ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

新装版『限りなく透明に近いブルー』を読む。

2019-02-02 | 純文学って何?

 『限りなく透明に近いブルー』を再読する。再読というか、20代このかた限りなく読み返しているので正確には何度めか判然せぬが。ただし今回は2009年に出た新装版。解説が三浦雅士(なぜか名義は今井裕康だったが)から綿矢りさになり、「年譜」が割愛され、表紙がかわっている。



旧版の表紙。単行本とほぼ同じ。武蔵野美大中退の龍さんが自ら描いた。あとがきによると、リリーをモデルにしたものらしいが、お世辞にもうまいとは言い難い。そもそもあの「あとがき」自体がフェイクなわけだが、刊行から50年近くが過ぎた今もなお、純朴な青少年たちがころころと転がされてるようだ



この表紙の版もある。これも龍さん自身が監督した映画版のワンシーンから取ったもの。ぼくが17のとき買ってずっと手元に置いてたのはこの版だ





これが新装版。べつに限りなく透明に近くはない。ただのブルーである





 龍さんの自筆になる年譜はなかなか面白かったんで、これがなくなったのは惜しいが、総じていえば、一冊の本としてはずっと良くなった。何よりも字体がいい。むかしの講談社文庫は活字がわるかった。小さいし、組み方もまずく、堅苦しい。
 べつの小説に生まれ変わったようにさえ映る。
 いい小説だ。純文学のことしかアタマになかった頃とは違い、マンガやアニメを見まくって、「物語」についてあれこれと思いめぐらせた今なればこそ、この小説の良さがわかる。ひとことでいって、面白いのである。
 1976(昭和51)年に発表され(て一世を風靡し)た『限りなく透明に近いブルー』は、中上健次の短編「灰色のコカコーラ」を先行作品としてもつ。「灰色のコカコーラ」とは、クスリ(錠剤)を溶かして変な色になったコカコーラのことだ。この短編は集英社文庫『鳩どもの家』に収録されていて、その解説を龍さんが書いてるのだが、「ブルー」が今もなお熱く読み継がれてるのに対し、『鳩どもの家』はとっくの昔に絶版である。面白くないからだ。
(とはいえ佐藤友哉さんに『灰色のダイエットコカコーラ』なるオマージュ作があり、こちらは今も新刊で売っている。)
 「灰色」と「ブルー」とを読み比べれば、村上龍という作家が、デビュー当初から「いかに書けば読み手を面白がらせることができるか」にとても気を使ってたのがわかる。
 田舎から上京してフーテンをやってる若者の生態って点では同じだけど、ブルーが横田基地周辺に材をとり、セックス&ドラッグ&ロケンロール&黒人兵(政治的に正しくいえば「アフリカ系アメリカ人兵士」)たちとの乱交パーティー。なんて美味しいネタをこってり詰め込んできてるのに対し、灰色のほうは、新宿のジャズ喫茶で政治くずれや文学かぶれがうだうだクダを巻いてるだけ。BGMもジャズである。ンなもん、面白くなるわきゃない。
 戦後生まれ初の芥川賞作家・中上健次は、6歳下の村上龍の登場により、「これではとても敵わんぞ」となって、紀州の「路地」に作品のトポス(根拠地)を移した。そんな見方もできるはずだ。
 じっさい、東京を舞台にした中上作品はろくでもなくて、『讃歌』(文春文庫版は絶版で、いまは電子書籍化されている)もほとほと詰まらない。
 ただ、ひとたび紀州をトポスに据えれば話は別だ。若き日の健次VS龍の対談集『俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて』(角川文庫版のタイトルは『ジャズと爆弾』)の巻末に、龍さんの「部屋」と中上さんの「神坐」、ふたつの短編がおまけみたいに付いてるのだが、ここは紀州の神事を題材とした「神坐」の圧勝である。並べてみると「部屋」のペラさが際立って、晒しものにすらみえる。
 しかし、いまの若い子が予備知識なしに読んでどっちを面白がるかっていうと、やっぱ「部屋」のほうかもなって気もする。ペラいってのは、ある面、おシャレってことでもあるのだ。
 『限りなく透明に近いブルー』も、一見すると、どろどろ、ぐちゃぐちゃ、もう腐った泥沼に喉元あたりまでどっぷりですわー、みたいな小説だが、「文学」としてみるならば、きらびやかで、おシャレである。
