坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

復習

2012年04月29日 | 坊主の家計簿
1・廻向

【問うて曰わく、『業道経』に言わく、「業道は称のごとし、重き者先ず牽く」と。『観無量寿経』に言うがごとし。「人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を径歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん。かくのごとき心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することを得て、すなわち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん、三塗のもろもろの苦と永く隔つ。」「先ず牽く」の義、理においていかんぞ。また曠劫より已来備にもろもろの行を造れる、有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念をもって阿弥陀仏を念じてすなわち三界を出でば、繋業の義、また云何がせんとするや。答えて曰わく、汝、五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもって軽として、罪のために牽かれて先ず地獄に堕して、三界に繋在すべしと謂わば、今当に義をもって、軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり。いかんが心に在る、と。かの罪を造る人は、自らが虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識、方便安慰して実相の法を聞かしむるに依って生ず。一は実、一は虚なり、あに相比ぶることを得んや。たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。これを「在心」と名づく。いかんが縁に在る、と。かの罪を造る人は、自らが妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依って生ず。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄・無量功徳の名号に依って生ず。たとえば人ありて毒の箭を被りて中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けばすなわち箭出け毒除こるがごとし。『首楞厳経』に言わく、たとえば薬あり、名づけて滅除と曰う。もし闘戦の時にもって鼓に塗るに、鼓の声を聞く者、箭出け毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし、首楞厳三昧に住してその名を聞く者、三毒の箭、自然に抜出すと。あに「かの箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は、有後心・有間心に依止して生ず。この十念は、無後心・無間心に依止して生ず。これを「決定」と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重き者先ず牽きて、よく三有を出ず。両経一義なるならくのみ、と。】(真宗聖典274~5頁より)

【阿頼耶識が無記だということは、悪業を積み重ねてきた人間も、現在は悪ではないといわれていることである。言葉を換えれば今日までの悪が許されているということであろう。(中略) ある所でその話をした時、長く仏教の勉強をしてこられた一人の男性が「私も無記ですか!」と急に声をあげて嗚咽されたことがあった。許されていることへの感動がこみあげてきたのであろう。凡夫が凡夫のままで、そのまま許されている───阿頼耶識が無覆無記だというのは、それを私たちに語りかけているのである。】(太田久紀『唯識の読み方』86~87頁より)

【しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々】(歎異抄第一章より)

【信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。】(念仏法語より)

【行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(行者宿報にて設ひ女犯すとも、我は玉女の身と成りて犯せ被れむ。一生の間、能く荘厳し、臨終引導して極楽に生ぜしめむ)】(女犯偈)

【一心正念直来(オネガイダカラ スグキテオクレヨ)】(池山栄吉先生)


2・初発心時便成正覚【弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。】(歎異抄第一章より)