ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

雑談・応仁の乱04 文化というもの

2021-04-29 | 歴史・文化
 最近とみに「文化」ということがわからないんですよね。応仁の乱に絡めていうと、足利義政なんて人は当代有数の文化人ですからね。建築家・作庭家としての才能はご存じのとおりだし、絵画や能にも通じてたっていわれてますね。連歌の腕前も相当だったらしい。連歌というのはざっくりいえば大勢でコトバを繋いで長編詩を作っていく遊びだけども、これは室町期の上流階級にとっては必須の素養で、なにぶん半ば公家化しちゃってるもんだから、社交の手段として絶好なんですよ。何しろ関係者各位が一堂に会するわけだから顔つなぎにはなるし、そのうえ、風雅を競う遊びだから、利害得失をともなう生臭い話をしなくていいわけだしね。
 なんにせよ、稀有の文化人なんですよ義政って人は。それでいて、すぐ傍で8万数千もの民が窮迫して命を落としてるのに、しゃあしゃあと花見の宴を催したりなんかしてるんだからね。まあ、これに参加してる他の連中もたいがいだけど、「文化人」ってのがそんなものだとしたら、「文化」って一体何だよって心持ちにもなろうってもんですよ。要らないんじゃないのと。ほんとはね。こんなものはね。
 この頃の義政の心情っていうか、内面の風景みたいなものを想像すると、やはり心が冷え冷えしますね。倦怠の果ての荒涼とでもいうか……。そんな男を治者にいただいた民衆こそいい迷惑だけども。
 それにしても、どうしてこういう人格が生まれたのか。


 実兄である先代の義勝はわずか在位8ヶ月、享年9つで亡くなってるんで、じっしつ義政の先代というべきは実父の義教ですけども、この将軍はとかく評判が悪いんですね。その治世は「万人恐怖」で「薄氷を踏むの時節」などと評された。有力大名のひとつ赤松家の所領争いに強権をふるって、不利益を被った赤松満祐・教康親子に最後は謀殺されてしまうんだけど(1441年・嘉吉の乱)、そのさいにも「自業自得」「犬死」なんぞと書かれちゃったりね。
 wikipediaの「足利義教」の項でも、かなり暴虐の所業が強調されてて、たしかにそんな面はあったんだろうが、周りからそこまで悪しざまに言われるってことは、それだけ辣腕であったともいえるわけでしょう。
 室町幕府の最盛期といえば、もちろん金閣寺(鹿苑寺)をつくった3代義満(在位・1368~1395)の時なんだけど、その次の義持って人は、自分が親父さんほどの力量がないとわかってるから、もっぱら調停役に徹したわけね。もともと足利政権ってものは、初代の尊氏のころから有力大名の連合政権……とまでいったら言い過ぎだけど、とにかく将軍の権力基盤が弱かったから、義満のほうが特別で、むしろこの義持スタイルが常態といってもいいほどなんだけど。
 この4代義持は、1395年(応永元)から1423年(応永30)まで、28年にわたって在位する。これは室町幕府将軍としての最長記録ですね。しかも、隠居ののちに将軍職を譲った嫡男の義量(よしかず)がどうにも頼りないうえに、19歳で早世しちゃったもんだから、さらにそのあと1428年に死没するまで事実上の将軍代わりだったという……。
 一見すると、波風を立てない名将軍だったとも思えるけど、これは「トップとして、談合の調停役以外ほとんど何もしていない」ことの裏返しとも取れるわけでね。じっさい、これだけ長期にわたって在任しながら、このかんに政権の権力基盤が強化されたとはいいがたい。直轄の兵力は相変わらず充実してなくて、軍事力はほぼ畠山家(と大内家)に依存していたり……。あと、鎌倉のほうでも、ずっとゴタゴタが続いてたわけでしょう。
 義教の、強引ともされる政権運営は、そんな義持スタイルへの反動という見方もできる。この人は義持の実弟ですが、わりと早いうちに将軍の後継候補から外されて得度していた。とても優秀だったんで、僧侶としてもほぼ頂点まで昇りつめてたんだけど、上述のとおり、義持の子息の義量が早世して、そのあと事実上の最高権力者だった義持が後継者指名を拒絶したまま亡くなったため、還俗して将軍職を継いだわけです。
 このとき、有力な群臣(大名や高僧など)が評議のすえ、石清水八幡宮にて籤を引くことを決め、その結果として義教に決まったってことで、義教ってひとは今に至るも「くじ引き将軍」と揶揄されるんだけど、これもなんだかおかしな話で、本来ならば「神慮」というべきところでしょう。どうも義教という人にかんしては、ことさらに貶めるようなイメージ操作が当時からずっと為されてるような気がするね。
 将軍としての義教は、奉行衆(ぶぎょうしゅう。幕府の法曹官僚)・奉公衆(ほうこうしゅう。将軍直属の武官)といった制度を整えるなどして、将軍の権力を強め、各大名・公家・寺社、さらには鎌倉公方などといった対抗勢力たちに、断固として掣肘(せいちゅう)を加えようとしたわけですね。赤松家の所領問題に手を出したのも、けして気まぐれや依怙贔屓ではなく、おそらくはその一環でしょう。そりゃあ、あっこっちから嫌われるわな。
 それで、まあ、そのあげくに謀殺されちゃうと……。時の将軍が臣下の館に招かれて弑されるなんてのも無茶苦茶な話で、つまりはそれが室町時代だっていったらそれまでだけども……。
 ともあれ、事実上の先代である親父さんがそういう非業の死を遂げて、しかもほんとの先代である兄ちゃんは9つで身まかっていて、そのあとほぼ6年近くの空位期間ののちに、ようやく後見を得て将軍職に就くわけですね、義政ってひとは。こうなると、よほど肝が太くて野心に燃えてて、しかもべらぼうに才気煥発でもないかぎり、まず、政治に精魂を傾けようとは思わないんじゃないですかね、やっぱり。
 とはいえ、wikipediaの「足利義政」の項を眺めていると、ぼくなんかがばくぜんと持っているイメージよりは、少なくとも最初のうちは、けっこう政務にいそしんでたようですね。だけど、よく見るとそれも、けっきょくは「いかに自分のフトコロを肥やすか」という私利私欲に発するものなんだよね。「民をいかに豊かにするか」という発想はない。いや、それは上で述べた父親の義教にしても畢竟同じことですが。
 民の福利厚生に努めて、社会ぜんたいの活力が増せば、統治者たる自分たちもそれだけ豊かになるわけで、そんな道理がわかってなかったはずはないんだろうけど、そういう施策を現実のものとするだけの構想も実行力も持ち合わせなかったわけね。それで文化に逃避した。逃避すべき桃源郷としての文化ですよね。だから、東山文化だ何だといって、どれだけ綺麗に取り繕っても、虚しいものだと思えますけどね、私には。






コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。