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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

スタートゥインクル☆プリキュアについて05 苦言・「あまねく」は副詞です。

2019-11-30 | プリキュア・シリーズ

 何だかんだで、歴代シリーズの系譜まで絡めて「スタプリ」全体の紹介をしてしまった。この手の話は作品をよく見ている層には面倒くさがられるだけだし、見てない層にはまったくもってどうでもいいし、書いても何の得にもならないのだが、やるからにはきちんとやらねば気のすまぬ性分だから仕方がない。日本語を解する人の中には、「誰もが知ってる手近な素材を片っ端からどんどん使って物語の成熟の過程を考察する。」というぼくの趣旨を理解してくれる方も百人くらいはいるだろう。ネットの上に置かれていれば、いつの日か、何かのきっかけでそんな人たちの目にふれて刺激を与え、ひいては日本文化の質的向上に寄与する可能性も皆無とはいえまい。そう信じて続けましょう。




 今回は余談。「スタプリ」には好感をもっているけれど、ひとつ苦言を呈するのを忘れていた。異星人初のプリキュア・キュアミルキーとなったララの名乗り、「天にあまねくミルキーウェイ! キュアミルキー!」についてだ。この「あまねく」は誤用なのである。









 じつはこの誤用には先蹤(せんしょう)があって、2016年の『魔法つかいプリキュア!』でも、3人めのプリキュアとなるキュアフェリーチェが「あまねく生命(いのち)に祝福を! キュアフェリーチェ!」との名乗りを上げていた。







 2度まで重なるからには単なるミスではなく、スタッフのあいだに勘違いが行きわたってるのであろう。「あまねく」は、「遍く・普く・洽く」と書いて、「広々と。すべてにわたって」という意味の「副詞」なのである。これをあたかも「動詞」のように使っているから誤用なのだ。
 動詞は「歩く。運ぶ。移す」のようにU音で終わる。「ひしめく」という似た意味の動詞があるせいで、「あまねく」も動詞と錯覚されやすいのだが、そうではない。たとえば「星々が夜空にあまねく。」なんて使い方はできない。副詞はそれ単独で「状態」をあらわす述語にはなりえないので、主語「星々」を受けることはできないのである。この場合だと、たとえば「星々が夜空いっぱいに広がっている。」とか「星々が夜空に満ち満ちている。」と言うべきところだ。


 「星々が夜空にあまねく。」という文章については、さほど文法に詳しくなくても多くの人が違和感をおぼえるだろうが、しかし「夜空にあまねく星々」だったら良いんじゃないの、と感じる人はいるかもしれない。「あまねく」が名詞「星々」を修飾している格好で、これは「天にあまねくミルキーウェイ」「あまねく生命に祝福を」と同じことである。




 だけどこれらも文法としては間違っている。なぜなら、副詞は名詞(ミルキーウェイや生命)を修飾できないからだ。副詞が修飾できるのは、動詞、形容詞、そして同じ副詞の3種だけである。どうしても名詞に懸けたいならば、村上春樹の『風の歌を聴け』の中の有名な一節、語り手の「僕」がミシュレの『魔女』からの引用として述べる「わたしの正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。」のように、「あまねき」と活用しなきゃいけない。
(ちなみはこれは魔女裁判官の台詞で、「自分の正義は絶対である。」という絶大な、より正しくは傲慢な自信を示している。この信念に基づいて、かつて数多くの無実の女性が命を散らしたのだった)。


 今たまたま法華経の(漢訳からの)日本語訳を読んでいるので、そこから「あまねく」の正しい用例を引こう。
「(釈尊は)光を放って、東方にある無数の諸仏の世界をあまねく照らされました。」
「願わくは、此の功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん。」
「十方界には形(かたち)分け衆生(しゅじょう)あまねく導きて……。」

 このとおり、「照らす」「及ぼす」「導く」と、みな動詞に係っている(2番目の文は「一切に」という副詞に係ってるとも見えるが、ふつうは動詞に係るものとして取る)。

 むろん、「照らす光」「及ぼす功徳」「(衆生を)導く仏」というように、動詞はあたかも形容詞のように名詞を修飾することができる。しかし、これらは述語として文末に置かれる時と一見同じ形をしているが、文法的には「連体形」といって、活用変化をしている扱いなのだ。
 だから「あまねくミルキーウェイ」「あまねく生命」という名乗りを決めたスタッフは、やはり「あまねく」を動詞と錯覚していることになる。
 子供向けファンタジーアニメの言葉遣いに目くじらを立てるな、という意見もあろうが、子供向けだからこそ、内容はもちろん、日本語にも気を使ってもらいたいとぼく個人は思う。ただ、ネットの上ではもっともっと汚らしくて出鱈目な日本語が蔓延しているんだから、ここだけを突っついてもしょうがないなあというムナシサはある。
 それに、正直なところをいうと、「あまねくミルキーウェイ」「あまねく生命」とやるのは、文字として読めば気になるが、耳で聴く分にはそれほど不愉快ではない。語感はそれほど悪くない。「言葉は世につれ」というやつで、いまプリキュアを見ている世代が大人になる時分には、案外「あまねく」がほんとに動詞として扱われるようになっちまうのかもしれない。


 補足01) このあと思いついたのだが、上記のプリキュアさん2人の名乗りも、「天にあまねく(広がる)ミルキーウェイ」「(世界に)あまねく(満ちる)生命に祝福を」というように、いくつかの語句が略されてると解釈すれば筋が通らぬこともない。さりとて、苦しいことに変わりはないから、やはり「天にあまねきミルキーウェイ」「あまねき生命に祝福を」と、正しく連体形にしておくべきところだろう。


 補足02) このあとたまたまgyaoで『宇宙戦艦ヤマト2199』を観たところ(全編通して観たわけではない)、スターシャさんが「あまねく星々、その知的生命体の救済、それがイスカンダルの進む道。」てなことを言っていた。この作品がテレビ放映されたのは2013(平成25)年。なるほど。どうやらこのあたりが誤用の元凶であったか。



 さらに補足) ララはひかるのパートナーだから、多くの点で対になっている(ストッキングとか)。この名乗りにしてももちろんそうで、ひかるの「宇宙(そら)に輝くキラキラ星!」と対句を成すものとして、ララの名乗り「天にあまねくミルキーウェイ!」がある。どうしても「輝く」と韻を踏ませたかったわけだ。コメント欄でぼくは「天を綾なすミルキーウェイ!」にしたらよかったと書いたけれども、「~を綾なす」ではきれいに韻を踏まない。そうなると、コメント欄にてakiさんが提唱しておられる「天をつらぬくミルキーウェイ!」のほうがいいか……。ただ、格助詞が「~に」ではなく「~を」になってしまうのと、「天の川が天を貫く」という語感が、いまひとつぼくには馴染めない。いちばん手頃な「きらめく」は、「き~ら~めく~ ほ~し~のちからで~」と、歌詞のほうで使っちゃってるしなあ……。というわけで思いついたのが「たなびく」。夜空を雄大に流れる天の川の感じをうまく捉まえている……のではないか。「天にたなびくミルキーウェイ!」でどうでしょう。「七夕」と音が通じているのもミソである。





『スタートゥインクル☆プリキュア』について04 ピンクと相方

2019-11-29 | プリキュア・シリーズ

 プリキュア勢の派手やかな衣裳と、敵を目の前にしての颯爽たる「名乗り」が歌舞伎の伝統に連なっていることはもう10年くらいまえブログに書いた。とくに5人編成といえば、河竹黙阿弥・作『白浪五人男』(初演 文久2=1862年)がすぐさま思い浮かぶところである。もちろんこれも、いきなり江戸から一気に跳んできたはずもなく、直近の「セーラームーン」やら「ゴレンジャー」やらといったサブカル的イコンが間にいっぱい挟まってるわけだが、いずれにしてもあのスタイルを「かっこいい」と感じる心性が一貫してわれわれの中に流れてることに着目しておきたい。


 舞踏会のドレスのごときあのファッションはバトル向きとは言うべくもなく、あれで肉弾戦なんて本来ならば正気の沙汰ではない。それはUSAを代表する「戦闘美少女」たるスーパーガールの地味で簡素なコスチュームと比べるまでもなく明白だ。あの手のルックスを他の文化圏で探すとしたら、中国の京劇にみる侠女・十三妹(シイサンメイ)くらいしか思いつかぬが、それでさえずっと控えめである。やっぱりあれは、ひと頃流行った「kawaii」なんて概念だけでは収まらず、「外連(けれん)」と呼ぶのがふさわしいだろう。




これはいま放映している最新版。シリーズ開始当初は黒白(+桃。次いで赤白)のほぼ2人だけだったのが、2007年の『Yes!プリキュア5』から5人チームが基本形に。華やかさが格段に増し、代わりにアクションシーンは大人しくなっていった(最初の頃が激しすぎたのである)




 史上最年少で直木賞をとった朝井リョウ君のどの小説だったか忘れたが、「ピンクが似合うって、それだけで勝ってるって感じじゃん?」みたいな台詞があって、さすがにうまいことを言うと感心したが、プリキュアチームのセンター(必ずしもリーダーとはいえない)の子も累代ずっとピンクがイメージカラーである。ピンクは人間の脳にいちばん「かわいい」と映る色なのだ。