 「汚辱の果ての生」をくるっと「美」に転じてしまうのが、「文学」ってもののもつ力のひとつなんである(ろくでもない力であり、このために有為な若者に道を誤らせたりもするのだが)。
 そもそも頽廃とか、倦怠とか、それを具現化した「腐敗」やら「廃墟」みたいなものを「美しい」とみる感性を打ち立てたのはボードレール(1821~1867)だった。フランスの詩人、批評家。
 文政4~慶応3だから、日本でいえばまさに幕末だ。
 「近代の美意識をつくった」といってもいいくらいの人で、詩集『惡の華』は入手しやすいものだけで4種類の邦訳がある。直接の関係はないが、同タイトルの漫画(アニメ化もされた)もある。
 散文詩集『巴里の憂鬱』もすばらしい。批評家としても目利きで、美術評論、音楽評論に健筆をふるった。
 このボードレールの系譜のうえに、ロートレアモン(1846~1870)がいて、ジャン・ジュネ(1910~1986)がいて、バタイユ(1897~1962)がいる。みなフランスの物書きだけど、澁澤龍彦や栗田勇や生田耕作といった人たちの手になる良い邦訳があって、60年代から70年代前半の「政治の季節」には熱狂的に読まれた。ことさら文学青年ってわけじゃなくても、ちょっと尖った若者ならば、「読んでなきゃ恥」ってくらいのモンだった。
 『限りなく透明に近いブルー』もまた、もちろん、直近の中上健次以上に、それらフランス作家(の翻訳)の影響下にある。
 だから「ブルー」を論じるにあたり、まっさきにバタイユやジュネの名が出てこないってことがおかしい。小林秀雄のせいかどうかは知らぬが、どうも、この国の文芸批評はおかしいのである。
 講談社文庫の解説をやってる綿矢りさも書いてない。今の若い子はジュネだバタイユだっつってもピンとこんだろうから、そこは言わなきゃわからんじゃないか。そういうことを前提として確立せんから、「リリーのモデルって誰なんですかー」とか「あのカンブリア宮殿の村上とかいうおっさん、あ、ハルキじゃないほうな、あれって昔、横田基地の傍ですげえことやってたんだぜ」とか、そんな中2レベルの話が、そこらに蔓延しちゃうのだ。
 しかしまあ、それは1984年生まれの綿矢さんのせいだけじゃなく、前の版で解説をやってた1946年生まれの三浦雅士さんも書いてなかった。この小説が大騒ぎになった1976年この方、バタイユ、ジュネの係累として村上龍をきちんと論じたエッセイをぼくは読んだことがない。
 『ジャズと爆弾』のなかで、中上健次はもちろん、そのことにちゃんと言及していたが、それだけでもう、「はい。この件はOKね」みたいに済まされている。おかしい。
 「ブルー」に書かれたもろもろが、どこまで若き村上龍之助(本名)の体験で、どこからが虚構か、そこを解析するのは難しい。だけど、ひとつ間違いなくいえるのは、作家ってものは、自分の体験だけをたよりに作品を書くことなんてありえないってことだ。夏休みの絵日記じゃないんだからね。
 どんな小説にも必ず「先行作品」はある。ジュネ、バタイユ、さらにはロートレアモン、ボードレールを念頭に置かずに『限りなく透明に近いブルー』を読むことは、そりゃあまあ、「何をどう読もうが個人の好き好き」って点では好き好きには違いないけども、「もったいない話だぞ。」とはいえる。
 さて。『限りなく透明に近いブルー』、旧版と新装版との違いがもうひとつあった。文庫カバー裏の(編集者が付けた)コピーだ。

「福生の米軍基地に近い原色の街。いわゆるハウスを舞台に、日常的にくり返される麻薬とセックスの宴。陶酔を求めてうごめく若者、黒人、女たちの、もろくて哀しいきずな。スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとでみごとに描く鮮烈な文学。群像新人賞、芥川賞受賞。」
 これが旧版。

「米軍基地の街・福生のハウスには、音楽に彩られながらドラッグとセックスと嬌声が満ちている。そんな退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく——。著者の原点であり、発表以来ベストセラーとして読み継がれてきた、永遠の文学の金字塔が新装版に! <群像新人賞、芥川賞受賞のデビュー作>」
 これが新装版。

