ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話 ④「メロドラマ」としてのBパート

2019-12-30 | プリキュア・シリーズ

 今年(2019年)は『魔法少女まどか☆マギカ』全12話がテレビ放映され、8年まえの本放送の時は敬遠していたぼくも、初めて全編を通して鑑賞させてもらった。
 このテレビ版・全12話と、再編集/総集編たる『[前編] 始まりの物語』と『[後編] 永遠の物語』、および完全新作の『[新編] 叛逆の物語』の3本を併せた「まど☆マギ・サーガ」は、10年代アニメ、もっというなら平成アニメの金字塔といっていいんじゃないか。
 「セカイ系」をとことんまで突き詰めたその構想の訴求力はすこぶる大きく、これ以降につくられたサブカル・エンタメ作品で、何らかの形で影響を受けていないものを探すのは難しい。この26日に最新刊(9巻)が刊行された浅野いにおさんの傑作『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』にも、その痕跡はうかがえた。
 「影(シャドウ)」という用語(概念)を使うなら、「まど☆マギ」はまさしくプリキュア・シリーズの陰画(ネガ)であり、影だろう。
 プリキュア・シリーズが(商業主義の枠組みの中で)訴えてやまない希望と友愛。
 まど☆マギが残酷に突きつけてくる絶望とディスコミュニケーション(関係不全)。
 それらは表裏一体、不可分のものだ。どちらを欠いても、ぼくたちの生きるこの「世界」を十全に把握することはできない。
 来期のタイトルは『ヒーリングっど♡プリキュア』とのことで、ビジュアルやキーコンセプトやメインスタッフや声優さんが公表された。
 栄えある主役・桃キュアのCVは、かつて「鹿目まどか」を演じた悠木碧さん。すでに劇場版には妖精役で出演経験がおありらしいが、「まどかがとうとうプリキュアに!」と、感無量のファンも多いのではないか。
 プリキュアとまど☆マギ双方に出た声優は、これまで蒼乃美希(キュアベリー)/美樹さやか役の喜多村英梨さんのみ。しかしこうなりゃいっそ、暁美ほむらこと斎藤千和さんをのちに追加戦士となる敵幹部役で起用して、前半いっぱい桃キュアさんと愛憎渦巻く確執を……などと思ったりもしてしまうが、もちろんそんなベタなことは起きない。出演者リストに斎藤さんの名前はない。
 正直いうと、ちょっと残念ではあるんだけどもね。


 「神」としてのまどかを愛しすぎたあまり自ら望んで「悪魔」となって叛逆を仕掛けるほむら。ミルトンの『失楽園』(岩波文庫)を彷彿とさせるこの設定が至極ぼくには気に入って、「悪魔ほむらの聖性」てなことをずっと考えている。
 とうぶん答えは出そうにないが、考えるうち「メロドラマ」に興味がわいて、11月のアタマ頃にはその話ばかりやっていた。
 この「メロドラマ」ってのは「昼メロ」みたいなやつとは違って、れっきとした文芸用語で、奥行きが深く、汎用性も高い。
 主な項目を(ぼくなりに編集のうえで)書き出してみると、


(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が見舞われる。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張された行動をとる。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。どんな出来事も、さまざまな手法を駆使して「崇高」なものに仕立てる。


 といった具合になる。あらためて字に起こすと「なァんだ……。」といった感もあるが、映画・ドラマ・アニメ・マンガ、およそサブカル/エンタメに属するジャンルはおおむねこれに当てはまる。
 つげ義春とか、近藤ようことか、こうの史代とか、高野文子とか、この定義から外れる作家のマンガを読んで「まるで純文学みたいだ。」と新鮮に感じるのは、逆にそれだけ「メロドラマ」が蔓延してる証左なのだ。
 児童向けファンタジー・エンタメ・アニメたるプリキュアは、まどか☆マギカともども、もとより広義の「メロドラマ」だ。それゆえに、前回の記事で述べたような、ふとしたはずみで「純文学」になってしまう瞬間が、みずみずしく映るわけである。

☆☆☆☆☆

 フワを抱き、天文台を出てララたちの待つロケットへと向かうひかるはまだ浮かぬ顔。冷たい雨も降りやまない。そこにカッパードが襲来するのは定跡どおりの展開だ。かくして「純文学」の時間帯はおわり、ここからはメロドラマへと突入する。
 プリキュア・シリーズは、バトルアクションであると同時にじつは対話劇でもある。プリキュアたちは50回近い話数のなかで、敵と物理で激しくやり合いながら、作品の根幹にかかわるテーマについて必ず何度も問答を交わす。
 多くの場合、敵たちは彼女らにまったく耳を貸さないし、彼女たちのことばそのものにもさほどの重みが伴わぬため、対話としては成立せず、堂々巡りの水掛け論に終始する。だが、幾たびとなく折衝を繰り返すうちに、プリキュアたちは成長し、強くなり、そのことばにも説得力が増していく。
 本作のカッパードも、初回での登場いらい、ひかる、およびララと繰り返し問答を重ねてきた。かつて命の源である水を奪われて母星を滅ぼされた彼には、異星人同士が分かり合えるなどとは信じられぬし、そんな理想を無邪気に口にするひかるのことが許せない。他者とのコミュニケーションを認めず、ただ恐怖によって相手を従えるのを是とする彼は、裏返していえば、つねに相手を恐れてもいるわけだが……。




 ではここから、耳コピで文字に起こしていきましょう。



 「ここで決着をつける」との意気込みで、自らの歪んだイマジネーションを増幅させるカッパード。その禍々しい力を籠めると、手にした武器が沙悟浄のもつあの半月型の刃の宝杖にかわる。
 迷いを払拭できないひかるは大苦戦。キュアスターに変身するも、「背水の陣」(文字どおり)で臨むカッパードは強い。一方的にやられ、地に倒れ伏す。


「この星の水……。思い出す。俺の故郷を。旅人に分け与えるほどの豊かな資源。麗しき星を。そして、思い起こさせる。あの惨劇を! われらの善意は、奴らの悪意を増長させたのだ。すべて、奪われた! この憤りが、お前には理解できまい。ぬくぬくと生きている、お前にはな!」




 フワのワープでかろうじて窮地を逃れるも、すぐに追撃され、さらなる攻撃を食らって、ついに変身が解除されてしまう。


「ひとは変わる。イマジネーションなどすぐ歪む。それなのにお前は、大好き、キラやば、いつもいつもそればかり。そんなものは無力! ……終わりだ。」


 そこに、間一髪で、仲間たちが宙を走って駆けつける。
 えれな(キュアソレイユ)、まどか(キュアセレーネ)、ユニ(キュアコスモ)は戦闘員たちと交戦。ララ(キュアミルキー)が一人でカッパードの行く手を阻む。
 かさにかかったカッパード氏、キュアミルキーを意に介せず、倒れたままのひかるを見下げる。
「いい目だ……恐怖に……歪んでいる。」




 キュアミルキー、バリアを張ってひかるを守るも、宝杖の一撃によってあえなく破られ、背中から地面に倒れこむ。


ひかる「私のせいだ……私が……トゥインクル・イマジネーションを見つけられないから……。みんな……ごめん。」


「ふっ。見つけられるはずがないだろう。お前ごときが。この宇宙の現実も知らず、異星人同士が理解できるなどと、綺麗事を言っている、お前ではなーッ。」


 そのときララが、よろよろと立ち上がりながら……
「そんなこと……ないルン。……綺麗事なんかじゃ……ないルン。」
「ミルキー……」
 ……怯むことなく、カッパードと対峙する。
「ちゃんと、仲良くなれたルン。ひかるやえれなや、まどかたち。それだけじゃ……ないルン。あなたも見たルン? 2年3組のみんなを! みんなが、受け容れてくれたルン。私らしくしてても、ちゃんと理解しあえるって、ひかるが、教えてくれたルン。」
「ララ……」
「ひかる……(振り向いて、ほほえみ)ひかるは、ひかるルン。」


 遼じいの言葉が蘇る。「デネブは変わらず、輝き続けるんだろうねえ」




 ひかる、立ち上がる。
「わたし、知りたい。宇宙のこと、みんなのこと……もっと知りたい! (生身のまま、カッパードに向かって、すたすたと歩み寄りながら)……それに、カッパード、あなたのことも!(決然たる面持ちで)」


「知るだと! ぬるい環境で育ったお前に、何がわかる!」


「……うん、そうだよ(悲しげに)。わからない(瞳がうるむ)。でも、だから私、あなたの輝きも、もっともっと、知りたいの!(きっぱりと顔を上げる。溢れる涙がこぼれて、ペンダントに落ちる) みんな星みたくさ、キラキラ輝いてる(この台詞ではもう涙はない)。その輝きが、教えてくれるの。輝きはそれぞれ、違うんだ、って。……わたしはわたし、輝いていたいんだーっ」
 かくて、ひかるは覚醒し、トゥインクル・イマジネーションが発動する。





 このとき、えれな、まどか、ユニがその様子を遠目から見て安堵の表情を浮かべるところがよい。プルンス氏などは感涙にむせぶほどである。表立っては描かれなかったが、彼女たちがひそかにひかるを慮っていたことがよくわかる。


 ひかる、再変身。その全身はトゥインクル・イマジネーションの輝きをまとって眩い。


 カッパード、絶叫しながら渾身のパンチを叩きつけるも、キュアスターは難なく片手で受け止める。


「怖くない。あなたのことが少し、わかったから!」
「ほざけ! お前らに、なにがわかる!」
 剣先を三叉の矛にかえ、それを繰り出すカッパード。キュアスターはその斬撃をかるがると躱す。躱し続ける。
「カッパード、ほかの星の人のこと、信じられないかもしれない。でもさ、私のことや、みんなのことも、わかってほしい。知ってほしいの。」
「黙れーっ。」
「怖がらないで……。」
「俺が、恐れているだとぉぉぉーっ。」


 カッパード、大量の水を集めて空中に巨大な球体をつくる。
「砕け散れーっ。」
 キュアスター、身構える4人を手で制して、







「スターパンチ」で粉砕。


 最後はみんなの力を借りて、ついにカッパードの、歪んで捩れて膨れ上がったどす黒いイマジネーションを打ち破る。


 雨も上がって晴れ間ものぞく。





 ひかるは右利きだけど、「スターパンチ」はいつも左腕で打つ。決め技に使うのは左手と決めているようだ。しかし、相手に差し伸べるのは右手なのである。






 しかし、その手を掴もうとしたカッパードは、無理やりダークネストに召喚され、背後に開いたワームホールの彼方に吸い込まれてしまった。


 ラストカットは、4人の祝福を受けたあと、ふっと気づかわしげな表情になって夜空に浮かぶ遠い星を見つめるひかるのアップ。年明けはどうやら、最終決戦の幕開けのようである。





















