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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「HUGっと!プリキュア」について 03 第24話 元気スプラッシュ! 魅惑のナイトプール!

2018-07-16 | プリキュア・シリーズ
 ドイツの文豪(にして自然科学者にして政治家にして法律家)ゲーテ(1749 寛延2~1832 天保3)の代表作『ファウスト』において、主人公のファウスト博士は、「もし自分が、『時よ止まれ、お前は美しい。』と心の底から思えるような、そんな瞬間が訪れたなら、そのときに私の魂をやろう。」との条件で、悪魔メフィストフェレスと契約する。
 英語にも、「STAY GOLD」という慣用句があって、これをそのままタイトルに使った歌もいっぱいある(宇多田ヒカルにもある)。「STAY」といってるんだから、これも「光り輝くこの時をずっと」みたいな意味だろう。
 ぼく自身は、根っからの苦労性のせいか不幸にしてそういう記憶がないんだけれど、「ああ楽しい。いつまでもこの時間が続けばいいな。」と思った経験は、子ども時分からの思い出をたどれば、たいていの方がお持ちなのではないか。
 「HUGっと!プリキュア」における敵の組織は、「クライアス社」(泣き叫ぶ、という意味のcryと、暗い明日、との両義を含むのであろう)と名乗る謎の会社だ。
 会社といいつつ、どのような経営手段で利益を生み出しているのかは(児童向けアニメなので)不明なのだけれども、その「企業理念」および「目的」だけははっきりしている。それは社長(プレジデント)たるジョージ・クライ(CV 森田順平)の信念でもある。
 公式ページから転載させて頂こう。

クライアス社は創立以来、世界中の人々の幸福を願ってまいりました。
世に蔓延る明日への希望、そこに永遠はありません。
未来は必ずしも明るいわけではないのです。
我々はこれからも皆さまに本当の幸福を提供できるよう精進してまいります。

 いかにもヤバい会社らしく肝心なところをぼかしてるあたりが生々しくて笑えるが、ようするに「時間を強制的に停止する。」のが、クライアス社の目的であり、「そうすることが全人類にとっての真の幸福なのだ。」というのが、ジョージ・クライの信念なのだ。
 純文学ではとうていこれほどスケールの大きな悪役は出せないけれど(出てきたら単なるイカレたひとである)、SF小説、さらにマンガやアニメの世界には、たぶん先蹤(せんしょう)がいるとは思う。とはいえ、挫折して屈折して拗らせまくった元・政治青年(政治青年は、往々にして文学青年でもある)といった風情のキャラ造形とも相まって、プレジデント・クライ、なかなかに魅力的なのである。