 旧版のだってべつに悪くはないと思うが、「黒人」だの「女たち」だのといった表記が今日の人権感覚では耳ざわりなのか。しかし「もろくて哀しいきずな」とか「スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとで……」といったあたりは的確だった。
 新装版のほう、「ロック」と書きゃあいいのになんで「音楽」なんだ?と思ったが、いちおうジャズも出てくるからかな。妙に律儀である。そんなことより注目すべきは、「退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく」だろう。
 希望。これは旧版のほうにはなかった一語だ。ラストパート、リュウが「夜明けの空気に染ま」ったガラスの欠片に見る「限りなく透明に近いブルー」に「希望」の兆しを読み取っているわけだ。このくだりを導いたのは綿矢りさの「解説」だろう。綿矢さんは「救い」と書いてるけど、このばあいはほぼ同じとみていい。
 綿矢りさの文章は「自分語り」をからめて生々しくてリアルで、じかに身体に響いてくる。旧版解説の今井裕康(三浦雅士)さんが「村上龍が、まさにその文体その方法において、現代というこの奇怪な生き物の核心に迫ったことは明らかだろう。」なんて高みから述べているのと対照的だ。作家と評論家との違いといえる。
 ラス前のパート、リュウは重度のパニック障害みたいな按配となり、さしもの寛大なリリーにまで逃げ出されてしまうのだが、綿矢さんはその理由を、「彼もまた傷ついている。すべてを見尽くしたあと、彼は狂ったように苦しむ。」と書く。
 さらにそれを敷衍して、「ひどい私刑が起こっても、女友達が暴力を振るわれてもリュウは見てるだけ、助けもしない。でも彼は実際は赤ん坊ではなく目の前で起こっていることを理解しているから、無言のうちに目の前の光景を身体のなかに通し、その度に傷ついている。電子レンジの光を浴びているみたいに、表面的にはなんの変化が無くても中から熱くなり破裂する。」と続ける。
 臨界点を超えた、という感じであろうか。
 そのあげくに例の「大きな黒い鳥」を視てしまうわけである。
 この解釈は、ぼくがこの小説を初めて読んだ17の頃からずっと思い込んでたのよりも深くて、さすがだと思った。
 ぼくはたんに、「仲間たちとの蜜月が終わって寂しかったせいだろう」と思っていたのだ。それも間違いではないが、リュウが「見る」という行為にあそこまで拘っているのを鑑みれば、そりゃあ綿矢さんの読みのほうが深い。
 136ページ、ケイとヨシヤマ、レイ子とオキナワ、モコ、カズオ(この2人だけはカップルではない)たちが、「みんな帰っていっ」て、リュウは独りになる。
 ちなみに、この中で、それぞれの母親と父親について繰り返し言及されるのはケイとヨシヤマだけである。2人は作中に現れた時からもうギクシャクしているが、そのきっかけとなったのもヨシヤマの母の葬儀(にケイが参列させて貰えなかったこと)だった。
 レイ子とオキナワは、当時まだアメリカ領だった沖縄県の出身で、それにまつわる挿話もいくつか出てくる。
 ケイとレイ子は日本人の母とアメリカ人の父をもつが、モコはちがう。のみならず、どうやら中産家庭の子女のようだ。リュウ自身およびモコ、カズオの3人は、そんなに逼迫した出自にはみえない。
(リュウがどうやって生計を立てているのかは、じつはよくわからない。巧妙にぼかされている。リリーに養って貰っているわけでもなさそうなので、たぶん親からの仕送りに頼っているのだろう。そう考えると少し笑ってしまう。)
 そういった各々のキャラが、むろん事細かにではないが、ちゃんと描き分けられている。
 内容のどぎつさや、全編を彩る詩的イメージや、基地問題(日米関係)といった要素に紛れてなおざりにされてきたけれど、『限りなく透明に近いブルー』はきっちりそういった人物造形をやってる小説であり、のちの「純文学系・物語作家(エンターテイナー)」村上龍は、デビュー当初からその片鱗をみせていたのである。
 ともあれ、あそこまで無軌道な暮らしが何年も続くわきゃないので、破綻するのは時間の問題だったんだけど、ケイとの大喧嘩(というか一方的なDV)のあと、ヨシヤマは自殺を図り、入院し、一命は取り留めて戻ってきたものの、ここで7人の関係は修復不能の域に達したといえる。
 でたらめなりに一定の親密さを保っていた空気は、どうしようもなく冷めていき、険悪さすら帯びる。
 そして「みんな帰っていっ」て、独りになったリュウはリリーの部屋を訪れる。優しいリリーはいつものように迎え入れてくれるが、リュウがあまりにも異常な態度をとるもんで、怖くなって逃げ出してしまう。
 「血を縁に残した(リュウ自身の血である)」ガラスの破片に、「夜明けの空気に染ま」った「限りなく透明に近いブルー」をリュウが見るのは、リリーを失い、ふらふらと外に彷徨い出て、「病院の庭」の草のうえまで辿り着いたあとだ。
 それを「救いの色」と綿矢りさはいい、文庫裏のコピーもその意を汲んで「希望がきらめく」とうたった。2009年の新装版・解説において綿矢さんがそう書き記すまで、「限りなく透明に近いブルー」が「救いの色」「きらめく希望」だと明言した批評はなかった。これも奇妙な話である。奇妙な話である、と私は思う。
 かつて中上健次は、つねに路上に屯する「フーテン」こそが、家の中やクルマの中に居てはわからぬ「微細な色調の変化」を感じ取ることができるんだよな、とこのくだりを評したものだ。
 しかしもちろん、「救い」といい「希望」とはいっても、それは一瞬のできごとにすぎない。まるで錯覚か、一時の気の迷いとしか思えぬほどに。
 「空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしま」うのである。
 とはいえ、「僕は地面にしゃがみ、鳥を待った。」と書かれる「鳥」はもう、あの「大きな黒い鳥」ではない。いずれ暖かい日の下で、「長く伸びた僕の影」に(腐れたパイナップルの切れ端もろとも)包まれるていどの、「灰色の」鳥なのだ。
 青春の一局面の終わりと共に、リュウは、襲来してくる得体のしれない巨大な不安を、ひとまずは「対象化」できたのだった。


