坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

娘の誕生日

2012年08月09日 | 坊主の家計簿
 昨日、御参りがなかったので京都方面へお買い物。
 まずは本町・難波別院によって寺の用事を済ませる。本町というのは大阪のど真ん中にあり、「ここから渋滞を経由して京都方面に向かうのはイヤ」と、贅沢に阪神高速で守口まで。ETCを付けたので700円。高速なら20分の道のりも、一般道だったら1時間以上はかかったと思うので「まあ、エエか」と。守口からは国道一号線で京都方面へ。

 一件目は、『打敷』という布の仏具(?)金襴バリバリで買うと高い。買うと高いのだが、数十年間出しっ放し(敷きっぱなし)状態だったので、汚れが酷い非道い。高いもんなんだから丁寧に扱わんと勿体ないぞ。法要以外には出さなくてエエんやし。よってクリーニング。しかし、「これはクリーニングだけでは無理ですね」と。生地も傷んでいるし、日焼け色褪せ。水をこぼしたのか、激しい滲みがあったり。業者のセールストークには強いのだが、「やっぱし」という事で、クリーニングだけでなく、裏地張り替えと修復も依頼する。よって、「あたたた…」と出費。まあ、出来上がり払いなんだが、クリーニングだけで予定していた金額の4倍やもんやなぁ…。あたたた…。

 京都の街中に入り、東本願寺(通称)へ。あれも『寺町』と呼んでいいのか?あ、『門前町』か。門前町にある仏具店、法衣店、数珠店、本屋でお買い物。車で行った最大の理由は本屋で門徒さんに配布する来年のカレンダーを買う為。当然、郵送もしてくれるのだが、まあ。
 仏具店では余りにも傷みが激しかった打敷。『上卓』という所のヤツなので、一番小さい(=一番安い)ので新調する。これも諸々聞いていたら予定額の3倍になった。「確か以前に聞いた時はこの値段で…」と言ったら、「仏壇(お内仏)用の300円ぐらいのと同じ生地でっせ」と。あ、京言葉だったか。で、ペロペロ。余りにペロペロなのはイヤなので「3倍価格ぐらいのもので頼んます」と注文。
 東本願寺(通称)参拝。京都の街中に到着したのが15時過ぎ。先に本屋以外の買い物を済ませてからだったので、16時前。宗祖の御影は見えないけど、合掌念佛する。白人観光客が結構いた。『結構』といっても数グループなんだが、他の参拝者が少なかったので目立った。ギャラリーを目指して、てくてく歩きながら、ふと白人観光客の気分になったりする。
 ギャラリーでは『全国の別院展』みたいなのをやっていて興味深かったのだが、閉館時間。何やらそういうタイトルの本が出るらしく、閉館準備に来てた宗務役人に「これって、全寺院発送してくれるの?」と聞いたら、アカンかった…。仕方がない、購入しよう。

 東本願寺(通称)では火災訓練をやってた。といっても、観光客は恐らく入って来ない辺りで。新人なのかな?まだ若い宗務役人の娘さんが消防ホースを持って水をかけていた。合図なのか何やら掛け声をして、顔の表情も、掛け声も真剣そのものだったので思わず笑ってしまいそうになったのだが、違うな。東本願寺の修復作業はまだ続いている。正門というか、一番大きな門も修復中。その為に全国から集めたお金の一部は、私が今預かっている寺からも。「○○様○○円」みたいな感じで本堂に貼ってある。また、東本願寺だけでの収入が年間どれぐらいか知らないが、東本願寺の運営費、大谷派教団としての運営費の大半は全国の寺を通じて門徒さんから集めたお金。東本願寺は火災にあった事もあり、そら、火災訓練も真剣にやるわな。それも宗務役人の仕事。責任感。宗務役人の研修がどんなものか知らないが、その辺も叩き込まれるのかも知れん。「君達の給料は全て全国の門徒さん達から集めたお金なんだ。宗祖は『御こころざし』と言っているが、大谷派教団は君達を食べさせる為に存在しているのではない。本願念佛の御教えを伝える為に大谷派教団はあり、君達はその中でも大谷派教団から直接『御こころざし』を受け取る立場なのだ。君達は本願念佛の奴隷にならなければならない。」みたいな事を研修で叩き込まれたりしているのだろうか?つか、もっと厳しそうやな。