『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話 ③「純文学」としてのAパート

2019-12-28 | プリキュア・シリーズ

 話を冒頭に戻しましょう。








 ひかるがこんな具合になってるのは、5人のうちで自分だけ、「トゥインクル・イマジネーション」が発動しないせいだ。35話でその前兆はあったのに、本格的な覚醒にまでは至らず、ユニ、ララ、まどか、えれなに先を越されて、取り残される格好になった。
 プリキュアは丸1年、ほぼ50話に近い長丁場なので、定型としてステップアップが織り込まれている。つまり、初期設定では各々のキャラが何らかの欠陥……が言いすぎならば「課題」を抱えている。引っ込み思案だとか、姉に対して強いコンプレックスを持ってるとか。
 そんな娘さんたちがプリキュアになって、戦いの中で仲間との絆を強めて成長し、それぞれの課題を乗り越える。そして新しい力を得る。おおむね中盤から終盤にかけて、そういう階梯が用意されてるわけだ。
 その際に「新アイテム」が出現し、スポンサーたる玩具メーカーの販促に直結したりもするわけだけど……そのへんはいわゆる大人の事情というやつで、あまり突っ込まぬのが礼儀でしょう。
 ともあれ、今作においてはそれが「トゥインクル・イマジネーション」なのである。
 うろ覚えだが、過去タイトルでも、桃キュアさんの覚醒がラストにくるのは珍しくなかったはずだ。だが今作はとくに印象ぶかかった。
 ひかるの課題がわかりにくかったからだ。
 今作のばあい、「わかりやすさ」の順にきれいに並んでたと思う。


 ユニは、恩讐を超えて仇敵のアイワーンを許し、仲間たちはもとより、そのアイワーンまでをも含めた「みんな」と共に未来へ向かって歩いていくと心を決めて、トゥインクル・イマジネーションを得た(38話)。
 ララは、「異星人同士がわかりあえるはずなどない」と言い募るカッパードに対し、「私のことはわかってもらえなくてもいい。ありのままの私を認めてくれた、クラスのみんなを守りたい。私はみんなと一緒にいたい。そして私は私らしくいたい」と宣言することで、トゥインクル・イマジネーションを得た(40話)。
 まどかは、家格を守るために自らを滅して組織に奉じる父の影を、同じ境遇のガルオウガの姿に見て、「お父様。私は、自分で自分の未来を決めます!」と父からの自立を果たし、トゥインクル・イマジネーションを得た(41話)。
 この3名はまずまず見やすい。視聴対象たる児童の皆さんにも、すんなり呑み込めたと思う。


 えれなはいささか込み入っていた。笑顔はすべて虚飾と断じるテンジョウに対し、一度は心を折られながらも、「私、あなたを笑顔にしたい。だって、笑顔を見るのが嬉しいの。大好きなの、みんなの笑顔が、笑顔が、私の笑顔になるの! だから、だから……私は、みんなを笑顔にしたいんだ!」と魂の叫びを正面からぶつけてトゥインクル・イマジネーションを得た(43話)。
 いつも笑顔でいるのは自己犠牲ではない。私がそうしたいからそうしてるんだ。そして笑顔はけして仮面じゃない。相手のことをよく知って、気持ちを通じ合わせるためならば、涙を見せることだってある。
 第43話ぜんたいを見ると、おおよそそんな感じであった。たしかに一回り成長した……のだとは思うが、前のお三方ほどは、すっきりと割り切れるふうではない。複雑にして濃やかな感情の動きであった。
 で、ひかるはもっと難しい。


 ベッドで物思いに沈むひかるをララが迎えに来る。冬の到来に伴ってなのだろう、ユニがロケットでの同居を決めたので、みんなでその仕度を手伝う約束をしてたのだ。
 ロケットでは、えれなが留学の話をする。まどかはまだはっきりと決めてはいないとは言うが、態度はすこぶる落ち着いたものだ。ひかるはユニの部屋のドア用のプレートを描く。出来栄えは好評。でも、いつものように溌溂とふるまい、にこにこと笑みを浮かべてはいても、内心の屈託は拭えない。


 OP明け。足りない物を買いに出たらしく、雨の中を並んで歩くひかるとララ。そこにぐうぜん、クラスのみんなが通りかかる。たちまち取り囲まれ、ちやほやされるララ。隠し事なしで腹蔵なく話せることが嬉しくてならない。40話のラスト以来、クラスメートとの交友が描かれることはなかったので、この「後日談」は貴重なものだ。
 しかし、ひかるはその輪の中からすっと身を引き、真顔になってララたちを見つめている。





 ロケットに戻るララと別れ、フワをふところに抱いて、ひかるはひとりで天文台へ。そこには「遼じい」こと遼太郎がいる。幼いころからひかるのことを見守ってきたこの人には、彼女が屈託をかかえてるのは一目瞭然だ。にこやかに「(冬の星座教室の準備を)ちょっと、手伝ってくれんかね?」と声をかけ、迎え入れてくれる。





 幼いころ、ここでひかるは星と星とを結んで星座を紡ぐ楽しさを知った。その思い出を蘇らせつつ、彼女はフワに話しかける。
「……だから私、オリジナルの星座をつくるようになったんだよね。年にいちど、お父さんは七夕に帰ってくるでしょ? 私がデネブで、織姫のベガがお母さん。彦星のアルタイルがお父さんだって。繋がってるって思えたり」


 遼じいがプラネタリウムに誘ってくれる。並んで星空を見上げながら……。
「私さ、いつも自分が楽しければ、一人だって平気だった。」
「そうだねえ。ひかるは小さいころから、ひとはひと、自分は自分、って感じだったもんねえ。」
「うん。でもね、今は、ララたちが、みんなが、とっても気になるの。自分だけ進んでない、取り残されてるって思ったり。焦ったり。なんか、わたし、おかしいんだよ。」





「友達ができるというのはそういうことさ。」
「え……?」
「おかしなことなんてないよ。」
(遼太郎の回想。はるか遠い日々、ひかるの祖父母(春吉・陽子)と遊ぶカット。次いで、成人したのち天文台に勤めることが決まった頃。社会人になった春吉と陽子が祝いを述べに訪ねてくる。陽子の指には、春吉との婚約指輪が光る。それをみて静かに微笑む遼太郎)




若き日の遼太郎


今の遼太郎


「友達と、時には比較してしまうよ。……時の移ろいと共に、周りは変わる。焦りや戸惑いだってあるさ。」
「うん……。」
「夏と冬では、デネブの周りで輝く星、……星座は違う。デネブは、およそ8000年後には、北極の近くで輝く。」
「たしか、北極星になるんだよね。」
「ああ、そのとおり。環境や状況が変わっても、デネブは変わらず輝きつづけるんだろうねえ。」


 ……ひとりで充足していた子供(いや子供とも限らぬが)が友達を得ることでかえって「寂しさ」や「戸惑い」や「焦り」をおぼえるってのがそもそも結構高度な心理で、エンタメの域を超えている。しかも、それはまだ今話の半ばにすぎない。




「わたし、ララたちのところに行くね。」
「ああ。行ってらっしゃい。」


 この対話によって、ひかるの鬱懐がいっぺんに晴れたわけではない。しかし、確実にここで心は動いた。他人は他人、自分は自分。その厳然たる事実を受け容れて、では、そんな「個」としての自分が、「個」としての他者とどう関わるか。どう関わることができるのか。
 どんな関係を結べるのか。どんな星座を紡げるのか。
 そう考えを進めるための準備が、ここで整ったのだ。

 ユニにとってのハッケニャーン師がそうだったように、遼じいはひかるのメンター(導き手。先達)だ。メンターがきっちりと良い仕事をする作品は必ず良作になる。

 このAパートで描かれたひかるの感情の繊細にして濃密な流れは、「物語論」では収まらない。それは「純文学」と呼ぶに足るものだったと思う。







『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話「輝くキラキラ星☆ひかるのイマジネーション!」② 敵キャラたち

2019-12-25 | プリキュア・シリーズ

 このところの当ブログは「物語を考える」ってことで、題材としてアニメを使わせてもらってて、「スタプリ」も例外ではないんだけども、この45話に限っては、もう純文学として扱いたい気分ですね。それくらい繊細にひかるの内面が描かれてたと思う。
 まどかが進路に悩んでた回は、月に暗雲がかかってた。えれなの時は日が没する前の夕暮れの情景が目立った。ひかるはさすが主役だけあって、作品のなかに(おそらく)初めて雨を降らせちゃったというね。
 降りしきる12月の冷たい雨。それは彼女の相手役たるカッパード氏襲来の予兆でもあって。


カッパード(CV・細谷佳正)。今作の敵は日本古来の妖怪がモチーフになっている。この人はご覧のとおり河童。移民を受け入れた故郷の星が、生命の源である水を根こそぎ収奪されて滅び(今のニッポンも他人事ではないが)、ダークネストの下に身を投じた。当初は「キザな二枚目半」のステレオタイプかと思ってたけど、細谷さんの好演もあってどんどん深みを増してきた。「異星人どうしが分かり合えることなど決してない。甘いことを言うな」と、ひかる及びララに対して執拗に訴えかけるのは、心のどこかに「それを否定して見せてくれ」という願望が潜んでいるからだろうか。部下の戦闘員たちに非情になり切れぬところからも、根っからの悪人でないのが伺える


 これまでぼくは、


 ララ→カッパード
 えれな→テンジョウ
 まどか→ガルオウガ
 ユニ→アイワーン
 ……だから、ひかる→ダークネスト


 という一対一対応を想定して、各々が各々の影(シャドウ)であるとの見立てを述べてきたけども、これは図式的すぎたようだ。
 影(シャドウ)はユング派の概念で、物語を読み解くうえで大切だし、プリキュアシリーズの過去タイトルでも重んじられてきた。今作は敵陣が首魁のダークネスト(正体は12星座に入れないへびつかい座のプリンセスでは?との説が有力だ)を含めてぴったり5人なもんで、プリキュアひとりひとりに各1名が照応する……とみてきたが、そこに囚われすぎても、話が粗くなってしまう。
 そう簡単には割り切れない。ひとつには、それぞれの組み合わせで、因縁の深浅にかなりの差が生じているからだ。
 たとえばユニとアイワーンのばあい、共に過ごした時間が長く、互いに抱く感情の総量も大きい。
 いっぽう、まどかとガルオウガには、そこまでの関わりはない。ひかる(たち)の前にまだ本体を現してさえいないダークネストとなると尚更だ。


アイワーン(CV・村川梨衣)。一つ目小僧がモチーフ。詳しくは語られないが、孤児だったらしきことが示唆されている。まだ少女といっていい年齢のようで、誇張されたギャル口調で喋る。ダークネストの下に身を寄せたのち、科学者としての天分を発揮。たしかに天才と呼ぶに足る頭脳の持ち主だが、それだけにプライドが高い。かつてユニの故郷の星を住民ごと石にしてしまった。実験の失敗による事故ではあったが、ここまでのところ反省の色を見せてはいない。かつてユニは敵情を探るべく執事「バケニャーン」としてアイワーンの傍に侍っており、アイワーンは彼(?)にだけ心を許していたため、裏切られたと思っている




ガルオウガ(CV・鶴岡聡)。青鬼をモチーフとした魁偉な巨漢。ダークネストが復帰するまでは全軍の指揮を執っていた。やはり母星を滅ぼされて身を寄せたのだが、彼の場合はより直截な武力によって憂き目を被ったらしく、「力」への信奉の度合いがカッパードたちの比ではない。自分に絶大な力を与えてくれるダークネストに身も心も捧げている。「誰かを守るための力」というサブテーマを巡り、プリキュア勢全員と(物理で激しくやりあいながら)問答を交わした


 なお、もうひとりのテンジョウについては、「プリキュア・シリーズ」のカテゴリにて過去記事を参照してください。



 カッパードは、なにしろ初回からしばらく出ずっぱりで、ひかる、次いでララがプリキュアになるきっかけを作ったわけだし、そのあとは上記のように「異星人(他者)との相互理解の(不)可能性」について、そのふたりと(物理で激しくやりあいながら)幾たびも問答を重ね、今作のメインテーマたる「イマジネーション(想像力)」の真価を問い続けてきた。いわば「受け役」として作品を裏側から支えてきたわけで、その蓄積は他のキャラとは比較にならない。
 「異星人どうしが分かりあえるか否か?」は、考えてみればララだけじゃなく、ひかるに課せられた宿題でもあるわけだ。それを鑑みても、かんたんに「一対一対応」なんて図式を当てはめるのはよろしくない。





『スター☆トゥインクルプリキュア』第45話「輝くキラキラ星☆ひかるのイマジネーション!」① 冷たい雨

2019-12-24 | プリキュア・シリーズ




 今話、ユーミン(荒井由実)の「12月の雨」じゃないけど、冒頭から雨が降ってるんだよね。ぼくは35話(ひかるが委員長に立候補したやつ)までさほど真剣に観てなかったし、ビデオも録ってないもんで、あやふやなんだけど、そもそもこれまで「スタプリ」のなかで雨が降ってたことあったかな? けっこう「星空界」での冒険が多かったし(ほかの惑星で骨の雨……なんてのは見たけど)、いちども降ってないと思うんですよ、地球上(笑)ではね。まどかさんのトゥインクル・イマジネーション覚醒回でも、曇天までだったでしょ。

(追記。このあと調べたら、20話で激しい降雨の叙景がありました。ただしその時、ひかるたち一行は地球の外にいたんですけども。)




 風景ないし天候がキャラの心情とシンクロするのは近代文学(小説)の発明ですね。で、それはとうぜん映画に援用された。今じゃドラマでも漫画でもアニメでも、完全にデフォルトになってて、当たり前すぎて逆に誰も気に留めないという。
 今話はひかるが珍しく沈んでるんだ。笑顔が売り物のえれなさんに気を取られがちだけど、星奈ひかるって人も、思えばそうとうの元気者だし、ムードメーカーでもあるんだよね。まどか・えれな両先輩がフューチャーされたここ数話では、ほぼ「キラやば~」としか口走ってなかったような気がするけども。
 日常生活でずっとあの調子だったら、うるさいかな、とも思うよ正直なとこ(笑)。だけど、未知の空間に飛び出す時なら、ああいう人が傍にいてくれるのは心強いはずだ。
 ぼくは観てないけど、信頼できるサイトによると、この秋公開された劇場版で、ひかるはこの口癖をたった一度しか口にしないとか。それがどのシーンなのかはわからないけど(観てないもんでね)、やっぱりそこは見せ場なんだろうし、その「キラやば~」はいやがうえにも「決めゼリフ」として響くと思いますね。
 さんざ言いまくってるコトバをたった一度しか使わない。そこに大きな効果が生まれる。ふだんやたらと元気なのに、アンニュイな姿を見せるってのも同じこと。えれなの泣き顔もかなりキタけど、ひかるのこんな様子ってのも、なかなかに切ないもんですよ。




 前作の『HUGっと!プリキュア』では、主役の野乃はながフクザツな人格でね。気丈なくせに自己評価は低いという。序盤じゃかなり脆さも見せてた。ぼくは魅力的だと感じたけど、児童向けファンタジーアニメとしては、重かったかもしれない。
 星奈ひかるはそこまでロコツに脆さを見せたことはない。ただ、一人っ子で、父親がずっと留守してて、母親は家にはいるけど仕事やってて(漫画家)、じっしつ祖父母に育てられてて……と、つぶさに見ればそこそこ大変そうでもあるんだな。
 もともと一人でいるのが好き……というか、一人っきりがぜんぜん苦にならないタイプ。夢中になれる事に向き合ったら、どこまでも追っかけていく。友達なんて別に要らない。でも変わり者ってほどでもなくて、人付き合いはそれなりにこなす。ただ、クラスの中では微妙に浮いてた……かもしれない。ララと出会う前までは、おおむねそんな塩梅だったんじゃないか。
 こういうの、見てる人にはどうなんだろうね。ぼくなんかナミダが出るほど(苦笑)よくわかるんだけども。
 でもその情熱ってのは、好奇心から来てるわけだ。外に向かってるんですよ。だから1話ではララやフワやプルンス氏ともすぐ親身になったし、プリキュアにもなっちゃう。さらには、「さとり世代」の代表みたく合理性だけで判断を下して、はなっから諦めきってたララを勇気づけて(「思い描くの! なりたいララちゃんを!」「できないなんて決めつけは、無しだよ!」)二人目のプリキュアにまでしちゃうというね。
 そういう女の子が、ここにきて、意気消沈してるわけですよ。



☆☆☆☆☆

 参考として、他の考察サイトから、ひかるのセリフを引用させて頂きましょう。26話、みんなでパジャマ・パーティーをやった回より。

「わたしさ、友達と遊ぶよりひとりで天文台行ったりする方が楽しかったから。星座とか宇宙人とかUMAを調べてる方がさ。でも分かったんだ。ひとりでいるのも楽しいけど、みんなとこうしているのもすっごく楽しいんだって。みんなで新しい世界を知ったりとかさ、とっても、とーっても、キラやば~なんだよね!」












『スター☆トゥインクルプリキュア』第44話「サプラ~イズ☆サンタさんは宇宙人!?」について

2019-12-15 | プリキュア・シリーズ



 今回は、これだけを単話でみても大したことはない。1年48話(ときに49話)の長丁場だから、こんな回もある。41話から三回にわたって続いたお姉さん2人の進路にまつわる怒涛の展開が一段落して、ややトーンダウンの趣。
 前半パートは毎年恒例のクリスマス回。プリキュア勢5名のうち2名までをも異星人が占める今タイトルにあって、「サンタさんの正体は異星人だった」はむしろ自然な着想といえる。トナカイのほうがじつはヒューマノイド型の本体で、サンタに見えるほうがロボットだった、というのは星新一のショートショートふうの楽しいひねり。
 プリキュアたちがサンタさんを手伝ってプレゼントを配って歩くのは、前作『HUGっと! プリキュア』の踏襲。たんにクリスマスパーティーをやってるだけよりはプリキュアらしいと思うけど、今後はこれがフォーマットになるかな?
 あと、橇の中で、来たるべき別れの予兆というべき会話あり。ひかるが今のところ、ララとの別離をさほど深刻に考えていないのが切ない(意識の底に押し込んでる。というべきか。だとしたらもっと切ない)。
 後半パートが、敵の首魁がみなの前に初登場する「ラスボス顔見世回」。ただし今回はアーマースーツを戦闘員に着せた影武者だったようだが、それですらあれほどの強さ……ってことで、その端倪すべからざるパワーの一端を示し、最終決戦に向けての緊迫感を高めていく。
 個人的には、えれなの留学宣言にちょっとびっくり。12月3日の記事『スタートゥインクル☆プリキュアについて08 仮面としての笑顔を超えて。』へのコメントで、「多分、えれなは留学する(笑)」と予測を立てたakiさんが的中。ここは完全に読み負けましたねェ。
 「自分と向き合うために留学を保留にしたまどか」と「自分と向き合った結果留学を選んだえれな」という対比は面白いかも……というのがakiさんの読みの根拠だったようだけど、なるほどなあ。
 まどかのほうは、冬貴パパの口から「ロンドン」って地名が出てたけど、えれなさんはどこになるのかな。英語圏ではなく、パパの母国のメキシコじゃないかと思うけど、作中でそこまで明かされるかどうかはわかりません。
 あと、次回がついに星奈ひかるの「トゥインクルイマジネーション」覚醒回になるようだけど、その際の相手役はカッパード氏のようですね。だとすると、この人はララの影(シャドウ)ってだけじゃなく、ひかるの受け役としての立場も担っているわけだ。
 じっさい、敵の先鋒として第一話に登場するひとは大体において最終話まで重要視されるのが基本。『GO! プリンセスプリキュア』のクローズなんて、結局ラスボスにまでなっちゃったもんね。
 あのときは、作品のメインテーマである「希望」と「絶望」を巡って、キュアフローラ春野はるかとクローズとが闘争と問答をさんざ積み重ねたあげく、お互いがお互いの「影」であることを認め合い、再会を約して別れるという哲学的なエンディングを迎えた。
 本作のカッパード氏も、メインテーマである「イマジネーション」を巡っては、ひかると表裏の関係ではあり、これまであれこれ問答も重ねた。とはいえ、異星人どうしの友愛を体現するララと、異星人どうしが分かり合えることなど絶対ないと信じるカッパード……との対比でいけば、そりゃあこっちのほうが重いだろう。
 それにひかるは、「大切なものを守るための力」というサブテーマを巡って、かつてガルオウガとも(物理で激しくやり合いながら)問答をした。そこではガル氏がひかるの受け役を担ったわけで、さすが主人公だけに、それくらい彼女には課せられた仕事が多いってことだ。 
 ララの影(シャドウ)はカッパード、ユニの影はアイワーン、まどかの影はガルオウガ、えれなの影はテンジョウ、そしてひかるの影はラスボスのダークネストという読みは、とくに修正することもないでしょう。








スタートゥインクル☆プリキュアについて10 43話「笑顔への想い☆テンジョウVSえれな!」

2019-12-08 | プリキュア・シリーズ

今話のベストショットその①。バトルのさなか、太陽が陰りを見せたとき、かつて太陽から輝きを貰った月が笑顔で太陽を照らし返す。その笑顔がえれなの記憶の底の家族の笑顔を呼び起こし、「自分がなぜ、なんのためにいつも笑顔でいるのか。」という初期衝動を思い出させる。どん底からの復活シーンは2015年『GO! プリンセスプリキュア』における名シーンを想起させられたけど、たった一人で敢然と復活を果たした春野はるかに比べて(あれはあれでとても良かったけどね勿論)、チーム内での関係性を生かしたこちらの演出のほうがぼくは好きだなあ