☆☆☆☆☆☆☆
参考資料

サイト「芥川賞のすべて・のようなもの」より、当時の芥川龍之介賞選考委員の選評を引用。

吉行淳之介(当時52歳)
「この数年のこの賞の候補作の中で、その資質は群を抜いており、一方作品が中途半端な評価しかできないので、困った。」「どこを切っても同じ味がする上にやたら長く、半ばごろの「自分の中の都市」という理窟のような部分に行き当って、一たん読むのをやめた。」「作品の退屈さには目をつむって、抜群の資質に票を投じた。この人の今後のマスコミとのかかわり合いを考えると不安になって、「因果なことに才能がある」とおもうが、そこをなんとか切り抜けてもらいたい。」

丹羽文雄(当時71歳)
「芥川賞の銓衡委員をつとめるようになって三十七回目になるが、これほどとらまえどころのない小説にめぐりあったことはなかった。それでいてこの小説の魅力を強烈に感じた。」「若々しくて、さばさばとしていて、やさしくて、いくらかもろい感じのするのも、この作者生得の抒情性のせいであろう。」「二十代の若さでなければ書けない小説である。」

中村光夫(当時65歳)
「他の六篇とはっきり異質の作品」「技巧的な出来栄えから見れば、他の候補作の大部分に劣るといってもよいのですが、その底に、本人にも手に負えぬ才能の汎濫が感じられ、この卑陋な素材の小説に、ほとんど爽かな読後感をあたえます。」「無意識の独創は新人の魅力であり、それに脱帽するのが選者の礼儀でしょう。」

井上靖(当時69歳)
「私は(引用者中略)推した。芥川賞の銓衡に於て、作者の資質というものを感じさせられる久々の作品だったと思う。」「所々に顔を出す幼さも、古さも、甘さも、この作品ではよく働いていて、全篇をうっすらと哀しみのようなものが流れているのもいい。」「題材が題材だけに、当然肯定もあり、否定もあると思う。肯定と否定とを計りにかけ、その上でどちらかに決めさせられるような作品である。そういう点も、この作品の持つよさとすべきであろう。」

永井龍男(当時72歳)
「これを迎えるジャーナリズムの過熱状態が果してこの新人の成長にプラスするか否か、(引用者中略)群像新人賞というふさわしい賞をすでに得ている、次作を待って賞をおくっても決して遅くはないと思った。まさに老婆心というところであろう。」

瀧井孝作(当時82歳)
「アメリカ軍の基地に近い酒場の女たち、麻薬常習の仲間たちのたわいのない、水の泡のような日常を描いたもの、と私はみた。この若い人の野放図の奔放な才気は一応認めるが……。」「私はこの人の尚洗練された第二作第三作をまちたかった。」