 今作のヒロイン、じゃなくてヒーロー野乃はなは、「みんなを応援! 元気のプリキュア、キュアエール」に変身せずとも、ふだんから「誰かを元気づけること、周りの人たちを笑顔にすること」をモットーとしている立派な娘さんである。
 といっても、けして優等生ではなく、転校初日の慌ただしい朝に、イメチェンをはかって(工作バサミで)前髪を切って大失敗したり、遅刻して(それも人助けのためだったのだが)教室に駆け込み、派手にずっこけたりして、ネット上の一部ファンからは愛をこめて「アホの子」などとも呼ばれている。
 ジョージ・クライは、なぜか早くからはながキュアエールであることを見抜いており、偶然をよそおって、これまでに何度か接触をはかってきた。むろん敵の総帥としてではなく、行きずりの、ちょっと風変わりな壮年(ぎりぎり青年かな?)男性として。
 その「正体を隠しての接触」の総決算となったのが23話だ。ふたりの邂逅シーンではよく雨が降る。ここでも、一人きりになったはなが急な雨を避けて飛び込んだ公園の四阿(あずまや)が、幾度目かの再会の場所となる。
 ここではなは、「すべてのひとが笑顔でいられる世界がぼくの夢なんだ。」と語るジョージに、「わたしと同じだ。」と目を輝かせるのだが、その直後、プレジデント・クライとしての本性をあらわした彼が、「そのために、世界の時間を止めるんだよ。」と誇らしげに宣言するのを目にして(当然ながら)ショックを受ける。
 これはバトルアニメであるからして、はなはもちろん、ショックを受けるに留まらず、変身し、怒りに燃えて肉弾戦と相なるわけだが、そうやっていちどはジョージを退けてはみても、こころの痛みはとうてい癒えるものではない。
 ……といった、前回のてんまつを承(う)けての24話であったわけである。
 それでもはなは笑顔を絶やさず、「どんなことがあっても、わたしたちの13歳の夏は1度きりだよ!」と高らかに述べて仲間たちを鼓舞し、「超ナイトプール」ならぬ「町内トプール」へ勇んで出かける。
 愛すべき「アホの子」の面目躍如といったところで、見ているこちらもほっとする。開始時刻を待ちきれず、準備段階のうちに到着したのはいいのだが、そこは彼女の思い描く「いけてる大人のナイトプール」ではぜんぜんなくて、市民プールの中央に盆踊りのやぐらを組み、周囲には大漁旗や鯉のぼりを吊るした、珍妙なダサダサ空間であった。だから町内トだっていってるのに……。
 それでこういうことになる。この手のギャグ顔は、ネットでよく「変顔」と称されているが、もはやそんなレベルではなく、「おそ松さん」に肉薄してるといっていい。




 この顔のまま町内会長に詰め寄るはな。しかし、ここからがこの作品のいいところで、会長さん、「君たちヤング(ヤング、と会長さんはいうのである)が中心なんだから、君たちのセンスで飾り付けてよ。予算はたっぷりあるから。」という。一転、はなの顔がぱっと輝く。
 ていよく使われちゃった、とも言えるが、そこは「育児」と「仕事」をテーマに据えるHUGプリ。はなたちは買い出しに行き、体操着に着かえて、プリキュアチーム全員で、「いけてる大人のナイトプール」を具現化すべく奮闘する。
 その甲斐あって、見事な空間ができあがった。開始時刻がくる。歓声をあげてプールに飛び込む子どもたち。みんな笑顔にあふれている。そのなかには、はなの家族や、クラスメイトたちの顔もある。




 ぼくが今回もっとも感じ入ったのはここからだ。ほかの4人の仲間と離れ、はなはひとりでプールに浮かぶ。自分たちが大汗をかいて創りあげた空間で、みんなが楽しく遊んでいる。ことさら言って回ったりはしないから、はなたちが功労者であることは誰も知らない。それはプリキュアとして世界のために素性を隠して闘い続けるはなたちの姿の写し絵ともなっている。
 ジョージ・クライと何度となく言葉を交わしたのははなだけだ。「みんなが笑顔でいられる世界」を共通の夢として語り合ったのも、はなとジョージ2人だけのことだ。いくら明るく振舞ってはみても、心の痛みはやっぱり彼女がいちばん深い。だから一人にならざるをえない。
 はなはもちろん、笑顔ってものは明日への希望があってこそだと信じている。しかしジョージは時間を止めるという。それだけが笑顔を守る唯一の手段であり、本当の幸福のありかたなのだと。
 プールをゆっくり回遊しつつ、「ああ、みんな楽しそうに笑ってる。よかったな……」という表情をうかべるはな。しかし、なぜかとつぜんその表情がこわばる。




 おそらくここで、「このすてきな時間がずっとこのまま続けばいいな」と、彼女は思ったのではないか。そしてそれが、つまりはジョージの「思想」と同じになってしまうことにも気がついてしまったんだろう。
 深い。
 このあたりの機微、ほんらいの対象視聴者層である児童のみなさんに果たしてわかるんだろうか。
 はなは脅え、それから気を取り直し、「わたしはわたしのやり方で、このみんなの笑顔を守る」と決意を固める(台詞として語られるわけではないが、映像でちゃんとそう表現されている)。
 しかしそれはあまりにも重い責任だ。涙がにじむ。それを隠すため、彼女は仰向けの姿勢でプールに沈み込んでいく。
 戦友でもある仲間たちさえ、そんなはなの心に気づかない。母のすみれだけが不審をおぼえて遠くからそっと見守っている。