今話のベストショットその②。6人きょうだいのいちばん上のお姉ちゃんではなく、ひとりの娘、まだ中学3年の一人の子どもとして、母に(おそらくは思春期を迎えて初めて)泣き顔をさらす。それが「小遣いが足りねーよ。」みたいなしょーもない不満ではなしに、「ひとに気持ちを伝えるのって、ひとを笑顔にするのって、むつかしいね」という高尚な悩みであるところが誠に立派なんだけど、いずれにせよ、こうやってあけすけに感情をぶちまけるのが必要な場面も人生にはあるのだ。むろん、母のかえでがそれを受け止めるだけの包容力を、そしてパパさんがそれを支えるだけの優しさを備えていればこそ上手くいったわけで、いつでもどこでも成功するわけじゃありませんが。ともあれ、「娘が気を使いすぎてて、本心で向き合ってこない。」というかえでママの嘆きもこれで解消したはず





 予想うんぬんでいうならば、
 「まどかと同じように、自分の進むべき道を見つけて、それをはっきりと自分の口から母親たちに伝える」
 「あの一家なら、えれなが夢を見つけてそれを追いたくなったなら、それぞれができる範囲で応援してくれると思う」
 などの読みは当たったんだけど、ラストの台所のシークエンスにて、「泣き顔」を決め球にもってくるとは思わなかった。やはりプロの仕事ってものはこちらの少し上をいきますなァ。


 もうひとつ、忘れぬうちに些末なことをメモしておくと、「グーテン星」における天狗さん(?)たちの「鼻づくし」の会話は、エドモン・ロスタンの名作『シラノ・ド・ベルジュラック』(岩波文庫/光文社古典新訳文庫)を連想させました。ジェラール・ドパルデュー主演で映画にもなったよね。


 まあそんな話はどうでもよくて。


 なんだろう、今回にかんしては、あれこれ論を立てるより、シナリオをそのまま耳コピして写すのがいちばんいいような気もしてまして……。


 まずはクライマックス、えれな(キュアソレイユ)と、自ら「ノットレイダー」として巨大怪物化したテンジョウとの対決シーン。


テンジョウ「みんな嘘、ぜんぶ嘘。笑顔なんて仮面なのよ」
(怪物化したテンジョウの強さにプリキュア勢は苦戦。冒頭で述べた、まどかの励ましがあって)
えれな「テンジョウ、あなたのいうとおりかも知れない。……あたしも作ったんだ、笑顔を。ノットレイになったママが言ったように、あたし、自分がほんとうの笑顔になっているかどうかなんて、……考えたこともなかった。ひとの笑顔のことばかり考えてて……。 本心を笑顔で隠すって言ってたけど、でも聞けたよ、あなたの本心」
テンジョウ「うるさい!(殴りつける。跳ね飛ばされるえれな)」
まどか「ソレイユ!」
えれな「平気。……だから……テンジョウ……あたし、わかるよ、あなたの気持ち。だって、あたしも、そうだったから! (回想シーン)あたしも、みんなと違うって、みんな、あたしのこと、ほんとはどう思っているのかって、ずっと気にしてた。でも、それを救ってくれたのが、家族の笑顔。ほんものの笑顔だった。だから救われたんだ。笑顔には、すごい力があるんだ!」
テンジョウ「黙れ黙れ!(締め上げる)」
えれな「あたしは、ひとの笑顔のために、自分を犠牲にしてるんじゃない! あなたのおかげで気づけた。思ったの。……あたし、あなたを笑顔にしたい」
テンジョウ「なぜ……なんでそんなことを言うの!(地面に叩きつける)」
えれな「(全身が眩い光に包まれる。トゥインクル・イマジネーションが発動したのだ)だって、笑顔を見るのが嬉しいの。大好きなの。みんなの笑顔が、笑顔が、あたしの笑顔になるの! だから、だから、あたしは、みんなを笑顔にしたいんだーっ」

☆☆☆☆

 哲学の論考を読み砕くように、厳密にぎっちぎちにロジックを辿っていけば正直いって苦しいところもあるんですよねこのへんのセリフ。でもこのストーリーラインの中では十分に成立してると思います。
「ひとのために笑顔を作ってるんじゃない。ひとを笑顔にするのがわたしは嬉しい。ひとを笑顔にすることが、そのままわたしの笑顔になる。だから、あなたを笑顔にしたい。」という理屈。
 まだ中3とはいえ、えれなは笑顔についちゃベテランだから、このことは、うすうすはわかってたはずだけどね。ただ、進路をきちんと考えるに当たり、自らの思いの核心を成す情動を改めて見つめなおして、アイデンティティーを一回り大きくしたって感じかなあ。


 えれなとテンジョウとの共通点は、「外見が周りと違うところ」。いっぽう、どうにも埋めがたい相違点は、「暖かい家族の有無」でしょうか。そのために、テンジョウにとっては幼少期から周りがいわば敵だらけで、「笑顔=虚飾の仮面」という固定観念ができあがっちゃってるわけだけど。
 えれなの笑顔にだって、そりゃあ「うわべを取り繕う」って面がまるで皆無ってことはない。それはね。でももちろん、それだけに留まるもんじゃなく、「まわりのひとを笑顔にしたい。」という真心がちゃんと籠っている。
 その真情はたいていの人には伝わるんだけど、でも、どうしても伝わらない相手もいる。だから、第38話でのユニとアイワーンのごとく、テンジョウとの距離は前よりはいくぶん近づいたけれど、まだ和解とまではぜんぜんいかない。
 そこで、「星空界」から地球に帰還し、日常に戻ってから、えれなは台所で母と料理を作りながらこんな会話を交わす。


☆☆☆☆


かえで「えれな?」
えれな「(涙をぼたぼた零しながら)ママ……相手に、自分の気持ちを伝えるのって、笑顔にするのって、むつかしいね……。でもわたしは、みんなの笑顔が見たい。一緒に、笑いあいたいんだ」

 ここで鍋が噴きこぼれる演出がまた細かくってね。


かえで「えれな……。ひとを笑顔にできるって、すごいことよ。……でも」

 えれなの口元(だけ)のアップ。嗚咽をこらえて、かたく結ばれている。

かえで「(えれなの両肩に手を置き、真正面から目を見ながら)……ひとのために泣けるのは、もっとすごい。それって、相手のことを本気で考えてるってことだから。泣きたいときは泣いてもいい。(抱き寄せて)私はそう思う。」

 えれな、声を上げて泣き出す。泣きじゃくる。やがて号泣。


かえで「(さらに深く抱きしめて)きっといつか、一緒に笑顔になれる日が来るよ」


 パパさん、子どもたちを引き連れて帰宅。「配達おわったよー」。しかし母娘の様子をみて、すかさず空気を読み、
パパ「よーしみんな、タコスができるまで、あっちで遊ぼう!」

 ややあって、台所にて、かえでとパパさんが揃ってえれなと向き合う。


えれな「あたしね、ひととひとがわかりあえるような、手助けをしたいの。ちっちゃい頃から、憧れてたんだ……………ママに。……ママみたいな、ひととひととを笑顔で結びつける、通訳って、素敵だなあって」
かえで「えれな……」
パパ「素敵だねえ」
えれな「それで、それでわたし! あ……」

 かえでとパパさん、それぞれに、えれなの手を取る。
 それからふたりで目と目を見かわしてうなずき、

かえで「えれなが好きなように、えれなの道を行きなさい」
えれな「(ふたりに抱きつき)ありがとう!」
 3人で明るい笑い。
とうま「(咳払い)。ご飯まだ?」
えれな「ごめん、すぐやる」
とうま「おれも手伝うよ」
えれな「ええー、とうまが料理?」
とうま「あのね、サルサソースなら、お姉ちゃんより上手いんだからね」
えれな「ほお、言うねえ」
とうま「(ぼそっと)家のことさ……おれにも任せてよ」
えれな「とうま……」
弟妹たち「ぼくら、テーブル拭くー」「拭くー」
パパさん「大きくなったねえ……」
かえで「ええ……」
 ラストカットは、画面いっぱいに広がるえれなの笑顔。


☆☆☆☆


 この暖かい家族のなかで育まれたえれなの笑顔が、家族ってものを知らない(と思しき)テンジョウにどこまで届くのか。ユニとアイワーンとの関わりともども、最後まで目が離せませんが。
 来週はいよいよダークネストが前線に来ますか。正体は、12星座に入れなかった13番目の「へびつかい座」のプリンセスではないか? との説が有力なようだけど、さて、どうなんだろう。
 ララがカッパード、ユニがアイワーン、えれながテンジョウ、まどかがガルオウガを影(シャドウ)として持つのなら、ひかるの影はどうしたってこの人になるわけで、全編のクライマックスに向け、ストーリーはいっそう緊迫の度を増していくようで。













スタートゥインクル☆プリキュアについて09 笑顔の行方。

2019-12-06 | プリキュア・シリーズ

akiさんからのコメント

他人のための笑顔

 eminusさん、もりのさとさん、こんばんは。プリキュアに関しては全くのド素人、akiでございます。何しろ「プリキュア」と名の付くものを本腰入れて視聴したのは最新話の42話が初めてで、それ以外は初代の「ふたりはプリキュア」の数話をそれぞれ数分ずつくらい、という体たらくですw
 そんなわけで、お二人の会話に割り込むのは失礼かと思いましたが、最新話を見てド素人なりに感じたことがありましたので、お二人に聞いていただきたいと思い、コメントさせていただきました。


 ちなみに上記の通りですので、私はこれ以前のえれながどんな様子であったのか、全く知りません。100%42話を視聴しただけの感想です。


 私は、えれなの問題とは「他人のために笑顔になることを心がけていて、自分の欲求や願望を度外視してきた」ことにあるのではないかと感じました。使命感によって、あるいは必要に迫られて彼女は笑顔でおり、みんなのために頑張る自分であろうと努めていて、自分の志望がそもそもどこにあるのか、自分が本当は何をしたいのかがわかっていない、わかっていないが故に、「他人のために笑顔でいる」ことが自分の志望だと錯覚している、ということなのではないかと。eminusさんのご指摘にもありましたが、私もそう感じます。


 開幕パートで、まどかが「自分が本当は何をしたいのか、自分と向き合ってみたい」と言ったとき、えれなはぽかんと呆けたあと、口を結んで真面目な表情を浮かべていますが、
「自分の考えたことのない、不可思議なことを友が口にしたために」呆け、
「その意味が理解できたとき、まどかの言葉に対する答えを自分の中に見出せないことにかすかに戸惑い、考えに沈んだ」のがあの真面目な表情だった、のではないでしょうか。