安岡章太郎(当時56歳)
「印象にのこった。」「候補に上る以前から、それこそ「はしゃぎ過ぎ」の感があるほど話題になった作品であるが、内容に較べて二百枚という長さは退屈である。」「何が言いたいのかサッパリわからない。ただ、この作品には繊細で延びのある感受性があり、それが風景描写などに生きている。」「私はこの作品に賞は出さない方がいいと思ったが、積極的に反対するだけの情熱もなかった。」

 「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に各選考委員が戸惑っている様子がうかがえて、貴重な資料である(女性が一人もいないことと、委員の皆さんの年齢にもご注目)。ほぼ40年後の又吉直樹『火花』の受賞へのお膳立てはこの時に始まっていた。といってもいいのではないか。


☆☆☆☆☆☆☆




 なお、「昭和を代表する文芸批評家のひとり」である江藤淳は、まともにこの作品を評することはなかった。ただし週刊誌「サンデー毎日」(1976年7月25日号)に以下の一文が「談話」として発表され、のちのちまで物議をかもした。


「社会学の述語に”サブ・カルチャー”という言葉がある。”下位文化”と訳されているようだ。国語としてあまり熟していると思われないが、村上龍の作品は、結局一つの”サブ・カルチャー”の反映にすぎず、その”表現”にはなっていない、というのが、私の感想である。」


 残念ながらいまひとつ意味のわからぬ文章である。この人もまた、「純文学」と「サブカルチャー」との境界があいまいになっていく時代の予感に戸惑っていたのだ。
 なお江藤氏は村上春樹についても終生まともな論評を残さなかったが、1980年に「文藝」の新人賞に投稿された田中康夫『なんとなく、クリスタル』には激賞に近い評価を与えた。
 この評価の落差は、江藤氏じしんの「アメリカ」に対する屈折した思いに依るものだといわれているが、氏がかつて石原慎太郎が大好きであったのを考え合わせると、「一橋大卒で若くして寵児になって中年以降は政治家に転身するタイプの作家」に惹かれる資質があったのではないかとも思われる(どんな資質だ)。
 いずれにせよ、この時期、第一線で活躍する作家も批評家も、「サブカルチャー」について何もわかってなかったわけである。「サブカルなんぞ知るものか。」で作家が務まり、批評家が務まる。むしろ知ってるほうが恥ずかしい。1970年代とは、まだそんな時代であった。















バベルの図書館 旧版 / ボルヘスについて

2019-02-02 | 物語(ロマン)の愉楽
バベルの図書館 国書刊行会 旧版 目次



01 『アポロンの眼』 The Eye of Apollo G・K・チェスタートン(G. K. Chesterton)

 「三人の黙示録の騎士」「奇妙な足音」「イズレイル・ガウの名誉」「アポロンの 目」「イルシュ博士の決闘」。5編中4編がブラウン神父もの。

02 『無口になったアン夫人』 The Reticence of Lady Anne サキ(Saki)

 セールスマンのアンリ・デプリは、遠縁の遺産で大家ピンチーニ一世一代の傑作を刺青してもらったばかりに出国を拒否される。美術品の国外搬出は禁止されているのだ。そればかりか彼は……(『名画の額ぶち』)。ミスター・アピンの調教により人間の言葉を話せるようになった猫のトーバモリーは、居ならぶ人びとの醜聞を次々とあばきたて、パーティはパニックに……(『トーバモリー』)。ユーモアと残酷と無垢とグロテスクの世界を描くサキの短篇、改訳決定版。ほかに「お話の上手な男」「納戸部屋」「ゲイブリエル-アーネスト」「非安静療法」「やすらぎの里モースル・バートン」「ウズラの餌」「開けたままの窓」「スレドニ・ヴァシュター」「邪魔立てするもの」。

03 『人面の大岩』 The Great Stone Face ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)

 突然理由もなく妻のもとから失踪し、ロンドンの大都会のなかで「宇宙の孤児」と化した1人の男の物語「ウェイクフィールド」に「人面の大岩」「地球の大燔祭」「ヒギンボタム氏の災難」「牧師の黒いベール」の全5篇。

04 『禿鷹』 Der Geier フランツ・カフカ(Franz Kafka)

