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世界最高の日本文学

2006年11月09日 15時14分48秒 | 読書
「世界最高の日本文学」 許光俊著    光文社新書

 ぼくのオヤジは暇つぶしによく池袋文芸座で映画を見る。ぼくも文芸座には子どもの頃から通ったものだけれど、最近はリニューアルされてきれいになった。まあ、映画館のまわりは昔と変わらぬ風俗街であるけれども。
 そんなオヤジがあるときびっくりしたようにぼくに言った。
 「谷崎潤一郎って、変態だよな」
 どうやら文芸座の特集が増村保造だったらしい。
 谷崎だけにとどまらない。脈々と伝わる日本文学の底流の一つに、変態やエロは確かに存在する。それはもちろん悪いことではないし、そもそも善悪の問題でもない。およそどんなことでも文学の主題になり得るわけで、そこに変態やエロを持ってくるのは、それも人間の営みである以上不思議なことは何もないのだ。

 「世界最高の日本文学」の著者許光俊は言う。
「結論から言おう。谷崎は日本文学の代表選手として海外でも非常に有名だが、ハッキリ言って、ヘンタイだ。ヘンタイとカタカナで書いたのは、黄身は悪いのだけど憎めないところがあるからだが、変態と漢字で書いても本当は一向構わない。(略)それはともかく、「源氏物語」からこのかた、エロは日本文学における最大の関心事のひとつだった。世界的に見ても、エロは文学の最大のテーマのひとつなのは言うまでもないことだが、ことに日本文学は昔から今まで、積極的である」

 そして谷崎の文学はエロを通じて、人間の真実たるある「危険な領域」に触れていると著者は言う。

「谷崎が描く美しい人間は、みなわがままである。なぜなら、わがままとは自由だということを意味するから。そして、他人を屈服させる強さを持っていることを意味するから。私たちの社会では一般的にわがままはよくないことだとされている。誰もがみんな自由で強くはいられないからだ。必然的に誰かは不自由で弱くなければならない。けれど、あからさまにそう言うわけにはいかない。だから、私たちの社会はみなが少しずつ不自由で、少しずつ弱くなるように調整されているのだ」

 そうしたかりそめの平等を突き破るのが「美しさ」である。私たちは自由=強さ=美しさ、不自由=弱さ=醜さであることをうすうす知りながらも、言ってはならないこととして封印する。

「谷崎の作品は遠回しに、そのタブーに触れている。そこが危険なのだ。幸いと言おうか、谷崎の文学は一見すると、マゾヒストの妄想のように見える。変態趣味の羅列のように読める。だから、みんな油断している。が、本当はそれにとどまらない。実は谷崎の文学が示してしまった真実は、漱石や鴎外よりよほどヒリヒリするものなのだ」

 この本には他に、岡本かの子、森鴎外、三島由紀夫、泉鏡花、川端康成、武者小路実篤、江戸川乱歩、嘉村磯多、夢野久作、小林多喜二が取り上げられている。
 語られる内容はさまざまなだが、どれもなるほどと興味深く読めるものばかり。川端康成の「眠れる美女」の老人の名前に「へー」となったり、小林多喜二を拷問死させた警部たちが戦後出世したということを知ったり(戦後民主主義をどうのこうの言う人がいるが、戦後民主主義をエスタブリッシュメント側から作った人間は戦前から権力を持っていた人間たちであることを忘れてはいけないだろう。あたかも左翼のせいでこのような戦後民主主義になったかのような言動を耳にするが、それは間違い)、気づかないこと、知らなかったこともあり、一気に読み終わってしまった。
コメント
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