なかなか更新できませぬ。このままだとほんとに年を越しちゃいそうだなあ。べつにそれでもいいんだけど、年内に片づけられるならそうしたいものだ。
「まずはふたりのやりとりを見ていこう。」が前回の締めくくりだった。その前に、いったん地理的なことを整理しておきたい。そもそも作品の舞台はどこなのか。これは作中には明示されてはいない。しかし小川国夫の自伝的作品のうち、「旅行もの」を除く一連の作品、いうならば「故郷もの」というべき連作は、ほぼすべてが作者自身の郷里・静岡県の藤枝を拠点として紡がれている。文学用語でいう「トポス」ってやつで、大江健三郎における谷間の村、フォークナーにおけるヨクナパトーファ、中上健次における紀州の「路地」、藤沢周平における「海坂藩」、団地ともおにおける「枝島町の団地とその近所」みたいなもんである。特定の、さほど広くない土地にカメラを据えて、毎度おなじみ、いつものキャラクターたちの人間もようを様々な角度から描く。テレビドラマでもよくある手法で、はまればはまるほど面白いからディープなファンがつきやすい。この「相良油田」も故郷ものである。藤枝という土地は、ぼくはじっさいに行ったことはないけれど、おもに大井川の流域に広がっているそうだ。浩が「大井川の川尻です」と答えたのは、町の不動産屋が「油田? ああ、もう、すぐそこですわ」と安請け合いしてるようなもんなのである。まあ、夢の中の話なんだから、目くじらを立ててもしょうがないけど。
先生の思わぬ反応に調子づいた浩は、さらに「高い塔があっちこっちに立っていて、その間に精錬所も見えたんです。」と畳みかける。前にも書いたが、むろんそんな所に油田はない。精錬所なんて論外である。しかし夢のなかの上林先生は、彼のそんな見えすいた法螺に他愛もなく乗っかって、「わたしこれから見に行くわ。そこへ連れて行って。」なんてことを言い出す。「遅くなってお母さんが心配したら、先生があとでわけを話して上げるから。」「さあ、一緒に行きましょう。」「軽便で行くのね。」などと、むやみに積極的なのだ。どうしちゃったんですか先生という感じである。浩にすれば、これはもう踏んだり蹴ったり、じゃなかった、その反対で、願ったり叶ったりなのだけれども、そこが内向・屈折少年の悲しさで、しめしめうまくいったぞ、とは思えない。せっかくの道行きを素直に楽しむことができない。むしろ今度は、現地に行ったらウソがばれる、ああ困った困った、と苦悩をはじめる。どう転んでも苦悩するわけで、まことに損な性格である。どこまでも「純文学」のひとなのである。
ふたりは徒歩で駅へと向い、駅で切符を買って軽便(けいべん)に乗る。軽便とは軽便鉄道の略で、軌間の狭い、小型の車輌を使った鉄道のことだ。待望の初デート(?)にもかかわらず、浩はずっと苦悩し続け、本人には申しわけないが、その悩みっぷりこそがこの道行きのいちばんの見所といっていい。駅へと至る道では「うしろでは上林先生の足音が、ひっそりと、しかし確実にしていた。彼は途中でどこかへ迷い込みたかった。……(中略)……心は足掻いていたが、足の方はまっすぐに、軽便の駅まで行ってしまった。」 といった具合だし、駅に着いたら着いたで、相変わらずテンション上がりっぱなしの先生に追い越され、「――鱏(えい)の岩でいいのね。」と、さっさと切符を買われてしまう。そしてその際は、「彼女の向うに、出札口から駅員の顔が覗いていたが、浩を見つめて嘲ったようだった。」と感じる。完全なる自意識過剰だ。
ふたりの乗った軽便は、やがて大井川の鉄橋にさしかかる。「彼女は川口に向って腰掛け、彼は川上に向って腰掛けていた。」 川口とはつまり川下のことで、だから浩の言った川尻と同じだ。いま気づいたけど、川の部位を指す時には、「口」と「尻」とが同義になるんですね……。 まあ、山と海とのどっちから見るかの話だけどね……。とにかくふたりはそちらを目指してるんだから、上林先生が進行方向を向いて腰掛けていることになる。この夢の中での先生の態度から察するに、たぶん当然のような顔をして座ったのだろう。車輌内でも気の毒な浩の苦慮はつづく。
……彼女は彼に問いかけ、しきりに口を開閉していた。声は響きに妨げられて聞こえなかったが、彼女が何を言っているのか、彼には想像がついた。しかし彼は響きを隠れ蓑にして、彼女に曖昧な顔を向けっぱなしにしていた。やがて列車が橋を渡り切ると、
――どっちの方かって聞いたのよ、と彼女の声がしていた。彼女はきれいな歯を見せて笑っていた。浩は、自分がおかしい顔をしていたのだろう、と思った。……(後略)……
たとえ事情はどうであれ、憧れの女性と二人きり、膝を交えて差し向かいで座ってるんだから、ちったあ楽しめばよさそうなものだが、浩くん、駄目なのである。内攻しちゃうのである。純文学なのである。先生が言っていたのは、もちろん「油田はどっちの方なの?」というようなことだった。浩は「わざとのろのろと体を捩って」川口の方を見る。車窓からは「並んだ松の間に明るい灰色の洲と、いく重にもなって寄せている海の波」が見える。そして、それとともに浩は、「鼻先の窓硝子に映った自分の顔」をも見る。こういうところがいかにも巧い。「鏡」のモティーフがちらりと導入されているわけだ。浩は自分の顔に向かって「お前、いよいよ誤魔化せなくなったぞ」と言いかける。
……彼は反射的に振り向いてしまうと。
――今見えましたよ、と唇を顫わせながら、彼女にいった。
――そう、眼がいいのね。
僕が見えたといったのは油田のことだ。だが見えないものは見えない。そして他の要らないものは、普段よりもよく見える。僕は今、自分の疚しい敏感な眼さえ見てしまった。先生の眼も歯も、あんなにはっきり見える、と彼は思った。
これもまた小川国夫にしか書けない文章だよなあ……。細かいとこだが、距離感からすれば「こんなにはっきり見える」と書くのが自然だ。それが「あんなに」となっているのは、浩が自分の殻に篭って先生と打ち解けきれないせいもあろうし、さらにまた、これらすべてが夢の情景だから、まるで映画のスクリーンを見るかのように、すこし離れた位置から全体を眺めるもうひとりの浩がいるせいだ、とも取れる。こんな副詞ひとつにも仕掛けが施されてるもんで、小川さんの小説を読むのは厄介かつ楽しいのである。
ひとりで切迫している浩の心理状態に呼応して、作品の空気も少しずつ張り詰めていくようだ。事件らしい事件など何ひとつ起こってないのに、なぜかじわじわ緊迫感が高まっていくのである。そして、二人はいよいよ列車を降りる。道行きは佳境に入っていく。余談だが、これまで解析してきたテクストの中では、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」が連想されるところだ。ふたつの短篇には構造的な類似性がある。あれも男女二人の道行きの話で、メインの舞台たる「公園」に入ってからの盛り上がりっぷりが見ものであった。この「相良油田」はさらにあの上を行く。夢のなかとは言いながら、何しろ人が死ぬのだから。
「まずはふたりのやりとりを見ていこう。」が前回の締めくくりだった。その前に、いったん地理的なことを整理しておきたい。そもそも作品の舞台はどこなのか。これは作中には明示されてはいない。しかし小川国夫の自伝的作品のうち、「旅行もの」を除く一連の作品、いうならば「故郷もの」というべき連作は、ほぼすべてが作者自身の郷里・静岡県の藤枝を拠点として紡がれている。文学用語でいう「トポス」ってやつで、大江健三郎における谷間の村、フォークナーにおけるヨクナパトーファ、中上健次における紀州の「路地」、藤沢周平における「海坂藩」、団地ともおにおける「枝島町の団地とその近所」みたいなもんである。特定の、さほど広くない土地にカメラを据えて、毎度おなじみ、いつものキャラクターたちの人間もようを様々な角度から描く。テレビドラマでもよくある手法で、はまればはまるほど面白いからディープなファンがつきやすい。この「相良油田」も故郷ものである。藤枝という土地は、ぼくはじっさいに行ったことはないけれど、おもに大井川の流域に広がっているそうだ。浩が「大井川の川尻です」と答えたのは、町の不動産屋が「油田? ああ、もう、すぐそこですわ」と安請け合いしてるようなもんなのである。まあ、夢の中の話なんだから、目くじらを立ててもしょうがないけど。
先生の思わぬ反応に調子づいた浩は、さらに「高い塔があっちこっちに立っていて、その間に精錬所も見えたんです。」と畳みかける。前にも書いたが、むろんそんな所に油田はない。精錬所なんて論外である。しかし夢のなかの上林先生は、彼のそんな見えすいた法螺に他愛もなく乗っかって、「わたしこれから見に行くわ。そこへ連れて行って。」なんてことを言い出す。「遅くなってお母さんが心配したら、先生があとでわけを話して上げるから。」「さあ、一緒に行きましょう。」「軽便で行くのね。」などと、むやみに積極的なのだ。どうしちゃったんですか先生という感じである。浩にすれば、これはもう踏んだり蹴ったり、じゃなかった、その反対で、願ったり叶ったりなのだけれども、そこが内向・屈折少年の悲しさで、しめしめうまくいったぞ、とは思えない。せっかくの道行きを素直に楽しむことができない。むしろ今度は、現地に行ったらウソがばれる、ああ困った困った、と苦悩をはじめる。どう転んでも苦悩するわけで、まことに損な性格である。どこまでも「純文学」のひとなのである。