 アフリカの黄金海岸で捕獲された1匹の猿が、さまざまな訓練・授業によってヨーロッパ人の平均的教養を身につけ、自らの半生をアカデミーに報告する(「ある学会報告」)。悪夢の世界を現出する短篇11篇。

05 『死の同心円』 The Minions of Midas ジャック・ロンドン(Jack London)

 まったく逆の発想から透明人間になる方法をあみ出した2人の科学者が、透明状態のまま宿命的な闘争をおこすSF的物語「影と光」ほか「マプヒの家」「生命の掟」「恥っかき」「死の同心円」全5篇を収録。

06 『アーサー・サヴィル卿の犯罪』 Lord Arthur Savile's Crime オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)
 
 一羽のつばめに託して、みずからのサファイヤの眼や体をおおう金箔を貧しい人びとにわかちあたえる王子の像、自分の生命とひきかえに心臓の血で赤い薔薇の花を染めあげるナイチンゲール……いまなお世界中で読まれつづけているワイルドの童話に、手相師に殺人を犯すことを予言された貴公子の奇妙な運命譚『アーサー・サヴィル卿の犯罪』、売家に住みつく幽霊を逆にふるえあがらせてしまう愉快なアメリカ人一家の話『カンタヴィルの幽霊』の2短篇を併録。

07 『ミクロメガス』 Micromegas ヴォルテール(Voltaire)

 シリウス星の超特大巨人と土星の超巨人が地球を訪問する「ミクロメガス」ほか、「メムノン」「慰められた二人」「スカルマンタドの旅行譚」「白と黒」「バビロンの王女」ゴーロワ的エスプリあふれる作品集。

08 『白壁の緑の扉』 The Door in the Wall H・G・ウェルズ(H. G. Wells)

 夢と現実のはざまで破壊する1人の男を描いた名篇「白壁の緑の扉」。不思議な光をはなつ水晶球の物語「水晶の卵」ほか、「プラットナー先生綺譚」「亡きエルヴシャム氏のこと」「魔法屋」全5篇を収録。

09 『代書人バートルビー』 Bartleby the Scrivener ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)

 法律事務所を経営する「私」の前にあらわれた、癒しがたいまでに孤独な姿をしたバートルビー。生の徒労感を知り究めたかのごとき一代書人、世界からの疎外者バートルビーを通して描かれる人間悲劇の書。

10 『聊斎志異』 editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)中野美代子訳

氏神試験
老僧再生
孝子入冥
幻術道士
魔術街道
暗黒地獄
金貨迅流
狐仙女房
虎妖宴遊
猛虎贖罪
狼虎夢占
人虎報仇
人皮女装
生首交換
夢のなかのドッペルゲンゲル
鏡のなかの雲雨


11 『盗まれた手紙』 The Purloined Letter エドガー・アラン・ポオ(Edgar Allan Poe)

 臨終の人間に催眠術をかけて、死の侵入をどこまで阻止できるかをはかる奇怪な実験の物語『ヴァルドマル氏の病症の真相』。大都会の雑踏を意味もなくさまよう一人の男を描き、近代人の心理を透徹した眼でえぐった『群衆の人』。四千トンにもおよぶ巨大な幽霊船に乗って地球の極へ流される船員の驚異の告白『壜のなかの手記』。スペイン異端審問所の恐怖と残酷の拷問『落し穴と振子』。分析的知性の名探偵デュパンものの最高作『盗まれた手紙』全5篇を収録。

12 『ナペルス枢機卿』 Der kardinal Napellus グスタフ・マイリンク(Gustav Meyrink)

 世界大戦の機械大量殺戮を背景に、主人と従僕が月遊病幻覚のなかで入れかわる多重人格綺譚(『月の四兄弟』)。人間の時間を吸う怪物〈時間-蛭〉、その呪縛を逃れて永世を可能にする呪文〈VIVO〉の秘密(『J・H・オーベライト、時間-蛭を訪ねる』〉。恐るべき毒草アコニトゥム・ナペルスの秘密をにぎるナペルス枢機卿とその秘密結社の呪い(『ナペルス枢機卿』)。オカルティズムの世界を背景に、神秘と怪奇のあやなすマイリンクの短篇3篇。

13 『薄気味わるい話』 Histoires Desobligeantes レオン・ブロワ(Léon Bloy)

煎じ薬
うちの年寄り
プルール氏の信仰
ロンジュモーの囚人たち
陳腐な思いつき
ある歯医者へのおそろしい罰
あんたの欲しいことはなんでも
最後に焼くもの
殉教者の女
白目になって
だれも完全ではない
カインのもっともすばらしい見つけもの

