ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「HUGっと!プリキュア」について 01 突き進む巨船としての「物語」

2018-07-11 | プリキュア・シリーズ
 このたびの豪雨で被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。





 アニメ「HUGっと!プリキュア」がすばらしい。子ども向けアニメの枠にとうてい収まるものではない。「現代における物語」を考えるうえでの教材として、折にふれて考えていきたいと思う。

 「時間的および因果的に前もって起こっていた事」を、あとになって読者(観客)に提示する手法を「後説(こうせつ)法」とよぶ。
 よく使われるのは、メインの登場人物が、「表面では明るくふるまっているが、じつはこんなに重い過去を背負っていたのだ……」というケース。
 改めてその事実を提示されることで、読者(観客)は、それまで自分が辿ってきたエピソードの数々を思い起こし、これまでとはまた違った目で、それらのエピソードを見返すことになる。
 じぶんのなかで、物語の「再構成」をせまられるわけだ。
 いうまでもなく、そのキャラクターにむけるまなざしもかわる。
 「HUGっとプリキュア!」は、23話まで進んだところで、主人公(のひとり)野乃はな(CV 引坂理絵)が、かつて「いじめ」にあっていたことが明らかになる。「ぼっち(仲間外れ)」というやつだが、もとよりこれも、まごうかたなき「いじめ」である。
 いじめられていたクラスメイトを庇ったせいでそうなったことも、短いカットで示される。
 だから23話までくると、01話……サブタイトルは「フレフレみんな! 元気のプリキュア、キュアエール誕生!」……からのすべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくることになる。
 いじめの解決策として、はなの母親・野乃すみれ(CV 桑谷夏子)が選んだ手段は「転校」だった。
 01話の冒頭は、はなの転校初日のその朝なのだ。
 リアルタイムで観ているとき、われわれ視聴者にそのことはわからない。夢にも思わない。すべりだしの印象は、ただただ明るかった。
 作品内におけるはなの第一声は、「フレーフレーわたしぃー。がんばれがんばれわたしぃー」だ。「みんなを応援! 元気のプリキュア、キュアエール」の第一声は、何よりも、まず自らを鼓舞するエールだったのである。
 全体の印象は、画面の色調もBGMも引坂さんの演技もほんとに明るい。そりゃあまあ、日曜朝の子ども向けアニメが、いきなり暗くちゃしょうがない。しかし23話を見終えた目であらためて見返すと、自身へと向けるこのエールに、切実なものを感じずにはいられない。
 ただやはり、整合性がきちんと取れているかというと、そこはいささか心許なくて、23話のあのエピソードからどれだけの時間が経っているかはわからないけれど、本来ならば、このときのはなは、もっと緊張しているはずだし、もっともっと内面で葛藤を演じてるはずだ。
 なにしろ「中学生活のやり直し」を懸けた転校初日の朝なのである。とてもじゃないが、朝ごはん前の慌ただしい時に、「この日のために伸ばしてきた」前髪を切ってる(それも工作バサミで)余裕なんぞないだろう。ふつうなら、せめて前の晩のうちにやる。
 もちろん、全話の滑り出しとして、はなが自らの手で前髪を切る(そしてもちろん失敗する)このくだりはとても魅力的である。シナリオとしても、演出としても、ぜひ冒頭に持ってきたい。昨夜にうちに済ませときましたじゃ面白くない。ぼくが脚本を書いてもそうする。
 しかし、リアリズムの見地からいえばやっぱりおかしい。つまりここは、「お話としての面白さ」と「リアリズム」とを秤にかけて、スタッフが前者を選んだ事例といえる。
 もうひとつ。23話において、はなが過去のつらい記憶をフラッシュバックさせたのは(言い換えれば、彼女の過去がぼくたち視聴者に提示されたのは)「キュアエールさんはすごいよな。自分より大きなものに立ち向かって」というクラスメート(男子)の噂話が耳に入ってきたせいだが、ここで思い出すのなら、これまでにもその機会は何度となくあったはずなのだ。
 もちろん、じっさいにそんなもんいちいち思い出してた日にゃあ、話は澱むし、陰気くさくなるし、ストーリー自体が成立しなくなってしまうから、それは仕方がないのである。つまりここでも、「お話としての面白さ」が「リアリズム」に優先している。
 誤解しないで頂きたいが、ぼくはけっして難ずるつもりで書いてるのではない。それどころか、「HUGっと!プリキュア」は、自分がこれまで見てきたアニメの中でベスト5に入るとさえも思っている。まだ半分もいっていないが、よほどこのさき迷走したり、破綻をきたしたりしないかぎりは、その評価はゆるがないだろう。
 「児童向けアニメだからそんなもんだろう」と、たかをくくってるわけでもない。今作のスタッフは、そんな安易さとは縁がない。だからこっちも本気で観ている。上に書いたような齟齬(そご)などは、はるかに予算をかけたハリウッド映画でもひんぱんに見受けられることである。つまりこれは、「物語」というものが否応なしに抱え込んでしまうバグなのだ。ピンセットで埃を摘まみ出すみたいに、これらのバグをことごとく取り除こうと努めたら、およそ物語を紡ぐことなど不可能となろう。
 よき物語(作品)とは、数知れぬ微細なバグを抱え込みながら、それでも断固として突き進んでいく巨船みたいなもんじゃないかと、最近ときどき考える。それを動かす力は作り手のもつ強い意志だ。バグを侮ってはむろんいけない。しかし、あまりにそれを恐れては、物語そのものが進まない。1年に及ぶ長尺とあらば尚のことである。
 それに、「はなの過去」との整合性が取れないのは、ぼくの見たところその2点くらいなのである。そのほかは、「はなが過去にいじめにあっていた」ことを考え合わせると、あらためて腑に落ちることが多い。初めに述べたとおり、「すべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくる」のだ。齟齬を突つくことよりも、そちらに目を向けたほうが、生産的に決まってる。
 さて。視聴者の予想どおり、はなのヘアカットは失敗し、「前髪ぱっつん」のスタイルとなる。
 「前髪ぱっつん」は、三戸なつめさんという歌手がいるので、オリジナルとはいえないが、変といえば変、可愛いといえば可愛い、とても際どいスタイルだ。サイドのヘアーと、顔ぜんたいとのバランスに左右されるのであろう。
 アニメなので、はなのルックスはもちろん魅力的に設えられている。ただ、ちょっと変な感じも残してあって、絶妙なキャラデザインといえる。




