この「相良油田」の読解に暇がかかるのは、もとより作品そのものの難しさにも因るけれど、作中に描かれている「油田」のイメージがいまひとつ掴みづらいせいもある。30年近くまえに初めて読んだ時からずっと、そこに引っかかっていたのだが、ネット時代のありがたさで、世の中にはツーリングブログってものがあって、現地にまで出かけて、詳しいレポートを写真付きでアップして下さっている方々がおられる。それらを参照することで、理解を深められた気がする。
ただし、ここでいうのは大井川の川尻にある(と浩が嘘をつき、その嘘に引きずられて抜き差しならなくなっている)「油田」ではなくて、御前崎にある本物の「相良油田」のことである。くどいようだが、大井川の川尻には油田はないので、いくらツーリングしても、そこでは見つかりません。
とはいえ本物の「相良油田」のほうも、すでに歴史的な役目を終えて、今は跡地が資料館として保存されているだけらしい。
「一階に大きな鉄の調車のついた機械が据えられてある、川原の真中の洲の二階建ての採石の小屋」へと、夢のなかの上林先生と浩は向かうのだが、ネットの写真で見るかぎり、資料館として保存されている相良油田の小屋と、彼らの向かう「採石の小屋」とはけっこう似ているのである。
「夢」とはいっても、これは作者が作品として再構成した「夢」なのだから、われわれが実際にみる夢とは違う。ほんとうの夢は、時系列のうえからも論理的展開のうえからも、もっとデタラメで、飛躍にみち、脈絡を欠いているはずだ。言葉遊びみたいな言い方をすれば、ここで語られる「夢」は、リアリティーがありすぎるがゆえにリアルではない。
浩と先生は、「採石の小屋」の間近まで行き、浩はさらに中へ踏み込む。内部の描写はじつに細かく、想像だけで書いたものとは思われない。造形に当たって作者は、なにを参考にしたのだろうか。かつて自らがどこかで見た「採石の小屋」を元にしたのかもしれないが、あるいは、本物の相良油田にある小屋を見学して、それに基づいて描いた可能性もないではない。このあたり、そういった建物を見たことのないぼくには、じつはよくわからないのである。
いずれにしても、それはわれわれが想像する「油田」からは程遠く、むしろ「油井」というべき風情だ。そしてその「油井」は、実際のところ「採石」の現場とさほど大差ないように思える。
彼は彼女の顔をうかがった。意外にも彼女は、大真面目で採石の建物に油井を見ているとしか、彼には思えなかった。上気して胸を弾ませているようだった。
これはふたりが小屋に近づいていく途中での一節だけど、作者はここで、「油田」を「油井」と初めて言い換えている。これはやっぱり、ちょっとしたミスではないかなあ……。あるいは、浩自身が(この時の彼は、むろん相良油田を見たこともないし、はっきりしたイメージさえ持ってはいない)「油田」と「油井」とをきっちり区別できてないとみるべきか……。ついさっき述べたとおり、ネット上の写真で拝見するかぎりでは、「採石の建物」と「油井」とは、大差がないように見えるのだ。だから上林先生の反応は、そんなにおかしな錯誤だと思えないのである。
ただしもちろん、そこは浩が述べた「アメリカよりも、ボルネオよりもコーカサスよりも大きな油田地帯」などではないし(中東の地名が出てこないのは、これが戦前の話だから)、「たくさんの高い塔」だの「精錬所」といったものももちろんない。そういう意味ではたしかに、先生の態度は不審であり、浩が疑心暗鬼になるのも無理からぬところはある。
そしてまたここで、改めてあの恋のライバル(?)、「海軍士官」が登場(?)する。むしろ重要なのはこちらのほうだ。
彼の頭をまた、海軍士官がかすめた。その人が彼女を、騙されやすい少女のようにする、と浩には思えた。
これもまた小川さんならではの凝縮された表現で、読み手の側で補わなければいまひとつよくわからない。ようするに、先生が油田油田と小娘のようにはしゃいでここまで浩に付いてきたのは(というか、浩を引っ張ってきたのは)、そこが恋人たる海軍士官にかかわりのある場所だからだ。いや、これが夢のなかの世界だということを踏まえてもっとはっきりいうならば、“そこに行けば恋人(海軍士官)に逢える”と、彼女が知っているからなのである。さらに言えば、浩自身の無意識が、どうしてもこの場所で、彼女とともに、海軍士官と対峙したいと欲望しているからだ。
そしてじっさいに話はそのように進む。ただしその浩と海軍士官との対峙は、じつになんともフロイト的に捩じくれた形で可視化されるのだが……。それは浩がひとりで小屋の奥まで踏み込み、さらに「二階」へと上がってからのことである。
