毎日が観光

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ベルリンの至宝展

2005年06月10日 14時45分17秒 | 読書
 東京国立博物館で「ベルリンの至宝展」を見てきました。平日にも関わらず大混雑。先史時代から順に巡って行ける展示方法なので、テーマとして統一感はないものの、人類の「形を作ろう」とする情熱の変遷をたどっていける感じがしてよかったですね。
 エジプトものが充実していて、ティイ王妃の有名な像にため息をついたり(今僕の中で姑にしたくないNO.1だ)、重量感あふれる牡羊の下半身に4000年前のボテロを見たり楽しめます。小さなアメン神の像では、若い子が急に「きゃっ」と。像の大きさからすると巨大な男性器を左手に握りしめています。これは、もしかしたら、そこから出た血でなんかの神を作った、という神話の表現なのかもしれませんが、うろ覚え。
 ギリシア・ローマ。「ウェヌス・マリーナ」は模刻なので、webのギャラリーにも載っていないのですが、大理石に含まれる成分のせいで、星のように光る粒が白い肌に浮かんでいるんです。それがなめらかな肌の上で汗が光っているかのようで、とてもエロティック。「カラカラ帝」の強い意志と暗い情念の表現、「ミトラスに捧げられた奉納浮彫」での線の太さと動的な表現など感じ入るものが多いです。
 イスラムの美術は、前に上野で見たケルトを思い起こさせました。過剰なまでの装飾性。何もない空間に対する人類の初源的なおそれすら感じます。書見台での蔓草文、アラベスク文など、すごいです。
 で、中世。もう出だしっからリーメンですから。LDの機械を買って、初めて買ったLDが、リーメンシュナイダーをたずねて南ドイツを旅する、というNHKのものでした。好きなんです。そのリーメンシュナイダーの「使徒マタイ」。ドレープの表現はギリシア・ローマの方がはるかになめらかなんですが、表情や手の表現に力点が置かれている感じ。
 靴屋さんの守護聖人「聖クリスピニアヌス」の優しさ。サン・クリスピンという靴屋さんがありますが、あれはここからとったんですね。
「聖アグネス」はどの絵もそうで、見るたびに「これって親父ギャグ?」と思うんです。必ず「羊」が出てくる。仏像なんかもそうで、聖者・聖女の絵って持っているものが決まってるんです。で、アグネスの絵に羊が出てくるその理由ってえのが、羊ってラテン語でagnus、で、アグネスagnesと似てるから……。もちろん容赦なくここでも羊が描かれています。
 近代美術に入ると、ロットの「聖セバスティアヌス」に目が釘付け。ロットはだいたい甘やかな絵を描くんだけれど、これは甘い、を超して「やらしい」。三島由紀夫が初めてエクスタシーを感じたグイド・レニのhttp://w_passage.at.infoseek.co.jp/art/art-reni.htmの精神性をみじんも感じさせないやらしさ。だからと言って自分でもやってみることはないような気がする>三島由紀夫 http://homepage2.nifty.com/weird~/saint.htm (好き嫌いが別れるから見る人は注意して見てね)
 ボッティチェルリの「ヴィーナス」。バックが黒だから、繊細に描き込まれた金色の髪のタッチがさえてる。はじらうポーズもいい。
 ベックリンの「死神のいる自画像」。後ろで死神がヴァイオリンを弾いている。だいたい、なぜか悪魔とか死神って、ヴァイオリンとペア。いろんなところに出没するからかなあ。こっちとしても、いきなりグランド・ピアノかついで来られても、置き場に困ったりするわけで、死神なりの配慮かもしれません。この時代、先日bunkamuraで見たクノッフをはじめとする絵画、ボードレールやポーなどの詩、このベックリンにしてもそうですが、現実を現実としてではなく、内面化することによって、そこに夢想や象徴を継ぎ足し作品を作っていったように思います。そしてそれはエロスよりも強くタナトスに引きつけられている傾向にあります。この作品でのベックリンは死神を拒否していません。むしろ、死神の世界から芸術のインスピレーションを得ようという感じさえします。つまり、この絵は、タナトスこそわたしの芸術の源なのだ、というベックリンの宣言であるのではないでしょうか。

 そんなこんなでとても楽しく充実した展覧会です。展示されているものの一部はこちらで見られますので、是非一度見てみて下さい。
http://www.asahi.com/berlin/index.html 
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