14 『友だちの友だち』 The Friends of the Friends ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)

 復讐の年代記「ノースモア卿夫妻の転落」、分身物語「私的生活」他「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」「友だちの友だち」4篇を収録。「われわれの時代の最高級の作家」とボルヘスが呼ぶジェイムズの短篇小説集。

15 『千夜一夜物語 -バートン版』 Le Mille E Una Notte

ユダヤ人の医者の物語
蛇の女王
プルキヤの物語
ヤンシャーの物語

16 『ロシア短篇集』 editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 「文学が我々に提供しうるもっとも賞賛に値する作品」とボルヘスが絶讃するトルストイの「イヴァン・イリイチの死」。他にドストエフスキー「鰐」、墓より蘇った男の物語「ラザロ」(アンドレーエフ)を収録。

17 『声たちの島』 The Isle of Voices ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)

 『宝島』の作者として名高いスティーヴンソンの絶妙な短篇4篇を収録。タヒチに伝わる超自然的な話を換骨奪胎した表題作に、死んだ魔女を侍女にした牧師の戦慄譚「ねじれ首のジャネット」、ほか「壜の小鬼」「マーカイム」。

18 『塩の像』 La estaua desal レオポルド・ルゴーネス(Leopoldo Lugones)

 ボルヘスに多大な影響を与えたアルゼンチン作家の、百科全書的知識を駆使した幻想短篇集。チンパンジーに言語を教える男の話「イスール」、聖書を題材にした「火の雨」「塩の像」他「アブデラの馬」等7篇。

19 『悪魔の恋』 Le diable amoureux ジャック・カゾット(Jacques Cazotte)

 悪魔が変身した美女ビヨンデッタと、ナポリ王親衛隊大尉ドン・アルヴァーレの間にかわされる不思議な恋の物語。オカルティズムと東方趣味のうえに織りあげた、フランス幻想小説の嚆矢と目される傑作長篇。

20 『アルゼンチン短篇集』 Racconti Argentini editor:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 姉を毒殺して手に入れた膨大な遺産を隠しもってブエノスアイレスに向かう馬車に乗ったカタリーナは、自分と同じマントをはおり同じ頭巾を被った一人の女性客に気づいた。朝もやの中に浮かんだその顔は、なんと死んだはずの姉ではないか。とその時、大音と共に馬車が傾き、カタリーナは外に投げ出される……(ムヒカ=ライネス『駅馬車』)。他に、コルタサル『占拠された家』、ビオイ=カサーレス『烏賊はおのれの墨を選ぶ』、シルビーナ・オカンポ『物』フェデリコ・ペルツァー『チェスの師匠』など全9篇

21 『輝く金字塔』 The Shining Pyramid アーサー・マッケン(Arthur Machen)

 英文学のなかでもっともデカダン的といわれるマッケンが、聖性と邪性の彼方に繰広げるあやかしの世界。〈サバトの酒〉と呼ばれる薬を服用したため、醜悪な姿に変身する青年の話(「白い粉薬のはなし」)他

22 『パラケルススの薔薇』 La rosa de Paracelso ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)

 本邦初訳3篇を含むボルヘスの小説「一九八三年五月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」4篇と、インタビュー「等身大のボルヘス」で構成。巻末にボルヘス年譜・書誌を付す

23 『ヴァテック』 Vathek ウィリアム・ベックフォード(William Beckford)

 正篇のフランス語からの新訳と、本邦初訳の挿話篇「アラーシー王子とフィルーズカー王女の物語」「バルキアローフ王子の物語」を2分冊に収める。官能と知の極限を求める男の恐るべき地獄下りの物語。

24 『千夜一夜物語 -ガラン版』 La mille e una lotte

 旅の途中ババ・アブダラは謎の托鉢僧に出会った。僧が差し出す小箱に入った膏薬は、左の瞼にすりこむと世界の財宝が見えてくるが、右目にすりこむと……(「ババ・アブダラの物語」)。他「アラジン」の話を収録。

25 『科学的ロマンス集』 Scientific Romances C・H・ヒントン(Charles Howard Hilton)

