 つまり、神は一方的によい恵みをもたらす者ではなく、その力の裏側に災厄をもたらす力を同じように持っているわけだ。ここに神のアンビヴァレントな性質が現れている。
 恵みをもたらす神、災厄をもたらす神。
 あるとき、ヘルメスを伴って旅に出たゼウスはプリュギアの村にやってきて、家々を訪問してまわった。けれど、どの家も門を閉ざして迎え入れなかった。そんな中、プレモンとバウキスの貧乏な老夫婦だけが歓待をしてくれた。そのおかげで洪水で村が全滅したときもプレモンとバウキスだけは助かった。
 オリンポス12神の頂点であるゼウスが、広場に村人全員を呼び集め、命令を下したのではなく、家々を訪問して回ったのだ。その形は、そう、乞食や門付けと同じだ。
 あるとき、武塔神が八人の王子を連れて旅に出た。ある村で長者である巨旦将来に宿を乞うと冷たくあしらわれたのに対して、貧乏である蘇民将来は彼らを心からもてなした。武塔神が巨旦将来の家人全員を疫病で滅ぼすかんな、と蘇民将来に言うと、ちょっと待っておくれ、と。わたしの妹がじつは巨旦将来んとこに嫁いでる。じゃあ、その妹に目印としてこの茅の輪渡しておきなさい、と。で、茅の輪を結んでいた妹以外の巨旦将来家は滅びる。
 ギリシア神話と見事に一致している。ちなみに、イザナギの冥府巡りもオルフェウスの冥府巡りと一致していて、お気軽な人は日本人とギリシア人はもとは同じだ、ついでにユダヤ人も、とか言いたくなるのだろうけれど、日本人とギリシア人だけが似ているのではなく、人類共通の、ユング的に言えば太古のプロトタイプとしてそういう思考が存在していたと考える方が納得できる(ディズニーの影響もあって、ばりばりの西洋人っぽい「シンデレラ」の説話だって、実は世界中に分布しているし)。
 疫病をもたらす武塔神に疫神である牛頭天王が同一視され、やがて天王信仰が日本中で流行する。「天王」や「須賀」、「八坂」などの語がついた地名や神社はこの牛頭天王にちなむ。
 つまり、神は恵みと災厄、その両面にコミットする存在だったのだ。その両面性こそが神の本質であった。善神と悪神とがいるのではなく、ひとつの神の中にその両面がある。このことは近代的思考となじみがよくないのだけれど、実は非常に大切な考えであると思う。
 長いよ、前振り。で、次回、神楽「茅の輪」。本業の原稿はさ、時期が時期だからディケンズの「クリスマス・キャロル」だって。明日締切りだって。そう、逃げてんの。逃げてブログ書いてんの。そんな場合じゃないの。ハロウィンもクリスマスも好きじゃないって。酉の市ぐらいがちょうどいいんだけどなあ。


 写真は飯能近くの竹寺。八坂神社など、牛頭天王を祀っていた多くの寺社が素佐之男を祭神として神社として再生したのに対して、神仏習合のまま頑張ってるお寺。だいたい祇園祭だってさ、あれ、牛頭天王が祇園精舎の守り神だからでしょうに。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする