ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

Burial その02

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 BurialのつくるサウンドはEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)ってジャンルに属するんだけど、これがフロアで掛かったとして、みんなが夢中になって踊れるとも思えない。チルアウト・タイム専用ってことか? しかしそれよりもやっぱり、ひとり深夜に自室で聴く(それもヘッドホンで)のがふさわしいだろう。ひとことで言えば内省的。いや思索的とすらいっていい。
 EDMのコンピレーションならyoutubeでいっぱい聴ける。聴けばもちろん楽しいのだが、じぶんがそれを好きかっていうとちょっと違う。概していえばケーハクだったり、攻撃的だったりする(あくまでも個人の感想です)。だからジャンル分けってのは必ずしも当てにはならない。つまらない純文学もあれば、人間の深奥を問い直すような凄いSFもある。そういうことだ(ここハルキ調)。
 まだyoutubeがこんなに充実してなくて、ヒットチャート外の洋楽はCDで聴くしかなかったころ、どうも自分の好みはトリップホップと呼ばれる系統らしい……と目星をつけて、少しずつ買い揃えていったんだけど、「これ、絵になぞらえたら抽象表現主義だよな。」と感じていた。
 抽象表現主義絵画(アブストラクト・エクスプレッショニズム)ってのも、興味ない人には「どれも一緒じゃん。」と映るかも知れないが、むしろ具象より如実に描き手の個性があらわになるんじゃないかと思う。まるでロールシャッハ・テストみたいに。
 その伝でいけば、ぼくのばあい、大竹伸朗がだんぜん好きで、こちらもやっぱり「大竹伸朗は広義の抽象表現主義にカテゴライズされるが、ぼくはべつだん抽象表現主義が好きってわけでもなくて、ただ大竹伸朗(のつくる作品)が好きなのだ。」って話になる。Burialの件と同じだ。
 例として、ジャクソン・ポロックの有名な絵と、大竹伸朗の絵とを掲載させていただこう。ぼくの言ってることが文字どおり一目瞭然だと思う。わざとそういう作品を選んだってところもあるが、大竹さんのほうがずっと静謐である。




ジャクソン・ポロック



大竹伸朗



大竹伸朗


 「絵画」が「現実の模写」から離れてタブロー(表象)として「自立」していくプロセスについては以前に当ブログでも軽くふれたが、抽象表現主義の絵画をそういった「現代絵画」の代表とみるならば、「音楽」のジャンルでこれに類比されるのは「無調性」だろう。
 Googleで「無調性」と検索をかけて3番目にきた「現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape」から引用させていただく。





無調(Atonality)

調性および機能和声に依拠しない音組織と、その作曲様式全般を指す。音楽史上では12音技法やトータル・セリエリズムの前段階として位置づけられている。リスト、ヴァーグナー、ドビュッシーなどによって、19世紀後半から調性という一種の規範がゆらぎ始めた。こうした流れを決定付けたのはシェーンベルクである。しかし、彼が意味するところの無調は単に調性を回避するための機械的な操作ではなく、不協和音をより自由に用いるための方策だった。つまり、彼はあらゆる音や和音を合目的性から解放したのである。これが調性および機能和声からの逸脱となり、結果として無調の音楽が生まれることになった。その最初期の楽曲が《弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 Op.10》(1907-8)だ。シェーンベルクと親交のあったカンディンスキーは、ほぼ同時期に無調の革新性を自身の透視遠近法の放棄と重ね、抽象画へと進んだ。この両者の転換の歴史的符合は、当時の思潮を知るうえで非常に興味深い例である。シェーンベルクら新ウィーン楽派による「調性の超克」とでもいうべき動機とはまったく異なる次元の音楽も、無調の域に入れてもいいだろう。西洋音楽とは異なった日本音楽独自の音階を使った音楽(eminus注。ここではとうぜん武満徹などが想定されているだろう)や、電子音楽も広義の無調音楽である。のちに無調は12音技法、そしてトータル・セリエリズムへと到達し、第二次世界大戦後のアカデミックな音楽の主流となった。今日の現代音楽における創作の現場では、もはや無調が当然のこととされ、調性の有無が議論されることはほとんどない。だが、ある種のミニマル・ミュージックや新ロマン主義のように、調性を感じさせる音楽が今なお生きていることも確かだ。
著者: 高橋智子




 ここでカンディンスキーの名が挙げられているのは、ぼくの言ってることを裏打ちしてくれるだろう。
 さて、ロックってものは基本的にドミソの音楽なんで、主旋律だけならリコーダーっていうか、小学生の縦笛でも吹ける。そこにギター・リフやベースやドラムが絡んでようやく「商品」になる。
 電気を通さないロックをわざわざ「アンプラグド」と称するように、ロックってものはエレクトリカルが原則で、それはどういうことかっていうと、「音が歪む」のが発祥以来の前提となってるってことだ。そうすることで従来の和声を無効化・もしくは破壊する。
 「前衛がどうの」なんて難しいことは考えず、「カッコよさ」を追い求めるうちに、クラシックとは別のルートをたどって「現代音楽」に達したわけだ。上に引かせて頂いた一文は、「電子音楽も広義の無調音楽である。」と、ちゃんとそこを抑えている。そして現在ではさらに、パソコンの進化に伴い、「音を加工する」のが常識となった。
 加工されたサウンドはリアリズムを超えてより深い表現になりうる。これは10.08.の記事「アニメとリアリズム(雑談的試論)」にも繋がる話だ。
 マーク・フィッシャーの論旨をぼくなりに咀嚼するならば、つまり彼は、「Burialの音は、優れた文学や映画がそうであるように、今の社会の憂鬱や病理や暴力などといったものを卓抜な皮膚感覚で捉えて鮮やかに表現している。」という意味のことを言っているはずだ。音楽は、たんに聴き流したり、踊って楽しんだりするだけじゃなく、ひとつの自立した表現になりうる。







Burial

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 Burialの名はマーク・フィッシャーのブログで知った。
 ウィキペディア(日本版)には、「ブリアル(ベリアル Burial /ˈbɛɹɪəl/)は、イギリスのロンドン出身のミュージシャン、ウィリアム・ビヴァン (William Bevan) のソロプロジェクト。」とある。
 このプロジェクト名、日本語にすれば「埋葬」だ。おいおい……という感じだが、しかし今年(2020)の62回グラミー賞を席巻したビリー・アイリッシュのブレイク曲が“bury a friend”なんだから、今やこれくらいべつにアングラってほどでもないか。
 2006に出たファーストアルバム『Burial』について、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」とマーク・フィッシャーは書いている。ぼくがその文章を読んだのはごく最近のことで(そもそもマーク・フィッシャーのことを知ったのがごく最近なのだ)、すぐにyoutubeで聴いてみて、彼からほぼ14年遅れで、ぼくも同じ感想をもった。
 2000あたりだったか、輸入CDをよく買っていた時期があり、そのころ好きだったのがトリッキー、マッシヴ・アタックなどのいわゆるブリストル・サウンド(トリップ・ホップとも称される。厳密にいえば微妙に違うんだけどね)で、ことにポーティスヘッドの2ndはよく聴いた。ひどく荒っぽくいうと、ホラー映画のサウンドトラックを知的に再構成したような音だ。1stのアルバム・ジャケットなんていかにもそんなイメージである。(ただしぼくはホラー映画じたいは大嫌い……というかコワくてぜったい観られないのだが)。
 ほかにナイン・インチ・ネイルズも好きだった。「ダウンワード・パラダイス」はじつは「ダウンワード・スパイラル」のもじりなのだ。しかし今このアルバムを聴き返すと、まるで歌謡曲みたいに聴こえちまうからえらいもんだ。音楽業界も進んだし、ぼくの耳も多少なりとも進んでるらしい。
 ドラムン・ベースも作業用BGMとしてよく聴いた。とはいえ、「このアーティストの音さえあればほかは要らない。」とまで思ったことはない。どれも少しずつ物足りなかった。
 Burialはほぼパーフェクトに近い。Burialのもつ暗鬱と官能、脱力感と疾走感との絶妙の兼ね合い、ブルージーとノイジー、メタリックなビート、どれもが「僕が何年も夢見ていた」ものだ。


