坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

祈りの時間

2012年08月22日 | 坊主の家計簿
 パソコンで不慣れな寺務仕事を、え~と、合計何時間やっていたのだろ?24時間、ではきかんか。脳内予定では「2~3時間あれば大丈夫」だったはずなのだが、なんのなんの。ややこしいったら、ありゃしない。まあ、その多くの原因は「不慣れ」という一言なんだが。段々つスピードが上がって来たし。眼の疲れと、脳味噌の疲れとストレス。で、ストレス発散の為に呑んでます(笑)

 録画していたNHKスペシャル『最期の笑顔~納棺師が描いた 東日本大震災~』

 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0817/

 を観ながら「祈りの時間」という事を考えていた。

 やっていた寺務仕事は寺の会計を表計算ソフトに置き直す作業。まあ、私が会計を握ってからの数年分だけだが、表計算にする、まあ、データー化して置いて、Dropboxにも保存しておけば出先からでも確認出来るし、それこそ大災害にあった時でも大丈夫だし、今年度分からは「ああ、決算、楽」と。今後は過去帳もデーター化して置きたいのだが、今回のでかなり疲れたので、来年の夏休みになるかも知れん。表計算ソフト、不慣れなのでややこしいったらありゃしない。「目指せ!グラフ化!」には、ほど遠い。
 地味に数年間の帳簿をパソコンで打ち込む。その中には当然「○○さんの葬儀」的なものもある。

 NHKスペシャル『最期の笑顔~納棺師が描いた 東日本大震災~』。東日本大震災で亡くなられた方々に対する納棺師の仕事をボランティアでなされていた方の物語。後日、絵と言葉を書いておられる。実際の納棺の時間も祈りの時間だっただろうし、絵と言葉を書いている時間も祈りの時間だったと思う。

 理想の葬儀。
 寺が世襲制が第一条件である事は反対だが、別に世襲であっても構わない。特に真宗寺院は。誰が継いでも構わないのだし、その中で世襲もあっても当然の事。ただ、どこまで行っても寺は家ではない。というか、これもそれぞれだったりするのだが。寺院の土地の名義が個人名義になっている所(そういう歴史的背景)もあるし。うちは違うが。
 理想の葬儀は、その寺で生まれ育った人が行う葬儀。へっへっへっへ…。保守的だろ(笑)言い換えよう。その村(町)で生まれ育った人が行う葬儀。単純な話、同じ町内(村内)で生きてたわけだし。
 私の後を誰が継ぐのか解らない。解らないが、娘かも知れないし、或は他の誰かかも知れない。他の誰かだった場合、出来れば、この町内で生まれ育った人が好ましい。
 私は結婚してこの寺に来たが、ママ(坊守)だって確か小学校の時に来た。歴史あるこの町内では、まあ、他所者でんな。『家』ごと他所者。他所者は、同じ保育園に行ってない(多分)。それこそ何代にも渡って「あんたのオムツを替えたった事を忘れたか」と。そういう土着の中で生まれ育った住職が行う葬儀が一番の理想。
 例えば、私がこの寺で生まれ育ったならば、私のオムツを替えてくれた様な爺ちゃん婆ちゃんの葬儀を私がする事になる。オムツは別にしても、抱っこしてくれたり、オヤツをくれたり、そういう人達の葬儀を私がする事になる。或は、初恋の相手だったり、ケンカを散々した友達とか。まあ、どこにでもある様な町内(村内)の話。で、恐らく、真宗寺院の住職は、こういう葬儀をしている人が大多数だと思うが。まあ、大多数なのは、それはそれなりに問題でもあるのだが。基本、「世襲でないとアカン」という血脈には反対だし。
 葬儀後には中陰もある。いや、中陰がなくとも同じ町内(村内)の話。

 私はここに来て4年目に入ったけど、そんなもん。そんな中でも毎月御参りに行っている、当然、近所でも会う人の葬儀も何度かした事があるけど、過去も含めて全くの見ず知らずの人の葬儀をした事が散々あるし、今もある。というか、式場の顔写真を見て初めて「あ、今日はこの人の葬儀なのか」という事も散々ある。葬儀が終わった後の御参りでも、当然の如くある。そういう時は出来るだけ故人の話を聞いたり、話を聞けない場合は写真を見る。写真の向うには御本尊があるけど、多分、基本的には御本尊を見ての念佛なんだろうけど、ブッチして写真を出来る限り見るようにしている。
 写真と言うよりも、厳密には写真に写った顔か。御遺体の顔も出来る限り見させて頂くようにしているが、残念ながら見れない時もかなりある。

 祈りの時間。NHKスペシャルの納棺師の人の祈りの時間には何を思って居たのだろうか?

 初対面での葬儀、かつ、写真でしか顔を見る事が出来ず、葬儀をしている段階では故人の想い出話も聞けない状態の時は、「どんな人で、どんな苦労をなさって来られたのだろうか?」等と、わずかに知り得る写真や、年齢等から考える。

 理想の葬儀は町内(村内)で生まれ育った住職が行う葬儀。私はやった事がない。やった事がないけど、付き合いが長ければ長い程、その祈りの時間もコユイ。密度が違う。中陰でどんな想い出話が出来るのだろうか?「このオバちゃんには、ホンマ、ガキの頃よう怒られたで。でも、怒った後に『たこ焼き作ったけど食べるか?』と持って来てくれたり。優しかったなぁ…」とか話したりしているのだろう。それこそ、正信偈を教えて貰った人の葬儀をやったりする事もあるのだろう。正信偈を教えて貰った人が亡くなられた時に正信偈を勤行したりする。理想やな。
 歎異抄を教えて貰った人の葬儀をする場合もあるだろう。「あんた、歎異抄に『親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。』と書いてあるやんか。ちゃんと教えたやろ。あんたがやってる事は先祖供養やで。アカン、アカン。そんな事は私は教えてない」「ゴメンな、オバちゃん。でも、今日だけは堪忍してえや」「ほんまアンタは子どもの頃から泣き虫でどうしようもなかったからなぁ…。まあ、しゃーないわ。ありがとうな」みたいな会話を祈りの時間にしているのだろうか?

 祈りの時間。違うわ、祈らざる得ない時間か。
 そんな圧倒的大多数の真宗寺院の住職がしている、ごく当り前にしている理想の葬儀をすべく、私は地味にコツコツと。

 だからと言って、血統が尊いとは微塵も思わんが。真宗『寺院』が『道場』になるのならば、『○○寺門徒』の中から代表役員(住職)を選出すれば良いだけの話や。血統で威張るなら、血統で他所者を排除するなら、一撃必殺の侮蔑言語で対抗するぞ。青草で書いた寺族批判なんぞ甘っちょろいぞ。
 なんてね(笑)

 ちなみに、真宗仏教では葬儀だろうがなんだろうが、全ての仏事は念佛相続の御仏事です。祈らざるを得ない時間という基本の上で、しっかりと御念仏の教えを相続して行く事が住職(僧侶)の仕事。
 
 なんて事を書きながら、「明日の法話、どうしようかなぁ…」と(笑)しばらく正信偈押ししたい気分なんだが、まあ、その場次第か。