すこし筆を先へと進めすぎた。ふたりはまだ小屋へと向かっている途中だ(そのかんも浩はもちろん、一人うじうじ内省している)。ふと考えたのだけれど、せっかく意中の女性との道行きが叶い、あまつさえ、あちらから腕を携えてくれているにも関わらず、彼が怏々(おうおう)として一向に愉しむことができないのは、たんに自罰的でナイーブな性格だからというだけでなく、カトリック的な「原罪」意識が与っているのかもしれない。そんな気がしてきた。この連載の第6回、花村萬月との対談について書いた際にもふれたが、小川国夫はカトリックの信仰をもつ作家で、それを題材にした作品も多い。この「相良油田」ではそれが前面に出てこないから深くは考えなかったけれど、作家ってものは自らの抱える本質的なテーマからは逃れられないものである。小川さんのすべての作品に、じつは信仰の問題は浸透しているとみるべきかもしれない。
それにしても、小屋のほうへと向かいつつ、「破れかぶれに」なっている浩と、ここにきていよいよ上機嫌な先生との会話は、妙に細かくて理屈っぽいところと、強引なところとが綯(な)い交ぜとなり、しかもそこに「海軍士官」の影がちらついてじつに面白い。引用したいところだが、やりはじめると際限がなくなり、ついには全文引用となって講談社に怒られそうである。自重しましょう。
そうしてふたりは小屋に着く。高い位置にあるらしく、「もう頭の上へ来てしまった採石の小屋」と、小川さんは書いている。このあたりもどうも、ぼくにはうまく情景が描けないのだが……。
――汲み上げた原油を船の所まで、どうして持って行くんでしょうね。
――砂利の下にパイプが通してあるんじゃないの。その中を流れているんだと思う。
――でも機械は今止っていますね。
――動いているみたい。
――止っているんでしょう。だからよく解りませんね。
――動いているわよ。
――銹びついているようですよ。
――ううん、動いているって。機械があんなに濡れているじゃあないの。
――濡れてるとこもあるけど……。
――そばへ近寄ってごらん。
――そう、随分濡れてますね。
こういう会話にエロティシズムを感じ取るのは、べつに妄想ではなくて、このばあいは正しい読み方である。ただしこの時ふたりは小屋の中までは入らず、外から窺っている按配だ。
浩は機械のわきから二階の床を見上げた。板の合わせ目から鍾乳石のように、汚いものが垂れ下がっていた。それを見ると、二階にはなにか泥状のものがぶちまけてあるように思えた。なにがあるのか、上ってみたい気がした。その時彼女がいった。
――浩さん、帰りましょう。……今日は有難う。先生、油田を見たの始めてなのよ。
ただし、ここでいうのは大井川の川尻にある(と浩が嘘をつき、その嘘に引きずられて抜き差しならなくなっている)「油田」ではなくて、御前崎にある本物の「相良油田」のことである。くどいようだが、大井川の川尻には油田はないので、いくらツーリングしても、そこでは見つかりません。
とはいえ本物の「相良油田」のほうも、すでに歴史的な役目を終えて、今は跡地が資料館として保存されているだけらしい。
「一階に大きな鉄の調車のついた機械が据えられてある、川原の真中の洲の二階建ての採石の小屋」へと、夢のなかの上林先生と浩は向かうのだが、ネットの写真で見るかぎり、資料館として保存されている相良油田の小屋と、彼らの向かう「採石の小屋」とはけっこう似ているのである。
「夢」とはいっても、これは作者が作品として再構成した「夢」なのだから、われわれが実際にみる夢とは違う。ほんとうの夢は、時系列のうえからも論理的展開のうえからも、もっとデタラメで、飛躍にみち、脈絡を欠いているはずだ。言葉遊びみたいな言い方をすれば、ここで語られる「夢」は、リアリティーがありすぎるがゆえにリアルではない。
浩と先生は、「採石の小屋」の間近まで行き、浩はさらに中へ踏み込む。内部の描写はじつに細かく、想像だけで書いたものとは思われない。造形に当たって作者は、なにを参考にしたのだろうか。かつて自らがどこかで見た「採石の小屋」を元にしたのかもしれないが、あるいは、本物の相良油田にある小屋を見学して、それに基づいて描いた可能性もないではない。このあたり、そういった建物を見たことのないぼくには、じつはよくわからないのである。
いずれにしても、それはわれわれが想像する「油田」からは程遠く、むしろ「油井」というべき風情だ。そしてその「油井」は、実際のところ「採石」の現場とさほど大差ないように思える。
彼は彼女の顔をうかがった。意外にも彼女は、大真面目で採石の建物に油井を見ているとしか、彼には思えなかった。上気して胸を弾ませているようだった。
