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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

HUGっとプリキュア 49話(最終回)「輝く未来を抱きしめて」 とりあえずの感想

2019-01-27 | プリキュア・シリーズ
 最終話、ビデオに録ったのを2回見たけど、難しかったね。タイム・パラドックスにパラレルワールドでしょう。まあ、この両者はたいていセットになってるもんだけど。ああいうの苦手でねえ……。とくに本作のばあい、作り手(坪田文さん)がどこまできちんと設計図を引いているのか判然としなくて、よけいにモヤモヤしたですよ。
 ぼくが理解したかぎりでは、「ルールーたちが帰っていった未来」と「成長したはな社長たちの迎えた未来」とは別個のものですね。うん。さすがにそこは間違いないでしょう。
 でもって、
 ①あの荒野みたいなところ(例の黄色い花だけは咲いてたようですが)をひとり彷徨っていたジョージ・クライと、
 ②はな社長の出産シーンで、タワーの上にいたハリー(人間態)と、あとあの人、キュアトゥモローさんでしたっけ、はぐたんの成長した姿、というか元に戻った姿の女性、
 この3人は、少なくとも、「成長したはな社長たちのいる2030年現在」には居ないんですよね。
 まず、ジョージ・クライのいる時間軸というか世界線というか、それがいつなのか、どこなのか、これがどうにもわからない。「ルールーたちが帰っていった未来」と見ていいんかい?と。それだったら、「止まっていた時間が動き出した」んだから、そっちの未来も変わったってことになるしね。
 キュアトゥモローと人間態ハリーがいるのは、たぶん、はな社長たちのいる2030年の延長線上だと思う。キュアトゥモローは、成長したはぐたん、本名はぐみさんのことだから、やっぱり、はな社長の娘さんだった。でも、でもですよ、その人がプリキュアさんになって戦ってるっていうんなら、結局それって、未来は暗いんだぞってことになりませんかね。違うのかな。
 そのばあい、そもそもキュアトゥモローさん、誰と戦ってるんですかね。もし敵がいるとしたら、ジョージ・クライ以外には考えにくいけど。
 はなの出産を見舞うべく、はなの両親と共に(黄色い花の束をもって)病院に向かっていた青年(?)は若き日のジョージ・クライ(ほかに本名があるのかもしれないけど)でしょう。つまり、はなのパートナーは大方の予想どおりジョージ氏だった。
 けど、だったらトゥモローさん、実父と戦ってた/戦うわけですよね。なんで?
 そもそも、「ルールーたちが帰っていった未来(ないし世界)」と「成長したはな社長たちの迎えた未来(ないし世界)」とは、一体どの時点で分岐したんだろうか。
 第1話の冒頭、「はなが自分で前髪を切った」時にもう分岐してたって話をネットで見たんですよね。47話か48話かその前だったか忘れたけど、ジョージ社長が(おそらく夭折した)パートナーであるはなの写真(遺影)を見ていて、その写真のはな(成長した姿)は、ふつうの前髪だったんで。
 それでもって、この1年かけてずっとやってきたストーリーがあって、この最終話で2030年になって、その2030年はずいぶん楽しそうに、希望に満ちて描かれてたけど、でもその時間軸の延長線上にキュアトゥモローさんがいるのであれば(しかもそれで実父と戦ってるのであれば)、そういうの一切合切、「何だったの?」ってことになっちゃわないですか。違うのかな。違うとは思いたいけど。
 だったら、あそこでキュアトゥモローさんがプリキュアのコスチュームじゃなく、なんか私服で描かれてたならよかったのかな? だけどそれでは絵にならんしな。誰この子? みたいなことにもなりかねんしな。それならあれか、べつに戦ってるわけじゃないけど、もう世界は平和なんだけど、たんにビジュアル的な配慮でプリキュアさんの衣装になってただけか。そう考えればよろしいか?
 いや、ほんとに難しいなこれ。
 あと、なんか『ドラえもん』の都市伝説版・最終話(本物かと見まがうようなオマージュ作品あり)みたいなことになってたえみる、ルールー、トラウムさん側のエピソードもね……。これもまた、(ドラえもんと同じく)考えだしたらタイム・パラドックスの泥沼で、もうアタマが痛くてムリですね。
 ほんとは『HUGっと!プリキュア』全体の総括をするつもりだったんだけど、最終話があまりに難しすぎて、だめですね。理解できないのに総括はできません。ただ、こうやって理詰めで考えるのではなく、情動だけで見ているぶんには、それなりに泣けて、心もあたたまる良い最終話でした。
 いちおう、メモとして、ぼくが本作をみて思い浮かべた先行作品をリストアップします。
 まず過去のプリキュアシリーズ。これは言わずもがな。
 ほかに、
 『風の谷のナウシカ』(アニメ版ではなく原作のほう)
 『新世紀エヴァンゲリオン』
 『時をかける少女』(2006年度のアニメ版。思えばあれもマッドハウス制作だったなあ)
 『アトム・ザ・ビギニング』
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』などなど。

 とにかく、よかれあしかれボリューム満点の作品でした。はっきり言えば、盛りすぎ。それは間違いないですね。



 追記) 3日経ってから思いついたけど、①彷徨っているジョージ・クライ、②タワーの上にいる人間態ハリーとキュアトゥモロー、この3人が「ルールーたちが帰っていった未来(世界)」にいる、という可能性はありますね。そう考えればいちばん整合性がとれるかもしれない。ただ、46話からもう一度ちゃんと見返さないと確かなことはいえない。しばらくは暇がないのでムリだけど、できればもう少し詰めたいとこですね。





HUGっと!プリキュア 第45話「みんなでHUGっと! メリークリスマス☆」

2018-12-23 | プリキュア・シリーズ







 番組を見終えた直後に感想をアップしたんだけれど、肝心のところを読めてなかったことに気が付いたので、差し替えます。
 「本物のサンタさんの代わりにプレゼントを配って回る」なんて破天荒な展開にアゼンとして、あまり真剣に見てなかったんだけど、はなたちが訪問してたのは、パップルさんご一行をも含めて、
①「本気でサンタさんを信じていて」
➁かつ、「何らかの事情で、誰からもプレゼントを貰えない」
 子(ひと)たちだったんだね。それがわかって、ようやく個々のエピソードが自分のなかで繋がりました。
 さあやは前話の流れで母から贈り物を貰い、ほまれは……わからないけど、まあ幸せには違いない。はなとえみるは、貰うよりも与える側に回って、あの2人なら、それは貰うよりも幸せなことなんだろうね。
 それでまあ、トラウム氏も善行を積んで、「愛娘」からサイコーのプレゼントを(ふたつも)貰った。みんなが誰かに何かを与え、みんなが誰かから何かを貰った。
 だからこそ、ジェロスさんがかつての部下2人からプレゼントをもらって(売れ残りのケーキだけどね。そんなの関係ねえんだ、美味しいんだから)3人並んで何処へともなく去っていく、というオチがびしっと決まるわけだ(あの2人には本職の声優さんを使うべきだった、という意見は変わりませんが)。
 クリスマスらしいハッピーなお話だったな、という気分に、私もなってきました。やはり良い作品だな、これ。

HUGっと! プリキュア 44話 夢と決断の旅へ! さあやの大冒険!