 哀しくも美しいシーンだ。
 もちろん、子ども向けアニメだから救いはある。えみる&ルールーが、はなたちにも内緒で準備していたサプライズ・ライブをぶちかまし、会場を「アスパワワ」でいっぱいにする。すぐにクライアス社の襲撃によって楽しいムードは薙ぎ払われ、不安と恐怖が周りを包んで、はな自身さえも立ち竦んでしまうのだけれど、しかし、えみルーコンビはひるむことなく、それを上回るパワーでライブを続行、ふたたびみんなが「アスパワワ」を取り戻す。
 その「みんなのアスパワワ」が、今度ははなの力となる。「そうか。守るだけじゃなくて、わたしもまた、みんなから力を貰うんだ。」と、はなは気づいて、キュアエールに変身し、仲間と共に敢然と敵に立ち向かうのだった。
 今作、5人のプリキュアがべったり横並びではなくて、オリジナルの3人と追加の2人と、いわば2チームに分かれているのがよい。
 かくて敵を撃退し、こんどは屈託なく全員そろってプールを愉しむラストシーン、23話で身内から無惨にやられて消滅したかに思えた敵幹部のおやっさんが無事に生還していたことも判明し、ようやく心からの笑顔に包まれるはな。それを遠くから見つめ、「いい笑顔」とこちらも安堵の笑みをうかべるすみれ。前途はもちろん多難だけれど、このたびの危機を、はなはみごとに乗り切ったといえよう。







「HUGっと!プリキュア」について 02 1年という尺を、余すところなく使うということ。

2018-07-13 | プリキュア・シリーズ
 プリキュアシリーズは、今年で15周年をむかえ、今や東映アニメーションのみならず、東映そのものを代表する一大コンテンツとなった(同じく東映が製作する『相棒』で、杉下右京がプリキュアに言及する挿話があるのはよく知られている)。
 玩具メーカーその他との提携も多い。いうまでもないことながら、市場の原理に従っている。制約というと言葉がわるいが、これが製作上の重要な条件であるのは間違いない。
 もともとアニメなんて絵空事だ。まして児童向けアニメとなれば、そのうえに綺麗事でもある。ただしそれは、ひたすらお菓子のように甘ったるいお話をつくればよい、ということとは違う。もとより糖衣で何重にもコーティングしたうえで、ではあるけれど、社会の厳しさ、人間の悪意、といったものを、幼い視聴者のまえに提示しなければならない。
 もうひとつ、親の世代にどこまでアピールできるか、という課題がある。これは今作のスタッフではなかったかもしれぬが、過去のシリーズに携わった方の弁として、「番組を見ながら子どもさんが、面白いね、といって顔を上げたら、となりでお母さんがぼろぼろ泣いてる。そんな作品をつくれたら……」と述べていらしたのを、ネットで見かけた記憶がある。
 親子2世代の心にとどく物語。
 今作のプリキュアは「育児」と「仕事」という大きな主題を正面にすえた。どちらも綺麗事からは遠い。とうぜん反発も予想される。「仕事しながら子どもを育てるってのは、こんな甘いもんじゃないよ」と気をわるくする人もいるかもしれない。スタッフはそれを承知で踏み込み、スポンサー側は受け容れた。その度量にぼくは敬意を払いたい(企画を立ち上げる時点で制作陣とスポンサー側との間にどれだけの話し合いがあるかは知らないが、まるでノータッチってことはないだろう)。
 シビアな現実のまえで「綺麗事」は虚しい。往々にして、たんなる現実逃避に使われたりもする。しかし思えば、「理想」と呼ばれるものだって要するに「綺麗事」ではないか。「綺麗事」をもっとも美しく言い換えた表現こそが「理想」ではないか。
 「変身して悪と闘う女の子」という思えばフシギな(どう考えても日本独自の)フォーマットに乗せて、子どもとその家族との、子どもとその友人たちとの、「理想」の人間関係をていねいに描きだす。それがこのシリーズだ。