 マーク・フィッシャーは、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」のあとをこう続ける。試訳してみよう。


「(……前略……)Burialは音の偶発的な物質性を抑圧するのではなく、むしろ前景化して、クラックル(eminus注。パチパチいうノイズ音)からオーディオ・スペクトルを創り出している。かつてトリッキーやポール(eminus注。ベルリンを拠点に活動するダブ・テクノの大御所Stefan Betkeのソロプロジェクト名)のcracklology(eminus注。造語。パチパチ音の美学。みたいな意味)は、ダブの唯物論的な魔術をさらに発展させて、録音の継ぎ目を裏返しにして聴かせ、それがぼくたちを歓喜させた。ペンマン(eminus注。イアン・ペンマン。癖の強い文体で知られるイギリスの音楽批評家)が「録音の抑圧や歪みではなく、ノイズ音自体が、われわれが感知できぬなりに存在している何かの正しい表現であるかのように」と評してるとおりに。しかしBurialのサウンドは、トリッキーのブリストルの水耕栽培のような熱気や、ポールのベルリンのじめじめした洞窟じゃない。プレスリリースは、「近未来の水没した南ロンドンの街を連想させる。」と言っている。「パチパチというクラック音は、燃えている海賊ラジオからの音なのか、あるいは窓の外の水没した街の土砂降りの音だろうか。」と。


 引用をもうすこし続けよう。


「近未来か……なるほど。だけど、この不毛な春に湿った霧雨の降る南ロンドンの通りを歩きながらBurilを聴いてると、この音こそがまさしくロンドンの今なんだって気づく。過去だけでなく失われた未来に取り憑かれた街を暗示しているのだ。つまり、近未来じゃなく、手の届かない未来の痛みの疼きに悩まされている街を暗示してるんだ。」







 ちなみにこの「失われた未来」というフレーズは、マーク・フィッシャーの日本における紹介者の一人でもある木澤佐登志さんが気に入っていて、連載エッセイのタイトルにも採用している。




 マーク・フィッシャーの文章はこのあとも続いて、だんだんと凄いっていうか、深いところに入っていくんだけど、どうもgooブログにはそぐわないので、フィッシャーについてはまた気が向いたらnoteにでも書くことにして、次回はもう少しBurialの話をやりましょう。
















アニメとリアリズム(雑談的試論)

2020-10-08 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 それにしても、そもそも「アニメでリアリズムができるのか。」って問題はあるね。『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』の時代からほぼ半世紀を閲して、作画の点でも内容の点でも、制作技術が長足の進歩を遂げているから、ひとくちに「アニメ」つっても同列には論じられないわけだけど、それでもやっぱりふつうの映画なりドラマ、すなわち「実写」に対してアニメのほうはワンランク軽くみられてる印象はある。さすがに「子どもの見るもの」とはもはや思われてはいないだろうけど(プリキュアシリーズみたく、もともと児童を対象につくられてるものは別ですよ)、総体として、視聴対象年齢は実写に比べてより低く見積もられてるのは間違いない。


 「演劇」ってものは古代ギリシアからの伝統があるんで、それに比べたら「近代」の産物である映画やドラマもぜんぜん「サブカルチャー」なんだけど、サブカルの中にも階層があって、アニメはさらに下ですよと。しかも「アニメーション」を「アニメ」と表記することで、ニュアンスとしてはさらにまたランクがひとつ下がるわけですが。


 その理由についてはいろいろなアプローチができると思うんだけども、煎じ詰めればアニメというのが結局は「記号」として表象されるってことに尽きると思うんだな。記号の集積なんですよね全部が。何よりもまず人物。つまりキャラ。これは1991年に公開された高畑勲監督の……まあ一種の実験作といってもいいと思うんだけど……『おもひでぽろぽろ』が逆説的に(もしくは確信犯的に)明らかにしたことですね。たとえばヒロインが笑うと口角や目元に「笑いじわ」ができる。それがラインとして(専門的には「マッハ線」というんだけど)描き込まれてみると、どうしても目についてしまう。違和感が残る。それは実生活においてわれわれの目が「明暗」ないし「光の濃淡」として捉えてるものをアニメでは「線」として描かざるをえないせいですね。


『おもひでぽろぽろ』より。(念のために言っときますが、これは行論のためにあえてこういうカットを切り取ったんで、むろんヒロインは基本的には可愛らしく描かれているし、『おもひでぽろぽろ』はとても良い作品ですよ)



 いうまでもなく、これでは萌えない。そういう意味では90年代以降の高畑監督の主題のひとつに「萌えの峻拒」ってものがあったとぼく個人は考えてるけど、これは高畑勲論になってしまうのでまたの機会に。ともかく、アニメのキャラってものはそういった「笑いじわ」やら何やらをカットして成立しているものだ、という前提が既にぼくたちのなかにはある。ようするにそれは「記号化」を受け入れてるってことだよね。つまり「へのへのもへじ」すら「顔」として認識してしまうような……いわゆるシミュラクラ現象……人間の知覚のありかたを最大限に利用した表現手段として大多数のアニメは製作され、流通し、受容されている。


 もうひとり、アニメ史に残る天才のなかで、高畑さんとは違って「描きたくても萌え絵が描けない」という……それもまた偉大な才能であるとぼくは思ってますけども……方がおられて、大友克洋さんですね。この方のつくるヒロイン像は、男性キャラと同じ顔をしている。

『AKIRA』より




 「2020年トーキョー・オリンピック(中止)」の件で再び注目を集めた『AKIRA』(アニメ版公開は1988/昭和63年)は、ハリウッド映画『ブレードランナー』(公開は1982年)と共に「サイバーパンク」の世界観をビジュアライズした傑作でしたが、その『AKIRA』の「普及版」ともいうべき『老人Z』(公開は1991年)においては、キャラデザインを江口寿史が担当したんですよね。



『老人Z』より




 一目瞭然(笑)。ぜんぜん違う(笑)。江口さんの絵は洗練度が高いんでイラストみたいにリアルっぽくも見えますが、それでも「可愛さ」のコードに合わせて記号化が施されているのは明らかでしょう。このヒロインが大友さんのキャラデザインだったら、動員数がかなり変わったんじゃないかな。「萌え」がユーキャン流行語大賞に選出されたのは2005年らしいんで、90年代でもまだ「萌え」という単語はさほど人口に膾炙してなかった。それでも既に80年代には、「萌え」要素の多寡が作品の売り上げに直結するってことは自明の理として作り手の側には行きわたってたと思う。『うる星やつら』のラムちゃんに対する当時の思春期の少年たちの熱の上げ方なんて、それを措いては説明できないもんね。ぼく個人は、その「キャラの記号化」のひとつの到達点が「まどか☆マギカ」(テレビ放映は2011年)だと想定してますが。


 今回のテーマに即して話を戻すと……「萌え」という用語をよりエレガントに「感情移入」と言い換えるならば……キャラクターの「記号化」は見る者の感情移入を妨げぬばかりか、よりいっそう感情移入に寄与する。という一見アイロニカルな、しかしよく考えてみれば「当たり前じゃん?」と言いたくもなる事実が明らかになるわけですね。何のことはない、そんなのはディズニーアニメを日本の文脈に換骨奪胎した手塚治虫御大が黎明期においてとっくにやってたことだぜ。という声も聞こえてくるわけですが。