 今作『スタートゥインクル☆プリキュア』の栄えあるピンクは星奈ひかる。このポジションの子は、一部の例外を除いて「学業が苦手」なキャラ付けとなっており、あまりの成績不振に他メンバーから「しばらくプリキュア活動を休んで勉強に専念したら?」と心配された人すらいたが、今作のひかる嬢は「ずば抜けて優秀」との描写もない代わり、天体観測やUMA(未確認生物)といった関心領域については一方ならぬ知識を有し、自分なりの知性と認識で世界と向き合っていることが伺える。
 すなわち東映アニメーションプロデューサー柳川あかり氏のコメントのとおり、
「『未知の世界』『自分と違う存在』に対して誰しもが抱く不安や恐れ」を乗り越え、「持ち前の好奇心で『分からない』状態から一歩踏み出し、価値観の違い、文化の壁、種族の垣根さえも想像力の翼で飛び越えて」いく力をもってるわけである。
 そして、
「豊かなイマジネーションで物事に向き合い、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、自分で判断して、広い世界には多種多様な価値観があることを知り、違いを楽しみながら、自らも星のように輝く」ことにもなる。
 1話でも、冒頭にてノートから飛び出してきた(!)今作の「愛らしい妖精」枠のフワをあっさり受け容れ、さらには不時着した宇宙船から降り立った異星人ララ、青クラゲ様の宇宙生物プルンスをも、その溢れる好奇心と人懐っこさで初対面から受け容れる。そしてそのまま勝手に宇宙船に乗り込み、敵の襲撃を受けて宇宙空間に放り出されるや(むろん現実であれば命はないところだ)、勢いを駆って一気にプリキュアに変身してしまう。むちゃくちゃといえばむちゃくちゃなんだけど、じつに爽快で、テンポの良い第1話だった。
 ガール・ミーツ・ガールの瞬間からピンクの子が相方に夢中になるのは2016年の『魔法つかいプリキュア!』を想起させたが(ぼくは諸般の事情でこの年は最初の十数話しか見てないんだけど)、ひかるのばあいはララ個人を好きになったっていうより「なんかもうわけのわからんもんがいっぱい空から降ってきて面白くて面白くてしょうがないからテンション上がってがんがん行っちゃった」みたいな感じで、そのぶんスケールがでかかった。
 それでも、ふつうの女の子と異界からきた女の子とがコンビを組むプロットは「まほプリ」が1年かけて練り上げたものだし、もっというなら、「墨と雪ほどにも個性の違う2人が互いの個性を活かしあって成長していく」ところは原点『ふたりはプリキュア』の初心に立ち返ることでもあった。ここでもやはり、16年かけて積み上げたものが生かされてるなと感じる。








星奈ひかる。口癖は「キラやば~」で、この台詞を発するときは御覧のとおり瞳にピンクのキラキラ星が入る。CVの成瀬瑛美さんは本職の声優ではなく、初めのうち「キラやば~」が「平山~」に聞こえたりもしたが、柳川プロデューサーが「ずば抜けてキャラと合っていた。」と太鼓判を押したとおり、余人をもって代えがたい絶妙のキャスティングである。ストーリーが押し詰まるにつれて複雑な感情表現も要求されてきているが、まったく違和感はない




 いっぽうのララ、地球名・羽衣ララは(この姓はひかるが提唱した)、人間が思考の大半をAIに委ねた「惑星サマーン」の出身である。惑星サマーンについては、ウィキ先輩の記述を借りよう(一部を編集)。




 すべてがAIによって管理されており、住居は集合住宅に画一化、食事もAIの分析によって生成されたグミで済ませ、常時ホバーボードに乗って移動する。娯楽も居住区域に設けられたレクリエーションホールのホログラム映像で楽しむのみとなっている。
 サマーン星人の容姿は、左右の頭飾りから細いコードが伸び先端に球状のセンサーがつけられている他、瞳に星のハイライトが入り、色白の肌で耳が尖っている等の特徴がある。センサーは触角のように自由に動かせるほか微弱な電流が流れており、これを使って機械の操作などができるし、タッチで挨拶になる。 
 AIによって教育や知識面のサポートが行われるため、学校という概念がない。就業に関してはマザーAIがその人物の適正を調べてそれに見合った職を割り当てており、その仕事に就いたのちもずっとパーソナルAIが同伴者となる。
 地球人換算で13歳になれば成人として扱われ、就労する。




 SFでは昔からわりと見慣れた設定なのだが、改めて見ると「これ、ディストピアと紙一重だな。」とも思う。ことに「就業に関してはマザーAIがその人物の適正を調べてそれに見合った職を割り当て」がコワい。げんにララも、最下位クラスとなるクラス8の調査員としてスペースデブリ(宇宙ゴミ)の調査に従事していた。そこで突発的な非常事態が生じたために本来の業務を外れてフワとプルンスに遭遇し、地球まで飛ばされてひかると出会い、プリキュアとなって人生が一変するのだが、そんなイレギュラーな出来事がなければおそらく生涯「クラス8」に留まっていたろう。
 つまり、フワやプルンス、さらにひかるとの出会いがなければララの内に秘められていた潜在能力が日の目を見ることはけしてなかった。サマーン星の人々は、家族も含めてAIをひたすら妄信しており、自分や他人のうちに潜む可能性になどまったく思いを致さないからだ。今作のテーマに即していえば、想像力を完全に欠落させてるわけである。そのあたりのコワさはララがひかるたちを伴って(渋々ながら)里帰りをする夏休みのエピソードによって十全に描かれていた。
 「まほプリ」のリコも、みらいと出会った頃は劣等感に苛まれていたが、彼女のばあいは実技が苦手だっただけで学業はトップクラスであり、何よりもまだ学生で、春秋に富む身であった。彼女の故郷・「ハリポタ」の世界観を換骨奪胎した「魔法界」にしても、「惑星サマーン」のごとき管理社会ではなかった。13歳ですでに大人として不遇な(といっていいと思うのだが)職に従事していたララは、たぶん歴代のプリキュアの中でも有数の苦労人ではないかと思う。「一番の」と言わないのは、今作のユニもそうだけど、中ほどからプリキュアに加わる「追加戦士」たちはかなりの苦労人揃いだからである。






ララ(CV・小原好美)。とにかくまじめで責任感が強い。これは序盤のころ。この頃はひかるたちの通う学校のことを「非効率的ルン」と言っていたが、のちに自ら望んで通学するようになり、「羽衣ララ」を名乗る。クラスメートとも打ち解け、効率だけでは測れない「人と人とのふれあい」を学ぶ。それによって彼女の「パーソナルAI」までもがいくばくかの「人間味」を帯びるほどである。この手のパターンはファンタジー系SFでさんざ見てきたが、何度語りなおされても良いものだ



 40話『バレちゃった!? 2年3組の宇宙人☆』では、まどかの父・「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」たる冬貴の不用意な行動によって「2年3組」の級友たちがララを疑い、猜疑心に満ちた暗いムードが流れる。そこに敵が襲来し、ララ、そしてひかる、えれな、まどか、ついでにユニも(彼女に関しては級友たちは「あの子だれ?」状態だったと思うが)プリキュアたる身元がバレるのを顧みず変身してみんなを守るべく闘う。もちろんラストは、「ララちゃんは異星人なんかじゃない。私たちのクラスメートです!」という全員の大合唱でハッピーエンド。結果として絆はいっそう深まることに。






 桃キュアひかるが持ち前の好奇心で自らの世界をぐんぐんと広げていくのと共に、相方のララもまた、初めは彼女に引きずられるように、そのあとは自らの意思で、世界を広げ、周りとの関わりを深めていく。












『スタートゥインクル☆プリキュア』について03 『スマイルプリキュア!』との比較

2019-11-28 | プリキュア・シリーズ

 メンバー構成にかんしていえば、『スタートゥインクル☆プリキュア』は、2012年『スマイルプリキュア!』のヴァージョンアップ版という側面がある。
 『スマイルプリキュア!』も、「スタプリ」と同じく5人編成だったが、赤をイメージカラーにもつ日野あかねと、緑をイメージカラーにもつ緑川なお、この2人のキャラが少々かぶっていたのだ。


 日野あかねはお好み焼き屋の娘で、歴代プリキュア中ゆいいつの大阪弁キャラ。緑川なおは竹を割ったような気性で、7人きょうだいの長女(42話にてさらに妹が誕生)という生粋の「お姉さんキャラ」であった。




日野あかね(CV・田野アサミ)。よく家業のお好み焼き屋を手伝っている。この画像はいささか可愛らしすぎるかな。もっと男の子っぽい印象だった。それにしても、妖精、アンドロイド、異星人と、この後さまざまなプリキュアが誕生したが、方言をつかうプリキュアはいまだにこの人だけである



緑川なお(CV・井上麻里奈)。イメージカラーといい髪型といい背の高さといい、どうしてもセーラーチームのあの人を連想させる。そこもまた「キャラ立ち」という点では不利だったように思う



 しかし両者ともにスポーツが得意な熱血タイプであり(あかねはバレーボール、なおはサッカー)、しかもあかねのほうにも一人とはいえ弟がいて、「お姉さん」という、なおの希少な属性を脅かしていた次第である。
 この2人がライバル心を燃やしたり、バトルの際に合体技を編み出したり、といった工夫もされてはいたのだが、5人全員が同じ学校のクラスメートってこともあり、概していえば単調の感は拭いがたかった。
 今作「スタプリ」における「スポーツ万能」枠、メキシコ人の父と日本人の母、そして5人の弟妹をもち、褐色の肌と笑顔が眩しい天宮えれなは、この2人をひとつに併せて、より厚みと深みをもたせたキャラだともいえる。





天宮えれな(CV・安野希世乃)。つねに笑顔を絶やさない、コミュニケーション能力ばつぐんの人気者。語学も堪能で気配りこまやか。多忙な両親に代わってお花屋さんも手伝い、弟妹5人の面倒もみる。彼女に好感を抱かない視聴者は少ないだろう。しかし反面、どこかで無理もしているはずで、そこのところが次回の展開に大きく関わっていくと思われる



 そして浮いた残りの1枠を、「悪の手によって故郷の仲間を星ごと石に変えられ」「そこから盗み出された宝物を取り返すために怪盗として心ならずも犯罪に手を染め」「その傍らでアイドル歌手として人気を集め」「しかもスパイとして敵の組織に潜入し」などと、およそ歴代プリキュアの中でも類を見ないほど多彩で重い属性を背負ったユニに委ねた。
 これで話が面白くならぬはずがないではないか(この人、どうやって時間をやり繰りしてたんだろう、と疑問には思うが)。




ユニ(CV・上坂すみれ)。名前の由来は「単一」を意味する接頭語「uni」、および「唯一無二」からとのこと。英語で「宇宙」「全世界」を意味する「universe」とも掛けてあるとか。スタッフの思い入れが伺える。多羅尾伴内なみに(古すぎるか)いくつもの顔を持ち、この顔も真の姿ではない