2018-12-16 | プリキュア・シリーズ
 


 「ファンタジー内ファンタジー」とでもいうのかな。「HUGっと!」の世界そのものがすでにしてファンタジーなのに、今回はさらにその内側にファンタジー世界をこしらえて、そのなかでキャラたちに動いてもらおうという。
 それはそれでアリでしょう。天下の村上春樹さんだって、この手法を愛用してて、『海辺のカフカ』(新潮文庫)なんてそれだけで成立してる小説ですからね……ただ、「ほんとにそれはリアリズムでやれなかったの?」ってギモンは、『海辺のカフカ』に対しては、ぼくは捨てきれないけども。
 プリキュアは、まあ、児童向けアニメなんだから(そうでしたよね?)、これを多用したくなるのもわかる。なかんずく、このシリーズは、お子様にはやや難しそうなテーマを盛ってきてるから……。三角関係とか、母娘関係とかね……。これをリアリズムでやるのは厄介だわなあ。
 三角関係ってのは、32話「これって魔法? ほまれは人魚のプリンセス!」のことね。いやあれは、ビシン君も入れて四角か。もっとややっこしいじゃないか。「ファンタジー内ファンタジー」は、あの回いらい2度めですよね? あのとき浦島太郎に(しかも玉手箱をあけたあとの)なってた野乃はなが、今回は勇者のコスチュームってのはよかった。この人はもともと「勇者(ヒーロー)」なんだし、もう最終盤なんだから、カッコいいとこ見せてかないとね。勇者スタイルでの活躍場面はとくになかったけど。
 40話「ルールーのパパ!? アムール、それは……」でも、異空間にリープしてたけど、あれは「未来世界」だから、ファンタジー世界とは違う。うん。だからやっぱり2度めですよね。
 「ファンタジー内ファンタジー」は、キャラたちの内面の葛藤や、お互いの関係性を「象徴的」にビジュアル化できるんで、使い勝手のいい手法だけれど、むろん頼りすぎると全体が安っぽくなっちゃう。
 26話「大女優に密着! さあやとおかあさん」できちんと母と娘の来し方を描き、撮影所内のようすや、さあや母娘を取り巻くスタッフさん達の心情やなんかをていねいに描き込んだ。
 その次の27話「先生のパパ修行! こんにちは、あかちゃん!」も、一見すると「父親になるということ」ってテーマを扱った回のようだったけど、じつは「さあや回」でもあったんですよね。2週連続の当番回だった。さあやはあそこで、産婦人科医のマキ先生と出会い、「女優」とは異なる夢(選択肢)をもった。
 そのときの気持をずっと保ち続けて、35話「命の輝き! さあやはお医者さん?」があり、そうして今回のお話がくる。それだけの積み重ねがあるわけだ。1年ものの強みですね。
 はなの母すみれは、さながら「母親」の理想像として描かれている。しかし、娘に対する母の愛情は、(ぼかぁオトコなんで実感としてはわからないけども)時には娘を自分の庇護下に抱え込んで、「外」に出すまいという欲望にかわることもある。ちょうどグリム童話のラプンツェルみたいに。今回その面を担当したのが、さあやの母れいらさんなんですよね。
 シリーズ構成の坪田文という作家さんは(ここ終盤ではずっと脚本も担当)、とにかくぎゅうぎゅう詰め込んでくるんで、ストーリーラインにキャラたち全員の感情がしっかり乗り切ってるのかどうか、見定めがたいところもあるけど(とくに、好敵手である「一条蘭世」の感情とかね……)、さあやとれいら2人の心情は、説得力をもって描かれてたと思います。
 細かいとこでは、ネズミ姿のハリーを助けたほまれが、「いいってことよ」と、江戸っ子みたいな口調で答えてたのがよかった。「義侠の女」の面目躍如というか。べたべたした「恋心」を吹っ切って、「仲間」としてハリーに接してるってことでしょうね。
 しかし、ここにきて空からサンタさん召喚かあ……。日程も押し詰まってきてるのに、大胆というかなんというか……。もちろん、脚本はもうラストまで上がってるんだろうけど、とにかく「完成度よりもボリューム重視」の姿勢は一貫してますね。ただ、来週はどうやらロスジェネさん……じゃなかった、名前なんだっけ? あ、ジェロスさんか、あの人の「退職」回になるみたいなんで(パップルさんのとこに行くのかな? パップルさんそこまで太っ腹かな?)、ノルマは着実にこなしてるわけだけど……。
 ひきつづき楽しみにしています。




HUGっと!プリキュア 第43話「輝く星の恋心。ほまれのスタート。」感想

2018-12-09 | プリキュア・シリーズ
 


 尺が足りない……。1時間ドラマで観たかったな、今回ばかりは。
 今シリーズ、過去の14作にはなかった新しい試みがいっぱい盛り込まれてるんだけど、正規メンバーのひとりが異性(正体は未来からきたネズミ?ですけどね)に告白をして、しかもフラレる、というのも明らかにそのひとつでしょう。
 いわゆる「妖精ポジション」のキャラがイケメン青年の人間態になって、プリキュアの誰かとイイ感じになる、というパターンはあったし、プリキュアの誰かが男子から告白される、というケースもあった。しかし今回のほまれは、はなたちの後押しで、自分から、結果を承知で打ち明けて、案の定、だめだった。
 「ひとは未来へ向かって進まねばならない。けっして時を止めてはいけない。だからいずれは必ず来るべき別れも、辛いけれども受け容れねばならない」というテーマはすでにえみるとルールーがやっている。だからほまれの恋心は、「ハリーが未来へ帰るから」ではなく「ハリーにはすでに大切なひとがいるから」成就しないわけで、ぼくたちが経験するのと同じ、リアルでシビアな失恋なんですね。
 それでも、思慕をただ胸の内にしまっておくんじゃなくて、はっきりと相手に伝えて真摯な答えを受け取れば、そこから新たに「スタート」することができる。いい話でした。
 現実にはなかなか難しいけどね。とてもデリケートな問題です。第4話から、はなたちと一緒に全員で育んできた絆があればこそだ。人生をかけた大一番の直前にああいうことをするなんて、アニメだからやれたことで、よい子の皆さんは真似をしてはいけません。
 えみルーが出てきてから、とかく影が薄くなりがちだった初期メンバーだけど、久しぶりに3人の友情を堪能しました。ことに、ただひとりほまれの気持に早くから気づいていたさあや。さや×ほまの真っ当な絡みはこれが初めてじゃないかな?
 あと、BGMですね。ほまれが、はなとさあや(とはぐたん)に「フレフレして。」といったときにかかった曲。「エール・フォー・ユー」っていうのかな。バージョンによっていくつか曲名があるようだけど、あれ、しばらく掛かってなかったと思うんだよね。序盤では、泣かせどころで必ず掛かってんだけど。あれが好きだったんで、「中盤からサントラを変えたんだろうか?」とか思ってたんだけど、こういう時のために温存してたわけか。
 ひとつだけ難をいうならば、冒頭でも書いた尺の件かなあ。バトルシーンが負担なんですよ、はっきりいって。ここまで43回みて、やっぱりいちばんの傑作回だったと思うのはほまれが変身に失敗する第4話なんだけど、あの回では、バトルシーンが邪魔どころか、キュアエールの戦闘そのものがほまれへの「応援」になっていた(もちろんBGMは「エール・フォー・ユー」でした)。アクション描写も凄かったし。
 バトルシーンの迫力が本編のエピソードや主題と熱く融け合うのがプリキュアシリーズの醍醐味なわけで、そこだけが今回、惜しかった。まあ、こういうのは「望蜀の嘆」っていうんだろうか、こちらの目が変に肥えちゃって、ぜいたくをいってる気もしますが。
 最後になりましたが、アンリ君のこと、前回「(脚の)感覚がないんだ。」と述べていたので、気にかかってはいたんだけど、車椅子での登場には重いものを覚えましたね……。回復までの過程なのか、あるいはずっとこのままなのか……。もし後者だとすれば、本当に今シリーズは、「児童向けアニメ」の域を超えたところへ踏み込んでいると思います。


 追記) このあとビデオを見返すと、「バトルシーンが負担」というのはいささか言い過ぎに思えてきた。「悲しいのも寂しいのも嫌。ぼくを大切にして永遠に傍にいてくれたら、ハリーの気持なんてどうでもいい。」というビシン君(この子もほんとに拗らせてるなあ……)のストーカー的「執着」と、「私は、自分の大好きな人の幸せを……輝く未来を願ってる。」というほまれの「愛」との対比は、やはりバトルシーンでこそ際立つんだよね。「勇気を出して行動した人を、バカにする権利なんて、誰にもない!」という、はな、さあや、えみルーの「応援」もよかったし……。まあ、それだけ今回は日常パートが充実していて、尺の短さが残念に思えたってことです。


HUGっと!プリキュアについて 10 男の子だって、プリキュアになれる!