 「元気のプリキュア、キュアエール」こと野乃はなを育んだ家庭は、文字どおり理想のモデルケースである。父親の森太郎も立派なひとだけど、やはり母のすみれがすばらしい。繊細さと強さと包容力、そして適切な厳しさを兼備した母親。ひとつの人格としての娘の尊厳を、何よりも大事に思うひと。うちの母親なんてこのすみれさんを180°そっくりそのまま裏返した人物だったが、そこまではひどくなくとも、たとえば街を歩いていて、子どもを(精神的に)こづき回してる母親なんてしょっちゅう見かける。それが現実だ。
 現実とは醜く下劣なもので、深夜アニメではその点をリアルに写し取るどころか、よりいっそう誇張してみせる作品も多いようだ(ようだ、と書くのはぼくがアニメを、というか本作を除いてテレビをまったく観ないため)。それもひとつの、現代における表現だろう。
 いっぽうプリキュアシリーズは、シビアな課題を取り込みつつ、やはり総体としては「現実」を美化して「理想」をえがく。このような表現もまた、なくてはならないものだと思う。
 さて。制作にまつわるもうひとつの条件は、放送が1年の長きにわたるということだ。ぼくなどが子どもの頃は、「世界名作劇場」なるものがあり、高畑勲、宮崎駿といった巨匠たちもそこから巣立っていったのだが(さらに前歴を遡るなら二人とも東映動画の出身だが)、「世界名作劇場」が1996(平成8)年に打ち切られてからは、1年かけて全話を語るテレビアニメはなくなった(ワンピースとかドラゴンボールとか、原作付きのものは別として)。
 プリキュアシリーズはおおむね全49話。暦のかげんで全50話の年もある。放送時間は30分だが、CMやOP・EDの歌、予告、それに「バンク」と呼ばれる「使い回し」のカットなどを除くと、毎回のストーリー進行に使える時間はほぼ20分そこそことなる。まあ23分としましょうか。そうすると、23分×49=1127分の尺をもちいて、物語世界をつむぐわけである。
 劇場映画『君の名は。』が112分で、けっこう長いが、さらにその10本分にあたる。
 いわゆる「水戸黄門」方式でルーティンを回していくだけなら、全体としての密度はさほど関係がない。プリキュアの誕生~仲間との出会いにはじまり、各種イベントを織り込みながら、いくつかの試練を乗り越えて、最後に「ラスボス」(敵の総帥)との闘いに至る。
 この大枠さえ外さなければ、中のエピソードの増減によって、全体の密度はいくらでも調節できる。だから、「これは今回、脚本も作画班も楽をしてるな……」と苦笑させられる回も、過去のシリーズでは、あった。それは責められるべきことではない。劇場版もふくめて膨大な量の作業をこなしてるんだから、「お休み回」や「お遊び回」も必要だろうし、そうでない回でも、随所に「捨てカット」や「ゆるいシーン」があってしかるべきである。
 しかし今作はちがう。
 ぼくが今作のスタッフに畏敬の念をおぼえるのは、1127分(推定)という尺を所与として、劈頭からラストシーンまで、ほぼ隙のない「一本の作品」をつくろうとしているんじゃないか、と感じられるからだ。
 1秒たりと、ワンカットたりとも無駄にせず、すべてを余すところなく使い切って、ひとつの作品世界をつくる。
 そんな気迫が、(少なくとも23話まででは)伝わってくるのである。もちろんまあ、気迫だけじゃあムリで、CGやなんかの技術的な向上も大きいんだろうけど。
 売りものの変身シーンがカットされた回もあったし、それどころか、野乃はなをはじめ、プリキュアが変身しないまま終わった回もあった。作中のキャラ(えみるとルールー)がうたうデュエットがそのままエンディングにつらなり、本来のEDに差し替えられて、終幕にいたる回もあった(これは15年の歴史の中で初めての試みだったそうである)。
 そういった、目につきやすい工夫だけではなしに、映像表現の粋を尽くして、シナリオ(台詞)だけには盛り切れない内面のもようや、ふくざつな人間関係をあらわす描写がたくさんみられる。
 前回の記事でぼくは、01話のすべりだしの印象として、「画面の色調もBGMも引坂さんの演技もほんとに明るい。」と書いた。
 ここは「画面のムードもBGMも引坂さんの演技も……」と書くべきだったかもしれない。というのも、確かに印象は明るいのだけれど、「画面の色調」そのものはじつは暗かったからだ。
 前回の記事に添えた2枚の画像を参照してください。上が前髪にハサミを入れる間際のはなで、これは自分の部屋である。左側から光が当たっているのがご確認いただけると思う。
 下は学校の教室でのシーン。光がまんべんなく画面を覆っている感じで、ぼくたちがふつうアニメで見る画像はほとんどがこれだ。
 最初に見たとき、じつをいうと、部屋の中がやけに薄暗いので、ぼくは訝しく思ったのだった。カメラはまず、はなの後姿を捉えるのだが、ベランダ(左側)のカーテンが半分だけ開いていて、画面正面、はなの頭上の小窓から光が差し込んでいる。そんな画面構成だったのだ。
 しかしまあ、BGMは軽快で楽しげだし、引坂さんも軽妙に台詞を回してるもんで、「ま、ぜんぶ開けると眩しいから、こうしてるってことかな。」と、さして気には止めなかった。
 だけど23話まで観て、今作のスタッフがおそろしいほど「光と影」の描写にこだわり、かつ、そのこだわりを鮮やかに表現しているのを知って、考えがあらたまった。
 この画面構成はぐうぜんではなかった。たんに、「ぜんぶ開けると眩しい」ってだけでもなかった。この薄暗さはやはり、はなの不安を表してたのである。そして、頭上の小さな窓から差し込む光が、その絞り込まれた光量が、この時点における彼女の「希望」の総量をあらわしてたのだろう。
 これもまた、23話で彼女の過去があかされて、「より深く、より重い意味を帯びて立ち上がって」きた事柄のひとつである。
 画面づくりに込められたスタッフの熱意と腕前には感嘆するしかないが、今作において、こういった表現はけして突出したものではない。むしろ、枚挙にいとまがないほどだ。