 それで、2000年代いこう、「キャラを記号化しながら尚且つ一定のリアリティーをも付与する」……だって本物の「へのへのもへじ」には誰も「萌え」ませんからね……というテクニックが作り手サイドで飛躍的に高まっていった。とぼくは推察しているわけだけど(そんなにアニメを見てるわけじゃないんで、あくまで推察です)、いっぽう、それとは対照的に、記号化ではなくひたすら「実写」のクオリティーに近づいていった……というか、もはやフィルムやビデオ機材の捉える映像を超えて、より精緻かつ美麗になっていった。のが背景美術でしょう。


 それはもちろんCG技術の目覚ましい発達によるものだけど、撮影ののちいったんパソコンに取り込まれた上で光や色を足されるなどして加工・編集を経た都市や田舎の風景は、作品の内容いぜんにもう、ただそれを見ているだけで或る種の感動を覚えざるをえないほどの水準に達している。ぼくがそれに気づいたのは2013年に放映された『はたらく魔王さま!』ってアニメで、まったく何の予備知識もなくたまたま見つけて、ラノベが原作らしいんだけど、申し訳ないが内容については当時もぜんぜん興味をひかれなかったし、今ではまるで覚えていないんだけども、とにかく背景が綺麗でね。背景美術を見たいがために毎週チャンネルを合わせてましたね。



『はたらく魔王さま!』より


『はたらく魔王さま!』より




 だけど深夜アニメなんてのはそれこそ「サブカルの中でもワンランク下」で、冒頭の話に戻るけど、世間的には「ガキの見るもん」って扱いでしょう。ただ、そういう風潮に一石を投じた。というか、社会の通念をあるていど革めるのに大きく寄与した。といっていいのが2016年に劇場公開された新海誠監督の『君の名は。』ですよね。内容がセンチメンタルだとか、セカイ系じゃないかとか不平を述べる人がいたとしても、あの映像の美しさだけは認めざるを得ないと思う。ビジュアルの訴求力ってのはそれくらい圧倒的だからね。


『君の名は。』より


『君の名は。』より。ただしこの画像は本編にはない。



 ただね、ここでまた冒頭の話に戻るんだけども、こうやって表象されたものであってもやっぱりそれは「記号」なんだよね。ハイパーリアリズムばりの緻密さで迫ってくるからうっかりしてしまうんだけども、それが人の手によって改編されたものである以上、この風景は「記号」であると。あくまでも記号化された「現実」なんですよ。


 つまり、アニメにおいては「キャラ」も「風景」も同じように記号化されてるんだけど、いわばそのベクトルが両極に分かれちゃってるわけだ。キャラの「記号化」はもっぱらデフォルメと簡略の方向を目指して為され、風景の記号化は逆に緻密および美麗の方向を目指して為されるというね……。そして、現代の日本アニメの風景描写ってものは、ほとんど19世紀のロマン主義でいう「崇高」に近づいてると思うんだよね。だからそれは、リアリズムというよりロマンティシズムであると。


 『君の名は。』を劇場で見ての帰り道、いつもの都会の風景が妙に汚く見えちゃったのを今でも覚えてるんですよ。とくに裏通りに入った時なんか酷かった(笑)。ゴミとかさ。でもそれがフツーの現実なんだよね。あたりまえだけど。そういった夾雑物っていうか、ノイズをぜんぶクリアカットして、さらに修正を施したものが今のアニメの背景ならば、それもまた、「リアリズム」とは別種のものですよね。
















期間限定記事・ばらかもん

2020-10-06 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


(この記事は20年10月06日付です。gyaoでの無料配信期間は終了しました。)



dig フカボリスト。口がわるい。




e-minor ……当ブログ管理人eminusの別人格。




☆☆☆☆☆☆☆




 どうもe-minorです。


 digだよ。


 本日は時間がないので立ち話ていどになると思うけれども。


 手短にやらせてもらうぜ。


 ギャグ満載のとにかく楽しい作品です。毎回毎回、たっぷり笑って最後にほろり。「笑いありナミダあり」ってやつ。『昭和元禄落語心中』、『坂道のアポロン』につづいて、gyaoでの期間限定・無料公開アニメのご紹介。


 どれも基本的にはリアリズムで描かれてる点が共通してるな。あと作者が女性であるところも共通……といいたいところだが、いま調べたら、『ばらかもん』のヨシノサツキ氏は男性とのことだった。


 「長崎県五島市出身・在住」とウィキペディアにあるね。それで、さらに「長崎県五島市」を引くと、「長崎港から約100キロメートルの位置にあり、11の有人島と52の無人島により構成されている。」とある。いわゆる離島なんだけど、これはそのような作者にしか描けないお話。


 「ばらかもん」とは現地のことばで「元気者(元気なやつ)」という意味らしい。ただこの主人公の青年・半田清舟(はんだ せいしゅう。これは書家としての号で、本名は半田清)は第1話の時点では「元気」とは程遠い。


 むしろ意気消沈してるよね。引き続きウィキ先生の記述を借りつつ補足すると、「23歳。身長は174センチ。かなりのイケメン。書道界の家元の後継ぎ。期待の新鋭として名を馳せていたが、入賞作品を書道界の重鎮に酷評されて逆上し、暴力沙汰を起こす。大事には至らなかったものの、父から“頭を冷やして来い”と命じられ、単身、五島に移り住む。」


 でもこれなあ、「酷評されて」って言うけども。


 「書道界の重鎮」って、美術館の館長なんだよね。受賞パーティーのさなか、自分の書いた作品を前にしてこう言われるんだ。「まだ若いのに、型にはまった字を書くね。手本のような字というべきか、賞のために書いた字というべきか。君は平凡という壁を乗り越えようとしたか? 長いこと運営していると、目が肥える。じつに詰まらん字だ」


 それで「基本に忠実で何が悪いっ」と言って殴り掛かる、というか、じっさいに殴ってしまうわけだけど、これは館長の言うのが正論だよな。修業時代ならともかく、プロだったら個性を出すのが当然だ。


 だよね。半田の生真面目さと、世間知らずでプライドの高い性格を示してるんだろうけど、いきなりここは「ん?」と思った。しかも目上の高齢者を殴るってのは尋常じゃなくて、これは書道界うんぬん以前に、社会人としてアウトでしょ、ふつうなら。


 だから最初は主人公の半田に感情移入できなくて、いまひとつ気持ちの据わりが悪いんだけど、なるが出てきた瞬間にもう……


 そうそう。いやでも、とつぜん「なる」っていっても読んでる人にはわからない。ではgyaoの公式コピーから。
「東京で“ある事件”を起こしたイケメン書道家・半田清舟(小野大輔)。雑音から離れ書道と向き合うため、身寄りのいない島に一人で生活することに。海と山がきれいで人口が少ない小さな田舎町。借りた家は、汲み取り式便所にバランス釜のお風呂、ネズミが走るボロ屋……そんな家には、元気過ぎる小学1年生のなる(原涼子)が秘密基地として遊んでいた。一人になりたいのに一人になれない、半田の慌ただしい島生活が始まる。」


 この「なる」のCVを務める声優さんがむちゃくちゃ上手いのな。


 原涼子さんという方らしいね。子役出身で、現在は15歳とか。アニメ版が放映されたのは2014年7月~9月だから、当時は9歳くらいってことになるけど、それでこの演技力……


 なにが凄いって、ずっと方言なんだよ、なるは。


 うん。だから、「現地というか、同じ方言圏の中からオーディションで選んだのか」なんて思ってんだけど、ウィキで肩書をみたら、神奈川県横須賀市出身なんだ、この方は。


 ウィキペディアの「原涼子」の項には、『ばらかもん』のことが特筆してあるよな。


 そうなんだ。原作者のヨシノサツキ氏は、「子どもには方言は無理だと思うので、なるは標準語でしゃべらせてほしい」と言っていたそうだ。しかし、あまりにも原さんが上手かったので、その懸念は払拭された。ちなみに原さん、最初に方言での台詞の入ったCDを貰って、それを何度も聞いて覚え、難しいところは現場で教わってこなしたとのこと。


 よほど耳がいいんだなあ。


 この「なる」がもし標準語で喋ってたら、このアニメの魅力は半減したろうね。


 半減っていうか、十分の一くらいかな。いや内容も音楽もいいんだよ。もちろんそれだって良作になったとは思うけど、それくらい、なるの方言の力は大きいってこと。


 半田の移住したこの家を「秘密基地」にしてたのはなるだけじゃなく、中学生の山村美和と新井珠子もいる。そこに同級生の木戸浩志や他の児童たち、もちろん島の大人の人たちも濃密に加わって、「一人になりたいのに一人になれない、半田の慌ただしい島生活」が繰り広げられるわけだけど。


 いやアニメでこんなに笑わせてもらって、いい気分になったのは久しぶりだわ。


 「都会の生活に挫折した男(いやもちろん女でもいいけど)が、何かのきっかけで田舎で暮らすこととなり、そこでの暮らしのなかで人間的に成長を遂げ、再生の手がかりを掴む」というモティーフはたくさん前例があるだろうし、そこに「子ども」が絡んでくるのもしぜんな設定だと思うんだけど、これはその中でも傑作だと思うな。


 このアニメについては、おれのほうから付け加えることはないんだけども、ひとつ言いたかったのは、こないだまで2人でやってた「バナナフィッシュ」の件な。記事はまとめてnoteに移動しちまったが。


 うん。


 あれも青年と子どもがかかわる話だった。『ばらかもん』の半田はこのあと立ち直るんだろうけど、バナナフィッシュのほうは、あのとおり残念な結果になっただろ。


 シーモアは彼なりの悟りに達して幸福だったかもしれないが、一般的には、そりゃ残念としか言いようがない。


 そこが第二次大戦の生んだアメリカの純文学と、平和を謳歌する泰平ニッポンでつくられたエンターテインメントとの違いだなあ、ということは思ったな。


 どちらも大事なものだし、その双方が揃って文化ってものは豊かになるとは思うけどね。


 たしかにな。


 というわけで、今回のお薦めアニメは『ばらかもん』、ぼくらも気づくのが遅かったんで、第2話だけは無料公開が終わってしまいましたが、1話とその他の話数にはまだ間に合うんで、よかったらご覧ください。



(この記事は20年10月06日付です。gyaoでの無料配信期間は終了しました。)


















世界名作アニメ劇場・全タイトルのリスト

2020-09-27 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 これも別のブログに掲載していた記事です。そちらのほうは、クラウド代わりってわけじゃないけど、ネットのうえにメモを置くつもりでやってたんですね。自分にとってそれなりに大事で、ほかの誰かが見ても役に立ちそうな情報を保存してました。「世界名作アニメ劇場」については、このブログでも何度かふれたことがあるので、ここに移しておきましょう。




☆☆☆☆☆☆☆


 ぼくなんかが子どもの頃には、「世界名作アニメ劇場」ってのがあってね。あれが毎週の楽しみだった。まあ、『フランダースの犬』なんて、むしろ「毎週の悲しみだった」というべきだけども……。いまの世相じゃ、子ども向けであの設定はありえないでしょうね。
 それはともかく、内容においても作画においても、世界的にみて最高といっていい水準だった。「ハイジ」なんて、ヨーロッパに逆輸入されて人気になったほどだからね(ただし本国のスイスでは必ずしも評価が高くないらしいが)。高畑勲、宮崎駿両巨匠をはじめ、のちに「スタジオジブリ」に集うスタッフもたくさん参加していた。「ジブリの前身」とまでいったら言い過ぎだけど、のちのジブリアニメを涵養する土壌となったのは間違いないでしょう。
 下にまとめたとおり、ほぼすべての作品が海外の児童文学を原作にしており、かつ、それらは「ピーターパン」など一部を除いてほぼすべてがリアリズムを基調にしていた。ここが最大の特徴であったと思います。ファンタジーではなかったわけね。
 ぼくはプリキュアシリーズに好感をもっていて、はからずもカテゴリまで設けてしまったほどだけど、本音をいうと、「子ども向け」の作品ってのはリアリズムで語られるのが望ましいと思ってるんですよ。その点については畏れ多くも故・高畑勲御大と同意見なんだ。つまり、ニホンという国が貧しい時代ならファンタジーに夢を託すのもよかったけれど、これだけ豊かになってきたら、もういちどていねいなリアリズムに戻ったほうがいいんじゃないかと考えてるわけです。こういうところは、やはり「純文学」の人間なんでしょう。
 むろん、現状はまったく正反対で、どちらを向いても「ファンタジーしかない。」と言うべき状況ですけどね。まあそれだけファンタジーってのは魅力的だってことですね。
 前置きが長くなりました。ウィキペディア先生を頼りに作ったリストです。①放映年度 ②タイトル ③総話数 ④作品の舞台 ⑤原作者名 ⑥(その原作者の国籍)の順になってます。


 1973年 山ねずみロッキーチャック 全52話  アメリカ ソーントン・バージェス(アメリカ)
 1974年 アルプスの少女ハイジ 全52話 スイス/ドイツ ヨハンナ・スピリ(スイス)
 1975年 フランダースの犬 全52話 ベルギー ウィーダ(イギリス)
 1976年 母をたずねて三千里 全52話 イタリア~アルゼンチン エドモンド・デ・アミーチス(イタリア)
 1977年 あらいぐまラスカル 全52話 アメリカ スターリング・ノース(アメリカ)
 1978年 ペリーヌ物語 全53話 フランス エクトール・アンリ・マロ(フランス)
 1979年 赤毛のアン 全50話 カナダ L・M・モンゴメリ(カナダ)
 1980年 トム・ソーヤーの冒険 全49話 アメリカ マーク・トウェイン(アメリカ)
 1981年 家族ロビンソン漂流記・ふしぎな島のフローネ 全50話 スイス/オーストラリア ヨハン・ダビット・ウィース(スイス)
 1982年 南の虹のルーシー 全50話 オーストラリア フィリス・ピディングトン(オーストラリア)
 1983年 アルプス物語・わたしのアンネット 全48話 スイス パトリシア・メアリー・セントジョン(イギリス)
 1984年 牧場の少女カトリ 全49話 フィンランド アウニ・ヌオリワーラ(フィンランド)
 1985年 小公女セーラ 全46話 イギリス フランシス・ホジソン・バーネット(アメリカ)
 1986年 愛少女ポリアンナ物語 全51話 アメリカ エレナ・ホグマン・ポーター(アメリカ)
 1987年 愛の若草物語 全48話 ルイーザ・メイ・オルコット(アメリカ)
 1988年 小公子セディ 全43話 アメリカ/イギリス フランシス・ホジソン・バーネット(アメリカ)
 1989年 ピーターパンの冒険 全41話 イギリス ジェームス・マシュー・バリー(イギリス)
 1990年 私のあしながおじさん 全40話 アメリカ ジーン・ウェブスター(アメリカ)
 1991年 トラップ一家物語 全40話 オーストリア マリア・フォン・トラップ(オーストリア)
 1992年 大草原の小さな天使 ブッシュベイビー 全40話 ケニア ウィリアム・H・スティーブンソン(イギリス)
 1993年 若草物語 ナンとジョー先生 全40話 アメリカ ルイーザ・メイ・オルコット(アメリカ)
 1994年 七つの海のティコ 全39話 七つの海 オリジナル作品
 1995年 ロミオの青い空 全33話 スイス/イタリア リザ・テツナー(ドイツ→スイスに亡命)
 1996年 名犬ラッシー 全26話 イギリス エリック・ナイト(イギリス)
 1996年~1997年 家なき子レミ 全26話 フランス エクトール・アンリ・マロ(フランス)