 「スマプリ」において「優等生のお嬢様」枠を担っていたのは青木れいかで、この人も弓道にいそしんでいた。




青木れいか。凛とした佇まいと、西村ちなみさんの端麗なCV、加えて絶妙な天然っぷりで、歴代「優等生のお嬢様」枠のキャラの中でもひときわ人気が高いようである


 やはり旧家の令嬢で、留学がらみで進路に悩むエピソードはあったが、兄がいたこともあってか、家の桎梏に囚われているふうではなく、祖父や父親との葛藤をうかがわせる描写もなかった。
 この青木れいかと緑川なおとは、ほかの3人のプリキュア仲間ともどもクラスメートなのだが、もともと幼なじみでもあった。しかし、見るからに下町の庶民代表といった感じのなおと、名家の令嬢たるれいかが如何にして幼き日に知り合い、如何にして友情を育んできたか……というエピソードが明確には用意されなかったため、その設定が生かされたとは言い難い。
 つまり残念ながら、総じて『スマイルプリキュア!』における5人の関係性は、いまひとつ希薄であったといわざるをえない。




 香久矢まどかは、弓道場にて的を射るОPの映像から見ても、明らかに青木れいかを意識して造形されている。それは弟妹たちに周りを取り巻かれながら洗濯物を干している天宮えれなも同じだ。そして、この2人はべつだん幼なじみではないし、同級生ではあってもプリキュアになるまではさほど親しくなかったようだが、今はそれぞれ「観星(みほし)中の月」「観星中の太陽」として、互いに敬意を払って友情を育み、相手のことを真摯に思いやっている。またそのことで、これだけの人格を備えた2人の「お姉さん」たちを惹き付ける主人公・星奈ひかるの魅力が際立つ結果にもなっている。
 こういったていねいな造りを見るにつけ、やはりこのシリーズは年年歳歳進化していってるなあ……と思うわけである。










『スタートゥインクル☆プリキュア』について02 父との葛藤

2019-11-27 | プリキュア・シリーズ

 『スター☆トゥインクルプリキュア』は、こないだまで当ブログでやってた「メロドラマ」の項目に当てはまるところが多い。とりわけ、メインキャラ5名のうちの一人が、父親との葛藤(「確執」というほどではない)を抱えてるのが、ぼくには興味ぶかいのだ。

 イギリスの批評家ピーター・ブルックスさんによるメロドラマの定式をおさらいしよう。


「メロドラマの登場人物のパターン」

◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)


「メロドラマのストーリー上の骨格」

(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別される。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)


 これらの項目のうちのいくつかが古めかしく見えるのは、「メロドラマ」が確立されたのが、18世紀末、大革命後のフランスにおいてだからである(あくまでブルックス氏の見解だが)。ヒロインを補佐する者たちが「侍女、子供、許嫁、農夫など」ってのも大概だけど、「ヒロイン」に続いて「その父親」が主要キャラとして2番目にくるのも、いまどきの感覚とはそぐわない。
 これは当時の社会がまだまだ家父長専制的で、「父親」が「ゆるぎない権威」「もっとも身近な、世間の代表」だったことを意味する。これが今日のニッポンならば、「戦後民主主義の成れの果て」といった塩梅で、フィクションの中でも、また現実においても、父親にそこまでの威厳はあるまい。
 しかしいっぽう、女児向けファンタジーであり、かつバトルアニメという特異な性質をもつプリキュアシリーズにとっては、意外なくらい合致する部分も多い。メロドラマの水脈が現代サブカル(エンタメ)に受け継がれていることの証左でもあろう。
 ことに、
 「善と悪とを明快な「二元論」に集約する。」
 「日常生活のなかで起きるドラマを(ファンタジーとして再構成することで)美学化する。」
 「物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。」
 といったあたりは「そのまんまじゃん」という感じである。もちろん「主人公は女性」なわけだし、彼女(たち)が「喜怒哀楽の激情に耽溺する」ってのも、これはまあ、恋愛感情のことを言ってるんだろうから厳密にいえば違うけど、感情の振幅がドラマチックに描かれるって点では、当たらずといえども遠からずだ。




 けれど、これまでのシリーズにおいて、プリキュアのメンバーが実の父親と深刻な葛藤を演じたことはじつはなかったのである。いや、皆無だったわけではない。しかしそれはいささか特殊な事例なので、すこし説明を要する。


 2011年の『スイートプリキュア♪』では(この「スイート」は「組曲」と「甘味」のダブルミーニングになっている)、王国の姫・キュアミューズこと調辺(しらべ)アコは、悪の黒幕によって洗脳された父王・メフィストと対決する。もちろん最後は洗脳が解けてめでたしめでたしとなったが。


 しかしその2年後、2013年の『ドキドキ!プリキュア』ではその構造が複雑になって、トランプ王国の王(名前は不明)は悪の黒幕によって完全に飲み込まれてしまい、ちょっとやそっとで分離できなくなっており、しかも自らの手で国そのものを滅亡の淵にまで追い込む。王女のマリー・アンジュは甲冑に身を固め、槍を取って闘うも、力及ばず一敗地にまみれ、元の姿を保てなくなって、「父に抗って王国の平和を取り戻そうとする円亜久里(まどか あぐり)」と、「他のすべてを敵に回しても、あくまで父への愛を貫くレジーナ」の2人に分裂してしまう。
 円亜久里の声は釘宮理恵さん、レジーナの声は渡辺久美子さんが演じた。マリー・アンジュは今井由香さんで、つまりこの3人は完全に別の人格として設定されていたのである。アンジュは18歳くらい、亜久里とレジーナはそれぞれ10歳くらいの外観であった。


マリー・アンジュ



円亜久里(まどか あぐり。en aguriと書けばreginaのアナグラム)。追加戦士として夏ごろに登場。当初その正体は謎に包まれていた(本人自身も記憶を失くしていて知らなかった)。変身して「キュアエース」になるとマリー・アンジュに近い成長した姿に




レジーナ。ラテン語で「女王」の意味。この人はプリキュアにはならない。主人公・相田マナへの友情に激しく心を揺さぶられつつも、最後の最後、ぎりぎりの瞬間まで父への愛を貫いて敵対する



 もちろん最後はハッピーエンドとなり、亜久里もレジーナもふつうの小学生として生活を送るが、マリー・アンジュはついに復活せず、その存在は消滅してしまった。メインキャラのひとりがそんな結末を迎えるのは、シリーズ中でも珍しいと思う。
 表立っては描かれなかったけど、父王が悪の化身によって飲み込まれた時期は、愛娘マリー・アンジュに婚約者ができた時期とほぼ同じで、ふたつの出来事には相関性があるかのようにぼくには見えた。しかも母親は一切出てこないし、言及すらされない。どうしてもこれはエレクトラ・コンプレックスを想起せざるをえず、「人格が2つに引き裂かれる」という構想と相まって、かなりインパクトが強かった。だからぼくの中では『ドキドキ!プリキュア』はいちばんの異色作である。




 このように、過去シリーズでもプリキュアのメンバーが実の父親と葛藤を演じることはあった。しかしご覧のとおりそれらは「あちらの世界」でのことだったのだ。異世界出身のメンバーの身に起こる事だと相場が決まっていた。「人間界」側のメンバーたる娘さんたちは、そりゃあみんながみんな父親とずっと良好な関係を築いてたわけではないけれど(ちょっとした齟齬を感じている子はいた)、そこまで深刻な事態には至らなかった。
 いや、「父親」という具体的な対象ではなくて、「家のしがらみ」に絡めとられて苦慮しているプリキュアさんなら居た。「優等生のお嬢様」枠に属するキャラのうちの何人かはそれだ。前作の愛崎えみる、2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』の立神あおい、2015年『Go!プリンセスプリキュア』の海藤みなみといった諸嬢が該当するだろう。
 とはいえ、これらの皆さんにしても、「父親」と正面切って対峙するシーンはなかったのである(どのお父さんも意外とリベラルだった。もっとも抑圧を覚えていたのはたぶん愛崎えみるだが、彼女とて、抑圧の相手は「父」ではなくて「祖父」だったのだ)。


 俗に「桃キュア」と称される主人公の父親はわりとふつうのサラリーマンないし自営業者が多いので、先に述べたとおり、家父長専制的な威厳を発することはない。しかし、「優等生のお嬢様」枠に属するメンバーのばあい、かなり現実離れした名家かつ資産家という設定だから、ブルックスのいう「メロドラマ」的な古式ゆかしき父親、すなわち社会(的規範)の代表としての父親像が成立してしまう。
 ファンタジーたるプリキュアシリーズにとって、これは好ましからざることである。ファンタジーってのは社会を捨象するからこそ成り立つものなんだから(故にいずれも大なり小なり「セカイ系」っぽくなる)。
 しかるに今作、『スタートゥインクル☆プリキュア』では、「優等生のお嬢様」枠、高貴な紫をイメージカラーにもつ香久矢まどかの父は、「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」の職にある政府高官、すなわち宇宙からの来訪者をキビしく取り締まる立場の人なのである。定員5名のプリキュア勢のうちじつに2人までを異星人が占める今作にあって、ロコツなまでに利害の対立する相手だ。ぼくは最初のうち、さほどまじめに見てなかったけど、この件に関しては「面白いな」とは思っていた。



香久矢まどか(CV・小松未可子)。41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」にて、尊敬してやまない父からの精神的な自立を果たす。まあ、ぼくみたいな庶民の目には「遅すぎた反抗期」にも見えるけれども



父・冬貴と母・満佳(みちか)。娘が一礼して自室へと立ち去ったあと、「私が悪かったのか。まどかが誤った判断を……」と戸惑う父を、「誤りではないわ。これは成長っていうのよ」と母は優しく諭す。「満佳」は満月に通じるのだろう。「おっとりしているようで、じつはよくわかっている母親」という類型に属するキャラである


 
 まどかと父との関係性が大きく変容する41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」は、期待に違わず、とても面白い話数となった。しかしその内容は、ぼくが事前に思い描いてたのとは、いくぶん異なるものだった。














