坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

それは仏教ではない

2013年09月20日 | 坊主の家計簿
【ここではっきりと言っておきたい。仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対して、どう生きていくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。】(竹橋太「本願」より)

娑婆世間の論理で娑婆世間の問題を指摘するのはよく解るのだが、娑婆世界の問題を「それは仏教ではない」と指摘するならば、それがいかに「仏教ではない」という根拠・論証を示さない限り、単に『仏教』という言葉を使って他人を踏み躙っているだけ。仏教という言葉を、根拠なく、論証なく、自分を守る為に他人を攻撃する道具に使っているだけ。そんな言葉に耳を貸す閑人は、まあ、余程ボランティア精神に溢れた人達だけなんだろう。

あっちに行っちゃった系

2013年09月20日 | 坊主の家計簿
【ところで、経・論・釈から引かれたこれら「鬼・神・魔」は、もともとインド民族・中国民族の俗信であって、日本人のそれではありません。それにもかかわらず聖人がそれらの俗信にただならぬ関心を寄せられるのは、日本人の現実の上にその姿を見られたからです。では、日本人の「鬼・神・魔」とは何か。それは「良時吉日えらばしめ 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)をあがめつつ 卜占祭祀(うら・まつり・はらえ)つとめとす」るような、日本古来の「霊の信仰」と外来の俗信とをつきまぜた、当時の習俗宗教にほかなりません。】(和田稠『信の回復』P124~125より)

こういう宗教的感性というのは大切。
例えば『仏』という言葉を限定した中しか感じる事が出来なければ少し勿体無い。

先日、学校帰りに同期生と、ある先生の話をしていた。時期は違うが教師修練で偶々同じ先生が担当だったので。若手の学者であるその先生は私が修練だった頃とは大きく変わっているらしい。

何やら、その同期生の話によると「仏を見た」だったか、「仏に出会った」だったのか泥酔していたので忘れたが、そういう出会いをなさったらしい。それは、若手学者先生の子どもさんが大病をなされ、その子のそばでずっと心配して大変な思いをしている時に、その大病をしている子どもから案じられている「声」を聞いたらしい。

当然、これは、その同期生が感じた事を聞いて、私が感じた事を書いているだけである。

その若手学者先生はその先生の体験だが、例えば被災地に行って「支援しているつもりが支援されていた」という事はよく聞く。
その事を深める、或いは、

「我々に出来る事は仏に出会うまで、眼をこらせ、耳をそば立て、懸命に追い求めるしかないのです」(ある先生)

という様な人ならば、その若手学者先生の様な声を聞けたのかも知れない。

当然、求道心のない、「あっちに行っちゃった系」の人には一切通じない話なんだが、自分の宗教的感性の乏しさ、求道の死を肯定するだけでなく、人をおちょくる人は鬱陶しいので、とっとと自分自身でケジメを付けて貰いたいもんなんだが、まあ、「あっちに行っちゃった系」の人には何を言っても無理か。

次に会った時にしっかりとケジメを付けさせて貰うが(爆笑)