「HUGっと!プリキュア」について 01 突き進む巨船としての「物語」

2018-07-11 | プリキュア・シリーズ
 このたびの豪雨で被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。





 アニメ「HUGっと!プリキュア」がすばらしい。子ども向けアニメの枠にとうてい収まるものではない。「現代における物語」を考えるうえでの教材として、折にふれて考えていきたいと思う。

 「時間的および因果的に前もって起こっていた事」を、あとになって読者(観客)に提示する手法を「後説(こうせつ)法」とよぶ。
 よく使われるのは、メインの登場人物が、「表面では明るくふるまっているが、じつはこんなに重い過去を背負っていたのだ……」というケース。
 改めてその事実を提示されることで、読者(観客)は、それまで自分が辿ってきたエピソードの数々を思い起こし、これまでとはまた違った目で、それらのエピソードを見返すことになる。
 じぶんのなかで、物語の「再構成」をせまられるわけだ。
 いうまでもなく、そのキャラクターにむけるまなざしもかわる。
 「HUGっとプリキュア!」は、23話まで進んだところで、主人公(のひとり)野乃はな(CV 引坂理絵)が、かつて「いじめ」にあっていたことが明らかになる。「ぼっち(仲間外れ)」というやつだが、もとよりこれも、まごうかたなき「いじめ」である。
 いじめられていたクラスメイトを庇ったせいでそうなったことも、短いカットで示される。
 だから23話までくると、01話……サブタイトルは「フレフレみんな! 元気のプリキュア、キュアエール誕生!」……からのすべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくることになる。
 いじめの解決策として、はなの母親・野乃すみれ(CV 桑谷夏子)が選んだ手段は「転校」だった。
 01話の冒頭は、はなの転校初日のその朝なのだ。
 リアルタイムで観ているとき、われわれ視聴者にそのことはわからない。夢にも思わない。すべりだしの印象は、ただただ明るかった。
 作品内におけるはなの第一声は、「フレーフレーわたしぃー。がんばれがんばれわたしぃー」だ。「みんなを応援! 元気のプリキュア、キュアエール」の第一声は、何よりも、まず自らを鼓舞するエールだったのである。
 全体の印象は、画面の色調もBGMも引坂さんの演技もほんとに明るい。そりゃあまあ、日曜朝の子ども向けアニメが、いきなり暗くちゃしょうがない。しかし23話を見終えた目であらためて見返すと、自身へと向けるこのエールに、切実なものを感じずにはいられない。
 ただやはり、整合性がきちんと取れているかというと、そこはいささか心許なくて、23話のあのエピソードからどれだけの時間が経っているかはわからないけれど、本来ならば、このときのはなは、もっと緊張しているはずだし、もっともっと内面で葛藤を演じてるはずだ。
 なにしろ「中学生活のやり直し」を懸けた転校初日の朝なのである。とてもじゃないが、朝ごはん前の慌ただしい時に、「この日のために伸ばしてきた」前髪を切ってる(それも工作バサミで)余裕なんぞないだろう。ふつうなら、せめて前の晩のうちにやる。