 かなり長いこと続いてたんだなあ。後半はさすがに知らないのが多い。初めは1年ものの大河だったのが、だんだん短くなっていったんですね。
 90年代半ば、「世界名作劇場終わる。」のニュースを聞いたときは、「ひとつの時代が幕を下ろしたなァ」と感慨に耽った記憶があります。
 今ではgyaoなどで大半のものは観られるし、ときどき期間限定の無料配信もしておりますが。


 なお、2000年代に、
 2007年 レ・ミゼラブル 少女コゼット 全52話 フランス ヴィクトル・ユゴー(フランス)
 2008年 ポルフィの長い旅 全52話 ギリシャ/イタリア/フランス ポール・ジャック・ボンゾン(フランス)
 2009年 こんにちは アン〜Before Green Gables 全39話 カナダ バッジ・ウィルソン(カナダ)
 の3作が制作・放映されたそうだけど、これらは地上波じゃなく、BSだったとか。




 あと、『おちゃめなふたご クレア学院物語』ってのがあったはずだと思ったら、これと『わたしとわたし ふたりのロッテ』は、「三井不動産アニメワールド」という別の枠だったらしい。ふーん。
 ついでなんでそっちもリストアップ。




 1989年~1990年 シートン動物記 全45話 アメリカ アーネスト・T・シートン(アメリカ)
 1991年 おちゃめなふたご クレア学院物語 全26話 イギリス イーニッド・ブライトン(イギリス)
 1991年~1992年 わたしとわたし ふたりのロッテ 全29話 ドイツ エーリッヒ・ケストナー(ドイツ)




 こちらも秀作でした。
 リアリズムってのは退屈になりがちだから、海外を舞台にすることで、子どもたちを楽しませるように工夫してたんだと思う。いろいろな土地や時代の風俗にふれて、好奇心を満たすことができたわけですね。それでいて、人情ってものはどこの土地、いつの時代でも普遍的なものだというメッセージも含んでいた。
 いまどきの児童にとってもきっと滋養になると思うんで、格段に進歩した今の技術で、また復活しないかなあと思うけど、どうしても地味になっちゃうんで、むずかしいでしょうねえ。










『女帝 エンペラー』 ラストで小剣(小刀)を投げた犯人は誰か?

2020-09-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 いまブログの整理をやっておりまして、これも以前に別のブログに掲載したものですが、よかったらお暇つぶしにどうぞ。映画の話です。この頃はまだ中国って国もそこまで危険じゃなかったですね……。

☆☆☆☆☆☆☆





  女帝 エンペラー。正しくは「エンプレス」ですが、これはあえてそんな邦題にしたそうです。
 2006年公開。中国と香港との合作映画。主演チャン・ツィイー。
 シェイクスピアの代表作『ハムレット』を、10世紀の「五代十国時代」を舞台に置き換えて翻案したアクション悲劇。
 いやアクション悲劇なんて言い回しは変だけど、ふつうの劇ならば役者の芝居で表現される内面のドラマや葛藤が、ド派手なアクションとしてビジュアル化されてるもんで、そう呼んでみたくなる。
 「あれではシェイクスピアが台無し」なんて評もあったようですが、「わずかでも隙を見せたら命がない。」という宮廷闘争の凄みが伝わってきて、ぼくは面白かったですね。いま思うとほとんどもうバトルファンタジー系アニメのようでもあった。
 チャン・ツィイーが主演だから、原作とは異なり、ハムレットではなく王妃ガートルードが話の中心となります。
 さてこの作品、ラストでそのチャン・ツィイー演じる婉(ワン)皇后の胸を、背後から飛来した小剣(小刀)が貫くというショッキングな結末を迎えるんだけど、はたしてその犯人は誰か、というのが公開当時に話題となった。
 ぼくも映画をみたあとアタマをひねり、ネットでも調べたんだけど、「女帝 エンペラー 映画 ラスト 犯人」で検索をかけても、なかなか上位に有意な記事がヒットしなくて、ちょっとイライラ。
 最近になって、ふと、そのことを思い出したんで、また紛れてしまわぬように、ここに書き留めておきます。
 皇后の側近のリン。どうやらこれが真相らしい。
 そもそもリンは新帝のスパイであった。
 つぶさに見返せば、劇中にヒントが散りばめられているそうな。
 なぜ新帝がワンの化粧の落としかたや、沐浴の順番を知っていたか。これはリンから聞いたわけですね。また、リンがワンに敵意をもっている表情を示すカットも、たびたび挿入されているとのこと。
 動機ですが、ワン皇后を殺めてもリンが権力の座につけるわけではないので、権勢欲とは無関係。
 愛憎がらみ。これが正解。リンはじつは新帝が好きだった。毒杯と知りつつ盃を仰いだ新帝の姿をみて、皇后に嫉妬を抱いたという次第。
 凄絶な権力闘争のお話が、最後には色恋沙汰で終わる、というところに皮肉がきいてるわけでしょう。








(期間限定記事)「坂道のアポロン」文化祭のシーン

2020-09-10 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)







川渕千太郎(drs.)




西見 薫(pf.)


文化祭での即興ジャム・セッション。この場に居合わせた生徒たちは、北島マヤの「女海賊ビアンカ」を観ることのできた高校生たちと同じくらい幸運だったね。


 1960年代後半の佐世保を舞台に、ジャズを愛する高校生男子二人の友情を描いた青春もの。原作は2009年度版「このマンガがすごい! オンナ編」にて1位に輝き、第57回小学館漫画賞一般向け部門も受賞した折り紙付きの名作。2018年には実写映画化も。
 このアニメ版は2012年4月 から 6月にかけて放送。 全12話。音楽監督は菅野よう子さんで、幾多のスタンダードナンバーを見事にアレンジしている。
 作中の演奏シーンがどれも素晴らしいのだが、ことにこの7話の文化祭のシーンは「アニメ史に残る3分31秒」として話題になった。もちろんここに至る経緯を知ってから観るのが望ましいんだけど、gyaoでの無料公開が2020年9月15日までとのことで、とりいそぎ紹介まで。


 ジャズの魅力はアドリブだろう。同じ曲をやっても、ミュージシャン同士の感情の流れや、その場の雰囲気しだいで別物になってしまうこともある。まさに一期一会。アドレスを貼ったシーンは、ご覧になればおわかりのとおり、「電気系統のトラブル」という不慮のアクシデントでたまたま成立した。もちろんこの二人はこれまで何度も一緒に練習をしており、だからこそここまで息の合ったライブができたわけだけど、ここに至るまでの数日間は、行き違いが重なって気まずくなっていた。それがこのセッションで一気に解放される。カタルシスに満ちたシーンでもあるわけだ。