これはふたりが小屋に近づいていく途中での一節だけど、作者はここで、「油田」を「油井」と初めて言い換えている。これはやっぱり、ちょっとしたミスではないかなあ……。あるいは、浩自身が(この時の彼は、むろん相良油田を見たこともないし、はっきりしたイメージさえ持ってはいない)「油田」と「油井」とをきっちり区別できてないとみるべきか……。ついさっき述べたとおり、ネット上の写真で拝見するかぎりでは、「採石の建物」と「油井」とは、大差がないように見えるのだ。だから上林先生の反応は、そんなにおかしな錯誤だと思えないのである。
ただしもちろん、そこは浩が述べた「アメリカよりも、ボルネオよりもコーカサスよりも大きな油田地帯」などではないし(中東の地名が出てこないのは、これが戦前の話だから)、「たくさんの高い塔」だの「精錬所」といったものももちろんない。そういう意味ではたしかに、先生の態度は不審であり、浩が疑心暗鬼になるのも無理からぬところはある。
そしてまたここで、改めてあの恋のライバル(?)、「海軍士官」が登場(?)する。むしろ重要なのはこちらのほうだ。
彼の頭をまた、海軍士官がかすめた。その人が彼女を、騙されやすい少女のようにする、と浩には思えた。
これもまた小川さんならではの凝縮された表現で、読み手の側で補わなければいまひとつよくわからない。ようするに、先生が油田油田と小娘のようにはしゃいでここまで浩に付いてきたのは(というか、浩を引っ張ってきたのは)、そこが恋人たる海軍士官にかかわりのある場所だからだ。いや、これが夢のなかの世界だということを踏まえてもっとはっきりいうならば、“そこに行けば恋人(海軍士官)に逢える”と、彼女が知っているからなのである。さらに言えば、浩自身の無意識が、どうしてもこの場所で、彼女とともに、海軍士官と対峙したいと欲望しているからだ。
そしてじっさいに話はそのように進む。ただしその浩と海軍士官との対峙は、じつになんともフロイト的に捩じくれた形で可視化されるのだが……。それは浩がひとりで小屋の奥まで踏み込み、さらに「二階」へと上がってからのことである。
すこし筆を先へと進めすぎた。ふたりはまだ小屋へと向かっている途中だ(そのかんも浩はもちろん、一人うじうじ内省している)。ふと考えたのだけれど、せっかく意中の女性との道行きが叶い、あまつさえ、あちらから腕を携えてくれているにも関わらず、彼が怏々(おうおう)として一向に愉しむことができないのは、たんに自罰的でナイーブな性格だからというだけでなく、カトリック的な「原罪」意識が与っているのかもしれない。そんな気がしてきた。この連載の第6回、花村萬月との対談について書いた際にもふれたが、小川国夫はカトリックの信仰をもつ作家で、それを題材にした作品も多い。この「相良油田」ではそれが前面に出てこないから深くは考えなかったけれど、作家ってものは自らの抱える本質的なテーマからは逃れられないものである。小川さんのすべての作品に、じつは信仰の問題は浸透しているとみるべきかもしれない。
それにしても、小屋のほうへと向かいつつ、「破れかぶれに」なっている浩と、ここにきていよいよ上機嫌な先生との会話は、妙に細かくて理屈っぽいところと、強引なところとが綯(な)い交ぜとなり、しかもそこに「海軍士官」の影がちらついてじつに面白い。引用したいところだが、やりはじめると際限がなくなり、ついには全文引用となって講談社に怒られそうである。自重しましょう。
そうしてふたりは小屋に着く。高い位置にあるらしく、「もう頭の上へ来てしまった採石の小屋」と、小川さんは書いている。このあたりもどうも、ぼくにはうまく情景が描けないのだが……。
――汲み上げた原油を船の所まで、どうして持って行くんでしょうね。
――砂利の下にパイプが通してあるんじゃないの。その中を流れているんだと思う。
――でも機械は今止っていますね。
――動いているみたい。
――止っているんでしょう。だからよく解りませんね。
――動いているわよ。
――銹びついているようですよ。
――ううん、動いているって。機械があんなに濡れているじゃあないの。
――濡れてるとこもあるけど……。
――そばへ近寄ってごらん。
――そう、随分濡れてますね。
こういう会話にエロティシズムを感じ取るのは、べつに妄想ではなくて、このばあいは正しい読み方である。ただしこの時ふたりは小屋の中までは入らず、外から窺っている按配だ。
浩は機械のわきから二階の床を見上げた。板の合わせ目から鍾乳石のように、汚いものが垂れ下がっていた。それを見ると、二階にはなにか泥状のものがぶちまけてあるように思えた。なにがあるのか、上ってみたい気がした。その時彼女がいった。
――浩さん、帰りましょう。……今日は有難う。先生、油田を見たの始めてなのよ。