 もちろん、全話の滑り出しとして、はなが自らの手で前髪を切る(そしてもちろん失敗する)このくだりはとても魅力的である。シナリオとしても、演出としても、ぜひ冒頭に持ってきたい。昨夜にうちに済ませときましたじゃ面白くない。ぼくが脚本を書いてもそうする。
 しかし、リアリズムの見地からいえばやっぱりおかしい。つまりここは、「お話としての面白さ」と「リアリズム」とを秤にかけて、スタッフが前者を選んだ事例といえる。
 もうひとつ。23話において、はなが過去のつらい記憶をフラッシュバックさせたのは(言い換えれば、彼女の過去がぼくたち視聴者に提示されたのは)「キュアエールさんはすごいよな。自分より大きなものに立ち向かって」というクラスメート(男子)の噂話が耳に入ってきたせいだが、ここで思い出すのなら、これまでにもその機会は何度となくあったはずなのだ。
 もちろん、じっさいにそんなもんいちいち思い出してた日にゃあ、話は澱むし、陰気くさくなるし、ストーリー自体が成立しなくなってしまうから、それは仕方がないのである。つまりここでも、「お話としての面白さ」が「リアリズム」に優先している。
 誤解しないで頂きたいが、ぼくはけっして難ずるつもりで書いてるのではない。それどころか、「HUGっと!プリキュア」は、自分がこれまで見てきたアニメの中でベスト5に入るとさえも思っている。まだ半分もいっていないが、よほどこのさき迷走したり、破綻をきたしたりしないかぎりは、その評価はゆるがないだろう。
 「児童向けアニメだからそんなもんだろう」と、たかをくくってるわけでもない。今作のスタッフは、そんな安易さとは縁がない。だからこっちも本気で観ている。上に書いたような齟齬(そご)などは、はるかに予算をかけたハリウッド映画でもひんぱんに見受けられることである。つまりこれは、「物語」というものが否応なしに抱え込んでしまうバグなのだ。ピンセットで埃を摘まみ出すみたいに、これらのバグをことごとく取り除こうと努めたら、およそ物語を紡ぐことなど不可能となろう。
 よき物語(作品)とは、数知れぬ微細なバグを抱え込みながら、それでも断固として突き進んでいく巨船みたいなもんじゃないかと、最近ときどき考える。それを動かす力は作り手のもつ強い意志だ。バグを侮ってはむろんいけない。しかし、あまりにそれを恐れては、物語そのものが進まない。1年に及ぶ長尺とあらば尚のことである。
 それに、「はなの過去」との整合性が取れないのは、ぼくの見たところその2点くらいなのである。そのほかは、「はなが過去にいじめにあっていた」ことを考え合わせると、あらためて腑に落ちることが多い。初めに述べたとおり、「すべてのエピソードが、より深く、より重い意味を帯びて立ち上がってくる」のだ。齟齬を突つくことよりも、そちらに目を向けたほうが、生産的に決まってる。
 さて。視聴者の予想どおり、はなのヘアカットは失敗し、「前髪ぱっつん」のスタイルとなる。
 「前髪ぱっつん」は、三戸なつめさんという歌手がいるので、オリジナルとはいえないが、変といえば変、可愛いといえば可愛い、とても際どいスタイルだ。サイドのヘアーと、顔ぜんたいとのバランスに左右されるのであろう。
 アニメなので、はなのルックスはもちろん魅力的に設えられている。ただ、ちょっと変な感じも残してあって、絶妙なキャラデザインといえる。