 それでも自分の思いに気付くきっかけはある。それはまどかとの会話の中にも見られるし、通訳という母親の職業に「すごいね」と関心を示したところにも表れています。進路相談のときにも「何かやりたいことはないか」と問われ、一度は口を開こうとしています。(呑み込んでしまいましたが)
 おそらく、えれな自身にも、まだ漠然とした想いしかなく、「何をどう生かして、何をしたいのか」を形としてはっきり他人に示せる状態ではないのでしょう。だから、今までの「他人のために頑張る」生き方をいきなり崩す勇気もなく、いわば惰性で(この言葉は容赦なさすぎる言い方だと思いますが、他の書き方をちと思いつかないので)今まで通りの在り方を選び続けてしまっている。


 そういうえれなの様子に敏感に気付いた母は、やはり「子を知るに親にしくはなし」というところですが、すぐに結果を求めようとするところはちょっと急ぎすぎかなあ。まあそれだけえれなに負担を掛けていることを強く気にかけていて、済まないと思っていたということなのでしょうけど。


 この後の話数で、えれながどういう心理的変遷をたどって自分の真の志望を見出すのかは判りかねますが…ただ、彼女がたどり着くであろう結論は判る気がする。


 多分、えれなは留学する(笑)


 …こういう物語の筋の予測って、実は何の意味もないと理解はしてるんですが、どうもその魅力に抗えないんですよねえ。(爆)
 まあド素人のたわごとですw 笑って流してくだされば幸い。




 あ、そうそう。大事なことを書き忘れていました。
 今までの話数で、えれなが今回のような表情を見せたことがない、ということについてですが。


 勝手な推測ですが、「進路」という問題がこれまでえれな自身の問題として俎上に上ったことはなかったのではないでしょうか。「他人との関係を良好に保つため」という目的のためには、今までのえれなの生き方に全く問題はないわけで。だから自分の生き方に悩むこともなかったし、信念が揺らぐこともなかったでしょう。
 今回えれなの心情が揺らいでいるように見えるのは、「自分は本当は何がしたいのか」という自分の志望が初めて自分の問題として意識されたから。考えのまとまらない状態では、「自分の志望」と「笑顔の意味」という本来は切り離して考えるべき二つの問題が、ごっちゃになって見えてしまっても仕方がない。そういうことではないかな、と思います。
 すなわち、今回のえれなの浮かない顔は、「自分の志望」を意識するきっかけとなった…開幕パートでのまどかの言葉がその発端ではないでしょうか。




 42話を見ただけで、知らない部分を妄想で補っての意見なので、多分に「決め打ち」じみた部分が大きいと思います。「当たるも八卦」くらいにお聞きくださればw でも、おかげ様で当の42話は何度も繰り返し視聴致しました。eminusさんのご苦労の一端を推し測ることができて、個人的には良かったです。(^^)




☆☆☆☆☆

ぼくからのご返事

 こういう話は大勢のほうが楽しいんで、参入して下さったことに感謝します。テレビアニメってのはこういうところがいいんで、たとえば「溝口がどうの」「ゴダールの新作がどうの」なんて話だったなら、まず俎上に上がってる作品そのものにアクセスするのが容易じゃないから、なかなか広がらないんですよね。プリキュアならその点、日曜の朝にチャンネルを合わせれば確実に見られる。もし見逃してもその週のうちならTVerで見られます(笑)。


 えれなの問題が「他人のために笑顔になることを心がけていて、自分の欲求や願望を度外視してきた。」ことだというのは、例によって簡明かつ的確な要言で、「なんでオレはこういう具合にスパッと言えないかな。」と少々悔しいんですが(苦笑)。


 ぼくのばあい、初めに「(えれなは)無理をしている。」と書いちゃったんで、それを引っ張りすぎたかもですね。「自分の欲求や願望を度外視」するのが幼い頃から習い性になってる状態を指して「無理してる」と呼ぶなら確かにそうなんだけど……。なんというか、うーん……。


 ともあれ「進路」ですね。「進路」なり「志望」は常にプリキュアシリーズにとって大きな問題です。それこそ過去タイトルのあれこれと比較検討して論ずるに足るテーマなんだけど、でもここは、あくまでも今作のなかだけで考えてみます。


 父親からプレッシャーを掛けられていたまどかとは異なり、えれなはいま岐路に立ってるってほどでもないでしょう。とりあえず地元の高校に進んで、それからゆっくり考えてもいいはず。だから、「進路」そのものが重要ってわけじゃない。もっと根深くて、彼女のアイデンティティーにかかわる話ですね。今作ではとにかくそれを、とことん「笑顔」に収斂させておりますが。


 だから、そこはもう、このたびのコメントのなかの、


『今回えれなの心情が揺らいでいるように見えるのは、「自分は本当は何がしたいのか」という自分の志望が初めて自分の問題として意識されたから。考えのまとまらない状態では、「自分の志望」と「笑顔の意味」という本来は切り離して考えるべき二つの問題が、ごっちゃになって見えてしまって……。』


 というご指摘のとおりだと思いますね。混乱している。それはまた、えれなが混乱してるってだけじゃなく、脚本自体がそのように描いてるってことでもあります。えれなにまつわる事柄は何でもかんでも「笑顔」に紐づけちゃうもんだから、かえって話がややこしくなっちゃうという。




 えれなの属性は笑顔。だからえれな案件はぜんぶ笑顔でいっとけ。みたいな。つまり属性(キャラ立て)を何より重視するんですね。でも、これはことさらプリキュアに限らず、あまねき(笑)エンタメに通底する手法ではあります。今作では「イマジネーション」が最重要のキーワード(キーコンセプト)ですが、この「イマジネーション」もよく見るとかなり多義的に使われてます。


 とはいえ、テンジョウとの絡みでいえば、今のえれなの「笑顔」は果たして「仮面」なりや否や? って問いはそうとう重いでしょうね。というのも、テンジョウはつねに仮面をかぶっているから。外したのはジョー・テング先生としてえれなに接触した時だけ。だから次回は仮面が大きなポイントになるかと。




 ともあれ今話はえれ×まどがほんとうによかった(むしろまど×えれというべきか。そういえば暁美さんの相方の人と同名ですね。いま気づきました)。コメントでふれられていた冒頭のシーンののち、宇宙船から二人で帰路につく時にかるく「前ふり」があって、えれなの三者面談のあと、彼女の浮かない顔をみて、まどかが真摯に問いかけます。まどかのほうが、心を決めて自分からえれなの内へと踏み込んでいく感じ。ずっと太陽を眩しく思っていた月が、これまでのプリキュア活動を経て今は太陽を照らす立場に回る……。ああいうのは、1年ものの長丁場でなきゃなかなかできない。


 プリキュア活動といえば、そもそもえれなが自分の進路を問い直す(というほどまだ明瞭ではなかったけれど)きっかけが、ほかならぬそれなんですね。


「プリキュアになってさ、色々あったよね。色んな星に行ったり、ぜんぜん価値観が違う人たちと出会ったり。そういうの、すてきだなって。この経験、ムダにしたくないなって。でも、どうしたらいいのか……」
「ちゃんとヒントはあるじゃないですか。……自分の経験してきたことを無駄にしたくない。それはひょっとしたら、えれなが、もっともっと、新しい経験を求めているんじゃないでしょうか」
「そう……なのかな」
「笑顔。わたくしは見たいです。えれなが、選んだ道で、輝いてる笑顔」








 まあ、結局は笑顔の話になっちゃうんだけど、あのシークエンスはほんとにいいです。ふたりの信頼感が伝わってくるし、今年1年の前半でやってきたことが、ちゃんと彼女たちの糧になってるってのがよくわかるし。



 されど、これはまどかがきちんと正面から向き合ってくれたからこそ口にできたこと。そもそも、えれな自身すらこの瞬間まではここまではっきり自分の気持ちを言語化できてなかったはずです。だけど何かしらの違和感はあった。母のかえでは三者面談のあたりからそれに気づいてはいて、たぶん、どうやって娘と話し合ったらいいか、彼女なりに考えあぐねていたでしょう。もちろん、ふだんから、「えれなに負担を掛けていることを強く気にかけていて、済まないと思っていた」だろうし。そこにいきなり異界から変なのがわっと乱入してきて、事態が一気に切迫して、えれなにとっては最悪の形で母の内面を知らされる羽目になったんだけど、あれはもう、まさしく「メロドラマ的展開」というよりない。
 すなわち、


(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が見舞われる。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張された行動をとる。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。どんな出来事も、さまざまな手法を駆使して「崇高」なものに仕立てる。


 というやつですね。えれなには気の毒だったけど、これを発条にして、次回は胸のすく活躍を見せてくれることでしょう。


 それで、ぼくはこのたびのコメントに関して9割5分くらいまで賛同するんですけど(いつもはだいたい99%近くまで賛同してます)、一点だけ異議を唱えたいです。多分、えれなは留学しません(笑)。卓越したコミュニケーション能力を生かして、ひととひととを結びつけるような道を志すとは思うけど、ここで家族から離れるような選択はしないと思うのです。


 じゃあどうするか。「これだ!」という決定打は正直見つからないんだけど、二つだけ、わりと自信をもっていえることがあります。


 ひとつ。ヒントはきっと、今話のひかるのドーナッツ(とフワのお菓子)。迷ったあげく、食べたいのをぜんぶ食べちゃった。そして最高の笑顔になった。あれが伏線だと思うな。えれなもきっと、今あるものを大事にしたうえで、その上にさらに自分の志まで載せて、ぜんぶ抱えちゃうんじゃないでしょうか。もちろん、無理をしてでは全然なくて、にこにこと満面の笑顔を浮かべながら。




 もうひとつ。そのためには、えれなだけでは駄目だし、えれなとかえでだけでも駄目。パパさんや、とうま君はじめ、弟妹たちが協力してくれると思いますね。今話でも、かえでさんに急な仕事が入って、「久しぶりにママご飯が食べられる~」と喜んでいたみんなががっかりして、末の子が泣き出す場面がありました。あのとき、まずパパさんがすっと末っ子に寄り添った。それで、いつの間にやら上の子たちが(自分たちだって意気消沈して悲しいだろうに)みんなでにこにこ笑いながら、末の子を包み込むようにしてましたね。ほんとを言うと、まど×えれ以上にあの短いショットが今話でいちばん印象に残ってます。あの一家なら、えれなが夢を見つけてそれを追いたくなったなら、それぞれができる範囲で応援してくれると思うんですよ。






 さて。あと2日となりましたが、どうなりますか。ぼくも、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で、楽しみにしています。













スタートゥインクル☆プリキュアについて08 仮面としての笑顔を超えて。

2019-12-03 | プリキュア・シリーズ

もりのさとさんからのコメント




こんにちは。


『スタプリ』の記事……というか、半ば「プリキュア論」の様相を呈しつつありますが……とても楽しく読んでいます。


本当は全部の記事にコメントして回りたいくらいなのですが、それはまずいので……。


『ハトプリ』はとてもファンシーな絵柄だけど、中身はヘビーですよね。
作中に「悲しみや憎しみは、誰かが歯を食い縛って断ち切らなくてはいけない」という印象深いことばが出てきますが、
『スタプリ』のユニの行動は、これを体現したものだなぁと思います。
それにしても来海えりかは最高です。