2018-12-03 | プリキュア・シリーズ
 師走だってのにこんな話をしていていいのかな……と、やや忸怩たる思いもあるけれど、こういうカテゴリを設けている以上、やはり触れないわけにはいきますまい。
 シリーズ15周年記念を謳い文句に、数々の大胆な試みを実践してきた「HUGっと!プリキュア」、ここにきて、ついに史上初となる男子のプリキュア誕生とのことで。
 正規メンバーではなく、あくまでも一回限りのイレギュラーな扱いのようだけど、ちゃんと変身をして、自ら「キュアアンフィニ」と名乗りを上げ、常人ならざる力をふるって敵を懲らしたのだから、これは立派なプリキュアさんですね。


 ぼくは熱心なファンではないし、これまで全話通して見たのは2015年の「GO! プリンセスプリキュア」だけだから、大きなことは言えないにせよ、今回のシリーズは、先達が築き上げてきた「プリキュア」という器に盛れるだけのものを盛り、ぶちこめるだけのものをぶちこんできた意欲作、という気がしてますね、ここまでずっと付き合ってきて。
 その意味では、「1年という尺を余すところなく使い切る」と評したのも、あながち的外れではなかったかもしれない。余すところなく、やりたいことをやってるようにみえる。
 意欲的すぎて、すでに幼児向けアニメの枠を超えているなあ……とも思う。そこは賛否の分かれるとこだろうけど、話題になり、数字も取ってるんだから(映画の動員はシリーズ最高を更新したとか)、スタッフはプロの仕事をしているわけだ。
 今回の件も、そういった試みの一環としてみれば、起こるべくして起こったことか。
 ただ、どうなんだろう。もともと「女の子だって、(ヒロインじゃなく)ヒーローになれる!」ってとこから始まったアニメなんだから、とうぜん今回のこともジェンダー論の文脈で語れるんだろうし、それはそれで大事な論議なんだろうけど、今期シリーズの主旨は、必ずしもそこではなくて、「ひとは誰にも、何にも縛られない。思うまま、自由に生きていい」という超リベラルな発想にこそあるんですよね。
 だから、えみると正人の兄妹は、旧態依然たる家父長専制的な祖父の桎梏を逃れて、それぞれに「ギュイーンとソウルをシャウト」させてもいいわけで、40話かけてそこに辿り着いたからこそ感動が生まれた。今回のアンリ君にしても、「似合うから」という理由でフェミニンなドレスやフリフリの衣裳を身にまとうスタイルでずっとやってきて、その延長に今回の変身があった。
 性差とかLGBTの件は、前面に押し立てられてるわけではなく、あくまでも背景としてそこに在る。それはそうなんだ。
 とはいえやっぱり、男性声優がCVを務める男子キャラクターがプリキュアになったことは、ひとつの画期というべきだろうなあ。それはおそらく、この先もシリーズが続くかぎり、今期スタッフの思惑を超えて、受け継がれていくことだろうから。
 まあプリティーで(可愛くて)キュア(癒す)ってんだから、ドレスコードというか、ルックスコードみたいなものは当然あって、坊主頭でガタイのいい兄ちゃんがプリキュアになるって未来はまずありえないわけで、そうなるとしかし、性差以上に見た目の壁のほうが大きいのかい? という話にもなるが(いわゆるルッキズムね)、この点をあまり突っ込むと、甘くて楽しいファンタジーの世界が崩壊してしまう。難しいんだよね、このあたりは、ほんとに。
 あと、個人的には、初期メンバー3人がいずれも「翼のプリキュア」だという指摘が面白かったね。「空を舞うキュアエトワール」「天使のキュアアンジュ」に、キュアエールの「エール」が英語のyellとフランス語のaile(翼)とのダブルミーニングだった、という話。
 しかも「応援はみんなの心に翼を生やすこと」という注釈までが付くんだから、毎度ながら心憎い脚本でした。
 過去シリーズでも、ネーミングには凝ってるんだよね。初めは敵の陣営にいて、途中から改心して味方になる、というキャラが(今期のルールーみたいに)何人かいたんだけども、その名前がキュアパッションとか、キュアスカーレットとか。
 パッションは、ほかのメンバーが「ピーチ」「ベリー」「パイン」といった具合にみな果物の名前で、だから表向きは「パッションフルーツ」のことなんだけど、ご存知のとおり英語のパッションには「情熱」、そしてそれより重いものとして、「受難」の意味がある。
 スカーレットは「緋色」ですよね。1995年にデミ・ムーア主演で映画化された「ザ・スカーレット・レター(緋文字)」は19世紀半ばにナサニエル・ホーソーンによって書かれた名作。ヒロインは、「罪」の証として胸元に「A」と緋文字で縫い取りをされた服を着せられる。
 そんな按配で、名前の付け方ひとつとっても、侮りがたいシリーズなんですよね。では今回はこのへんで。

