ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

芥川賞と「企業小説」

2018-07-03 | 純文学って何?
 (……前略)あらためて言うまでもなく、純文学は社会的にはキャラクター小説よりもはるかに大きな存在感を保っている。そして、その理由は必ずしも無根拠な権威化によるものとは言えない。というのも、キャラクター小説の読者は、数として多くても質的に限られているが、純文学の読者はさまざまな階層や年齢に散らばっているからである。
 そして、その多様さは、純文学が現実を描いているという「期待」で支えられている。そのような期待が端的に現れるのは、芥川賞受賞作をめぐる報道記事である。それらの記事では、多くの場合、小説の内容が社会問題と結びつけて語られる。ミステリやホラーは娯楽のために読むが、純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むという前提が、この国では半年ごとに再強化されている。むろん、純文学に別の可能性を見ている読者はいるだろうし、批評に親しんだ読者ならば、むしろこのような文学観に強い抵抗を覚えるだろう。しかし、ここ数年の話題作や、その語られ方を見るに、純文学への期待の中心がそのような素朴なリアリズムであることは否定しがたい。(……略)
 このような日本文学の状況は、歴史的には一種の反動だとも考えられる。少なくとも1980年代には、近代文学批判の言説は今よりも大きな影響力をもち、純文学とジャンル小説(引用者註・ミステリやホラーやSFやファンタジーなど)の融合や越境が積極的に試みられていた。(……略)
 しかし、1990年代後半に入ると状況は大きく変わってしまう。1995年(引用者註・もちろん、震災とオウム事件の年だ)以降、筆者が『動物化するポストモダン』で「動物の時代」と呼んだ時代が始まると、人々は複雑な理想や虚構ではなく単純な現実を求め始め、純文学は、文学的な実験の場所というよりも、むしろその素朴な欲望の受け皿として機能し始める。(……後略……)



 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書)より。だからこの「筆者」というのは東さんのことです。あ、それと、「キャラクター小説」とはいわゆるライトノベルのことです。
 で、長々と引用させてもらってアレだけど、ぼくはこの文章に一から十まで賛同しているわけではない。まず、東さんも承知のうえで言ってるんだとは思うけど、「芥川賞受賞作」と「純文学」とは必ずしも合致しないので、このふたつを一緒くたにするのはほんとはまずい。「純文学」がカテゴリー全体の総称で、「芥川賞受賞作」はその一部……ということもあるし、ほかにもいくつか問題がある。
 ただ、「社会がそれを純文学の右代表と見なしてる」という点では確かに芥川賞受賞作=純文学にはちがいない。だから今回のこの記事の中では、ぼくもあんまりややこしいことは言わないで、そのつもりで話を進めていきましょう。
 それともうひとつ、これもまたマニアックになるが、1980年代の「純文学」が、「ジャンル小説との融合や越境を積極的に試み」ていたってのも、ぼくには正しい認識とは思えない。とはいえ、これらはいずれも本筋とは無関係なので、これ以上は踏み込まないことにする。
 「純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むもの。」そう多くの人が思っている。ここが今回の記事のテーマである。
 池澤夏樹さんが選考委員の中に名を連ねていらした頃なら、「沖縄県民の現在を……」という一文を入れてもよかったろう。
 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』は面白い本で、今でも版を重ねているが、初版が出たのは2007(平成18)年だ。11年まえ。このかん、円城塔さんの「道化師の蝶」、黒田夏子さんの「abさんご」といった異色作は単発的に出たものの、東さんのこの指摘は、今でも総じて有効だろう。
 いや有効どころか、楊逸(ヤン・イー)、津村記久子、西村賢太、村田沙耶香といった方々の受賞によって、より補強されているというべきか。社会派リアリズム小説としての芥川賞受賞作(純文学)、という定式。
 かといってそれは、たとえば池井戸潤さんみたいな、いわゆる企業小説でもない。正業をもった会社員が主人公に選ばれるほうが珍しく、そのばあいでも「大企業の役付き」なんてことはけっしてない。
 2009年の受賞者である磯崎健一郎さんなんて、当時は三井物産本店の人事総務部人材開発室次長を務めるエリートだったが、その「終の棲家」には、会社(組織)で働く主人公の姿は描かれていない。文学者としての磯崎さんは、ボルヘスやカフカやムージルを愛読書に挙げる学究タイプで、あの作品も、社会派どころか、むしろポストモダニスティックな実験小説だった。
 昔でいえば、たとえば城山三郎、深田祐介といった方々は「文學界」新人賞の受賞者で、つまり彼らの小説は「純文学」と見なされてたのだが、まさにこれらの方々の活躍によって「企業小説」というジャンルが成立してしまうと、「企業小説」は、「ミステリ」や「ホラー」や「時代小説」と並ぶ一つの「ジャンル小説」となり、潔癖症というべきか、「純文学」は自ら峻別をはかるべく、そこから離れていったのだ。おおむね昭和40年代半ば以降の話である。これもまた、読まれなくなった要因のひとつではあるのだが。
 とはいえ、明治期半ばに成立した頃から、「純文学」はもっぱら「立身出世」コースから外れた高踏遊民やら不平分子を中心に据えて生長してきた。とくに日本においてはそうなのだ。だから元来そういう指向をもっている。
 かくて、東さんが冒頭の一節を書いた11年前も今も、「純文学」にはフリーター、ニート、売れない芸人、主婦、大学生ないし高校生、時には犯罪者すれすれの人などといった、どう見ても社会の中枢を担っているとはいえない階層が頻出するわけである。
 ぼく個人は、こんな話はべつだん「文学」とは関係なくて、「社会学」に属する主題だろうと思っている。とはいえ、「芥川賞」は文学イベントである以上に社会的イベントでもあるわけで、そういう意味(に関するかぎり)では、避けては通れない話だとも思う。
 芥川賞受賞作は、年に2回、「文藝春秋」誌上に選評つきで掲載される。ご存知のとおり、文藝と名乗ってはいても、これは文学プロパーの雑誌ではなく、政治、経済、社会、あと中国への悪口といったもので構成される総合誌だ。
 いまの日本は非正規雇用者が増えているから一概には言えぬだろうが、やはり主たる購読者層はそこそこの齢の、正業をもった社会人、それも男性が大半だと思う。
 このような階層にとっては、フリーター、ニート、下積み芸人、主婦、一人暮らしの独身女性、ちょっと古い例だと身体改造に熱中するアブない娘や、クラスで浮いてる女子高生……たちの生活とか内面といったようなものは、東さんの「教養」という言葉が適切かどうかはともかく、それなりに興味をひかれるものではあろう。
 自らの属する社会的グループの近傍にありつつ、自分がとても入っていけないグループ。そういうものに対する興味ってのは、社会的動物たる人間にとって健全な知的好奇心ではある。
 芥川賞受賞作が、文学性とはまた別に、そういった「高級ルポルタージュ」的な側面を暗黙のうちに期待される傾向はこの先もつづくであろうと思われる。