 「本願念佛の奴隷になれ」とは母校・専修学院で叩き込まれた事。直接的な言葉では「阿弥陀如来の奴隷になれ」か。これは当然、「阿弥陀如来の奴隷」なので「どんなに偉い人であっても、その人の奴隷になるな」という事。例えば専修学院の入学式では「共同生活の中で真宗精神を体得する為に努力精進する事を誓います」と御本尊の前で宣誓するのだが、宣誓する御本尊と学生の間には院長先生が入学許可書(だったかな?)を渡す為に立っている。御本尊に頭を下げるのだが、すると院長先生に頭を下げる形になるが、入学式の説明会ではちゃんと「院長先生に頭を下げるのではありません。御本尊に頭を下げるのです。頭は人間に下げるものではありません」なんぞと、過激な事を(笑)で、当時の院長先生から「阿弥陀如来の奴隷になれ。阿弥陀如来の奴隷になれば必ず見返りがある」みたいな事を。まあ、見返りといっても、金が儲かるとか、長生き出来るとか、そんな事ではなく、単に「私が私になれる」みたいなもんだが。

【己に願いはなくとも願いをかけられた身だ】(藤元正樹)

 でんな。
 確か、「♪お坊さんに憧れてお寺にはいったの」とか歌っていた人の言葉だが、シンプルに「生きていける」。この「生きていける」という言葉がもの凄く好きだったりする。いや、「生きる」だけで、特に何かがなくても「生きる」という事だけでしんどかった時期が長かったし。

 京都から帰宅すると仕事絡みの電話。急遽作らないといけない書類。「わっちゃ!」なんだが、仕事、仕事。ある程度の目安を付けて、実際の作業は翌日(今日)に廻して、昨日は終了。

 今日は午前中一軒と、午後から一軒だけ。その合間に寺務仕事で書類制作。11日までに仕上げればエエのだが、何があるか解らない。という事で、その「何が」の一つである葬儀が…。かつ、この盆最大ピークの日、朝から休憩なしぶっ続けで最後の御参り夕方6時という、まあ、最初に居た寺では毎週土日程度(もっと忙しかったが)なんだが、すっかり鈍ってしまった身体と喉と膝にはキツい中での葬儀。予定ビッチリなんだが、こういう経験も最初に居た寺で何度も経験している。とりあえず謝りましょう。「すいません、葬儀が入りまして御参りの時間を何とか…」と。当然、法事も含む。とりあえず謝れ。頭を下げろ。まあ、こんなんだから、こういう電話をしている所を聞かれたある先輩住職から「営業マンみたいやな」と言われるのだが、しゃーない。クセや。ちなみに御参りをうっかり忘れたりすると「すいませんねぇ…。これ、御供えしといて下さい」と菓子折を持って行きます、私。門徒負担ゼロで本堂修復やろうとする勢いで法人に貯金してるし、営業マン住職です。

 夕方近く、「ちと、仮眠」と。仮眠してたら帰宅して来た娘が「パパ!」と、寝ている私の上に。お前、段々と重くなって来てんから、結構痛いねんぞ。
 遠くでママの声。ケーキが云々。「しまった!今日は娘の誕生日やった!忙しくて36時間ぐらい忘れてたやんけ!」と、心の中。そうなのだ、今日は娘の3歳の誕生日。ケーキに付いている細いロウソクの火を吹き消すのが精一杯の肺活量なんだが、去年は考えられなかった。色んな色をプリキュアのキャラで、例えば「あ、マーチの色や」という娘なんだが、地味に育ってます。キュアサニーの影響なのか変な大阪弁を使いますが、地味に育ってます。

 東本願寺(通称)夏の風物詩、子どもの得度式。新聞ネタにもなる。

 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120803-OYO1T00738.htm?from=main4

 気が変わるかも知れんが、今の所、娘を9歳で得度させる気は全くない。つか、8月の得度式は娘と一緒に見に行く事はあるかも知れんが、まあ、レジャー的意味合いで。
 私は大谷派教団、最近、反原発かぶれで非常に鬱陶しい部分もあるが、それでも大谷派教団には大恩がある。「生きていける」である。今も生きてるし。故に、娘にも同じ教えを学んで貰いたいが、それと得度とは別である。寺で生まれた一人娘なので外野が煩ければ「後を継げ」だの「誰かと結婚して後を継げ」だのというのもあるが、うちの住職、ワガママでして(笑)住職の責任として後継者を探すが、別に娘でなくても構わんし。やりたい人がやれば良い。いや、「やりたい人」というのは無責任だな。役員さん達と相談した上で許可を得る事が出来れば、恩師(何人生き残っているか知らんが)や、母校、教団に相談して「小さい寺ですが、ここで本願念佛の教えを学んで下さい」と土下座するしかないな。土下座する相手が娘になるかも知らんが、その時は、その時だ。幸いに代々血統で繋がって来なかった寺だし、血統が変わる事に何の抵抗感もない門徒さん達だし。