このところの『スタプリ』は決め球連発という感じで、毎回観終えたあとに充実感を覚えています。


現時点での最新話、第42話も楽しく視聴しました(いや、楽しい話ではありませんでしたが……)。
こちらのお話について、eminusさんにぜひお考えを伺いたいことがあります。


記事に書かれている通り、えれなはこのお話で、大きな問題に直面しました。


しかし、それがやや唐突であるような気がしたのです。
というのも、今までえれなが無理をしているような描写が、ほとんどなかったように思えるからです(普通に考えたら無理しているのかもしれませんが、相田マナみたいな人もいますし)。


もちろん、第42話においては、えれなが無理をして、かえでがそれを憂いていることが、悩みの吐露以前にも示唆されてはいるのですが、それはあくまでこの話だけで、以前からそういうことが匂わされていたかというと、そうではなかったんじゃないか。
ララやまどか、ユニのときの比べると、それこそ少し無理して展開を作っている印象を受けました。


また、第39話「えれな大ピンチ! テンジョウ先生のワナ!」で、えれなは自らのつらい経験と、それを乗り越えたことを話します。
わたしは、この経験によって、えれなは自然な笑顔を身につけることができたのだな、というふうに受け取っていました。無理のない笑顔、ということです。
だから、無理している、という指摘に、あれっと思ったのでした。


えれなの闇の部分(?)が描かれること自体は、期待するところだったし、そこで彼女の笑顔が焦点となるのも、当然の流れかなとは思いましたが……。


とかなんとか言いつつ、えれなとまどかの会話の場面はとてもすてきだったし、
とにもかくにも来週が楽しみです。
毎度長々と失礼いたしました。






☆☆☆☆☆






ぼくからのご返事。


 シリーズ全話をくまなく観てきたわけではないので、筋金入りのファンからみればいろいろ不備もあろうと冷汗モノですが……。
 例によって、「物語を考えるためにプリキュアという題材を使わせてもらっている」ってことで、そのつもりでお読みいただければと思います。
 でも、さすがにハトプリのそのシーンは覚えてます。最終決戦における、つぼみの名セリフですね。
「悲しみや憎しみは誰かが歯を食いしばって断ち切らなきゃ駄目なんです!」
 ときて、
「月影ゆり!!」と名前を呼び捨て。
 それまで同級生にも、目下の子にも、敵のみなさんにまでバカ丁寧な口調で話していたつぼみが、いちばん尊敬しているゆりを、呼び捨て。
 この一瞬のためだけに、つぼみという子を敬語キャラにしたのかな? とぼくは邪推したほどですが。
 そして、
「私が憧れたキュアムーンライト。あなたが何をしたいのか、何をするべきなのか、そして何のために戦うのか、自分で考えてください!」
 でしたっけ。
 しかもあれって、37話で、ゆりが自分自身(の影)に向かって言った「悲しみの連鎖は……悲しみの連鎖は誰かが歯を食いしばって断ち切らなくてはいけないのよ。」のリフレインなんですね(つぼみはその場にはいなかったんですが)。
 つまり、ゆりは聡明だから理屈の上ではとっくの昔からよくわかっている。だけどそれでも、じかに我が身にふりかかってきたら、憎悪に呑み込まれてしまう。
 それくらい、情念というのは強烈なもので、人間ってのは弱いもの。
 ほとんど同じ言葉なのに、自分で反芻するんじゃダメで、傍に寄り添ってくれてる相手の口から聞くことで、あらためて胸に響く。ふしぎなもんですが。
 それにしても、
「悲しみや憎しみは誰かが歯を食いしばって断ち切らなきゃ駄目なんです!」といった類いの台詞に説得力をもたせることがいかに難しいかは、今作のユニとアイワーンの件を見ても明らかです。
 ただ、ユニにはまだ希望が残されている(前は書き落としたけど、スターパレスのプリンセス……さすがにどの星座の人かは忘れましたが……も、「あなたの星は元に戻せます。」と確約してました)。
 いっぽう、ゆりの父親は本当に帰らぬ人になってしまった。そう考えると、似たシチュエーションでも、やはり、ゆりさんの背負ったものが歴代でもいちばん重かったなあ……とは思いますね。だから高校生に設定されていたのかなと(高校生でも大変でしょうが)。






 えれなはまだ中3ですね。
 ひとつ上なだけですが、それでも、3話でひかるとララの仲裁をしながら登場した時から、(「まずは相手の話を聞いてあげな。」)チームの中でもお姉さんポジションで、みんなを包む立ち位置でした。家族の中でそうしてるように。
 えれなが、学業やプリキュア活動のかたわらで、店の手伝いや弟妹たちの面倒をみることを負担に感じてるような描写は一度もなかったです。えれなにとって、それらのことはほんとにぜんぜん負担じゃないから。
 だから、「無理をしている」というぼくの表現はやや不適切かもしれないですね。誤解を招きやすい。もっとうまい言い方があればいいんですが……。
 「それを負担に感じてない」ってこと自体がヤバいというか……。もっともっと根っこのところで、なんというかまあ、やっぱりそのう、すっげえ無理をしてるなと。
 えれなって人の特徴は、「相手に気を使いすぎること」なんですよ。イメージカラーが黄色で、「あざとイエロー」ではない「かっこイエロー」系だからわかりづらいけど、むしろ前作の青キュア「優等生のお嬢様」枠・薬師寺さあやに近い。
 相手にいつも笑顔でいてもらいたいあまり、相手の笑顔を損なうようなことが言えないし、できない。


 8話で「ケンネル星」へ行ったとき、
 「……できない。この星の人たちにとって大切なもの、それを奪うってことは笑顔を奪うことと一緒だよ」
 と、宇宙の命運にかかわる大切なペンを諦めようとしてました。
 「説得」とか「話し合い」によって歩み寄りを図るより前に、自分が引き下がろうとした。相手の笑顔を奪いたくないばっかりに。
 あのときは、カッパード一団の乱入により、なし崩し的に片付きましたけど(あれこそプリキュア名物、敵さん介入・結果オーライご都合主義ですね。笑)、それと共に、えれなの課題もいったん視聴者の目から逸らされました。


 次が14話でしょうか。記事ではふれなかったけど、とうま君が心を囚われて、怪物化しましたね。
 あのとき、えれな(キュアソレイユ)は自分から攻撃できなかった。そりゃあまあ弟なんだからやりづらいのはわかるけど、べつに本人にじかに危害が及ぶ仕組みじゃあないですからね。げんに、ほかの人がああなっちゃった時には、ソレイユさん、けっこうがんがん攻撃してます。
 14話では、自分から攻撃できなくて、逆にどつかれたりしてた。それで弟さんのほうも痛みを覚えて、呼びかけが届いて、ぶじ解放に至ったけれど、あんなところに、「いざという時には自分を犠牲にしてしまう」特質が強く出てました。




 ひとを思いやるのは大切だし、まことに尊いことだけど、だからって自分を犠牲にしちゃいけない。それでは、「憧れのわたし描くよ」「なりたい自分に!」の旗印にはそぐわない。そのままでは、トゥインクル・イマジネーションが発動することはないでしょう。




 ララの里帰りに同行したり、属性どっさりのユニの加入があったりで、かなり話数を使ったあと、だいぶ飛んで34話。
 サボローという異星人がやってきます(いや本名はわからずじまいだったけど)。しかしこの人、さしものえれなのコミュニケーション力をもってしても、どうにも意思疎通が難しい。
 それでも、ようやく少し距離が縮まる。でもその矢先、よかれと思って贈った花のせいで、彼を怒らせてしまう。植物から進化したらしき彼には、花を切り売りするなんて、許しがたい蛮行としか見えなかった。
 そのあと、尋常じゃないくらい、えれなは落ち込む。コミュニケーション不全の状況に耐えられない人なんですね。
 中3とは思えないほど、ほんとに人格者なんだけど、それは危うさと紙一重でもあって。
 ところで、あのときにじつは、母親がヒントをくれてるんですよ。
「わかりあうのは簡単なことじゃないわ。だからこそ、相手のことをもっとよく知らないとね」「笑顔も大事だけど、もっと大事なのは理解しようとすること」
 笑顔はもちろん素敵なもの。えれなはけして間違ってはいない。でも、みんなが笑顔でいられることに拘りすぎて、表面だけを取り繕って、奥底に潜む肝心なことから目を背けたりはしてないか。
 だとしたら、笑顔はいわば仮面みたいなものになっちゃいますもんね。
 母からのアドバイスを受けて、えれなはサボローに謝罪に行く。言葉がろくに通じないのを承知のうえで、心情を吐露して詫びを入れる。
 そのときの彼女は、笑顔じゃありません。






 言葉は通じないんだけど、たぶん彼女のその表情と声音と態度とで、サボローにも真意は伝わったんでしょう。自分のからだから花を咲かせて、プレゼントしてくれる。おそらく、最高の友情表現なんでしょう。
 この時は結果としてうまく運んだし、えれなはすぐにいつもの眩しい笑顔に戻るので、視聴者はうっかりしちゃうんだけど、この話数が言わんとしてたこと(の一つ)は、「笑顔では解決しないこともある。」じゃなかったでしょうか。




 そして、テンジョウがぐぐっと距離を詰めてくる39話。
 まずジョー・テング先生のまえで、あどけないほど可愛い顔を見せるえれなが印象的でしたね。ずっと「姉」としてのみ振るまってきた女の子が、母とはまた違う「年上の頼れるお姉さん」にだけ見せた顔。
 で、肝心のスピーチ。初稿ではいかにもタテマエっぽい、上っ面の綺麗事に終始していた内容が、テンジョウの悪意ある助言に従い、過去の暗い記憶を取り入れることで、ぐっと深みを増し、かえって聴衆の心を打つものとなる。
 これもまた、「笑顔」(明るさ)だけでは真実には近づけないってことを示唆してたと思います。
 いっぽう、あそこで明らかになったのは、いわば彼女の笑顔のルーツですね。たんに子供の頃から愛想がよくってニコニコしてたわけじゃなく、孤立感をおぼえていた時に、自分から笑顔を作って接すれば、みんなも笑顔で応じてくれて、笑顔の輪が広がっていくことに気づいた。
 それからはいつも笑顔でいようと決めて、じっさいずっとそうしている。自分が笑顔でいるかぎり、きっとみんなが幸せになれる。
 それはじっさいそのとおり。42話でも、じっさいに彼女の笑顔(と、笑顔にまつわるアドバイス)によって救われたまどかが、バトルのさなかに熱弁をふるってえれなを励ましました。その言葉には一抹のウソもありません。
 でも、それだけで解決しないことも確かにある。なにしろ目の前にいるテンジョウは、ぜんぜん納得しないし、認めようともしない。どうしても笑顔が届かない。そういう相手も世の中にはいる。
 それともう一つ気になること。いつもいつも他人ばかりを気にかけて、周りを照らし続ける太陽は、疲れることはないんだろうか?