 この好評に気をよくした二人は、周りからの薦めもあって翌年の文化祭では最初から出演を決め、念入りに準備をするのだけれど、前日の夜に起きたアクシデントによって中止を余儀なくされる。ポシャってしまうわけである。卒業してからは互いの道を歩み、何年かのちの最終話で、薫が千太郎を離島の教会に訪ねる、という形で再会を果たす。そしてそのまま、当然ながら何ひとつ打ち合わせなどしていないのに、またしても偶然に、かつ圧倒的に、セッションが成立してしまう。それがアニメ版の最終話(12話)だ。


 お話の作り方としてもうまいし、何よりも、ジャズの本質を捉えた名シーンだと思う。繰り返しになるが、まさに一期一会。その時、その場所でなければ成立しない1度かぎりのもの。生前の中上健次は、「レコードをぶっ壊せ。」としつこく言っていたけれど、たぶんそういう意味だったんだと思う。まあ、どちらのシーンで使われた演奏も、プロのミュージシャンがスタジオ録音したものなんだけど、そこは言わぬが花ってことで。


 とにもかくにも、本編をお見逃しになった方は、とりあえずこの7話の文化祭のシーンだけでもどうぞ。おおむね16:00あたりから。

(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)






深掘り談義 『HUNTER×HUNTER』のこと。

2020-08-30 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 dig フカボリスト。




 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。







明朗で真っすぐな主人公ゴン・フリークス

 

☆☆☆☆☆☆☆



 どうもe-minorです。


 digです。


 いや随分と間が開いたね。


 他人事みたいにいうな。お前さんのブログだろ。


 だってdigが呼んでもきてくれないからさ。


 なにしろ暑すぎたよ。でも、おれが居なくても、ひとりで記事は書けてたじゃんか。


 何とかね。本調子とは程遠いけど、さすがに「バナナフィッシュにうってつけの日」だけはちゃんとやっとかないとダメでしょ。


 akiさんのおかげで「有意義な寄り道」ができましたって感じで、前回は大江健三郎の話になったわけだが……。


 「純文学そのものにはさほど興味がない。」という意味のことを仰りつつも、こちらの意図をぱぱっと汲んで、本質を的確に突いたコメントを下さるakiさんはほんとにありがたいね。それで、「話がえらく逸れちゃった」と言いたいとこだけど、でも、いっけん何の関係もなさそうにみえるサリンジャーと大江さんとのあいだにちゃんと繋がりがあるんだから、ブンガクってのは面白いんだよなあ。


 そう。サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」はイギリスのノーベル賞詩人T・S・エリオット(1888 明治21 ~1965 昭和40)の代表作「荒地」(岩波文庫より邦訳あり)を下敷きにしていて、これは20世紀を代表するたいへんな名詩なんだけど、後期の大江健三郎もまたこのエリオットに心酔しており、彼のいくつかの詩篇をモチーフにして『さようなら、私の本よ!』(講談社文庫)という長編を書いている。


 ただ、あの小説は老年の感慨をうたった「ゲロンチョン(小さな老人)」という詩が主眼で、「荒地」については言及されてないんだけどね。


 でもエリオットをネタに作品を書いて「荒地」が念頭にないはずがない。サリンジャーと大江は「荒地」によって繋がっている、と述べても誤りにはならぬはずだぜ。


 ていうか、「荒地」って作品そのものが「アーサー王伝説」に多くを負ってて、つまりは西欧的キリスト教なるものの精髄(エッセンス)といった趣があるわけだよね。だから多くの優れた文学者が惹きつけられ、自作のモチーフにするのもむしろ当然なんだ。


 文学者だけじゃないぞ。F・F・コッポラの大作『地獄の黙示録』だって、表向きの原作はコンラッドの『闇の奥』だけど、じつは「荒地」を下敷きにしている。


 うん。もっと言うなら、「荒地」という作品は、人間(人類)の営みの基底に存する本質的なものに達してるんだよね。そしてまたそれは、おしなべて優れた創作物に共通することだ。だから、いい作品ってのは何らかのかたちでぜんぶ連鎖しているわけだよ。文学や映画、さらにはアニメや漫画といったサブカルまで含めてさ。


 それで思い出したが、こないだ『HUNTER×HUNTER』ってアニメを見たぞ。


 ああ……たしかあれって2回アニメ化されてるけど……。


 もちろん、新しい2011年開始のマッドハウス版のほうだ。


 マッドハウスっていえば、『宇宙よりも遠い場所』の制作会社だなあ。でもあれ長いんでしょ? たしか3年くらい放映してなかった?


 全148話だ。


 大作だね。


 いや、じっさいに大河ドラマだよ。まだ途中までだがね。原作そのものも未完で、長期にわたって中断しているらしい。


 原作は冨樫義博って人だよね。富樫さんっていえば、『レベルE』というのをたまたま読んだことがある。「宇宙最高の頭脳」をもった異星人の美男の王子が、辺境の未開の惑星・地球をターゲットにして、宇宙規模の悪ふざけを仕掛けるって話だ。あれを読んで、なんてまあアタマが良くて人の悪い作家なんだこの男は……と軽くショックを受けた覚えがある。まったく必要のない悪ふざけだけで多数の人々(というか星々)を巻き込んで、壮大なドタバタを繰り広げるってんだから……。ぼくは根が生真面目だから、逆立ちしてもあんな設定は思いつけない。


 うん。『HUNTER×HUNTER』は、王道のバトルアクション漫画の定型を借りつつ、その「アタマの良さ」と「人の悪さ」とを存分に発揮した作品だよ。


 かなり残酷な描写があるって話を耳にして、それで敬遠してたんだけど……。


 私見によれば、富樫ってひとは近代のいわゆる「人間中心主義」を信じてないようだな。ハンターは狩るものであると同時に、ひとつ間違えばすぐさま狩られるものとなる。人間と、異種の生物とのあいだに何ら「上下関係」などない。そういう思想を感じるわな。


 その「異種の生物」ってものがもし高度な知性をもっていたなら尚更だよね。


 いや、まさにそこなんだよ。現時点での「本編」というべき「キメラアント編」では……いやここまでに至る各編もむろん面白いんだが……その「高度な知性」(と桁外れに強大なパワー)を有する「キメラアント(怪物蟻)」たちこそがいわば主役の座につく。就中(なかんづく)、最期に「メルエム」という名前を獲得するキメラアントの「王」の造形がじつに魅力的だ。「コムギ」という異様な棋才をもった、そのくせ実生活ではまるで無能な人間の少女が彼の相手役を務めるんだがね。この取り合わせがすばらしいんだよ。



キメラアントの王「メルエム」とコムギ




 えっと、棋才ってことは、そのコ将棋が強いわけ?


 将棋とはまた別の「軍儀」っていう作品オリジナルの盤上ゲームがあってね。かの王はその気になったら単身で一国丸ごと壊滅させられるほどのパワーをもち、かつは並外れた頭脳も兼備していて短時間でチェスや囲碁や将棋の世界チャンピオンを片端から打ち破るまでになるんだが、この「軍儀」だけは何度やってもコムギに勝てない。そのことから、増上慢の極みで人を人とも思わず、部下の命さえ平然と奪ってきたこの王が、少しずつ、少しずつ「他者」の存在に目覚めていく。そういう設定なのだ。


 ははあ。それは確かに面白そうだ。いわば嬰児が「外界=世界」に目を開いていく過程をなぞってるわけだもんな。あと物語論的にみれば、その「コムギ」って子を「道化」と見立てて、「王と道化」の新バージョンってことにもなるよね。『リア王』とかさ。


 涙腺を刺激するって点では、シェイクスピアよりも冨樫義博のほうがずっと上だよ。それがエンタメってものの楽しさであり、またコワさでもあってな。


 コワいってのは、あまりにも容易く感情を持ってかれちゃうってことだよね。


 そう。ただ、たんに感情を弄ばれるってわけじゃなく、メルエムの「自分探し」のプロセスは「純文学」として見ても十分に説得力があるし、「王とは何か?」という一種「哲学的」な考察に成りえてもいる。なかなか侮れぬ作品だぜ。


 それはつまり、ジャンプ系少年漫画の王道である「バトルファンタジー」の枠組みに依拠しつつ、それを超え出てるってことかな?