『スタートゥインクル☆プリキュア』について01

2019-11-27 | プリキュア・シリーズ

 プリキュアシリーズを好きなのは、明るくて、華やかで、カラフルで、かわいらしいからだ。味気ない日々にそういうものを求めるのは、殺風景な部屋に花を飾るのと一緒である。しかも長年にわたって毎週やってる。これが大きい。とはいえ、まじめに観るようになったのは2015年の『Go!プリンセスプリキュア』からだけど。
 もうひとつ、児童向けファンタジーゆえに、構造がきわめてシンプル、という理由もある。河合隼雄さんは、ご自身がファンタジーに注目する理由として、「純文学は夾雑物が(よい意味で)多すぎるが、ファンタジーは物語そのものが露出しているため、登場人物の感情の動きが生々しい。だから有益なのだ。」という意味のことを言っていらした。ぼくがプリキュアシリーズに注目するのも同じことだ。ただしぼくはカウンセラーではないので、「感情の動き」ってよりも「物語」そのものに関心があるわけだが。


 なにしろ16年にもわたって続いているのだ。1年たったら1作が終わって新作がはじまる。むろんその内容は、こう言っちゃなんだが似たり寄ったり、難しいコトバでいえば同工異曲である。ふつうの中学生(時に高校生も混じる)女子が、ふしぎな妖精との出会いを契機に「伝説のヒーロー・プリキュア」となって、変身して敵を迎え撃つ。最初にプリキュアとなる子は必ずしもリーダータイプではないが、独特の求心力で仲間を惹き寄せる魅力がある。イメージカラーはピンク。そこにもうひとり仲良しの子がコンビとなって共闘し、すぐに3人目、4人目が加わる。しばらくはその編成でいって、中だるみが懸念される夏場あたりに5人目が参入。2009年の『フレッシュプリキュア!』以降、その「追加戦士」は敵側からの「改心」組というのが基本のフォーマットとなった。


 もとより多少の異同はあるが、ほぼこれがパターンである。それが年を追うごとに微妙な進化を重ねながら変奏されていく。そこにはとうぜん社会意識の変遷なんてものも投影されるだろうし、関連商品の売り上げ、劇場版の動員数、競合コンテンツとの兼ね合いといった要素を合わせて見ていけば、この少子化市場における一つの成功したビジネスモデルとして、他分野にも応用可能な戦略を読み取ることもできるかもしれない。あるいは、「商業主義」と「作家性」との鬩ぎ合いのなか、スタッフの皆さんが、いつか社会に出ていく児童たちに向けて、いかに押しつけがましくなく、うまくファンタジーの糖衣にくるんでメッセージを届けるべく鋭意しているか、そのあたりを汲むのも有意義な鑑賞方法かと思う。


 ぼく自身は、冒頭から述べているとおり「物語」に関心があるので、スタッフの固有名には興味がない。さすがにシリーズ構成とメインプロデューサーくらいはチェックするけれど、なるべくそちら方面には深入りせぬよう心掛けている。だから、(今さら改まっていうのも妙な具合だが)このブログではよくアニメを取り上げるけども、けしてアニメ批評ブログじゃない。あくまで「物語」を考える絶好の素材として使わせてもらってるだけなのだ。


 さて。そんなこと言ったそばから「何だよ」って感じなんだけど、すでにラストスパートを迎えつつある本年の『スタートゥインクル☆プリキュア』の主題につき、製作サイドのコメントを引用させて頂く。ソースはウィキペディア。ただし文章は、ぼくの裁量で一部を編集させてもらった。



 ABCアニメーションプロデューサー田中昂氏
「今作のモチーフとして選んだのは『宇宙・星座』です。私たちは『宇宙』という言葉を、広大な世界へのワクワクドキドキ、キラッと輝く星々への憧れ、自分とは違うものとの出会いなど、今ある環境から一歩踏み出した世界と捉えています」
「こどもたちが成長とともに自分の世界を広げていくように、主人公たちが成長していく場所として、『宇宙』を今作の舞台として設定しました」


 東映アニメーションプロデューサー柳川あかり氏
「時に私たちは『未知の世界』『自分と違う存在』に対して不安や恐れを抱きます。しかし、ひかる(本作の主人公)は持ち前の好奇心で『分からない』状態から一歩踏み出し、価値観の違い、文化の壁、種族の垣根さえも想像力の翼で飛び越えていきます」
「豊かなイマジネーションで物事に向き合い、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、自分で判断することの大切さ。そして、広い世界には多種多様な価値観があることを知り、違いを楽しみながら、自らも星のように輝くプリキュアたちの姿を描いていきます」




 とはいえ女児向けアニメで宇宙を題材にした作品は少なく、懸念の声もあった。そのため、女児にも受け入れやすいよう、地球の外にはただの茫漠たる宇宙空間ではなく、「星空界」というカラフルでポップでファンシーな世界が広がっている……という設定にした。
 キャラクターデザイン、プリキュアのコスチューム、背景美術などは「80‘S(1980年代)」を意識している(具体的には、『魔法の天使クリィミーマミ』『うる星やつら』、さらに『聖闘士星矢』『美少女戦士セーラームーン』など)。エンディングテーマも昭和のアイドル歌謡曲のテイストで製作されている。




 引用ここまで。


 たしかに1話のエンディングを見たとき、『うる星やつら』は真っ先に浮かんだ。シリーズにおいて異星人初のプリキュアとなったララは頭部に触覚状の二対のセンサーを付けており、そこから電気を発する設定だ。また、その母親役の声優はあのラムちゃんこと平野文さんである。


マンガ/アニメの文脈ではもはや「古典的」ともいうべき電気ショックの表現。『うる星やつら』でもよく見た



 ちなみに「星空界」とはこんな感じ。児童向けファンタジーの面目躍如たるデザインといえよう。




 この「星空界」に見て取れるように、「スタプリ」は当初かなり子供っぽい印象だった。児童向けファンタジーなんだから子供っぽいのは当たり前だが、なにぶん前作の『HUGっと!プリキュア』が変な昼メロを思わせるくらいアダルトなムードを一部漂わせていたために、対比が際立ったのである。で、ついこのあいだまでは、本など読みつつ片手間に見ていたのだが、35話「ひかるが生徒会長⁉キラやば選挙バトル☆」あたりからバカに面白くなってきて、ちゃんと正面から観るようになった次第である。





『スター☆トゥインクルプリキュア』第38話「輝け!ユニのトゥインクルイマジネーション☆」と『宇宙よりも遠い場所』

2019-11-10 | プリキュア・シリーズ
 もりのさとさんから頂いたコメント。


2019/11/09


こんにちは。


よりもい論をすべて読ませていただきました。すばらしい作品論です。特に、めぐっちゃん周りの論考には深くうなずかされましたし、第8話の外に出る場面の解釈にはなるほどなあと思いました。
また、個人的結月の二大名場面(第7話の膨れるところと、第12話の「いい友だちですって!」)が両方拾われている点に非常に好感を持ちました(笑)


よりもい第11話と、HUGっと!プリキュア第31話を比較して考えたのは、わたしだけではなかったんですね。
HUGプリは楽しく視聴したのですが、eminusさんと同じく、あの話には納得いきませんでした。先週のプリキュアでも似た展開があって、ふたたび釈然としない気持ちになり、ふたたびよりもいのことを思い出してしまいましたが……。


少しだけ、訊いてみたいことがあります。
eminusさんは、第11話で、日向の悪い噂を流したのは同級生の3人だと解釈されていますが、わたしはこれ、先輩が単独でやったことだと思っていたんです。
というのも、退学に追い込むほどの悪い噂を流しておきながら(しかもそれをやったことを本人に知られていながら)、本人の前に姿を現すのは、いくらなんでも人としてありえないと考えたからです。
言われてみれば、同級生たちも関わっていたと考える方が自然とは思うのですが……このあたり、どうお考えでしょうか。


もうひとつ、最終話の、報瀬が母のノートパソコンを開く場面について「残酷」と評されているのを、少し意外に感じました。わたしがこの場面で覚えたのは、悲しみプラス安堵感、のようなものだったのです。
メールが母に届いていなかったことで、報瀬が母の死を思い知らされるというのは、たしかな、悲しいことで、一方で報瀬の送っていたものが、形として残って、母の遺品に溜まり続けていたということを、よかった、と思ったのでした。これは読み間違いなのかもしれませんが。


☆☆☆☆





ぼくからのご返事


 ふくれる結月は可愛いですよね……。スタートゥインクルプリキュアで、ララが変身するとき一瞬あんな感じになるけど、あれはスタッフぜったい狙ってますね(笑)。
 「先週のプリキュアで、よりもい11話およびHUGプリ31話と似た展開……」とは、10月27日放送分の38話で、ユニがアイワーンに「許す!」と真っ向から宣言したやつですよね。
 あの38話を見て、「スタプリ」に対するぼくの評価は跳ね上がりました。歴代シリーズでも屈指の話数ではないか、と思いました。まあ、歴代ぜんぶ見てきたわけじゃないですけど。
 当該シーンを画像付きで文字に起こしてみます(なお画像は一部順番を入れ替えてます)。






















 アイワーンの操縦する「ロボ23号」の猛威にプリキュア勢は大苦戦。キュアコスモも追い込まれる。
 そこに、ハッケニャーン師が立ちはだかる。バケニャーン(CVは同じ上田燿司さん)そっくりの容貌に、アイワーンがひるむ。
ハッケニャーン「遠い星を、見上げているばかりでは気づかぬものだ。足元の花の美しさに」
「あ」と顔を上げるキュアコスモ(以下はユニと表記)。


(ユニの脳裏の回想シーン。第20話より。
ユニ「あなたには関係ない……何も知らない他人でしょ!?」
ひかる「知らないからだよ……。だってさ……キラやば~っ!だよ。だから私は、(あなたとあなたの星を)守りたい!」)


アイワーン「なに……わけのわかんないこと言ってるっつーの……どいつもこいつも、知らないっつーの!」
 アイワーン、ビームを撃つ。ユニ、間一髪で発射口を蹴り上げ、軌道を逸らす。
アイワーン「(泣きながら)許せない……許せないっつーの。あたいの居場所を無くしたお前だけは……ぜったい、許さないっつーの!」
 もういちどビームを撃つ。