ふたりは徒歩で駅へと向い、駅で切符を買って軽便(けいべん)に乗る。軽便とは軽便鉄道の略で、軌間の狭い、小型の車輌を使った鉄道のことだ。待望の初デート(?)にもかかわらず、浩はずっと苦悩し続け、本人には申しわけないが、その悩みっぷりこそがこの道行きのいちばんの見所といっていい。駅へと至る道では「うしろでは上林先生の足音が、ひっそりと、しかし確実にしていた。彼は途中でどこかへ迷い込みたかった。……(中略)……心は足掻いていたが、足の方はまっすぐに、軽便の駅まで行ってしまった。」 といった具合だし、駅に着いたら着いたで、相変わらずテンション上がりっぱなしの先生に追い越され、「――鱏(えい)の岩でいいのね。」と、さっさと切符を買われてしまう。そしてその際は、「彼女の向うに、出札口から駅員の顔が覗いていたが、浩を見つめて嘲ったようだった。」と感じる。完全なる自意識過剰だ。
ふたりの乗った軽便は、やがて大井川の鉄橋にさしかかる。「彼女は川口に向って腰掛け、彼は川上に向って腰掛けていた。」 川口とはつまり川下のことで、だから浩の言った川尻と同じだ。いま気づいたけど、川の部位を指す時には、「口」と「尻」とが同義になるんですね……。 まあ、山と海とのどっちから見るかの話だけどね……。とにかくふたりはそちらを目指してるんだから、上林先生が進行方向を向いて腰掛けていることになる。この夢の中での先生の態度から察するに、たぶん当然のような顔をして座ったのだろう。車輌内でも気の毒な浩の苦慮はつづく。
……彼女は彼に問いかけ、しきりに口を開閉していた。声は響きに妨げられて聞こえなかったが、彼女が何を言っているのか、彼には想像がついた。しかし彼は響きを隠れ蓑にして、彼女に曖昧な顔を向けっぱなしにしていた。やがて列車が橋を渡り切ると、
――どっちの方かって聞いたのよ、と彼女の声がしていた。彼女はきれいな歯を見せて笑っていた。浩は、自分がおかしい顔をしていたのだろう、と思った。……(後略)……
たとえ事情はどうであれ、憧れの女性と二人きり、膝を交えて差し向かいで座ってるんだから、ちったあ楽しめばよさそうなものだが、浩くん、駄目なのである。内攻しちゃうのである。純文学なのである。先生が言っていたのは、もちろん「油田はどっちの方なの?」というようなことだった。浩は「わざとのろのろと体を捩って」川口の方を見る。車窓からは「並んだ松の間に明るい灰色の洲と、いく重にもなって寄せている海の波」が見える。そして、それとともに浩は、「鼻先の窓硝子に映った自分の顔」をも見る。こういうところがいかにも巧い。「鏡」のモティーフがちらりと導入されているわけだ。浩は自分の顔に向かって「お前、いよいよ誤魔化せなくなったぞ」と言いかける。
……彼は反射的に振り向いてしまうと。
――今見えましたよ、と唇を顫わせながら、彼女にいった。
――そう、眼がいいのね。
僕が見えたといったのは油田のことだ。だが見えないものは見えない。そして他の要らないものは、普段よりもよく見える。僕は今、自分の疚しい敏感な眼さえ見てしまった。先生の眼も歯も、あんなにはっきり見える、と彼は思った。
これもまた小川国夫にしか書けない文章だよなあ……。細かいとこだが、距離感からすれば「こんなにはっきり見える」と書くのが自然だ。それが「あんなに」となっているのは、浩が自分の殻に篭って先生と打ち解けきれないせいもあろうし、さらにまた、これらすべてが夢の情景だから、まるで映画のスクリーンを見るかのように、すこし離れた位置から全体を眺めるもうひとりの浩がいるせいだ、とも取れる。こんな副詞ひとつにも仕掛けが施されてるもんで、小川さんの小説を読むのは厄介かつ楽しいのである。
ひとりで切迫している浩の心理状態に呼応して、作品の空気も少しずつ張り詰めていくようだ。事件らしい事件など何ひとつ起こってないのに、なぜかじわじわ緊迫感が高まっていくのである。そして、二人はいよいよ列車を降りる。道行きは佳境に入っていく。余談だが、これまで解析してきたテクストの中では、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」が連想されるところだ。ふたつの短篇には構造的な類似性がある。あれも男女二人の道行きの話で、メインの舞台たる「公園」に入ってからの盛り上がりっぷりが見ものであった。この「相良油田」はさらにあの上を行く。夢のなかとは言いながら、何しろ人が死ぬのだから。