 供奉を引き連れての狩りの途中、閉ざされた谷に一人迷い入ったペルシアの王は、デミウルゴスたる老翁に出会う。谷間のミクロコスモス的空間の進化をつかさどる高次の存在となった王は、快楽をもたらそうとするが……(『ペルシアの王』)。イギリス・日本・アメリカで数学教師を務めていた謎の作家ヒントンの形而上学的物語。他に、『第四の次元とは何か』『平面世界』を収録。

26 『ヤン川の舟唄』 Idle Days on the Yann ダンセイニ卿(Lord Dunsany)

 「カフカの先駆的作品」とボルヘスが推賞する「カルカッソーネ」。ほか、「不幸交換商会」「乞食の群れ」等短篇7篇と戯曲1篇。アイルランドの詩人ロード・ダンセイニの想像力がつむぎだす黄昏の世界。

27 『祈願の御堂』 The Wish House ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)

 中世のイングランドの僧院を舞台にした「アラーの目」、ブラウニング流の劇独白体をとった「サーヒブの戦争」ほかに、「祈願の御堂」「塹壕のマドンナ」「園丁」の全5篇を本邦初訳。

28 『死神の友達』 EL amigo de la muerte ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン(Pedro Antonio de Alarcon)

 「三角帽子」の作者として名高いアラルコンの中短篇2篇を収録。自殺をはかり意識が朦朧としているヒル・ヒルの前に死神が現れた。死神はしばらくの命と願望の成就を約束するが……。他に怪談「背の高い女」。

29 『最後の宴の客』 Le convive des dernieres fetes ヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de l'Isle Adam)

 最愛の女ヴェラを失ったダトル伯爵は、愛の力によって亡妻の存在の幻を創り上げ、ついには彼女と天使の如き天上的な抱擁をとげる……リラダンの作中最も幻想的で、ポーの夢幻の世界に最も近接している作品とボルヘスが語る神秘的物語『ヴェラ』。死刑執行人の仕事を虎視眈々と狙う偏執狂のドイツの男爵『最後の宴の客』。拷問の精神的苦痛を描いた『希望』。残虐な王妃の復讐譚『王妃イザボー』ほか全7篇。

30 『逃げてゆく鏡』 Lo specchio che fugge ジョヴァンニ・パピーニ(Giovanni Papini)

 分裂する自我、死、自殺、鏡の反映のうちに逃げてゆく「時」。 哲学者、思想家、批評家、詩人、小説家、未来主義者、ファシスト、宗教界への罵声の限りをつくしたのちに回心したキリスト者……多彩な肩書きをもつパピーニが、ジャン・ファルコのペンネームで発表した知られざる幻想怪奇小説。表題作のほか、『完全に馬鹿げた物語』『〈病める紳士〉の最後の訪問』『もはやいまのままのわたしではいたくない』『魂を乞う者』『身代わりの自殺』等全10篇。




                        ☆

《ボルヘスについて》

 この宇宙を律する円環的な時間。

 その投影としての世界の迷宮的構造。

 個人の生が反復する祖型的運命。

 作品の伝統性と見合った作者自身の匿名性。




 夢見る者=創造主もまた夢見られしもの=被造物、という認識。


                       ★



イタロ・カルヴィーノ、ボルヘスの短篇を評して

 ボルヘスは、ほんの数ページのテクストに、おそろしいほどのゆたかさをもった詩と思想の燦きを、また語られ、あるいは示唆されるだけにすぎないできごとを、眩暈をおぼえるほどの無限への広がりを、そして際限なく湧き出すアイデアの数々を、みごとに封じ込めてみせます。


◎その一例。

 あの無限のアレフを、わたしの怯弱な精神がほとんど記憶にとどめていないアレフを、いかにして他人(ひと)に伝達することが可能であろうか?
 こういう場合神秘主義者たちは象徴をふんだんに用いる。たとえば神性を表示するために、あるペルシャ人は、見方によればあらゆる鳥であるような鳥について語り、アラヌス・デ・インスリス(1128~1202 フランスの神学者)は、その中心は随所にあるが円周はどこにもない球について語り、またエゼキエルは、同時に東西南北の四方に向くことのできる四つの顔を持った天使について語った。
 おそらく神々はわたしにもこれらと同類の比喩をお許しになるだろうが、その記述は文学や虚構によって不純なものにならざるをえないだろう。実際わたしがしようとしていることは不可能なのである。というのは無限に連なるものの一つ一つをいくら列挙したところで、所詮それは微小な一部分にすぎないのだから。

「エル・アレフ」より