(回想シーン。ユニ「(怒りに燃えて)許せないニャン。みんなを……石にした……あいつ……だけは」)


ユニ「同じだ……。アイワーンと……わたし」
 ユニの全身をふしぎな光が包み、ビームを受け止める。
アイワーン「なんだっつーの!?」
ユニ「わたし…… (孤児だった頃の、泣きじゃくるアイワーンの映像が挿入される)あなたのこと……傷つけてた。…………………………ごめんニャン」
 驚くプリキュア勢。傍らで、ふかく頷くハッケニャーン師。
アイワーン「なに……謝ってるんだっつーの……?」
ユニ「今ならわかる……あなたの気持ち……」
アイワーン「何がわかるんだっつーの!」
ユニ「苦しかったんでしょ、アイワーン!」
アイワーン「あ……」
ユニ「わたし……わたし、決めたニャン。あなたを……許す!」
アイワーン「なんで……なんでそんなこと言うんだっつーの!」
 言いながら、さらにビームの威力を強める。ユニは平然と受け止める。
ユニ「過去だけを見るんじゃなくて、前に進んでいきたい。(一歩踏み出し)あなたと一緒に。……自分だけじゃなくて、わたしは……みんなと一緒に、未来に行きたい!」
 ユニの体から発した光がビームを跳ね返し、そのままアイワーンの心へと届く。ユニがオリーフィオと過ごした楽しい日々の思い出と、それを失った時の悲しみが真っすぐにアイワーンに伝わる。
アイワーン「ええっ……」


 といった感じでした。朝っぱらからえらく泣かされちゃいましたけども。

 ユニはアイワーンを欺き、結果として彼女の信頼を弄ぶ形にはなったけど、その前にアイワーンはユニの星を丸ごと石化したわけで、バランスシートは比較にならない。いかにユニが、ひかるたちとの交友を通して寛容さを育んでいたにせよ、ユニから先に謝るのは違和感がありますね。それはたぶんアイワーン自身もわかってて、「なに……謝ってるんだっつーの……?」「なんで……なんでそんなこと言うんだっつーの!」などと、かなり混乱しています。
 いわゆる「憎しみの連鎖」を断ち切るには、明らかに相手に非があっても、こちらから折れねばならない……。それは確かにそうなのでしょうが、いかに児童向けアニメといえど、あからさまな「綺麗事」だけでは納得がいきません。
 そこで、ハッケニャーン師というメンター(導き手)が作品のなかに召喚される。あのハッケニャーン師というキャラクターはむちゃくちゃ魅力的で、ぼくが見てきたうちでは、プリキュアシリーズに出てきた脇役の中での白眉ですね。



盲目の占い師・ハッケニャーン。いわゆる「老賢者」ふうの風貌だが……。


コミカルな一面も。でもたぶん、ひかるたちの緊張を和らげるためにやってるんだと思う


 じつは、ユニがかつて一人でハッケニャーン師を訪ねたとき、師はユニに星読みをさせて、「皆を戻す方法はある。……星読みは嘘をつかない」と明言したうえで、「広い宇宙に出て良き仲間を見つけなさい。その仲間たちと共に未来へ歩むことが、お前の故郷の星を元に戻すことにも繋がるのだ。」と示唆してるんです。まあ、こんな明瞭な言い方じゃなく、もっともっと漠然とした、抽象的な表現で、まるで押しつけがましくなかったですけど。でも、それこそが真の助言のありかたですよね。そして占いの代価だといって、「私の代わりに外の世界を見てきてくれ。」と、ユニを宇宙に送り出す。それがユニをひかるたちに出会わせることにつながる。
 「故郷のみんなを元に戻せる」という希望がなければ、さすがにユニもアイワーンを「許す」ことはできなかったろうとぼくは考えています。つまりハッケニャーン師の存在がなければ、こちらとしても、泣けもしなかったろうし、得心もいかぬままだったでしょうね。




 それで、よりもいの第11話ですが。
 日向の退部~退学にいたる経緯は日向じしんの口から語られるだけなので、解釈が難しいですね。彼女は自分を擁護するために嘘をついたりはしないだろうけど、なんか誤解してるってことはありうるだろうし。
 でもぼくは、これは「物語」なんだから、日向の語った内容はすべて「事実」だとして考えました。
 悪い噂を流したのが誰かというのは、日向の部屋に全員が集まった際の、
 報瀬「どうでもよくない。だって、悪いのは完全に向こうじゃない!」
 日向「人間って怖いんだよねー。それがわかってるから、なんとか私が悪いってことにしようと、部活やめたあともあれこれ噂流してさ」
 といったあたりのやりとりから、先輩ではなくあの3人でしょう。先輩はたぶん、日向が退部した後は彼女のことなどまるで気にも掛けてなかったんじゃないでしょうか。6話で、シンガポール行きの飛行機に乗る前、日向はぐうぜん空港でチームメイト一行を見かけますが、あの時の先輩(後ろ姿だけど、特徴的な髪形でわかります)のあっけらかんとした態度を見ると、そう思わざるをえませんね。
 でもって、3人が悪い噂を流しておきながら、いけしゃあしゃあとあの場に顔を出せたのは(まあ、テレビには顔を出せませんでしたけど)、そのことを日向がまるで知らないと思ってたからでしょう。そもそも彼女たちは、自分たちが保身のために先輩に対して日向を陥れたこと自体、日向には知られていないと思ってますから(あれは日向が部室の外でたまたま立ち聞きしたからわかったことです)。
 いや……改めてこう考えると、報瀬があの場であれほどの怒りを見せたのも当然だなあと思えてきますね。あそこはやっぱり、日向に安易に「許す」と言わせないでよかったです。
 「許し(赦し)」というのは物語としても、じっさいの人生においても社会においても、つくづく難しいテーマです。




 もうひとつは、12話で、報瀬が「喪の仕事」を果たす場面ですね。
 悲しみプラス安堵感……そうですね……。「報瀬の送っていたものが、形として残って、母の遺品に溜まり続けていたこと」については、「よかった」とぼくも思います。でも、それをああいうかたちで目の当たりにした際の報瀬の心情は、それまで自分のなかで生死の定まらなかった母が、ほんとうに眼前で息を引き取ってしまったほどのショックだったのではないでしょうか。
 それがどれくらい続くものかはわからないけれど、少なくともしばしのあいだは、心が悲しみだけで塗り潰されるような情態だったのではないか……とぼくは想像いたします。でも、それはあらかじめ心のどこかですでに覚悟していたことでもあるので、傍にキマリたちだっていてくれることだし、「生」に向けての回復までには、それほどの時間はかからなかったとも思います。
 あのなだれ落ちるメールは(本編でも述べたとおり)「3年にわたって止まっていた時間」が動き出すことの暗喩にもなっているので、けして後ろ向きなものではない。それは確かなことですね。
 でも、あれだけ心を込めて送り続けたにもかかわらず、それは決して貴子には届かなかった。このこともまた確かです。
 「安堵」とは違いますが、パソコンの中に残されたものが「生の歓び」に結びつくということならば、日本に帰る船の上で報瀬が受け取る、貴子の遺した(そして藤堂が貴子に代わって送信した)「本物はこの一万倍綺麗だよ」というオーロラの画像付きのメールこそが、それに当たるのでしょう。
 やっぱり、キマリたちがあのパソコンを見つけたのは、本当に大事なことでした。貴子からのメッセージが、ちゃんと報瀬に「届いた」のだから。









5年前の初心を苦々しく思い返しつつ、あらためて「まどか☆マギカ」のこと。

2019-10-31 | プリキュア・シリーズ
 このgooブログに越してきてかれこれ5年になるので、当初の記事をざっと読み返してみたら、文体も論旨もひどく強張っていてさっぱり面白くないんだけども、当時のぼくが「物語批判」なるモットーを掲げて意気盛んだったことだけはよくわかった。
 ここで「物語」というのは多層な意味を含んでいて、「ぷちナショナリズム」みたいなものから、「ひとを思考停止に導くような、安っぽいセンチメンタルなお話」みたいなものまで射程に入る。あの頃はそういったものを一緒くたにして、かなり粗っぽい議論をしていた。その粗さについては、「物語の愉楽」というカテゴリのなかで、少しずつだが、この5年のうちにそこそこ詰めていけたと思ってますが。
 ともあれ、かつてのワタシは「物語」を頑として否定しておった。その代わりに顕揚していたのが「純文学」だ。世に蔓延する「物語」を解毒するものは純文学を置いてほかにない。みなさんもっと純文学を読みましょう、という主張で、その情熱がブログを続ける動力だったといっていい。
 それが今や、ネットから拝借したカラフルな画像をむやみやたらと貼っ付けて、嬉々としてアニメの話なぞをしている。純文学より、あきらかにそっちに力が入っている。理由はどうあれ、われながらこれは変節だなあと思う。物語のもつ魔性の力に、たあいなく屈しちゃったというか。
 とはいえ、人生なんてのはそのときどきで「面白い。」と思えることをちまちまと掘り進めてくしかないわけで、当面はこのセンでいかなきゃしょうがない。
 いうまでもなく、アニメというのは現代ハイテク日本が生んだ最高最大の「物語の器」だ。玉石混淆ながら、そこには膨大な蓄積があり、かつ、それを踏まえて日々また新しい作品が生み出されている。その全容を隈なく把握するのは誰にとってもたぶん物理的(時間的)に不可能であろう。むろん、べつに全容を把握する必要なんかないんだろうけどね。
 ぼくはほとんどテレビを見ないので、全容どころか年にせいぜい2本か3本ていどのアニメにふれるだけだが、2016年の今頃は、映画『君の名は。』に熱を上げていた。劇場を出たのち数週間経っても覚めやらず、しばらくは酩酊に近い心持ちでいた気もするが、今にして思えば、じつは内容よりも映像美に魅了されていたようだ。
 昨年(2018年)は、ほぼ夏を越すまでは『HUGっと!プリキュア』に、そのあとは『宇宙よりも遠い場所』に夢中になった。自分の中では、「いじめ」という題材を介して「HUプリ」が「よりもい」に上位互換された格好だった。
 この2019年は、最新リメイク版『どろろ』だけれど、『スター☆トゥインクルプリキュア』も引き続き見ている。去年のやつが妙に大人っぽすぎたため、あからさまに、本来の視聴対象に合わせて作られている。だからそれほど熱心になれなかったけど、ここにきて、がぜん深みを増し、面白くなってきた。夏を越してから興味が高まりつつあるわけで、HUGプリとは逆になっている。
 さて。「物語」と「純文学」との違いってのは、起伏にとんだストーリーとか、日常から懸け離れた冒険とか、ミステリーないしサスペンスの要素とか、色々と数え立てられるところだが、何よりもまず、「登場人物たちの感情のうねり」にこそ指を屈するべきではないか、という気が最近はしている。
 それは、来年早々スピンオフの新作が放映されるとのことで、宣伝とおさらいを兼ねて8年ぶりに再放送された『魔法少女まどか☆マギカ』をみて痛感させられたことだ。全12話のこのテレビシリーズでは、年端もいかぬ娘さんたちが壮絶なディスコミュニケーション(関係不全)と葛藤のドラマを繰り広げ、そこに脈打つ愛憎の重量がただごとではない。前々回の記事にも書いたが、私の知るかぎり、ギリシア悲劇かシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を引き合いに出すよりないくらいである。
 シナリオが無料でネットで見られるので、ひととおり読ませていただいたけれど、やはり字面だけではそこまでの迫真性はない。映像とBGMと音響、それに声優さんの芝居が重なってこその達成なのだ。
 ことに、事実上の主人公というべき暁美(あけみ)ほむら(CVは斎藤千和さん)の造形がすごい。「タイムリープ」という、或る意味で使い古された素材を使って、よくぞこれほど鮮やかなキャラをつくったものだ。