『HUGっと!プリキュア』について 09 ここまでの総括。

2018-10-22 | プリキュア・シリーズ





 『HUGっと!プリキュア』の36話・37話は本編のドラマをほぼ度外視しての壮大なお祭り回。「さすがは15周年の記念シリーズ。」と狂喜乱舞するファンがいる一方、ドラマ重視派のファンの中には、「なんたる空騒ぎか。」と激怒・落胆する向きもあったようで、なんでも10年あまり続けたプリキュア専用ブログを閉じてしまった人もいるとか。お気の毒というかなんというか。
 その方のばあい、たんに今回のことで愛想をつかしたわけじゃなく、「キャラクター相互の心の交流がおろそかになっている」ことや、「それぞれの成長に繋がる過程がきちんと描かれない」こと、そして、「育児・仕事とただでさえ重いテーマを抱えてるところに、いじめやLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、すなわち性的少数者の問題)など、次から次へと社会問題を持ち込んで、子ども向けアニメの域を逸脱している」ことについての不満をかねがね訴えておられたようだ。
 そんな不満が募っていたところに今回のお祭り騒ぎで心がぽっきり折れちゃったらしい。ぼく自身はその方とは違って、子ども向けアニメで社会問題を扱うことが不適切とは思わないけれど、その他の点については共感するところもあった。あくまでもメインはプリキュアさん達なんだから、サブキャラ(具体的にいえばアンリ君ですね)にあまり深刻なテーマを課すな、という意見もわかる。
 36話・37話について、ぼく自身の感想を率直にいうと、はじめ見たときはアタマが痛くなり、録画をただちに消そうと思った。しかし気を取り直して見返したら、「いや結構すごい」と思えた。これ、劇場版の別バージョンといってもいいんじゃないか。いや劇場版は一度も見たことないけど、たぶん、ほとんど遜色ないんじゃないかと思う。たしかに本編のドラマの流れはむちゃくちゃになっちまったけど、封切り前の宣伝を兼ねたお祭りとしては、よかったんじゃないか。
 過去のプリキュア衆の性格や属性を知悉しているオールド・ファンたちは細部をあれこれ愉しめたろう。そして本来の視聴対象である子どもさんには、馴染みの薄い先代たちとの「顔つなぎ」ができた。あとは視聴率、新商品の売り上げ、映画の動員数がどう出るか、だ。もはや作品全体としての統一性をどうこういっても仕方ない。
 思い返せば、ぼくのばあい、輝木ほまれがスケーターとしての挫折の記憶から最初の「変身」に失敗する04話をみてこの作品に刮目したんだった。まさか毎回このクオリティは無理だろうけど、このスタッフだったらかなりの水準をキープしたまま大団円まで完走するのではないか、と思った。
 新商品のお披露目回だった11話も忘れがたい。新アイテムとして出現した武器を巨大な敵に振り下ろそうとして、寸前で止め、「……違うよ、必要なのは、剣じゃない。」と自分に言い聞かせるように呟くキュアエールこと野乃はなの姿は、「女性原理に基づくヒーロー」という相矛盾する概念を昇華しているように思えた。
 「光と影」「天候の推移」を繊細にとらえてルールーの心の動きを描いた16話も見事で、このとき初めてブログに取り上げた。さらに、はなが「いじめ」にあっていた事実が明かされた23話と、それを受けての24話をみて、ブログに「HUGっと!プリキュア」というカテゴリを設けた。
 ドタバタに終わった夏休み最後のエピソード30話でがっかりして、そのカテゴリは取り払ってしまったけれど(註 このあと復活させました)、あの回はじっさい、「えみるの寂しさ」を浮き彫りにした以外、ストーリーの進展にまったく寄与していなかった。
 とはいえ、今になって思い直すと、「えみるの寂しさ」はそれくらい大きなことだから、わざわざ一話を割いて取り上げ、かつ、重苦しくならないように紛らわせた……とも取れる。
 あけすけにいうと、「ルールー・アムール」と「愛崎えみる」というふたりのキャラは、いわゆる「愛着障害」を抱えた児童の暗喩なんだろうとぼくは見ている。
 ルールーはなにしろアンドロイドだし、「父」(ドクター・トラウム。CVはハリポタシリーズのスネイプ先生で知られる土師孝也)によって作られたんだからとうぜん「母」を知らない。愛崎えみるは、実態はよくわからないけれど何やら18世紀あたりの西欧貴族を思わせる資産家の両親のもとで生まれ育った。西欧の上流階級は子どもの養育を乳母に任せて自分たちは手をかけない。これは『ボヴァリー夫人』なんかを読んでもわかるところだ。
 だから、えみるはおそらく生まれてこのかた両親に「HUG」されたことがない(それは彼女の兄である正人も同じだ)。そこのところが野乃はなとまったく違う。ゆえに今、ルールーという対象を得て(ルールーはえみるという対象を得て)、二人して、むやみやたらとじゃれ合ってるのは極めて真っ当であり、また健やかなことなのである。
 (正人のばあいは、年長だし、男性でもあるのでそこまでストレートに自身を解放できない。彼の持つ課題はアンリの持つそれと併せてそれこそ純文学の管轄だ)。
 ただ、えみる&ルールーにしても、その蜜月がこのままずっと続くわけじゃない。それは「時を止める。」ことであり、『HUGっと!プリキュア』という作品そのものの禁忌に抵触する行いになってしまう。いつまでも一緒にはいられない。いずれは必ず「別れ」がくる。つまりこの作品はテーマの中にそういう残酷さを内包しているわけで、あとはその「別れ」(とそれに伴う成長)がどこまでていねいに描かれるかに注目すべきところだろう。
 ところで、唯一ぼくが01話から最終話まで観た2015年の『GO!プリンセスプリキュア』においてもラストは全員が別れ別れになって巣立っていったんだけど、今回の放送では何事もなかったかのようにみんな揃って参集していた。まあそれはそれ、これはこれで、お祭りってのはそういうものか。それをいうなら毎年の映画だってそうなんだし。





「HUGっと!プリキュア」について 08 「いじめ」という題材。

2018-09-26 | プリキュア・シリーズ
 エドガール・モランというフランスの社会学者が、こんな意味のことをいっているそうだ。
「中間的な大きな文化の流れのなかでは、もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される。」
「中間的な大きな文化の流れ」とは、つまりは高度消費社会における大衆文化ってことで、まさにぼくたちの社会が生み出す文化そのもののことなんだけど、そこでは「もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される」と、モランさんはおっしゃるのである。
 俗悪、というとコトバが悪いが、「ポップ」と言い換えれば耳ざわりが良くなる。今や海外に向けてニッポンを代表する文化=産業となった「マンガ」や「アニメ」こそがこれだろう。いっぽう、「もっとも創造的な動き」であるはずの純文学は、なるほどたしかに窒息している。
 プリキュアシリーズなんて、身も蓋もないことをいってしまえば、玩具メーカー(その他)のための販促アニメなのである。中身(コンテンツ)があってスポンサーが付いてるわけじゃなく、その逆で、まずスポンサーありきなのだ。
 だから彼女たちの用いる「アイテム」はつねに最新のCGで映像化されて強調されるし、「追加戦士」が「新アイテム」(=新商品)を携えて登場すれば、向こう一ヶ月くらい大いに優遇されることになる。登場シーンも見せ場も増える。脚本も演出も、そのために力を尽くすわけだ。
 すべては、露骨なまでの市場原理の内にある。あきらかにそれは作り手の側にとっての「制約」だ。その制約の中で、どこまで質の高い作品を残せるか。視聴者(大人も含めて)の心を、どこまで揺さぶることができるか。
 本年で15作目となるこのシリーズは、そんな試みの歴史でもある。その試みの積み重ねにおいて、「ポップ」が洗練されていく。いわばひとつの実験場といっていい。
 「HUGっと!プリキュア」は、シリーズで初めて「いじめ」を取り上げた。主人公の野乃はなは、前の学校で、いじめられている友達をかばったために自分が仲間外れにされ、クラスで孤立してしまった。何しろニチアサの児童向けアニメであるからして、ねちっこく描写されるわけではないから詳細は不明だけれど、どうも登校拒否に近いところまでいったようだ。母のすみれは、「大丈夫。はなのしたことは間違ってない。」と強く肯定したうえで、「転校」という選択肢をとった。はっきりと描かれることはなかったが、もちろん父の森太郎も、その決断を受け容れたわけだ。
 なお、さまざまな描写から推察するに、野乃家は一家ぐるみ引っ越しをしたわけではなく、はなが中学を移っただけのようである。
 クラスや学校で仲間外れにされるのを、近ごろの用語で「ハブられる」というらしい。「省かれる」の転訛かなと思ったら、どうも「村八分」から来ているそうだ。封建時代以前の用語がこのハイテク時代の学生たちにそのまま引き継がれてるってのも、よく考えるとブキミな話である。われわれの近代は、ひいてはあの大戦を経ての「戦後」ってものは、果たして何だったんだろう。結局われわれの心根なんて、ちっとも進歩しちゃいないのか。
 たぶんそういうことだろう。もう一ついえば、いまの学校というものが、かつての「村落共同体」に似たシステムになってしまってるってことだとも思う。それも、負の面をより強調した村落共同体だ。
 これは本来、社会学者がけっこう真剣に取り組まなけりゃいけないテーマだ。そして、本来ならば社会学者が真剣に取り組まなけりゃいけないテーマを、リアルタイムで俎板(まないた)に乗せて調理してみせるのが、「ポップ」の仕事なのである。
 統計を取ったわけではないけれど、日本のアニメは、深夜ものを含めておおよそ7割強が「学生」ないしその年齢の若者を主人公に据えていると思われる。いきおい舞台も、「学園」が多くなる。「学園」というハイテク化された村落共同体(ムラ社会)での生き方、より精確にいうなら「人づきあい」の難しさ。それが煮詰まった形で出たのが「ハブ」であり「いじめ」であって、正面きって取り上げるか、何らかの形で言及するか、いずれにしても、今やこの要素を完全に捨象して作品をつくることはできない。
(近年の劇場アニメとして、「正面きって取り上げ」た代表作は『聲の形』だけれど、これに比べれば遥かに「絵空事」寄りの『君の名は。』でさえも、三葉がクラスメートからチクチクと嫌がらせされる描写はあったのである。)
 「HUGプリ」が「いじめ」を作品世界に導入したのは、シリーズ構成・坪田文さんの判断だったろうが(そこまで深くは考えなかった……という気もするが)、思い切った一歩だといえる。ただ、次回作以降に引き継がれるかどうかはわからない。
 はなが「ハブられていた」過去がぼくたち視聴者に明かされたのは、7月8日に放映された23話だった。ほかにも気の滅入る事態がてんこ盛りで、児童アニメとしては異例の陰鬱な回となっていたのだが、これ自体とにかく大きな案件だから、いつ、どのようにして回収するのかぼくもたいへん気になった。はなを「ハブった」相手は複数なので、全員と和解するってことは考えにくい。現実世界ならむろん、なんのフォローとてなく、有耶無耶になってしまう事例がほとんどだろうが、これは「物語」なんだから、何らかのカタルシスは絶対に必要なのである。
 あるいはラスト間際まで引っ張るか……とも思っていたが、蓋をあけてみると、わりと早くて、9月9日の31話で、大きな進展があった。
 はながハブられる原因を(結果的に)つくった「エリ」が、はなを訪ねてくる。エリはチアリーディング部で、演技の「センター」に選ばれたために嫉妬され、ほかの部員から責め立てられた。はなは彼女と親友だったが、自らが部員というわけではなかったようだ。しかしその状況を見かねて、いじめの現場に割って入り、「やめようよ。みんな、カッコ悪いよ」とエリを庇った。それが反感を買ったわけである。