 うん。つまりはそこが、お前さんのいう「アタマの良さ」と「人の悪さ」との賜物だろうな。ここは慎重にいうべきところだが、仮に鳥山明(ドラゴンボール)、尾田栄一郎(ワンピース)、岸本斉史(ナルト)と並べて、冨樫義博と比べてみたら、だれがいちばん偏差値高くて性格わるいかは明らかだろうさ。


 ぼくはその中のどれもきちんと読んでないから、すぐには何とも言えないけどね。


 『HUNTER×HUNTER』は『GAMER×GAMER』ってタイトルでもよかったんじゃないかと思うくらいに、ゲームの要素が大きいんだよ。どの戦いも、シンプルな物理攻撃による力押しではないんだな。それは騙し合いのコンゲーム(詐欺師もの)でもあるし、大体、異種能力者同士の戦闘そのものが「ルールの違う競技者が同じフィールドで闘う」っていう異種格闘技的な高等ゲームでもあるわけで。


 そういう感じはわかる。たぶん直系の鼻祖はやっぱり山田風太郎の「忍法帖シリーズ」だと思うけど。


 そうそう。「中2的」……っていうよりむしろ「幼児的」妄想炸裂の世界なんだけど、それをこれだけの質量で展開されたら引き込まれざるをえないっていうね……。宮崎駿だったかな、「作家にいちばん不可欠なものは幼児性だ。」ってね。筒井康隆も似たようなことをいってたと思うが。


 常識の枷をぶち壊す放恣な想像力=創造力ってことかな。オトナになるに従って、よかれあしかれ失わちゃうんだよね。


 そこに「アタマの良さ」と「人の悪さ」とがふくざつに絡み合うことで一流の作家が生まれるわけだが、のみならず富樫ってひとは、先にもいったが哲学的な考察力も備えているし、分析力もあるんだな。この作品の根幹を成すキーコンセプトに「念」ってものがあるんだが……


 「念力」とかの「念」?


 うん。ドラゴンボールにおける「気」に相当するものかな。物理的・化学的・生理学的法則を超えた精神のパワー、しかし「魔法」にまでは至らないっていうね。


 わかるわかる。




ゴンの無二の親友だが、複雑な陰りをもったキルア・ゾルディック




 その「念」の力を修得することで主人公の少年ゴン・フリークスと、彼の「シャドウ(影)」に当たるキルア・ゾルディックのふたりはどんどん強くなっていくんだけども、冨樫義博は作中で、彼らの師匠にあたるキャラの口を借りて、この「念」の力ってものを「強化系・放出系・操作系・特質系・具現化系・変化系」の6種に分類してるんだ。興味ぶかいことに、これはべつだん『HUNTER×HUNTER』の世界に留まらず、ほかのバトル系ファンタジーにも、古いとこではサイボーグ009とか、それこそ山田風太郎の忍法帖ものに出てくる異能力者とか、およそすべてのものに当てはまるんだな。


 網羅しちゃってるんだ。


 網羅しちゃってるんだよ。そういう分析力の持ち主でもある。結果として『HUNTER×HUNTER』は、ジャンプ系少年バトルファンタジーの定型を借りつつ、それを超えた何かになりえている。あれ? だけどこれ、さっきから同じこと何度も言ってるなァ。


 まあいいじゃん。


 ただ、不満を呈すべきところもある。「勢い」と「面白さ」を重んじるあまり、わりと早い段階で重大な矛盾が生じてもいる。先にふれた「念」のことだけど、作品が始まって「ハンター試験」に臨んだ時点では、主人公のゴンはもとよりキルアもまったく念のことを知らない。念の存在はストーリーの進展につれて徐々に明らかになっていくんだな。それは稀にみる資質を持った者が血の滲む修行の末に獲得し、研鑽を積んで成長させていくものなんだが、後のほうになると、例の「敵のインフレーション」ってやつが起こって、極端にいえばそのへんのチンピラみたいのまでがけっこう高度な「念」の使い手だったりするわけだ。「念」がそこまでポピュラーなものであるならば、野生児のゴンはともかく「超一流の暗殺者」の家系に育ったキルアが、それを身に付けてないはずがない。ましてや知らないなんてことは考えられない。この矛盾はこれまで説明がなされてないし、今後とも説明のしようがないだろう。そういった瑕瑾は目につくね。


 まあ、そこはジャンプ系漫画の通弊でしょう。「整合性」や「完成度」は二の次で、「勢い」と「面白さ」が最優先だから。なにしろ人気が落ちると連載そのものが打ち切られちゃう。


 ああ。だから、精密機械みたいな「整合性」と「完成度」を誇る『鋼の錬金術師』とはまるで別のものだな。あれは「少年ガンガン」という比較的フリーな媒体だからできたわけだろう。


 だよね。ハガレンもほんと凄いんで、いつかはやりたかったんだけどな。あれ、だけどこれ、けっこう長くなったよね。そろそろお時間なんだけど、また「バナナフィッシュ」の話がぜんぜんできなかったね。


 冒頭にちょっとやっただろ。


 シーモア君、いつになったら浜辺にいってシビルと会えるんだろうな。


 もう少し残暑が続きそうだし、まだいいんじゃないの。


 やれやれ。









昭和元禄落語心中

2020-07-25 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)


 原作は雲田はるこ。少女マンガの文法にのっとった筋運びと見世方で、落語という芸道の魅力を存分に伝える。講談社刊。全10巻。
 アニメ版の本放送は、第1期が2016年の1~4月。第2期が2017年の1~3月。ぼくはこちらは見逃していて、今回が初視聴でしたが。
 たとえば圓生(もしくは文楽)と志ん生……「秀才型」と「天才肌」といったら単純すぎるけど、ともあれ、端正で筋目の通った芸風と、豪快で破天荒な芸風とのライバル関係は誠に興趣の尽きぬものであり、キャラづくりの「王道」といってもいいけれど、まァこれはそのモチーフを使った作品のひとつの完成形でしょうなァ。
 アニメ版は、原作の細かいところを思い切って刈り取り、そのぶんメインの落語をたっぷり聴かせる。これが絶品。ジャズを基調にした音楽も凝ってる。音楽担当は澁江夏奈。さらに主題歌の作詞作曲は椎名林檎、歌うは芸妓の「みよ吉」役で出演もしている林原めぐみ。これまた絶品。
 端正で筋目の通った(そして陰性の色気の滴る)落語家・八雲のCVは石田彰。
 豪快で破天荒な(そして陽性の色気に満ちた)落語家・助六のCVは山寺宏一。
 いやァ、おふたりとも滅法うまい。いや声優としてむちゃくちゃ上手いてぇのは何も今更アタシなんぞが云々するこっちゃないんだけども、落語が滅法うまいんだな。ニッポンの声優のレベルの高さにゃいつも脱帽ですよ。