冷ややかで沈着、どうしても必要とあらば人の命も奪いかねないほむら。「クールほむら」を略して、俗に「クーほむ」と称されるらしい





まだ初心で純真だった頃のほむら。「眼鏡ほむら」を略して「メガほむ」と称される。この人が数多の辛酸を舐めて上記のように変貌する


 「♬交わした約束 忘れないよ」ではじまる主題歌「コネクト」は、タイトルロールのまどかじゃなく、彼女のことを歌ったものだ(それが視聴者にわかるのは10話を迎えたときだが)。いわば『君の名は。』で瀧くんがやろうとしたことを、彼女はあたかもギリシア神話のシーシュポス(シジフォス)のごとく、際限もなく幾たびも繰り返すのだが、それが「たった一人の友だちのため」というのが最大のキモなのである。
 全体の骨格というか基盤をつくった脚本担当の虚淵玄の功績は疑うべくもないけれど、2011年の時点で虚淵さんがこのような構想を立てられたのも、2004年からの『ふたりはプリキュア』に始まる東映のプリキュアシリーズ、すなわち「戦う魔法少女」という日本ならではの不可思議なるフォーマットが広く浸透していたからだ、という点は見逃されてはなるまい。









『魔法少女まどか☆マギカ』について。

2019-10-04 | プリキュア・シリーズ
 中世の話はいったん置いて、本日はこのお題にて。




 『魔法少女まどか☆マギカ』は、プリキュアシリーズを見慣れた私にとってすら、ずっと敷居が高かったですね。全12話の放送が終わった2011年の10月に「ユリイカ」が特集を組んだんで(それも臨時増刊号だぜ)、いちおう買って読んだものの、なんせ本編を観てないもんで、個々の論考は面白かったけど、全体としてはよくわからなかった。ま、当たり前ですが。
 2011(平成23)年といえば、このgooブログに越してくる前で、私はまだ「物語の愉楽」に目覚めておらず、ガッチガチの純文学脳でしたしね。「社会現象」といえるくらいの話題をまいていたのは知っていたけど、どうしても見る気にはなれなかった。
 いや、なにが敷居高いって、まずキャラクターの造形ですよ。






 これですからね。もはや「萌え絵」ですらないという。ほぼ限界まで記号化された「女の子」像。そりゃ可愛いっちゃあ可愛いんだろうけど、ギャグをまぶした日常系4コマまんがのキャラデザですよね。
 とくに顔の輪郭がね。シンプルなのはいいとして、なぜこう横に広いのか。聞けば、テレビ画面の縦横比において、もっとも無駄がなく、表情を豊かに描けるサイズらしいんですよ。きちんと計算されてるわけだ。
 それにしても、歴代プリキュアのキャラだと、馬越嘉彦氏による『ハートキャッチプリキュア!』を除いて、ここまでシンプルなものはないよね。東映動画の伝統なのかもしれないけど、これと比べたら劇画チックにすらみえる。だからその分、アクションシーンでは動かすのが大変そうだ。
 「まどマギ」のキャラデザは、じつはアクションに向いている。とはいえここまで可愛らしいと、よほどメルヘンチックなものしかつくれない……はずなんだよね本来は。ところがそれで、思いっきりディープでハードなダークファンタジーをやった。そこがまず、制作陣の鮮やかな戦略であったと。
 むろん戦略だけではここまで売れません。ちゃんと裏打ちがある。その「ディープでハードなダークファンタジー」を支えるのは、緻密で堅牢な背景美術です。




















 こちらは劇場映画版の映像なんで、テレビ版よりずっと丁寧に造りこまれているけど、新海誠作品にも引けを取らない美麗さでしょう。これだけ切り取っても鑑賞に耐える。
 つまり、背景美術とキャラクターデザインとがそぐわないんだよね。でもそれは、けっして乖離してるってことじゃなく、その逆で、このミスマッチがただならぬ相乗効果を生んでいく。
 しかも、このリアリスティックな背景の中に、もうひとつ別の位相の空間が混入してくる。制作陣のなかに、「異空間設計」なるポジションがわざわざ設けられていた。これは放送当時から評判になってたようですが。







 主人公の鹿目まどかたちは、「魔法少女」に変身して「魔女」と戦うわけだけど、その魔女たちはそれぞれ固有の「結界」をもっており、その中に人を引きずり込む。その「結界」の中のイメージってのがこんな感じなわけです。こちらも映画版から引用させて頂いたものだけど、きわめて情報量が多い。上は「不思議の国のアリス」、下は「白鳥の湖」がモティーフになってるようですが、他にもぎっしり詰め込まれてて、たやすくは解読しきれません。
 影響関係については、マックス・エルンストの『百頭女』ほか、いろいろなものが連想されるとこだけど、私が読んだうちでもっとも詳しかったのは、『超解読 まどかマギカ』(三才ムック vol.421)中の、屋根裏☆3世氏による考察「シュルレアリズムと劇団イヌカレー空間」ですね(「劇団イヌカレー」というのが、この「異空間設計」を担当した工房です)。そこにはロシアのユーリ・ノルシュテイン、チェコのヤン・シュバンクマイエルといった有名どころに加えて、日本のflashアーティストのお名前なども挙がってます。
 シンプルでキュートなキャラデザと、緻密かつ堅牢かつ美麗なる背景、そして独特の「イヌカレー空間」。これら三層のレイヤーが織り成す空間造形はほんとに見事で、ほとんど幻惑的といっていい。
 そしてそこに、梶浦由記さんによるBGMが被さる。『歴史秘話ヒストリア』の音楽担当といえば「ああ。」と思われる方も多いでしょう。ミサ曲のように荘厳でありつつ、あくまでもポップな曲づくり。この方の存在ももちろん欠かせません。
 そしてもちろん、練りに練ったシナリオと、声優陣の熱演……。多くの人が魅了されたのも無理はない。


 さっきから劇場版劇場版といってますが、「まどか☆マギカ」は2011年に全12話が放送されたあと(東日本大震災の影響で、最終話の放送を巡ってはかなり曲折があったそうだけど)、劇場用映画として3部作が制作・公開されたんですね。2012年の10月に『[前編]始まりの物語』『[後編]永遠の物語』の2作。これはテレビシリーズを編集し、新たなカットを加えたり、アテレコをほぼ総入れ替えするなどして再構成したもの。
 そしてその続編として、『[新編]叛逆の物語』が2013年10月に公開。こちらは完全なる新作でしたが、テレビシリーズの結末を覆すもので、ファンの間で賛否が割れたと聞いてます。そういったことを配慮してか、総監督の新房昭之氏は、「新作は劇場版の続きであり、テレビシリーズの続きではない。」との趣旨の発言をされたとか。別の世界線……というやつでしょうか。テレビシリーズはテレビシリーズ、劇場版は劇場版。近頃はそういうのも珍しくなくなりましたね。


 『叛逆の物語』は、表層の次元においては、チャイコフスキーの三大バレエ「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」をモティーフにしてると思います。「白鳥の湖」は、上記の画像でも出てましたね。
 しかし、もっと深い次元では、あれはポスト・イギリス・ルネサンス期の大詩人ジョン・ミルトン(John Milton 1608 慶長13~1674 延宝2)の『失楽園』ですね。「叛逆」は、永井豪のあの問題作『デビルマン』を媒介として、『失楽園』につながっている。まさに至高の神に叛逆するルシファーの話なんだ。
 ルシファーは明けの明星と同一視される。明けの明星。暁に燃える美しい星。暁美ほむらじゃないですか。


「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。/お前は地に投げ落とされた/(……中略……)/お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」
(「イザヤ書」第14章)
 エンディングテーマ後のあのショッキングなラストにしても、つまりはそういうことなのだと、私は解釈しています。もとより暫定的ですが。


 ……失礼しました。つい先走って、「まどか☆マギカ」を知らない方にもわかるように書く、という方針を忘れてしまいました。「暁美ほむら」とは、この作品のヒロインです。主人公はタイトルロールの「まどか(鹿目まどか)」で、これに対する「ヒロイン」が暁美ほむらなんですね。総勢5名の「魔法少女」が登場しますが、要となるのはこの2人です。映画のほうは、まどかのために自ら望んで「悪魔」となったほむらが、夜、断ち斬られたような偃月の下、これも同じく真っ二つに断ち斬られた丘の上で、ひとしきりバレエのステップを踊ったあと、ふっと微笑み、画面の右側へ倒れこむように身を投げる、という謎めいたシーンのロングショットで終わります。


