今でこそ近代建築をメインに建物探訪を続けておりますが、最初に興味を持った建物はお城でした。
一口にお城といっても昭和に入ってから再建されたものには興味が薄く、いわゆる現存12天守巡りを始めたのが建物探訪のきっかけ。
といっても関東には現存する天守閣はひとつも無くて、自分の住んでいる所から一番近くにあるのがこの松本城でした。 何度か訪れている親しみあるお城なので、松本に行くとついつい此処に寄ってしまいます。。。
でも今日の紹介はここではありません。 目的は蟻ヶ崎。
この建物は松本深志高校の管理普通教室棟と講堂(昭和8年と同9年築 1933と1934)です。 各部に見られる近世ゴシック様式の意匠は、東大の安田講堂(大正14年築 1925)を模したものといわれています。 いかめしい角(つの)と玄関部のアーチが目につくスクラッチタイル貼りの立派な建物だと思いますが、長野県内には擬洋風からこのような近代的なものまで、様々なバリエーションを持った「学び舎」が現存しているので、各地を見て回るのも面白いかと思います。
朝方は晴れ間ものぞいていましたが、午後になると雲行きは怪しくなる一方。 私の心情を察しているのかいないのか、天気は下り坂になってきました。 実は蟻ヶ崎に来た理由はもう一つあります。 ここには“男装の麗人”といわれた川島芳子のお墓があるのです。
(写真が一部大きくなります)
彼女が男装するようになった理由は、自身の恋愛問題とも養父・浪速に関係を迫られた為ともいわれますが、真実は分かりません。
広大な中国大陸を舞台にして、激動の時代を駆け抜けた彼女の生涯は、まさに「時代の徒花(あだばな)」と呼ぶべきものかもしれませんが、それだけに鮮明な印象を残したのもまた事実です。
同じく日本と中国、2つの祖国の間で翻弄され続けた李香蘭(山口淑子)と運命を微妙に交錯させながらも、第二次大戦における日本の敗北は2人の”よしこ”の生涯を大きく違える事になります。
漢奸(売国奴)の嫌疑をかけられながらも、日本人である事が証明されて無罪を勝ち得た淑子。
しかし芳子には日本国籍は無く、漢奸罪の適用により死刑判決を受け、昭和23(1948)年、彼女は銃殺刑に処せられました。
死刑執行後、彼女の獄衣のポケットには辞世の句が残されていたそうです。
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
彼女が悲劇のヒロインだったとは思いませんが、最期の言葉がいつまでも胸に突き刺さるのは何故なのでしょう・・・ 川島芳子は今、この松本の地で永久の眠りについています。 06年07月中旬訪問
※松本市 歴史の里(長野県松本市島立)内には「川島芳子記念室」が置かれています。 大きなスペースではありませんが、興味のある方は是非覗いてみてください。 彼女がどんな人物だったのか、ちょっとだけでも感じ取れる事と思います。
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