 はなの理想の「なりたい私」は、かたわらのスケッチブックに描かれてあった。ラフだけどしっかりした素描で、なかなかの腕前である。「あわわわー」というコミカルな嘆声にあわせて、窓からの風がそのページをふわりと閉じる。ていねいな演出だ。
 ここまでが、OPの歌のまえ、いわゆる「アバン」だ。
 一階で食卓につくはな。家族構成は、父・森太郎(CV 間宮康弘)、母・すみれ、妹・ことり(CV 佐藤亜美菜)の4人。はなとことりが並んで座り、両親は画面の奥にいる。
 すみれが何らかの仕事についていること。デフォルメされてるのか?と思うくらいガタイのよい森太郎が、その体格どおりじつに安定した人柄であること。結果としてこの家庭が、共稼ぎであっても殺伐とはせず、和やかさに満ちていること。これらの情報が的確なカットでぼくたちに届けられる。
 画面の手前では、はなが食卓に顔を伏せている。ことりが前髪のことでつっこみをいれる。はなは「切りすぎちゃったよ~」と泣きを入れるが、引坂さんの芝居はあくまでも陽性だし、うしろでは軽快なテーマがずっと流れているので深刻にはならない。仮に転校初日ならずとも、女子にとってはけっこうクリティカルな状況じゃないかと思うが、とにかくムードはひたすら明るい。
 すみれが、「ごはんよ」といって皿を出すと、はなはとたんに「うわあ~、オムレツだ~」と顔を輝かせ、さっそく食事に取り掛かる。はなの子供っぽさをからかうことり。はなは中2。ことりは小6。「どこか抜けてる姉」と「しっかりしている妹」のセットは、わりとよくみるパターンで、この姉妹もその文脈のうちにある。もちろん、仲はたいへん良いのである。はなが(父親に似ず)かなり小柄であることも、このとき強調される。
 はな(とことり)に朝食を出し、美味しそうにむしゃぶりつく様を見守るすみれは、出勤前のビジネスパーソンではなく、母親の顔だ。「育児」と「仕事」がこの作品のテーマなのだけれど、彼女はその両方を体現し、かつ、のちにプリキュアとなったはなにその大切さを身をもって示していく点で、とても重要な存在である。
 玄関先。とんとん、と靴の爪先を床に打ち付けて履き、「行ってきます」と声を掛けるはな。玄関まで見送りにきたすみれが「じゃあ、ハグ」といってはなを抱きしめ、はなが「ハグ」といってそれに応じる。
 タイトルが「HUGっと」で、オープニングの歌でもそのへんは強調されてたから、野乃家は毎朝こうやって娘たちを送り出す習慣なのかな、と最初にみたときは思った。でもたぶんそういうわけでもないんだろう。むろん、ニッポンの平均的な家庭に比べて「ハグ」の回数は多いのだろうが、やはり今日がとくべつな日だからこそ、ここですみれは、はなをハグしたのだろう。
 「がんばってね」というすみれに、はなは、腕をぐるぐる回しながら「うん。ママもがんばれ。フレフレ」と返す。ささいなようだが、「受け取ったエールは、きちんと返す」という彼女のポリシー、ひいては作品全体を貫くテーマが、さりげなく点綴されたシーンだ。
 はなの人格を育んだ基盤は家庭である。さらりとしたタッチで、しかしきっちりと彼女の家庭をはじめに描いたことで、この作品は強い訴求力をえた。