崖ではなく、丘陵が真っ二つに断ち斬られて、こんな具合になっている



これも半月ではない。真っ二つに断ち斬られた月。本来ならば「まどか」がいる筈の側が「空虚」になっている


ふと立ち上がり、ひとりでダンスを


そして、ゆっくりと身を傾けて……


ラスト(の一つ手前の)カット





 ああそうか。もうひとつ補足が要りますね。テレビシリーズ全12話(および劇場版2作)のラストにて、主人公まどかはすべての魔法少女たちの悲惨なる末路を救済すべく、自分一人があらゆる因果を背負って「神」にもまがう存在となります。その代わり、人間であった時の記録はこの宇宙から抹消され、肉親の記憶からさえ消えてしまう。生まれてきたこと自体が「なかったこと」になってしまうわけですね。『叛逆の物語』は、そうして「神」となったまどかに対し、ヒロインほむらが「人間としてのまどか」を取り戻すべく叛逆に出る、文字どおり叛逆の物語でありました。


 『失楽園』と違うのは、こちらのルシファーは、「神」を心の底から「愛して」おり、その幸福だけを願っていること。そのためなら、我と我が身を犠牲にするのも厭わない。世界設定が「聖書」のそれより遥かに捩じくれているために、彼女の情念もより屈折して、ボルテージ高くならざるを得ない。うーん……ロマン主義の極北とでも申しましょうか。
 クライマックスシーンで、暁美ほむらはこう口にします。
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの…………愛よ。」
 美しいけれど、「純文学」ではぜったいに書けないセリフですね。虚淵玄氏によるシナリオを読んでも、ノベライズ版を読んでも、コミック版を見ても、きっと心に響かないでしょう。「何のこっちゃ」という感じでね……。しかし、上で述べたような映像表現と音楽、そして声優(斎藤千和)さんの演技が加わると、それがまっすぐこちらに届く。どころか、そのまま突き刺さってきて、不覚にも、ひどく揺さぶれてしまう。まったくもってアニメってのは怖いメディアだなあと、今更のように感じますが。
 「文学」の領野でここまで激しい感情を描いて、こちらの心を揺さぶるものは、もうギリシア悲劇とシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』くらいしか、私には思い当たりません。




 ところで、ギリシア悲劇やシェイクスピアをすら彷彿とさせるこの情念の劇を演じるのが、なぜ「少女」たちでなきゃならないんだろう。そんなギモンが浮かびました。もちろん、「少女」とはいっても現実の存在ではなく、抽象化され、純化されたイメージとしての少女なんだけど、それにしても、って話ですよ。
 すこし考えたんだけど、おそらくそれは、「(表象化された)少女」がほぼ「感情そのもの」の具現者たりうるからではないか。つまりまあ、まだ生活の重みを背負ってなくて、くたびれてないってことですね。それならば「少年」だってよさそうだけど、なにか足りない気がするのは、やはり奥底にひそむ「母性」の有無なのかなあ。
 冒頭でふれた「ユリイカ」の特集で、斎藤環さん(肩書は「表象精神分析」)はこう書いてます。






 漫画と、その派生物であるアニメという表現形式において、実質的に物語を駆動するのは「感情」にほかならない。より正確に言い換えるなら、意志も欲望も論理も、およそ人間の「動機」を構成するエレメントは全て、いったん「感情」として表出されねば物語が進行しない、ということである。






 それは実際そうなんで、コトバだったら「彼はこれこれこういう理由でこれこれの所業を行いました。」と地の文で説明できるけど、アニメだとそうはいかないからね。たいていのばあい、キャラたちは感情を剥き出しにしてぶつかり合う。そこが面白いわけね。しかもそれが、「宇宙の理(ことわり)を改変してしまうほどの愛」なんて壮大な感情であるならば(そういう物語なんですよ「まどか☆マギカ」は……)、それを担えるキャラクターは、どうしても「少女」のかたちをしていなければならないんじゃないか……。




 その意味では、「まどか☆マギカ」とプリキュアシリーズはまるっきり真逆のものですね。たんに深夜放送のダークファンタジーとニチアサの健全なポップファンタジーとの相違なんてレベルじゃない。
 プリキュアシリーズは児童文学なんですよ。リアリズムから飛躍はしても、つまりは近代の枠組のなかにある。明るい未来へ向かって「進歩」していくって前提がある。日々の暮らしの中で周りの人たちと協調して人格を陶冶し、それが社会人であるか、家庭人としての良きママ、良きパパであるのかはともかく、然るべき「未来の自分」へと成長する。そういう正の感性を育むお話なわけ。まさに「近代」ですね。
 いっぽう、「まどか☆マギカ」のほうは、プレモダン(前近代)でありポストモダン(近代以後)である。けして近代小説ではない。少女たちは少女の姿のまま、ひたすら時間をループする。こんな近代小説なんてない。だったら何か? 神話ですよね。
 しかも、本編および『叛逆の物語』においては、まがりなりにも「神」と「悪魔」の誕生を描いてしまった。だから、私が当ブログにて濫用する比喩としての「神話」ではなくて、文字どおりの神話なわけだ。




 私は昔からニーチェが好きなんで、「キリスト教とは?」みたいな本もすこし齧ったんだけど、理屈ではともかく、「身に沁みてわかる」という按配には結局ならなかった。いちばん響いてきたのは岩波文庫の『アベラールとエロイーズ 愛と修道の手紙』(旧版)だけど、『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』は、あるいはそれを凌ぐかもしれない。「信仰」ってものが生まれ出る機微が、ほんの少しだけわかったような。そんな気さえしてます。やっぱりアニメってのは、怖いメディアですねえ……。













ニンゲンたちはどこからやってくるの?

2019-07-12 | プリキュア・シリーズ




 追加戦士キュアコスモの登場を受けて、『スター☆トゥインクルプリキュア』のEDが早々と変わった。「ニンゲンたちはどこからやってくるの。パパやママに聞いても教えてくれない(♪教えない)」てなことを言っている。
 これにつき「攻めた歌詞だなあ」という意見があって、それはすなわち「コウノトリがうんぬん」を連想してるわけだろう。むろん、そういう含みもあるんだろうけど、ぼく個人は、もうちょっと高邁というか深遠というか、より抽象的なものを感じた。
 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 というあの壮大な問いかけに通じるものを感じたのである。
 まあ、大袈裟っちゃあ大袈裟なんだけど、なにぶん「宇宙」をテーマに据えたファンタジーであり、けっこう本格SFの文脈のうえに乗っかってもいる作品だから、あながち牽強付会でもない。
 てなわけで、本日はこのお題でちょいと一席。



 この命題はゴーギャンのあの大作のタイトルとして知られるが、必ずしもゴーギャンの独創ではない。ウィキペディアにはこんなことが書かれている。





 ゴーギャンは、11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生であり、同校には、オルレアン司教フェリックス・デュパンルーを教師とするカトリックの典礼の授業があった。デュパンルーは、神学校の生徒たちにキリスト教の教理問答を植えつけ、正しい教義に基づく霊的な影響を与えようと試みた。そして、この教理における3つの基本的な問答が、「人間はどこから来たのか」(Where does humanity come from?)、「どこへ行こうとするのか」(Where is it going to?)、「人間はいかにして進歩していくのか」(How does humanity proceed?)だったのである。
 ゴーギャンは、のちにキリスト教に対して激しく反発するが、デュパンルーに教え込まれた教教理問答は、終生忘れることはなかったようだ。




 なるほど。
 もうひとつ、ウィキには書かれていないけど、ゴーギャンは、読書家の知人から借りたカーライルの『衣装哲学』の一節から着想を得た、という有力な説もある。
 なんなら、「note」のほうのワタクシの別記事をご参照ください。

 ともあれ、どっちが正解でどっちが間違いってわけじゃなく、キリスト教の文化圏において「人間はどこから来たか。人間はなぜこのようにしてここにいるのか。人間はどこへ行くのか」といったギモンは脈々と流れ続けており、それをゴーギャン氏がうまく纏めた、とはいえると思う。その点、コピーライターとしてのゴ氏の功績は称賛に値する。
 いま「キリスト教の文化圏において」と述べたが、じゃあ他の文化圏ではこんなギモンは受け継がれてこなかったんだろうか。そんなはずないとは思うけど、この話、本格的にやろうとすると比較思想史とか、文化人類学の管轄になって、手に余るのでまたの機会にしましょう。今回はあくまで「キリスト教文化圏かいわい」に話題を絞りたい。


 ぼくの知るかぎり、このテーマについていちばん詳しく書いてあるのは筒井賢治さんの『グノーシス』(講談社選書メチエ)だ。2004年に初版が出て、ずっと版を重ねている。そのご色々と研究が進んで古くなったところもあるはずだけど、この価格帯で入手できる「グノーシス主義」の入門書はいまだに他に出ていない。
 筒井さんによれば、2世紀後半に活動したテオドトスという人がこう書き残しているそうだ。




 我々は誰だったのか。我々は何になったのか。我々はどこにいたのか、我々はどこに投げ込まれたのか。我々はどこに向かうのか、我々はどこから解放されるのか。誕生とは何か、再生とは何か。




 かなりイイ線いってる、というか、むしろこっちのほうが深いし、射程広いんじゃないの、とも思う。「投げ込まれたのか?」なんて、なんかちょっとハイデガーですよね。
 「このテオドトスは、ウァレンティノス派と呼ばれる一派に属する、キリスト教グノーシス主義者である。」とのこと。
 筒井氏はさらに「……とするなら、ゴーギャンの大作も、ある意味、グノーシスの影響下にあるというべきだろうか? ところが、事実はそう単純ではない。なぜなら、我々はどこから……という問いかけは、実は、テオドトスの発明でもなく、グノーシスの専売特許でもなかったからである。」と続ける。
 なかなかにフクザツな話なんである。


 というのも、さらに遡ると、1世紀(皇帝ネロの時代)に活動したローマの詩人ペルシウスが、こう書き残してるからだ。


 ……(前略)……
 我々は何なのか、何を生きるべく生まれるのか、
 どのような(人生の)順序が与えられているのか、その穏やかな終点は
 どこにあって、どうすれば到達できるのか。
 (……後略……)