 

 「カッコ悪い」(その対義語は「イケてる」)というのは、浅薄な言い回しだけれど、ボキャブラリーが豊かとはいえないはなにとっての、大切な評価基準である。そもそも彼女は、01話において、巨大な敵を前にして、「ここで逃げたら、カッコ悪い」と思ったからこそプリキュアに成った(もし成れてなかったらマジで潰されてた。そう考えるとこのアニメけっこうコワい)。
 どれくらいの規模の中学なのか知らないが、「チアリーディング部」と「学級」のメンバーがまるっきり一緒ってことはないはずなので、チア部の反感を買ったからってクラス中からハブられるってのも飛躍があるけれど、そこは突っ込めば突っ込むほど暗くなるから、ぼかされている。


 はながスケープゴートになったことで、エリはいじめの標的から外れた。のみならず、ふたたび自分がそちらの立場になることを恐れ、孤立するはなに手を差し伸べることもしなかった。こういうのもまあ、よく聞く話だ。それでチア部も続けてたんだけど、はなが転校してしまい、ずっと気にかかっていた。それでたまたま、「キュアスタ」(作品内用語。インスタグラムのことである)にアップされたはなの写真を見て、矢も楯もたまらなくなって、会いに来たのだった。
 しかし、いざ本人を前にすると、うまく言葉が出てこない。エリは逃げ出す。はなもまた、激しく気持ちを揺さぶられ、ちょっと挙動不審になる。
 かくて朋友(とも)らが動き出す。
 さあやとほまれは、エリを喫茶店に誘い、そこで初めて一部始終を知る。たんに「はなが過去にハブられていた」という事実を知ったってだけじゃなく、これまでのことを考え合わせて、それぞれに思うところがあったのだろう。それでこういうことになる。


 当ブログ7月17日の記事「朋友(とも)は光のなかに。」で述べたシーンが、より深化され、三たび反復されるわけだ。
 しかし今度の件は重いので、ただ抱擁しておしまいってわけにはいかない。はなは二人に、これまで自分の過去を黙っていたことを詫び、「やっぱ、カッコ悪いと思ったから……」という。それを受けての二人のせりふ。
 ほまれ「カッコ悪くなんてない。はなのしたこと、ぜったい間違ってない。すごく、イケてることだよ」
 さあや「カッコ悪いのは、誰かの心を傷つける人たち!」
 義侠の女・ほまれより、さあやのほうが激しい言葉を吐くところが印象に残るが、薬師寺さあやというひとは、淑やかなルックスの割にせりふはたいてい「体言止め」だし(「よ」とか「なの」とか「だわ」といった女性っぽい接尾辞をつけない)、じつのところ、ほまれ以上に気が強いんじゃないかとぼく個人は思う。
 はなは二人に、自分はエリに怒っているのではなくて、それどころか、「余計なお節介を焼いて、彼女に迷惑をかけたんじゃないか」と気に病んでいたと告げる。このあたり、正直ぼくにはよくわからなくて、理不尽には本気で腹を立てる彼女の性格にそぐわないと思うが、まあ、根がとことん善良でナイーブな娘さんなのか。
 あるいは、これまでのエピソードを思い返してみると、はなが「本気で怒る」のは他人が傷つけられた時だけで、自分のことでは怒ってなかった……気もする。だとしたら坪田文というのは大した作家さんだが、ここは改めて確かめなくては明言できない。
 ともあれ、この31話の脚本の方針として、「怒り」の感情を表に一切出さないのである。そこが少なからぬ視聴者に違和感を覚えさせた面はあると思う(ぼくも覚えた)。さあやのいうとおり、悪いのは「誰かの心を傷つける人たち」であって、はなもエリも被害者じゃないか。「いじめ」の当事者たちはどうなってんだ。
 しかし、脚本の主旨はその糾弾にはない。サブタイトルは「時よ、すすめ!メモリアルキュアクロック誕生!」である。あくまでも、はな(およびエリ)の「止まった時間が動き出す」ことが今回のテーマなのだ。
 さあやがいう。
「勇気を出してもういちどエリちゃんの心にふれたとしても、うまくいくかどうかはわからない。けど、はなには、私たちがいる」
 ほまれがつづける。
「うん。だって私たち、はなのこと……大好きだからさ」
 そこに現れたえみるとルールーは、彼女たちの特性どおり、音楽で、はなにエールを送る。その歌に唱和するさあやとほまれ。「あふれる愛がはなを包みこむ」と、紋切り型の形容をしたくなるほどの、ただただ甘やかなシーンである。
 ずっと心の傷を抱えたまま、31話までエピソードを積み重ねてきて、ここでようやく、はなも朋友たちに胸襟を開くことができたのかもしれない。
 そうして彼女は、5人そろって、チアリーディングの発表会に臨むエリのもとを訪ねていく。もちろんそこには、かつて彼女をハブって転校にまで追い込んだ部員の面々もいるわけである。
 新天地に根を下ろし、4人の朋友をえた彼女はもう、これまでの野乃はなではない。
 部員たち「え野乃さん? なんで居るの? てか、その前髪どうしたの?」


