坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

貧乏人が不幸だと決めつけられる世の中を資本主義というのかも知れない。

2020年12月02日 | 坊主の家計簿
今年の流行語大賞にはノミネートすらされなかったが、今は世界的な金融緩和によるコロナバブルの真っ最中であり、「コロナ格差」と呼ぶべき新たな経済格差が生まれており、これは今後も続くであろう。経済格差は以前より問題にしている人も多いが、貧困は問題であっても格差は問題ではないと私は思う。単に銭儲けが上手い人がいるだけの話である。また、貧困と言っても日本の貧困は飢えない。また別の日に書くと思うが、日本の飢えは家事能力が欠如していたり、あるいは支援の情報不足の問題。

貧乏は不幸なんだろうか?では幸福とはなんであろうか?例えば私は1万円のコートを定価で買う事よりも古着で千円で買える方に幸せを感じる。人の価値観などは千差万別であり、誰からも決めつけられる筋合いは一切ない。
また、いわゆる「カルト宗教」に対する偏見も同様であり、他人から見て「騙されている」と決めつける資格は一切ない。史実の釈尊は「念佛申せ」などとは言っていない。違う信仰を持った人からすると、あるいは学者からすると「間違った教え」であろうとも、そんな事は「大きな御世話」にしか過ぎない。

仏教には「鬼神」という概念がある。辞書的な意味はスルーして、私は「権威」と抑えている。世間的価値観である。資本主義の世の中で生まれ育つと「経済的に豊かな生活をしたい」と思ってしまう。これも鬼神である。「貧乏だから不幸」と思うのは鬼神に仕える奴隷の価値観である。病気になったら不幸、障害者になったら不幸も同じく奴隷の価値観である。
当然というか、私もその奴隷の一人である。故に「不幸や」と思う事が多々ある。でも、それが私という存在を否定する煩悩である事も知っている。

「個」である。鬼神に仕える事を良しとするのではなく、個に還る。存在の事実に還る。今を粗末にしない。自分を粗末にしない。奴隷の生き方から個としての生き方を目指す。

臨床という概念が最近気になっている。頭デッカチな机上の論理、学校で習ったような事ではなく、現場に立ち、その人に向きあう。向き合ったその人を自分の価値観で縛り付ける事は愚かである。「これが正しい」なんて全く通用しない。そんな論理を「臨床」と呼ぶのだろう。そして、今までの自分の価値観を捨てる事、平座、平等に還り変わり続ける働きを「念佛」と呼ぶのだろう。

「私は病人で貧乏人だけど決して不幸ではない!」当たり前の事である。世の中と言っても一人一人の価値観の集合体にしか過ぎない。私が変わる事で世の中が変わる。