 娘の人生の主人公は娘だ。私にとっては『娘』だが、一人の名前を持った人間だ。丁度、このブログの投稿画面、右ナナメ上に産まれたてホヤホヤの娘の写真がある。ブログにアップしたのかな?何なのかすっかり忘れたが。『3歳』という年齢。ご近所のバイキング等で「3歳以下は無料」でなく、子ども料金を払わなければならなくなった娘。娘の人生の主人公は娘である。
 今日の誕生日ケーキはチョコレートケーキだった。今日は大人しく歯磨きしたが、タマにゴネる時もある。それは親子関係の事等で不機嫌(甘え)でゴネているのかも知れないが、非常に残念ながら、虫歯になるのは私ではない。「ちゃんと歯磨きしなさい!」というが、虫歯になっての治療費、泣きじゃくる娘の顔を見るのがイヤなのは私だが、虫歯になるのは私ではない。他人の痛みは解らない。『想像』と身体的痛みとは違う。虫歯になって一番困るのは娘だ。親子であっても、娘の痛みは私には解らない。
 当然、私は娘から多くの意志を奪い去っているのだろう。奪いさられる意思は今後増々増えて行くだろう。学校や、社会に出れば出るほど、交友関係が増えれば増えるほどに『思い通り』にならない事が増えて来る。そこで、諦めて自我を押し殺す事は悲し過ぎる。苦は苦でしかない。しかし、苦が苦である事に耐えうる事が出来る精神的体力、まあ、存在の故郷を見いだして貰いたい。まあ、途中でグレるのもあり。

 昨今流行中の『優しさ』。新種の優生思想か。或は宗教的(精神的)優越感(差別)か。非常に鬱陶しい。優しくしてくれる人は、優しくしてくれる人の気分次第なのだ。しかしながら、藁をも掴む思いの状態の人にとっては、その藁だけしかなく、その藁の気分に一喜一憂する。『一喜一憂』どころか、生死がかかる。そんな相談、つか、一緒に遊んでたり、飲んでたりしてただけなんだが、そういう話を多く聞いた。つか、私も『藁』だったのかも知れない。つか、『藁』だった。

 「生きていける」という言葉。そういう言葉を発する事が出来る教え。「藁がなくても生きていける」。(人に対する)依存ではない。信頼である。私が今生きている事に対する信頼である。奪われていた自己を本願念佛の御教えで取り返す。復権する。他の誰でもない、私として復権する。

 仕事上、当然の如く、自殺した子どもの親に合う。先日の葬儀で、火葬場に入る前に、自殺した人が火葬場の釜に入る最後の時に「ありがとう!」と言った。感動した。嗚咽だけでなく、ひょっとしたら心の中で「ありがとう!」と言っていた人が多く居た、つか、心の奥底では「ありがとう!」なんだろうが、私に聞こえる声で「ありがとう!」という言葉は、初めて聞いた。経験年数の割にかなりの数の葬儀、自殺した方の葬儀も経験したが、初めてだった。
 どんな人の人生であっても、それがどんな人生であっても、その人にとってはたった一度の掛け替えのない人生。いわゆる『死因』は死因ではない。本当の死因は「生まれて来たから」である。人生の中の一つの出来事でしかない。自殺であっても。けど、辛い。辛い周囲。周囲に出来る『供養』は、やはり「ありがとう!」ではないのか。その人の人生の存在価値を認め、その人の生涯全てを認める。で、「(一緒に居てくれて、今まで)ありがとう!」ではないのか?

 3歳になった娘が、これからどんな人生を歩むのかは、全く解らない。気が短いパパだから、娘が「お父さんに紹介したい人が居てるの」と言われたら、「お前は、お前の人生のパートナーを親の判断に委ねるのか!!!」と、表面上は怒りつつも内心嬉しくて仕方がなく「照れたら人を殴る」という河内の血が出るかも知れんが、そのパートナーが男だろうが、女だろうが、チャラついたヤツなら「殺すぞ、カス」と言ってしまうかも知れんが、何にしても、私は娘と一緒に生きていきたい。そして、しっかりと、どんな状況であっても「生きていける」強さを持って頂きたい。しっかりと、自立して頂きたい。
 寺は継がなくてもどうでもエエ。本願念佛の御教えだけを体得してくれ。東本願寺での火災訓練を真剣にやっていた宗務役人の娘さんの様に、『伝統』という言葉だけでなく、その言葉に多くの人の願いを感じる事が出来る事が出来る人になってくれ。まあ、パパのワガママだが。