 部員たちには、はなを転校に追い込んだという自責の念などさらさらない。いやそもそも、彼女をいじめてた自覚があるかすら疑わしい。ぼくにいわせれば、こういう人たちは「クライアス社」よりも何十倍も怖しいけれど、こんなのにはもう、怒ったところで仕方がない。はなの態度が大人なのだろう。ただ、それが本当の意味で正しいのかどうかは、簡単には答が出せないところだ。
 いっぽう、はなとエリとの関係性は、むろん遥かに人間的である。
 エリ「ののたん……ごめん」
 はな「わたし、謝って欲しいなんて……思ってないよ。許すとか、許さないとか、そういうのじゃない。ただ、わたしエリちゃんのこと、やっぱ好きだからさ、また、友達になりにきたんだ」
 過去のことはもういい。許すとか許さないとかじゃない。いちど友達の縁が途切れて、それを残念に思うなら、また新しく友達になればいい。
 どこまでも前向きなのである。これこそが「HUGっと!プリキュア」のメインテーマでもある。ただ、それでは「誰かの心を傷つける人たち」の「罪」が曖昧になってしまうのもまた確かだ。
 「HUGっと!プリキュア」の31話は、ひとつの麗しいエピソードだった。しかしこれが、「いじめ」という巨大かつ根源的な主題に対する正しい回答かといえば、とうていそうは思えない。課題は山ほど積み残されている。それはもう、おそらくプリキュアシリーズの手には負えない。より対象年齢層の高い他の作品に委ねられるべきことだろう。




「HUGっと!プリキュア」について 06 未熟だからこそ、リアル。

2018-07-30 | プリキュア・シリーズ
 ぼくがこれまで1年を通して第1話から最終話までみたシリーズは、前回ふれた『GO! プリンセスプリキュア』(2015年)だけだ。何となく途中からまったく見なくなった年もあれば、気が向いたときだけ飛び飛びに見ていた年もある。そもそもプリキュアという番組をまるっきり失念していた時期もある。それはまあ、そんなものだろう。
 だから過去シリーズと比較するにしても、自信をもって対象にできるのは「GOプリ」だけで、あとはオボロげな記憶をネット情報で補足しながら、ってことになるんだけれど、たぶん今作のもっとも大きな特徴は、主役の野乃はなをはじめ、5人のプリキュアたちの未熟さが目立つ、という点にあるように思う。
 未熟というか、もっと強く、「内面に欠落を抱えている」というべきかもしれない。もっとシンプルに、「さびしさ」といったほうがいいか。
 プリキュアチームの中心となる子は、初代の「キュアブラック」を除けばほぼ全員が「ピンク」をイメージカラーにしているので、「桃キュア」と称されているらしいのだが、その歴代の桃キュアのなかで、たぶん野乃はなは群を抜いて子供っぽく、もろい。
 歴代の桃キュアたちは、「まじめな優等生」と「さほど取り柄のない凡庸な子」との2タイプに分かれる(後者には、「スポーツは得意だが勉強はいまいち」というパターンも含む)。
 ただ、「取り柄のない凡庸な子」であっても、じつは芯には「強靭な意志」と「求心力(リーダーシップとは少し違う)」を持っている。そうでなければ、時には年長者も混じる混成チームのセンターにはなれない。
 野乃はなはもちろん「凡庸」のほうだが、「強靭な意志」と「求心力」はどうか。むろん、ヒーローとして闘い続けてる以上、その意志の強さは疑いもないが、それはあくまで「キュアエール」としての顔であり、ひとりの中2女子としての「野乃はな」自身はまた別だ。
 たとえば、「次のテストで平均点を10点上げる」とかなんとか、目に見えるかたちで目標を設定して努力している様子ってものは、見るかぎりまったく伺えない。この点は、学業、スポーツはもとよりバレエ、バイオリン、礼儀作法など「プリンセス」にふさわしい技能を修得すべく日々研鑽を怠らなかった「GOプリ」の春野はるかの対極にある。


 「求心力」はどうだろう。春野はるかのばあい、その人柄もさることながら、常人ばなれした努力と、費やした努力の分だけめきめきと向上する潜在力の高さによっても仲間たちを惹きつけていた。だから見ているこちらにも、彼女に寄せる仲間の信頼が納得できた。
 野乃はなにはそれはない。いや、キュアエールに変身したときは強いし、頼りがいのあるカッコいいヒーローなのだ。しかし野乃はな自身はちがう。彼女の「求心力」の依って来るゆえんをひとことでいうのはむずかしい。
 ①元気さと素直さと愛嬌のよさ。
 ②相手の長所をすばやく見抜いてそれを全肯定してあげる優しさ。
 ③自分がおかしいと感じたことに本気で怒る正義感。
 といったところか。
 たしかにこれらは魅力になりうるだろうけど、子どもっぽいといえば子どもっぽくて、危うさと裏腹でもある。じっさい、元気さと素直さと愛嬌だけでは社会は回って行かないし、相手をひたすら肯定してるだけでは必ずしも相手の成長に寄与しない。ただ甘やかしてるだけってことにもなりかねない。そして、「自分がおかしいと感じたこと」が、ぜったいにおかしいことである保証もない。向こうには向こうの事情がある。少なくとも、あるていどは向こうの事情だって汲んでやらねばならない。それが大人の社会だ。
 それが現実ってもののややこしさで、ただヒーローとして、襲来してくる敵を撃退してればいいのとは違う。
 つまりキュアエールとしての闘いは、もとより苛酷なものに違いないにせよ、明快といえば明快ではある。野乃はなが所属している社会ってやつはもっと複雑で、はな自身はまだ、それにあんまりうまく適応できてはいない。
 カッコいいヒーローとしてのキュアエールと、不器用で幼い野乃はなとの懸隔。もっといえば乖離。このことは、はっきりと作品のなかで前景化されつつある。
 26話の冒頭でも、「さあやは女優、ほまれはスケート、えみるはギター、ルールーはアンドロイド。みんなは何かを持っているのに、私には何もない。」などと、冗談めかした口調ながら、際どいことを述べていた。みずから進んで虎の尾を踏みにいくような発言である。さいわい、今回は久しぶりの「さあや回」であったため、話題はすぐに変わったけれど。
 いずれにしても「野乃はな」は、当初から幼かったうえに、全49話ないし50話の折り返し地点をすぎても、さほど成長した様子がみえない。はじめに「未熟」と呼んだゆえんだけれど、しかしおそらく、それこそまさに、ぼくが野乃はなに肩入れしちまう理由なのだ。
 ああいうもんじゃなかろうか。
 そりゃ世間には幼少期から優秀なひともいっぱいいるとは思うけど、やっぱり大多数の者は、中学時代からそんなに明確な目標をもってはいないし、ものすごい努力をしてるってわけでもないだろう。
 ぼく自身、中2の頃を思い返せば、夢もなく、将来への展望もなく、努力もせず、あまり周囲にも馴染めぬまま、右往左往するばかりであった。恥ずかしながら、3年間かけて卒業までにめざましく成長した実感もない。
 だから、作品の中のキャラクターとして、春野はるかは尊敬するが、その名のとおり遥か遠くにみえる。いっぽう野乃はなには、すぐそこにいるかような共感をいだく。そういうことだ。
 はなとは別のかたちにせよ、ほかのプリキュアの面々も何かしら欠落をかかえている。
 今回ようやく2回目の「当番回」(プリキュアになった02話を含めれば3回目)をもらった薬師寺さあやは、気が回りすぎ、細やかすぎるがゆえに、周囲が求める「さあや像」を察知し、それに自身を合わせようとして、自分のありかを見出せなかった。
 輝木ほまれは、容姿に恵まれ、スケートという特技をもち、大人びていて、生来のスター性を備えているゆえに、いざ銀盤を離れてふつうの中学生に戻ると、集団に溶け込みきれない傾向があった。
 愛崎えみる(CV 田村奈央)は、はなの妹と同じクラスの小6だが、一風(どころではないか?)変わった家庭で育ったゆえに、いろいろ過剰なところがあって、同世代のクラスメイトと円滑なコミュニケーションがとれなかった。