☆☆☆☆☆☆☆






 落語ってものは脚本(ほん)を読んでも仕方ないんで、だったらテレビで……ってのもぬるくて、寄席ェ行って生(なま)の噺家の演ってるとこを聴かなきゃしょうがない。だから出不精のうえにカネが入ったらすぐ本につぎ込んじまうぼくなんぞにはなかなか味がわかんないんだけども、それをいったら芝居の舞台も、歌舞伎も能もろくすっぽ観たことないし、踊りや小唄も知らないねえ……こんなんでにっぽんのブンガクがどうの……なんつってンだから肝が太てぇや。そりゃ谷崎はおろか三島由紀夫だってピンとこないはずだよ。ミシマ文学には芸能の血が流れてンだから……。
 思えば、米朝師匠のマクラなんてのは、司馬さんの随筆とタメを張るくらい勉強になったもんだけど、ああいう方が亡くなるてのは、大きめの図書館が焼失しちまうようなもんだね。談志なんて人もね……あのシトの落語で笑ったことは一度だってないんだけども、いや大体テレビでしか観たことないんですがね、なんか好きでね。まあ毛色の変わった喋る図書館みたいな人でした。あと、噺家じゃないけど小沢昭一とかね。凄いひとがいっぱいいたなァ、昭和には。いやみなさん平成ンなっても活躍されてましたけどね勿論。でもぼくンなかではみんな昭和のひとですよ。
 落語ってのは、アハハと笑って気持ちよくなってさっぱり忘れりゃそれで全然いいんだけども、ふと立ち止まって考えだすとコワい芸だ。ひとりで喋ってあれだけの客を引きずり込んで、長い時だと1時間あまりも酔わせちゃうんだから……。一人芝居だもんな、つまりは。しかも座布団のうえェ座ったまんまでさ。
 北村薫の上質のミステリ「円紫さんと私」ってシリーズでは、大学教授が勤まるくらいモノ識りで、人間や世間の裏表にも精通してる大変なひとがホームズ役なんだけど、このひとの生業(なりわい)が落語家なんだなあ。なぜその道を選んだのかは、いちおう作中で語られてるけど、ぼくにはそれだけだとは思えなかった。心の底の深いところでいったい何があったのか。それがいっとう謎かもしれん。
 余談が長くなっちゃった。ともあれ、昭和元禄落語心中、いまどき珍しい大人向けの名作アニメでございます。

  追記 20.07.29)「アニメ版は、原作の細かいところを思い切って刈り取り」と上のところで書いたけれども、それはとりあえず第1話のことで、全体としては、むしろ原作が端折ったり、駆け足で通り過ぎてるところをじっくりと映像とセリフで補ってますね。原作に対する深い愛着と敬意がうかがえる。ほんとうに良質のアニメ作品ですよ。

(gyaoでの無料配信期間は終了しました。)







20.06.16 akiさんからのコメント+ぼくからのご返事

2020-06-16 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
akiさんからのコメント 20.06.15
サブタイトル 「近況報告?」




こんにちは。「お久しぶりです」と言うほど間は開いてないはずですが、ご無沙汰しております。
色々書きたいこともあるような気はしますが、なんとなく時を過ごしてしまっているので、まあリハビリを兼ねて近況報告ですw
…とはいっても「元気です」と言う以外は特に何もありませんがw


とりあえず、以前にご紹介した「はめふら」はちょっと失速気味。ここに来て物語が急に動き出した感じですが、幼少期を扱った序盤の方が私には合っていたかな。まあとはいえ、現時点でも楽しませてもらってはいます。
また、ネットカフェで試しに見てみた人形劇、「Thunderbolt fantasy」が無類に面白くてハマってしまいました。超王道の武侠物語で、ここまでカッコいい主人公はなかなかお目にかかれません。


まあそんな感じで、そこそこ楽しんではおります。


eminusさんも今は充電期間ですかね? 武漢肺炎のこともありますし、くれぐれもご自愛くださいませ。


☆☆☆☆☆☆☆

ぼくからのご返事 20.06.16
サブタイトル 「サクラダリセット」





 お元気そうで何よりです。
 まえに頂いたコメントのなかの、
「火器の発達は、ヨーロッパの歴史を前に推し進めることにつながりました。これは恐らく、というかまず間違いなく、《「戦場での戦術》におよぼした影響よりも絶大であったと思います。」
 というご指摘は至当だったと思います。だからこれにつないで、「世界史を軍事の面から捉えなおしてみよう。」と思い立ちました。それで、『戦争の世界史』上下、『ヨーロッパ史における戦争』(どれも中公文庫)の3冊を読み込んでたんだけど、「軍事」というもののもつあまりにも冷徹で圧倒的なリアリズムを目の当たりにするうち、「一体これじゃあ人類にとって《文学》だの《物語》なんてものになんの価値があるんだ?」などと、うぶな高校生みたいな疑念にかられて、ブログに何を書いたらいいのかわかんなくなっちゃった、というのが実情であります。藤井風くんの紹介をさいごに更新が滞ってるのはそのせいです。
 まったくもって「なにを今更?」って話なんだけど、その背景には、ここ10年ほどで明らかにシャレにならなくなってきた中国共産党の増長があります。それはもちろん、ばくぜんとはわかってたことですが、このたびのコロナ禍によって、はっきりと可視化できるようになりました。ひとことで言うと、ぼく個人としては、「こんなにも脅威が迫ってるのに、《物語》なんぞにうつつをぬかしてていいんだろうか?」という心境ですね。しかしそのいっぽう、《物語》なしでは日々を送れぬ自分、というのも確かにいて、いまひとつ居心地の悪いまま、生活に追われて時間が過ぎていってます。まあ、ブログってものは書かなきゃ書かないでとくに支障はないわけで……。ただ、こうやってコメントをいただくと、意欲は湧きますね。
 そういった次第で、せっかくのご推薦のファーストガンダムも、「はめふら」すなわち『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』も、結局ほとんど観てません。『Thunderbolt Fantasy』はこのたびが初耳でしたが、かの虚淵玄氏の原案・脚本なんですね。日本と台湾の共同制作。いかにも虚淵さん好みの武侠ファンタジーとお見受けしました。
 ぼくのばあい、「いくつかの条件が整えば(つまりもっと才能があったり聡明だったり勤勉だったり世間知に長けていたり……あるいは逆に純粋だったりしたならば)自分自身でそれを書いていたであろう作品」を好きになる傾向があるのですが、このあいだたまたま見つけた『サクラダリセット』(2017年にアニメ化。全24話)がまさにそんな感じで、こちらはプライムビデオで一気呵成に観てしまいました。
 主役の浅井ケイ役が石川界人さん。知的で色気のある美声。このお話はこのケイ君が途方もなく魅力的でなければ成立しないので、ぴったりの配役ですね。彼を巡って壮大かつ錯綜したセカイ系的三角関係を織りなすふたりの女性のうち、春埼美空(はるき みそら)役に花澤香菜さん。いうまでもなくあの小淵沢報瀬を演じた当代きっての実力派です。報瀬とは正反対の物静かな役柄ながら、さすがの巧さで演じ切ってらっしゃいます。
 もうひとりの相麻菫(そうま すみれ)役に悠木碧さん。謎めいていて小悪魔的で、そのくせ誰よりも一途にケイを愛する難役だけど、見事な演技でした。とかく受け身な鹿目まどかの印象が強いので、「この方はこんな芝居もできるのか。」と正直かなり意外でしたね。
 というわけで、コロナ禍いぜんであれば「サクラダリセット」についての記事を3年遅れで書いていたはずですが、上述の理由によって、どうにも書く気になれません。「良識」と「善意」と「優しさ」をひたむきに信じるこのナイーブな世界観は、「一服の清涼剤」として心を休ませるには最適ですが、いまの世相にあっては、ことさらブログで論じ立てるものでもないと思えます。それやこれやで、当分まだ更新できない気がしますが、コメントを頂戴すれば、こうやって返事は書きますので、思いつくまま気の向くまま、なにかしら折にふれて書き送っていただければ幸いです。