 はなの理想の「なりたい私」は、かたわらのスケッチブックに描かれてあった。ラフだけどしっかりした素描で、なかなかの腕前である。「あわわわー」というコミカルな嘆声にあわせて、窓からの風がそのページをふわりと閉じる。ていねいな演出だ。
 ここまでが、OPの歌のまえ、いわゆる「アバン」だ。
 一階で食卓につくはな。家族構成は、父・森太郎(CV 間宮康弘)、母・すみれ、妹・ことり(CV 佐藤亜美菜)の4人。はなとことりが並んで座り、両親は画面の奥にいる。
 すみれが何らかの仕事についていること。デフォルメされてるのか?と思うくらいガタイのよい森太郎が、その体格どおりじつに安定した人柄であること。結果としてこの家庭が、共稼ぎであっても殺伐とはせず、和やかさに満ちていること。これらの情報が的確なカットでぼくたちに届けられる。
 画面の手前では、はなが食卓に顔を伏せている。ことりが前髪のことでつっこみをいれる。はなは「切りすぎちゃったよ~」と泣きを入れるが、引坂さんの芝居はあくまでも陽性だし、うしろでは軽快なテーマがずっと流れているので深刻にはならない。仮に転校初日ならずとも、女子にとってはけっこうクリティカルな状況じゃないかと思うが、とにかくムードはひたすら明るい。
 すみれが、「ごはんよ」といって皿を出すと、はなはとたんに「うわあ~、オムレツだ~」と顔を輝かせ、さっそく食事に取り掛かる。はなの子供っぽさをからかうことり。はなは中2。ことりは小6。「どこか抜けてる姉」と「しっかりしている妹」のセットは、わりとよくみるパターンで、この姉妹もその文脈のうちにある。もちろん、仲はたいへん良いのである。はなが(父親に似ず)かなり小柄であることも、このとき強調される。
 はな(とことり)に朝食を出し、美味しそうにむしゃぶりつく様を見守るすみれは、出勤前のビジネスパーソンではなく、母親の顔だ。「育児」と「仕事」がこの作品のテーマなのだけれど、彼女はその両方を体現し、かつ、のちにプリキュアとなったはなにその大切さを身をもって示していく点で、とても重要な存在である。
 玄関先。とんとん、と靴の爪先を床に打ち付けて履き、「行ってきます」と声を掛けるはな。玄関まで見送りにきたすみれが「じゃあ、ハグ」といってはなを抱きしめ、はなが「ハグ」といってそれに応じる。
 タイトルが「HUGっと」で、オープニングの歌でもそのへんは強調されてたから、野乃家は毎朝こうやって娘たちを送り出す習慣なのかな、と最初にみたときは思った。でもたぶんそういうわけでもないんだろう。むろん、ニッポンの平均的な家庭に比べて「ハグ」の回数は多いのだろうが、やはり今日がとくべつな日だからこそ、ここですみれは、はなをハグしたのだろう。
 「がんばってね」というすみれに、はなは、腕をぐるぐる回しながら「うん。ママもがんばれ。フレフレ」と返す。ささいなようだが、「受け取ったエールは、きちんと返す」という彼女のポリシー、ひいては作品全体を貫くテーマが、さりげなく点綴されたシーンだ。
 はなの人格を育んだ基盤は家庭である。さらりとしたタッチで、しかしきっちりと彼女の家庭をはじめに描いたことで、この作品は強い訴求力をえた。