 「周りに気を使いすぎる。」という点では薬師寺さあやに近いけど、もっと近いのは、2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』の剣城あきらじゃないかな。つねに病弱の妹を気にかけて、ほとんどもう、自分の世界の中心に妹のことを置いてたハンサムな高校2年生。
 ただし残念ながら、ぼくはこの年、事情があって全編の半分弱しか観てないんですね。だから詳しい比較検討はできないし、いろいろと相違点もあるんだろうけど、おおむねそうだと思っています。
 最新42話で、えれなママ・かえでは、心を囚われる直前、通りすがりの幼い子供が母親にわがままを言っているのを見ますね。えれなはきっと、幼い頃から、一度としてわがままを言ったことがないんじゃないか。わがままを言う前にどんどん弟妹ができて、ずいぶん早いうちから、半ば母親代わりになっちゃった。
 「ほんとうの笑顔を見せてくれない……」という嘆きは、あの場合はむしろ「ほんとうの顔を……」が正しいかもしれない。進路についても、まどかに尋ねられて考えながら答えた本当の気持ちを、えれなは母親には伝えてないですもんね。揺れている。なのに、揺れていることを言わない。言えない。
 敏いお母さんだから、揺れてるなってことはわかってるんでしょう。でも、ぜんぜんそれを言ってこない。
 6人きょうだいのいちばん上のお姉ちゃんとしてではなく、ひとりの娘として、子供として、本心をさらけ出して、自分に甘えてくれない。ぶつかってきてくれない。
 それがあの内面の嘆きになったのかなあと。
 こう考えるならば、これは、たんにえれなの問題ではなく、かえでの問題でもありますね。さらに、父親やとうま君、幼い弟妹たちをも含めたご家族の問題でもあるでしょう。




 とはいえこれは、児童文学ではなくて、バトルアクション・ファンタジーですからね。キュアソレイユの直接の敵(より正確には影……シャドウかな?)はテンジョウ。次回はテンジョウの過去が掘り下げられるんでしょう。そして戦闘。まどかがガルオウガを介して父との葛藤を乗り越えたように、えれなもまた、テンジョウを介してこのたびの件を乗り越えるのだと思います。そのなかで、あらためて笑顔の意義を見つめなおして、ただ相手との衝突を回避するためのものではなく、自分を犠牲にするだけでなく、自己をきちんと主張し、かつ、相手の思いもしっかり汲み取れるような、より高いレベルの笑顔を身につけるのかな……と予想しています。
 そして、まどかと同じように、自分の進むべき道を見つけて、それをはっきりと自分の口から母親たちに伝えるんじゃないかなあ。













スタートゥインクル☆プリキュアについて07 『ハートキャッチプリキュア!』のフォーマットを借りて。

2019-12-02 | プリキュア・シリーズ


 まずは前回の補足から。




 41話のラストにおいて、まどか嬢は父・冬貴からの精神的な自立を果たし、「大いなる一歩」を踏み出したのだけれど、けっしてそれは、父を侮ったり、否定するということではない。「多様性の尊重」をうたう本作のスタッフが、プリキュアの面々をそのような浅はかな人格に措定するはずもない。今でもまどかは、父に敬意を抱いているし、これまで自分を正しく導いてくれたことへの感謝も失ってはいない。




 誰しもにそれぞれの事情があり、心情がある。「香久矢の家を守るため自分を滅する。」というのは、それはそれでひとつの生き方であろう。自らの力量と、置かれた立場を鑑みて、「それ以外に術がない。」と判断を下してのことならば、娘であれ誰であれ、それを侮ったり、否定することはできない。ただ、それは自分の生き方ではない。自分はその生き方を選ばない。自分は、「なりたい私」を目指す。そういうことだ。それがまどかの決意なのである。




 そのことは、今回の一戦において父の「負の側面」を投影された巨漢ガルオウガにもいえる。いったいに、今作の悪役たちはみな歪んではいても奇妙な魅力を湛えており、こにに至るまでに相当な辛酸をなめてきたことが伺えるのである。ガル氏にしても、「全宇宙を我らが手に!」などと、えらくステレオタイプな侵略主義者っぽい言を叫んでらっしゃるけれど、おそらくは過去生において、自身の無力さゆえに大切なものを守れなかった経験をもつのであろう。その悔恨と負い目のゆえに切実に「力」を欲し、「悪の帝王・ダークネスト」の下に身を投じた。それで今は、「やられる前にやれ! 力こそ正義じゃあ!」とばかりに、侵略主義に邁進している。そういうことかと思われる。あくまでも、これまでに出てきた断片的な情報を元にしての、現時点でのぼくの推測ですけどね。




 もちろん今は、「フワを渡せ」「渡すわけには参りません」ということで、真っ向から利害が対立しており、対話の余地が見出せぬのだから、プリキュア側も物理で対抗するしかない。やるかやられるか、ぎりぎりの切所に立っているのは間違いのないことだ。だから相手に同情したり、内情を斟酌している余裕なんてないわけで、まあ、ぼくたちの生きる世の中なんて、いつでもそんな具合である。だが、児童向けファンタジーたるプリキュアシリーズは、そんな現実をいったんぐっと呑み込んで、日曜朝のテレビ画面に仮初めの夢を描くのだ。今作のプリキュア勢も、いずれは戦いの果てに、恩讐を越えて、敵役たちの抱える「多様性」にふれるのであろう。すでにユニがその先鞭(せんべん)を付けてもいる。次はどうやら、えれなの番らしい。




 補足といえば、もうひとつ言うべきことがあった。「父との葛藤」というか、それこそ、やるかやられるかの斬り合いを余儀なくされたプリキュアさんが過去にもうひとりいたのだ。2010年『ハートキャッチプリキュア!』のキュアムーンライトこと月影ゆりだ。





月影ゆり(CV・久川綾)。高校生初のプリキュア。その名のとおり色濃い陰りをまとっている。かつては一人ですべてを背負って戦っていた。パートナーの妖精を失ったために変身不能となり、前半ではずっとそのままだったが、つぼみたちの尽力もあって復帰を果たす。作中では圧倒的な戦闘力を誇る




 この「ハトプリ」は、シリーズの前身というべき『おジャ魔女どれみ』で知られる馬越嘉彦氏がキャラデザを担当しており、歴代でも群を抜いて可愛い造形となっていた。それでいて、この月影ゆりのパートナーである妖精はかつて戦いの中で命を落としており(妖精の落命はシリーズ中この事例のみである)、しかも彼女の「影」であり「妹」でもあるダークプリキュア(CVは高山“名探偵コナン”みなみさん)も最終決戦にて寂滅し、あげくの果ては敵に回った実の父までが帰らぬ人になるという、きわめてヘビーな結末を迎えた。前にぼくは『ドキドキプリキュア!』を異色と評したけれど、この「ハトプリ」もまた別の意味で異色作といえる。


主人公コンビの花咲つぼみ(CV・水樹奈々)と来海えりか(CV・水沢史絵)。とにかく可愛いので今なお人気は高い。左のえりかは歴代プリキュア中、他の追随を許さぬコメディエンヌである






 この『ハートキャッチプリキュア!』の大きな特徴は、市井の一般人が敵のトリコとなって心を奪われ、その略奪された心が人形などに仮託されて巨大化・怪物化することであった。その巨大な怪物と戦って浄化し、奪われた心を本来の持ち主へと取り戻すのが毎週のプリキュア勢のノルマとなる。
 興味ぶかいのは、怪物になったさい、囚われた当人が、ふだんは口にできない内面の屈託をプリキュアたちの前でめんめんと吐露するところである。いわばキリスト教の「告解」、現代であれば差し詰めカウンセリングの前段階のようなことが行われるわけだ。
 そもそも彼ら彼女らが敵に目を付けられて心を簒奪されるのは、それだけの悩みを抱えていたからだ(もちろん、悩みのない人なんていないわけで、そういう意味では老若男女すべての人が目を付けられる可能性があるのだが)。ゆえに、怪物を「浄化」することは、たんにやっつけるとか、退けるってだけじゃなく、プリキュアたちにとって、囚われたひとが直面している課題の乗り越えの手助けをすることでもあったわけである。
 それまでのシリーズでは、近場にあった無機物に敵側が邪悪な魂を吹き込んで怪物化する、というのが基本パターンだったので、「ハトプリ」の発明になるこの趣向は画期的であった。ただ、それが毎週のお約束となると、ややマンネリの気味も帯びる。それに長丁場の中では、「切実な課題」だけでなく、「ちょっとしたトラブル」のようなお悩みも混じってくる。




 このたびの『スタートゥインクル☆プリキュア』では、市井の一般人が「歪んだイマジネーション」を悪用されて怪物が造られる点は同じだが、標的にされたひとが毎回決まって内面を吐露するわけではない。いわば「ここ一番」とでもいうか、プリキュアたちの誰かと縁(えにし)の深いひとが何かしらの憂慮を生じて煩悶したさいに、敵側によって心を囚われ、そのような事態に及ぶのである。「ハトプリ」の基本フォーマットがもっとも効果的なかたちで援用されているわけで、ここにもやはり、16年間の蓄積と、スタッフの創意を感じるのだ。




 すでにこれまで、ひかると親しい遼じいこと遼太郎さんはじめ、実の祖父、さらには母まで同じ憂き目にあっている。どうもひかるの周りで被害者が多い。それでも、戦い終わって浄化の後には、祖父の春吉は家族を放擲して研究の旅に明け暮れる息子(つまりひかるの父。ひかるは心から応援しているが)に対するわだかまりを一応は解消できたし、母の輝美は漫画家として「売れようが売れまいが、編集者に何と言われようが、好きなものは好き」という初心を思い出し、創作への情熱を取り戻している。それぞれに当面の課題を乗り越え、「結果オーライ」になったんである。


 しかし。



 最新42話「笑顔の迷い、えれなの迷い。」では、えれなの母、6人の子持ちでありながら、通訳として忙しい日々を送る天宮かえでが、テンジョウによって心を囚われ、えれなの前で内面を吐露することとなった。



「ああ……えれな……毎日、わたしや家族のために、笑顔で頑張って……。……でも、あの笑顔は、えれなの……ほんとうの笑顔じゃない。心からの笑顔を見せてくれない……ああ……」



テンジョウ。ユニにとってのアイワーン、ララにとってのカッパード、まどかにとってのガルオウガと同じく、えれなにとっての影(シャドウ)に当たる人。敵役の声優には実力派のベテランが起用されるのが通例だが、この遠藤綾さんもさすがの迫力