 ルールー・アムール(CV 田村ゆかり)は、なにしろ17話まで敵陣営にいたアンドロイド(!)なので、感情生活においてはまだまだ幼く、IQはずば抜けてはいても、精神年齢においてはえみるとさほど変わらない(それもあってえみるともっとも親しい)。


 このようなメンバーだからこそ、上で述べた、はなの子どもっぽい、どこか危うい特性が、とりわけ②の「相手の長所を見抜いて全肯定する優しさ」が生きたのである。とりあえず「あなたはそれでいい。なにひとつ卑下することはない。とにかく私はあなたのそばにいて、あなたのことを応援する。」というメッセージを送る。それは彼女の母すみれがこれまで折にふれて何度となく繰り返し伝えてくれたことだ。
 出会ったとき、はなはまずそのメッセージを発した。そして、それがどうにか相手の心に届いたところで、ようやくそれぞれとの交流がはじまったのだ。
 すでに述べたとおり、それは必ずしも相手の成長に寄与するとは限らない。とくに年少のえみるや、かつて敵として悪事に手を染めたルールーに対しては、ほかにもっと然るべき対処があったかもしれない。
 しかし、それは大人の理屈というものだろう。とりあえずは自分の傍まで、こちらの言葉が届く場所まで相手が近づいてくれないことには、話すことすらできぬではないか。そのために、はなは、今の自分にできることをやった。むろん「アホの子」だから計算づくじゃない。本能だ。
 そして4人はおのおのの仕方で彼女を受け容れた。
 それくらい、はな自身をも含め、彼女らの「さびしさ」が大きいものだった、ということでもあろう。
 絵柄は明るく華やかで、ギャグもたっぷりまぶしてあるからつい見過ごしてしまいそうになるが、この作品に描かれた彼女たちの「未熟さ」はひどく切実で、やっぱりぼくには、ひどくリアルなものに思える。

「HUGっと!プリキュア」について 05 ヒーローの条件

2018-07-22 | プリキュア・シリーズ
  ヒーローとは、
  時には愚者。時には勇者。
  時には王者の輝きをもち、時には彷徨(さまよ)い、時には鷲のごとく猛り狂い、時には優しい面持ちをうかべ、時には崇高さをまとい、時には侮辱をうける者。

 古いインドの箴言を、すこしアレンジしてみました。
 ヒーロー(英雄)のもつ両義性、双極性を強調した言葉だけれど、キュアエールこと「野乃はな」くらい、この条件に似つかわしいキャラもいまい。
 「愚者」。



 こういった表現は「変顔」と称されているようだが、生身の人間がちょっと滑稽な顔をしてみせた、といったレベルの話ではないので、ほかの呼称が必要かもしれない。アニメ(マンガ)ならではの手法……には違いないにせよ、しかしジブリや、もしくはディズニーの3Ⅾアニメで登場人物がこんな顔をするとは考えられないから、たぶん日本のテレビアニメに特徴的な表現手段といえるだろう。作画班の負担を減らすと共に、キャラの振れ幅を大きくすることで、上記のような両義性・双極性を印象づける効果がある。一石二鳥だ。
 メインのプリキュア5人は、とくに日常パートにおいてはこの手の顔をよくするが(アンドロイドのルールーさえも)、やはり野乃はなの頻度が際立って多い。主役ってこともあるけれど、よかれあしかれ子供っぽさが強調されているのだ。
 これだけだったらただのギャグマンガなので、とうぜん「勇者」の顔もある。



 崇高さをまとい、鷲のごとく猛っている。
 ギリシア神話のアンドロメダ、古事記のクシナダ姫など、古来より神話においては、若い娘はただただか弱き者であり、怪物(竜……ドラゴンが多い)に供犠(くぎ)として捧げられる。たまたまその地を通りかかった「英雄(ヒーロー)」がその受難を聞きつけ、一計を案じ、力をふるって怪物を倒して彼女を救う。そしてそののち結婚する。
 昔話や童話では、魔女の呪いにかかって永い眠りについた王女が、通りかかった王子様のキスによって目覚めたりする。これも「救出」のバリエーションだろう。いずれにせよ、ヒロインはひたすら無力で、助けを待つだけの存在だったのである。そんな時代が長く長く続いた。
 21世紀、趨勢は変わった。
 プリキュアの面々は、最前線に立って敵と闘い、人々を守る戦士なので、ヒロインではなく彼女ら自身がヒーローだ。このことは過去のシリーズにも伏在していたかと思うが、今作の、とりわけ19話においてはっきりと主題化された。
 「育児」をメインテーマに据える作品だけに、もともとジェンダーフリーに敏感だった。嬰児のはぐたん(CV 多田このみ)の世話をふだん行ってるのはハリー(CV 野田順子/福島潤)であり、人間の姿の時はいわゆる「イクメン」だ。はなの父・森太郎が料理をしているくだりもあったし、さあやの父に至っては、(ここまでワンシーンちらりと登場しただけだが)おそらく専業主夫かと思われる。
 19話では、ファッションショーにドレス姿で出演した美少年アンリが、襲撃してきた怪物に掴み上げられて「これ僕、お姫様ポジションになってない?」と言ったのを受けて、「いいんだよ! 男の子だって、お姫様になれる!」とキュアエール姿のはなが力強く返すシーンがあった。
 ただ、そのときのアンリは、キングコングに掴まれたフェイ・レイみたくきゃあきゃあ絶叫したりせず、じつにクールで、「男らしい」落ち着きをみせていた。しかもその次のシーンでは、自分を掴んだ怪物の心が「旧弊な性差別的心情に縛られた」知人のものであることに気づいて、やさしく抱擁し、情理を兼ね備えた見事な言辞で説得につとめた。
 こうなってくると、現代におけるジェンダーってのはたんに逆転すればいいってもんじゃあないのがわかる。「女の子らしさ」と「男の子らしさ」の良い面と悪しき面とを見極めて、慎重に吟味し、選り分けていくことが求められてるんだろう。
 ジェンダーの話はひとまず置いて、ヒーローについてもう少し。こんな定義もある。