 このペルシウスさん自身は思想史においても文学史においてもさほど重視されてはいないのだが、キリスト教の超大物・教父アウグスティヌスが主著『神の国』において、まさにこの箇所を引用していることから、よく知られているそうな。
 テオドトスはともかく、このペルシウスはキリスト教徒じゃない。つまり、ぼくは「キリスト教の文化圏」と書いたが、キリスト教が広く行きわたる前から、すでにしてこの手の問いは生じており、かなり浸透もしてたってことになる。
 グノーシス主義はそんな思潮の中から出てきた。つまりグノーシス主義とは、キリスト教の側から、人間にまつわるこの本質的な問いに応じようとする運動であった。筒井さんはおおむねそう述べておられる。

☆☆☆☆☆☆☆

 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」の淵源については、上で述べた「他の文化圏ではどうなの?」という視点も併せて、もっと掘り下げられるし、広げられるとも思うけれども、「グノーシス」の観点からみると、じつはほんとの主題はそこではない。
 そもそも「われわれ人間がそういった問いかけを発すること」、つまり「知りたい」という感情を抱くこと。ギモンを持ってしまうこと。問いかけずにはいられぬこと。
 むしろそちらが真の主題となる。それこそが人間の本質にかかわることではないのかと。
 だって、ほかの生物たちは、ニンゲンにいちばん近いといわれる類人猿も含めて、どう見てもそんなギモンは持ってなさそうだもんね。
 もっとのんきで、太平楽で、そのぶん幸せそうにみえる。じっさいのところは日々ストレスに晒されてるのかもしれないが、それにしても、ニンゲンのような煩悶とは縁がないだろう。
 少なくとも「なぜ私は私として今ここにいるのか?」なんて悩み方はすまい。
 それはおそらく答えのでない問いかもしれない。しかし、そんな問いを問うてしまうこと、さらには問い続けずにはいられないことが重要なのだ。
 「なぜ私は私として今ここにいるのか?」を時間的・空間的に拡張すれば、
「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 になるだろう。それが激しく内面に向かえば哲学が生まれ、鋭く外界に向かえば科学が生まれる。
 まあ、そんな単純でもなかろうし、ちょっと論旨が飛躍してる気もするけど、とりあえずそんな感じで。
 グノーシス主義とは、「真理を追い求めずにはいられぬ衝動」を全肯定する主義、といってもいい。
 それは「神の領域」を侵すことにも通ずる。そりゃ異端に認定もされるわな、って話だ。
 4世紀後半から5世紀前半までを生きたアウグスティヌスこのかた、人類はありあまる「知的好奇心」をけっこう長らく「神」に委ねて、抜き足差し足、おっかなびっくり「進歩」してきた。
 それが、「近代」から「現代」に至って爆発的な発展を遂げた。
 「物質」の中に秘められた「エナジー」を解放して、地球全体を滅ぼせるくらいの「力」までをも手に入れた。
 それほど凄い存在なのに、今日も今日とて、おっそろしく下らぬことでいがみ合い、そねみ合い、互いのストレスを高め合うことに精を出している。
 まことにフシギな動物じゃないすか。
 それはそれとして、ともかく、「知的好奇心」のもたらすパワーはとてつもない。「知りたい」という欲望こそが、ニンゲンのもつ最強(最凶?)の力ではないか、とも思う。
 はたして我々はどこへ行くのか……?






 ちなみに、新EDの歌詞は「1+1の答えは2でいいの? 先生たちの説明じゃ納得できない(♪わからない)」とつづく。
 これについては、幼少期のエジソンにまつわる有名な挿話も思い出されるし、ドストエフスキーの「1+1=2という式は、数学ではなく、死の始まりだ。」なんていうカッコいいフレーズも想起されるところで、べつに記事が一本書けるけれども、たいがい長くなったんで、これもまた、次の機会に致しましょう。










HUGプリ勝手に反省会。

2019-05-22 | プリキュア・シリーズ
 『スター☆トゥインクルプリキュア』は、前回(5月19日)放送の『目指せ優勝☆まどかの一矢!』にて16話まで消化。ついこのあいだ始まったばかりと思ってたら、早いもんである。思えば開始から4ヶ月ほどは平成だったのだ。
 第16話といえば、前年度(2018)の『HUGっと!プリキュア』だと、ルールーが破壊されたうえ回収、という大変なイベントのあった回になる。ニチアサの児童向けアニメの規範(コード)を踏み越えかねないぎりぎりの描写で、なかば衝動的にブログで取り上げてしまった。その時はまだ、あんなにいっぱい記事を書くとは思わなかったが。
 それくらい「HUGプリ」には感銘を受けたわけだけど、それもおおよそ夏ごろまでで、9月の声を聴く時分には、かなり気持が冷めていた。
 いま思い返すと、結局のところ、ほまれが最初の変身に失敗する第4話と、当の第16話だけが強く印象に刻まれて、あとの記憶は正直いってオボロである。あの2本にかんしては、内容・作画ともに「現代アニメの最高レベル」という評価は変わらぬし、よもや全編あそこまでとは望まぬが、あれに準ずる品質で統一されていたらなあと、残念にも思う次第だ。
 「スタプリ」の第16話は、メインキャラ4人のひとり「香久矢まどか」の成長をひとつ積み上げる堅実なエピソードで、この時期としてしぜんな流れだと思う。歴代のシリーズでもそんな調子であったろう。
 とにかく「HUGプリ」は、①展開が速すぎ、②イベント(登場人物の数も)を詰め込み過ぎ、③インパクト(話題性)を重視し過ぎていた。
 「スタプリ」と比べると、改めてそのことが際立つ。
 ただぼくは、夏ごろまでは、そこを「凄い」と感じていたのだ。
 しかしそれは、①ひとつひとつの過程(プロセス)の積み上げを省き、②肝心のメインキャラ同士の繋がりを希薄に見せ、③キャラの抱える過去(因縁)の説明をおろそかにする……ことと表裏一体でもあった。
 その弊害がだんだんとあらわになり、ついには全体の調和を乱すまでになったのが9月以降ではないか、と思うわけである。
 いちばんの問題は、どうやら野乃はなの未来の伴侶であり、「はぐたん」の実父でもあったらしきジョージ・クライ氏と、はなさんとの因縁が明確に描かれなかったことだろう。
 むろん、思わせぶりな示唆ならばたくさんあった。しかしそれは、本当にもう「思わせぶりな示唆」としか言いようのないもので、視聴年齢対象層の児童ならずとも、あれではさっぱりわからない。
 結果として、当初はそれなりに陰影を湛えた魅力的なキャラだった(ニチアサにあるまじき色魔ではあったが)クライ氏が、ラスト間際では完全にもう訳のわからんアブないオヤジになってしまった。
 ダンナがなんであそこまでこじらせた、というか、捩じくれ曲がってしまったのか。その主因は起業家となった野乃はなが「民衆に裏切られた」ことにあったようだが、はな社長はこの現代社会において一体どんな活動をしていたのか、やっぱりそこははっきりくっきりと、説得力をもって作中で提示しなけりゃあだめだろう。
 はな役の引坂理絵さんは実力派だと思うのだが、ラストのほうでは、演技に迷いがあったようにぼくの耳には聞こえた。はなとクライとの関係性が不明瞭だから、芝居もやりづらい道理である。だとしたら、気の毒なことだった。
 同じことは、ルールー・アムールと、その「父親」(製作者)たるドクター・トラウムにもいえる。
 それにしてもトラウム博士、声がスネイプ先生だからってわけでもないが、科学者というより魔法使いのようだったなあ。「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」(A・C・クラーク)というやつか……。
 ともあれ、仮にもしトラウムさんが愛娘を亡くして、アトムを造った天馬博士のごとく、その「代替」としてルールーを造ったのであれば、そこはやっぱり作中で、きちんと語っておかねばなるまい。
 「黙説(あえて語らないこと)」によって「行間を読ませる」ことと、たんなる「説明不足」とは違う。申し訳ないが、HUGプリにおけるシリーズ構成・坪田文さんのばあいは後者であったといわざるをえない。
 本年1月29日の記事でぼくは、「タイム・パラドックスが生じていてわかりづらかった」と書いたが、そんなテクニカルな話ではなくて、よりシンプルで、本質的な問題だったのだ。はなとクライ、ルールーとトラウム、重要な二組のキャラ相互の因縁が、ていねいに描かれないのがまずかった。
 そこに尽きる。
 ただ、本来ならばそういったエピソードに費やすべき時期に、第36・37話と二話数も使って秋映画のための「過去プリ・オールスターズ大集合」なんて販促イベントを打った、てぇ事情はある。全49話とはいえ、実質は47話だった。
 それで計算が狂ったか……とも思ったが、しかしああいうことはシリーズ構成者だけの裁量ではできない。制作サイドの上のほうからの差配だろう。それも、まさかシナリオを書き始めてから話が出たわけでもあるまい。当初からの予定であろう。
 だからそこはやっぱりシリーズ構成者の責任で、ぼくは坪田さんのほかの作品を見たことがないから知らないけど、ひょっとしたら、たんに説明が下手というより、「そもそも設定をしっかり練ってなかった」可能性もある。
 作品全体の完成度よりも、個別の話数、個別のエピソード、さらには個別のカットで視聴者を引っ張っていくタイプのライター。あるいはそういうことかもしれず、その意味ならば、たしかに個別の単位でみれば、鮮烈なものはいくつもあった。
 LGBTを思わせるキャラから「男子初のプリキュア」誕生という時事性もあり、はては「人類みなプリキュア」まで行った。インフレもここに極まれり、といったところで、この先どれだけプリキュアシリーズが続いても、あれ以上のことは起こりえない。
 ならば次作以降は原点に戻って、「大人のオトコとの恋愛沙汰」なんてどろどろは絡めず、明るく、かわいらしく、メインキャラたちの関係性を描いていく……という運びになると予想を立てたが、「スタプリ」の16話までをみるかぎり、それは外れてなかったようだ。
 『スター☆トゥインクルプリキュア』は『HUGっと!プリキュア』よりも地味だが手堅い。児童向けアニメなんだから、そりゃこっちのほうが本筋だろう。