えれなのこれほど笑顔から遠い表情が描かれるのは初めてである



 「いつも笑顔でいること。周りのひとを笑顔にすること」を幼少期からのモットーにしているえれなにとって、実の母からこのような言葉を聞かされることは、アイデンティティーを根底から揺さぶられるほどのショックだったに違いない。ぼくなどは、「これは今回、変身できないんじゃないか。」と危ぶんだほどだ。だが、前回えれなからのアドバイス(「迷った時には、まどかがいちばん笑顔になれる方を選べばいいんじゃないかな?」)によって自らを支えたまどかをはじめ、仲間たちの助けを借りてどうにか気を取り直し、キュアソレイユとなって、苦戦しつつもなんとか母を解放する。






 しかしもちろん、このたびは何ひとつ片付いてはいない。えれなの戦いは次週へと持越しである。今回の件は母娘問題でもあるし、「家族のために無理をするのが常態になっていて、無理していることに自分でも気が付いていない。」という大変リアルでデリケートな問題でもあるし、スタッフがこれにどのような結末を用意するのか、正直ぼくにもわからない。いずれにしても、えれな一人で、あるいは彼女と母親だけで解決できるものではなく、父親や弟妹、とくにすぐ下のとうま君など、ほかの家族たちと力を合わせて乗り越えるべき課題であるのは確かだと思うが。
 謹んで、かつ楽しみに、次週の放送を待ちたい。









スタートゥインクル☆プリキュアについて06 ファンタジーの限界

2019-12-01 | プリキュア・シリーズ

 40話のラストにおいて、まどかの父「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」の香久矢冬貴氏はついにララが異星人であるとの確証を得る(気を失っていたため、実の娘が仲間と共に変身して日々戦ってることまでは気づいてないし、そもそも害意を持った宇宙人の一団が定期的に襲来しているのも知らぬのだが)。
 いっぽう「2年3組」の級友たちはすべてを知った。知ってしまった。「プリキュアの身バレ」ってのは当然ながら大変なイベントであり、例年であれば最終話かその間際にくる。今作は異例である。「異質な他者を受け容れる」というテーマを、ひかるたちメイン・メンバーのみならず、クラスの面々にも共有させるための構成であろう。ララに関しては「異星人バレ」と「プリキュアバレ」が一挙にきたわけだが、いずれにせよここまで常識を超えたことならば、小出しにするよりいっそこのほうが良かったろうね。
 ひかる、及び、えれな、まどか両先輩も覚悟のうえで巻き添えを食った格好だけど、このあとに訪れる友愛ムードが、下らぬ懸念を吹き飛ばす。2年3組、まことに良い子が揃っている。校舎全体の窓ガラスのうち半分強が割れっぱなしだったぼくの母校とは大違いである。
 プリキュア勢が一戦交えて敵を退け、校庭が夕日に染まるなか、目覚めた冬貴はララに詰め寄る。そこに、2年3組のクラスメートが一丸となってララの弁護に回るのだ。
「ララさんは異星人などではありません。私たちのクラスメートです!」

 理屈をいえば、「たとえ異星人であっても」というのが正しい論法なんだろうけど、これは冬貴が「異星人=まるで言葉の通じない、排除すべき他者」と決め込んでいるから、こんな言い方になるわけである。
 さらに、娘のまどかが眦(まなじり)を決して、「皆さんの言うとおりです。ララは、わたくしたちの友人です!」と真っ向から対峙する。「あっ」と息を呑み、「まどか……」と絶句したところから、冬貴の受けたショックが伺える。彼にとってはこれが、娘からの初めての反抗なのだろう。



 ここでいったんシーンが切れて、わずかに時間が跳ぶ。どうやら冬貴はすごすご退散したらしい。エンディングは、夕日の中でのララとクラスのみんなとの麗しき和解のシーンである。






 この前段としてはもちろん、クラスメートたちが猜疑心に捕らわれてララを疎外するシークエンスがあったわけだが、陰影を強調したライティングや、ララの孤独を際立たせるロングショットなどにより、かなり緊迫感のある画面に仕上がっていた。悲しみに沈んだララがひとり図書館で(地球に来た頃、彼女にとって本はアナログ媒体でしかなかったが、ひかるの影響もあって、今は読書好きになっている)涙をこぼし、そこにやってきたひかるが、やはり涙をこぼしながら、「違うよ……異星人とか、地球人とか、関係ないよ……だって、ララは……ララだもん……」と言いながら後ろからララを抱きしめる、というシークエンスもあり(ララは照れて「苦しいルン」といい、真に受けたひかるはすぐに離れてしまうが)、「ひかララ」の結びつきの強さを再認させて、「みらリコ」を思い起こした視聴者も多かったのではないか。






 年端もいかぬ子供さんたちがそんなところにまで追い込まれたのは、冬貴氏がララを名指しで「あの子が学校に来るようになってから、なにかおかしなことはなかったか?」と聞いて回ったからである。それはいくらなんでも配慮を欠いたやり方じゃないかという意見もあろうし、いくら思い当たる節があったにせよ、それまでの親密さからいきなり手のひらを返す2年3組の皆さんもどうよ?という声も一部には上がっていたようだけど、これは以前に述べた「メロドラマ」の法則どおりなのだ。つまり、


(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張された行動をとる。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。どんな出来事も、さまざまな手法を駆使して「崇高」なものに仕立てる。


 といった定跡に則っているわけだ。


 だから級友たちは、それまでの親密さからいきなり猜疑/不信へと至り、ララの真情にふれることによって今度は一挙に「親密」を超えて「友愛」の域にまで至る。このジェットコースターのような振幅の激しさこそが「メロドラマ」であり、そこが視聴者の感動を呼ぶ。いってみれば冬貴は、そのシチュエーションを準備せんがため、軽率な振る舞いをするよう脚本家によって強いられたわけである。
 これはけっして貶めてるんじゃなくて、べつに児童向けファンタジーアニメならずとも、創作物には付いて回ることである。つまり、お話の都合のためにワリを食うキャラクターというのは必ずいて、今作においてはまさに冬貴氏がそれなのだ。


 「ララ回」である40話は、とうぜんそのまま「まどか回」としての41話へと接続する。夕日で終わった40話が、まどかのシンボルである「月」を浮かべた41話の夜のシーンへと繋がるところが心憎い。こういった濃やかな演出が、プリキュアシリーズを、ただの児童向けアニメを超えて大人の鑑賞に堪えうるものへと昇華しているわけだが。
 それはそれとして、冬貴パパの株は引き続き下がりっぱなしである。双方にとってショッキングだったあの一件のあと、父娘が交わす会話はこうだ。
「なぜですか。なぜ……何もおっしゃらないのですか。」
「羽衣ララ君のことか。もういい。調査の結果、異星人だという確たる証拠は出なかった。宇宙開発特別捜査局。そこで成果を上げ、中央に返り咲こうとしたが、裏目に出た。調査の権限も失った。もはや異星人のことはいい。
 上から調査しろと言われていたからしたまでだ。異星人を排除しろとといわれればそうするし、友好関係を築けといわれれば友となる。言われたとおり動く。私は香久矢のためにずっとそうしてきた。おまえを導いてきた判断は誤りではないと確信している。
 もうすぐロンドンへ留学だ。彼女たちとも、それで終いだ。すべて、私に任せればいい。」


(このやり取りはここではなく、月明かりに照らされた応接室で行われるのだが、画像がないので代わりにこれを貼っておく)


 おいおい、という感じである。ここで説明くさい長台詞を吐かされるところが既にして苦しいのだが、その内容がまたひどい。「宇宙開発特別捜査局局長」の地位は要職どころか閑職だった。それでもまだ信念をもって働いていたのなら立派だけども、「上から調査しろと言われていたからしたまで」「言われたとおり動く」とは一体どういうことであろうか。これではただの事なかれ主義ではないですか。あとに残るのはただ、「香久矢(家)のため」という一事のみである。
 ぼくは最初、「まどかがララと深い親交を結んでいるのがわかったから、娘を守るため上には虚偽の報告をしたのか……」とも推測したのだが、しかし考えてみるとそれはそれで大事(おおごと)であり、たんなる職務怠慢どころか虚偽報告で罪にさえ問われかねない。といって、もし本当に「なんかややこしくなってきたからもういいや。」とばかりに当面の職を投げ出したのなら、これもまた無責任な話である。


 同じ地球の中でさえ、他の国に移動する時はパスポートがいるし、滞在するにはビザがいる。検疫だって通らなければならないのだ。友好だ敵対だのという以前に、もし仮に異星人が身近に居たら、とりあえず然るべき筋に報告するのは、これはもう義務というべきものだろう。いかにも自由人といった趣のひかるの父ならまだいいが(ほんとはよくないんだろうけど)、どのような理由があれ、国家公務員がそこを疎かにするのは無理がある。


 というわけで、ここにきて、社会人としての冬貴氏はずいぶんと矮小化されてしまった(いつの間にやら部下もいなくなり、ずっと一人で動いてるし)。すべては、冬貴を「社会(的規範)」の代表たる「父」として描いてはならぬ故である。つまり、この連載の02「父との葛藤」で述べたとおり、ファンタジーたるプリキュアシリーズにおいて(ここではもう児童向けかどうかは関係がない)、「社会」を導入するのはご法度なのだ。世界が崩壊しちまうのである。だから冬貴の格をぐっと下げざるを得なかった。




 本作における冬貴の役割は、ぼくが当初予期したような「社会(的規範)」の代表ではなく、「代々続いた家格を守るべく、組織の歯車となって自らを滅して生きる」勤め人のモデルでしかなかった。今作のテーマに即していえば、それは「なりたい自分」を想定できる「イマジネーション」を欠いた存在だ。まどかはキュアセレーネに変身し、敵陣の猛者・魁偉な青鬼の姿をもつ巨漢ガルオウガとの死闘を繰り広げる中で、そんな父の姿と、「悪の帝王に身を捧げて自分を滅した」ガルオウガの姿とを二重写しに見て、「トゥインクル・イマジネーション」を獲得し、ガルオウガを打ち破る。それは同時に父からの自立でもあった。















 バトルパートと日常パートとの熱い共鳴はプリキュアシリーズの醍醐味で、だから41話も40話に引き続き名編に仕上がってはいたが、いずれにしてもプリキュアたちの真の敵はいつだってファンタジー世界にしか居ないのである。つまりは観念の領域にしか居ない。「地球人とわかりあえる」と信じるララには、かつて移民との水争いによって故郷を追われたカッパードが「なにを甘ったれたことを言っている。」と立ちはだかるし、笑顔こそが最高のコミュニケーション・ツールと信じるえれなに対しては、「笑顔なんてぜんぶ虚飾よ。」と憎々しげにテンジョウが吐き捨てる。
 まどかもまた、「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」という社会的規範としての父に抗ったわけではない。家を守るため「ただの組織の歯車」に成り下がった父親の像を、さらにまたガルオウガに投影し、それに打ち勝ったのだった。




 プリキュアシリーズは素晴らしい。そして、その素晴らしさゆえに、ファンタジーの限界をくっきりと浮き彫りにして見せてくれもする。