HUGっと!プリキュア 16話のラストについて

2018-05-22 | プリキュア・シリーズ









 HUGっと!プリキュア 16話「みんなのカリスマ!? ほまれ師匠はつらいよ」のラストで起こったショッキングな件につき、すこし混乱があるようなので、かんたんに整理してみます。
 ルールーは、回路がショートしたのでも、なんらかの方法で爆破されたのでもありません。キュアエール姿のはなを庇って突き飛ばし、彼女のかわりに、頭上からの赤い光線(おそらくはレーザービームのような)に撃たれたわけです。
 きわめて分かりにくいけれど、一連のアクションを起こす直前、ルールーの眼球がほんの僅か上に向きます。それは彼女じしんの真上ではなく、キュアエールの上方なんですね。コンマ何秒という話だから、助けるためにはああするよりなかった。
 ルールーの計算能力なら、ポジションからいって、自分がかわりにビームの直撃をくらうのを避けられないとわかったでしょう。はなの眼前で、くちもとが小さく開く。あれはおそらく、「さようなら」の「さ」を言おうとしたのだと、私は解釈しています。
 ダメージを受けて両膝を付くとき、ガシャンと、かなり鋭い金属音がしますね。これまで、顔の辺りに電子基板みたいなイメージが浮かぶことはあっても、彼女が「アンドロイド」であることを露骨に示す描写はなかった。しかもそのあと、画面がルールーじしんの視界になって、ぼやけて歪んでブロックノイズが入り、ついにはぷつんと暗転してしまう。ニチアサの児童向けアニメとしては、ぎりぎりまで踏み込んだ描写でしょう。
 これまでのコミカルなイメージから、ここにきて一気にホラーチックなまでの極悪ぶりをみせたパップル(CV 大原さやか)は、意識のないルールーの頭を小突いて突き倒しながら、「できそこないの機械人形が、あたしの邪魔をするなんて、調整し直しね」と言いますが、あの「あたしの邪魔」というのは、キュアエトワールに変身アイテムを返したことではなくて、「キュアエールを狙った攻撃をルールーが妨害したこと」を指しているわけです。
 エトワールにアイテムを返した時は、まさに「何やってくれちゃってんのよー」という感じで、事情がいまひとつ呑み込めなかったんですが、身を挺してエールを助けたことで、ルールーがはなたちを好きになってしまったのを確信したわけです。
 いずれにせよ、クライアス社に対する裏切りが発覚した時点で、ルールーの回収~初期化はとうぜん予期しうることなので、遅かれ早かれこうなったとは思うんですが、それにしても、こちらの予測をはるかに超える演出でした。
 そもそも今回の作画・演出そのものが、「光と影」「晴天と曇りと雨」「花」「足元のアップ」などを十全に駆使した魔術的なまでの素晴らしさで、日常パートもバトルパートもよく動いており、仲直りした「じゅんな」と「あき」の遠景に向かって手を差し伸べたエトワールが、(彼女のキーイメージである)「星」を掴みとるくだりなど、ただ舌を巻くばかりでした。そんでもって、そのあとがアレですからね……。
 15周年の節目を飾る今年のプリキュア、われわれは毎週、すごいものを見せてもらっているのかもしれません。