  英雄(ヒーロー)とは、きわめて困難な通過儀礼や、神秘と驚異にみちた未知の段階へのイニシエーションを受ける不屈の精神の擬人化である。


 不屈の精神。
 「プリキュアはあきらめない。」ということばが、これまでのシリーズ全作を貫くスローガンとして確立されている。むろん今作でもたびたび出てくる。
 これに加えて、今作のプリキュアのみなさんは、「なりたい自分になる。」という命題を、自らに課してもいる。
 2015年の『GO! プリンセスプリキュア』では、ヒロイン、いやヒーローの春野はるか(CV 嶋村侑)が、「プリンセスになる!」という断固たる決意を貫いて1年のあいだ主役を張った。
 彼女の思う「プリンセス」とは、べつにどこかの王族に嫁ぐとかいう話ではなくて、「擬人化された究極の努力目標」とでもいうべきものだった。
 つまりニーチェの「超人」と同じだ。どれほど努力しても辿り着けない絶巓(ぜってん)だけど、それを遥か高みに設定し、常に仰ぎ見ていることにより、日々、怠ることなく研鑽をつみ、自分を向上させられるわけだ。
 野乃はなは、「私がなりたい野乃はな」の像をもっている。「いけてるオトナのお姉さん」と口にしたりもするけれど、これは彼女の語彙が貧しいせいで、とてもじゃないけど、そんな上っ面だけのものではない。
 優雅さとか気品とか洗練とか、そういったものとは縁遠いにせよ、やっぱりそれは、春野はるかが目指した「プリンセス」と似たものだろう。
 しかも、「プリンセス」という明確なことばで措定されない分だけ、ぼくなんかには、より切実に響く。
 本日放送された25話にて、キュアエトワール姿の輝木ほまれも「なりたい私」というキーワードを口にしていたけれど、初めのころ彼女にはそんな発想はなかった。これは、05話において、はなとさあやから託されたものだ。
 はな「私、なりたい野乃はながあるの。だからがんばるの」
 さあや「私、ほまれさんが好き。前よりずっと好きになった。私やはなちゃんにはできないことが、ほまれさんにはできる。……ほまれさんにはできないことが、私たちにはできる。私たち、きっとすごく仲良くなれる」
 はな「ほまれちゃんは、どんな自分になりたいの?」
(05話より)
 野乃はなの「なりたい私」は、春野はるかにとっての「プリンセス」と同じく、まる1年をかけて追求していくものなので、今の時点では明瞭にはわからない。ただその核心は、すでに01話にて打ち出されていた。とても強烈なかたちで。
 学校がクライアス社の怪物に襲われる。「はぐたん」がはいはいをしながら一人でそれに向かっていく。見るからに危ない。難を避けて逃げる途中のはなは、その姿を見て思わず駆け寄り、そのまま怪物の前に立ちはだかるのである。
「ここで逃げたら、カッコ悪い。……そんなの、私がなりたい野乃はなじゃないッ!」














 「そんなの」と「私がなりたい……」とのあいだに、はぐたんに頬ずりをして、一瞬目を閉じる描写が入る。「ここにこんなにも愛しく、守らねばならないものがいる。」から「私は逃げずに巨大な敵に立ち向かう。」という思い入れである。
 「腕に抱いた愛しきものを守らんがために全霊を賭す。」という姿勢は、かつて「いじめ」から自分を守ってくれた母親から学んだものかも知れないが、無謀ともいえる(いやむしろ、無謀としかいえない)かたちでそれを実行してみせた野乃はなは、どこからどう見ても紛うことなきヒーローだ。「母性」もまた、今やヒーローの条件となりうるのである。

「HUGっと!プリキュア」について 04 朋友(とも)は光のなかに。

2018-07-17 | プリキュア・シリーズ
 「HUGっと!プリキュア」の制作陣は、49話×23分(推定)=1127分(推定)という尺を所与のものとして、劈頭からラストシーンまで、ほぼ隙のない「一本の作品」をつくろうとしてるのではないか、と前々回にぼくは書いた。
 それくらい、ひとつひとつのカットに無駄がなく、すべてが濃密で、有機的につながってるのだ。トータル・コーディネートが行き届いているとでも言うか。
 もうひとつ、「光と影」の描写がおそろしく緻密だ、とも書いた。「光と影」については、16話がとにかく凄くて、2018年の時点におけるアニメ表現のひとつの極ではなかったかと思う。以下の図版は、ほんの片鱗にすぎない。





 16話より。


 この「光と影」と、トータル・コーディネート、ふたつの特徴がいかんなく発揮されたのが次のシークエンスだろう。
 01話。転校初日、ふしぎな赤ちゃんの声に導かれ、校舎の屋上に出た野乃はなが、薬師寺さあや(CV 本泉莉奈)、輝木ほまれ(CV 小倉唯)の2人と出会うシーン。
 いちおう同級生なので、お互いにまるっきりの初対面ではないのだが、3人が一堂に会して顔を合わせるのはこれが最初である。




 のちにプリキュアとして共に闘う仲間たちなので、まあ運命の出会いといっていいと思うが、いかにも運命の出会いにふさわしい、崇高さをおびたシーンとなっている。
 この構図が、そっくりそのまま11話で反復される。
 出会いの時からいくつかの曲折を経て、この時はもう朋友になっているのだけれど、この前の回ではなは、さあやの有能さ、ほまれの卓越した運動能力とスター性に圧倒されて、自分には何の取り柄もないと、すっかり自信を失っていた。明るくて元気な女の子ではあるのだが、前の学校で「いじめ」にあったことが尾を引いて(この時点では視聴者はそれを知らされてないが)、じつはたいそう自己評価が低く、内面に脆さを抱えた娘さんでもあるわけだ。
 「友がみな我より偉く見ゆる日よ」という石川啄木の歌ではないけれど、同じプリキュア仲間のスペックの高さに劣等感をおぼえて落ち込む設定なんて、過去シリーズにはなかったはずだ。
 夜。自分の部屋で眠れずに輾転反側(てんてんはんそく)するはなを、まずは母のすみれが慰撫する。寝室が別なのに娘の様子に異変をおぼえて足を運ぶ繊細さと優しさ。そのことばは娘の屈託を真正面から受け止め、その存在を無条件で丸ごと肯定し、未来へと向かう力を与える。



「どうしてわたしは、さあやみたいに賢くないし、ほまれみたいに運動もできないんだろう。どうしてわたし、何も持ってないんだろう?」
「(はなの頭を撫でながら)はなが産まれてきた時ね、パパとママは、とってもうれしかったの。はなは笑うだけで、私たちを幸せにしてくれた。今もそう。はなの笑顔はどんな時だって、ママたちに幸せをくれる」
「(泣きじゃくり、母の胸に顔を押し当てて)ママ……ママ……めっちゃいけてるお姉さんになりたいのに、あたし、めっちゃカッコ悪いの……。こんな私、ぜんぜん好きじゃ……ない。どうしたらいいか、もうわかんないよぅ」
「(笑って)はなは、少し大人になったのね。フレフレ、はぁな。前を向いて、今をがんばれば、きっとすてきな未来がやってくる」
 こうやって夜を乗り越え、次の日の朝、はなが玄関を出たところで、01話のあのシーンが反復される。2人して、ずっと待っててくれたわけである。





 はなの顔をまっすぐに見つめて、さあやがいう。
「いつでもがんばり屋さん。だれかのために一生懸命になれるところ。失敗してもガッツで乗り越えるところ。すなおで表情がくるくる変わって、見ているだけで元気になれるところ。まだまだいっぱいあるよ。わたしが憧れた、はなの素敵なところ。だから……何もないなんて言わないで!」
 自らの思いをきっちりと言語化できるさあやに対し、ほまれは毅然たる面持ちで、ひとこと、
「はな」
 と力づよく彼女の名を呼び、あとは黙って両手をひろげる。その胸に飛び込んでいくはな。


 注目したいのは、同じシーンの反復でありながら、01話のほうではさあや、ほまれの顔がやや逆光ぎみにいくぶん陰をまとっていることだ。それに対し、この11話では全体にハイライトが当たって、ふたりの朋友はまるっきりもう眩い光のなかにいる。3人の関係性が、それだけ晴れやかなものになったのである。