ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

akiさんへのご返事04 20.04.19「軍事の話はとめどなく。03 軍事とサブカル」

2020-04-19 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 30年も前に邦訳が出て、読みたい読みたいと思いながらも高額なため手の出せなかった小説が、なぜかこの1月に唐突な感じで文庫化されて、数日前に届いたもんでご返事が遅れました。まだ半ばほどですが、期待を上回る面白さですな。
 それにしても軍事の話は日曜の朝にはふさわしくない気もしますね。じゃあ木曜の晩ならふさわしいのかといわれると、それはそれで困りますけども。とりあえず、4月12日にakiさんから頂いたコメントの末尾の部分を再掲します。




 >私は日本のアニメは本当に高い水準にあるとは思いますが、唯一、軍事的な視点については素人の拙劣さの域を脱し切れていないと思います。これは日本が平和だったことの副産物ですね。軍事的に見られるものと言えば、富野由悠季氏や宮崎駿氏など、生年が戦時中に掛かる人々の作品くらいでしょうか。彼らに影響を受けたアニメ作家たちは、彼らの表現や「カッコよさ」「ワクワク感」などは学んでも、「軍事的視点」は学ばなかった、というか学ぼうとも思わなかった、もっと言えば目にも入っていなかった、というのが正しいでしょうか。まあ戦後も戦争を続けてきたアメリカの映画作品群が「軍事的に見られるか」と言われれば、全くそんなことはないんですけどねw




 宮崎さんにはメカニックなものへのマニアックな偏愛があるので、兵器や飛行機などの描写が細密なのはわかります。ただぼく個人は、作品全体をトータルでみて軍事学的にどこまで正確なのかはわからない。富野さんのばあい、これは「ロボットアニメ」全般におよぶ初歩的かつ根本的な批判っていうか、まあツッコミなんだけど(『映像研には手を出すな!』でもやってました)、「人間が乗って操縦するタイプの巨大ロボットは物理的に不可能」という時点でじつは一種のファンタジーなんですよね。
 華麗なコスチューム姿の戦士に変身して闘う中学生女子が幼い児童(とうぜんもっぱら女の子だと思うけど)の憧憬の投影であるように、「巨大ロボットを手足のように操って闘う」思春期の男子はやはり少年期から青年期(時にはそれ以上)の年齢の男の子たちの欲望の投影でしょう。ぼくは「エヴァンゲリオン」はテレビシリーズ・劇場版とも全作視聴してますが、その源流(のひとつ)というべきガンダムはほとんど観ていない。だからほんとはロボットアニメを語る資格があるかどうか疑わしいけど、一応はそう分析しています。
 ご推奨の『SHIROBAKO』にもたしか、ロボットアニメの戦闘シーンで、絵柄もしくはアクションとしての「カッコよさ」「ワクワク感」を追い求める若いアニメーター氏が出てきましたね。ファンタジーとは換言すれば「物理法則の無視」ですけども、いったん足枷を外してしまえば、いくらでも外連(けれん)味をきかせることはできるでしょう。
 ただ「巨大ロボットを手足のように操って闘う」ことは物理的にはファンタジーだけど、プリキュアをふくむ優れたファンタジーがそうであるように、身体的なリアリティーはあるわけです。つまりこのばあい、バイクやクルマを運転する、もっといえば派手にぶっ飛ばす時の感覚。身体感覚の拡張ですね。それがあるから多くの視聴者が共鳴できる。
 ところで、「巨大なヒーローが敵と闘う」という着想の原点はアニメではなく特撮でしょう。すなわちウルトラマン。このウルトラマンという表象を、戦後サブカル批評の文脈では、「在日米軍」とみるのが定跡となっております。むろん「科学特捜隊」が「自衛隊」となるわけです。
 「科特隊」には、怪獣をも、侵略主義的異星人たちをも倒すことはできない。戦闘力が圧倒的に足らない(5人しかいないし。しかもそのうちの一人が毒蝮三太夫だったりするし)。「敵」を倒せるのはあくまでもウルトラマンだけ。
 これは2017年に講談社現代新書から『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』という本が出まして、ようやく一般に浸透しつつあるんですけども、首都圏も含め、日本は制空権をアメリカに委ねてるわけです。庵野秀明氏(いうまでもなく「エヴァ」の生みの親です)が総監督を務めた『シン・ゴジラ』では、三沢基地から出撃したF2がJDAM爆弾をゴジラに投下するものの、あっさり跳ね返されてしまう。そのご、もちろん日本政府の要請を受けての形なんだけど、グアムから飛んできた(所要時間は3時間ほど)戦略爆撃機B-2が地中貫通型爆弾を落として、ようやくダメージを与えられる。まあ、それでもゴジラを死に至らしめるどころか、活動停止すらさせられず、怒らせてビーム出されてえらいことになるわけですけど、それはともかく。
 戦後ニホンは、「平和ボケ」「お花畑」といわれて、それは紛れもなくそうに違いないんだけど、たんに「軍事について何も知らない。」というのでなく、「あえて見ない」「知ろうとしない」態度が根っこにあると思いますね。つまりシニシズムであり、ニヒリズム。そういった性情がいわば「症例」としてサブカルに反映されているようです。
 今回をもって、4月12日のコメントに対するご返事としますが、もちろん軍事の話はまだまだ尽きることはありません。










志村けんを悼む。

2020-03-30 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽







 志村けんさん、じゃなくて、志村けん。なんだよね。やっぱりね。子供の頃からテレビで見てたお笑い芸人と、あと野球選手な。これは呼び捨てなんだ基本的に。それは親しみのあらわれなんで、人気商売のひとにとっては、じつはいちばんの勲章じゃないかと思うんだよね。
 だけど軽く見られてるのは確かなんで、齢くって、そういうのがイヤになってくると、シリアスな演技のほうに行ったり、文化人ぶったり、政治に色目を使ったり、派閥を作って取り巻き相手に威張ったり、つまりまあ、そっちの勲章が欲しくなってくるんだけど、志村けんって人は、ぜんぜんそういう噂が聞こえてこなかったですね。
 さっき訃報を聞いたんだけど、涙がじわっと滲んできたんで、我ながら吃驚したんですよ。なんでだろうな。そりゃ幼稚園から小3くらいまでは毎週土曜の『8時だヨ!全員集合』が何よりの楽しみだったけどもね、こっちはけっこう生意気だから、早々に「8時だヨ!」は卒業しちゃった。だからカトちゃんとのあの有名な「ヒゲダンス」もリアルタイムでは知らないんですよ。その頃にはもう勝手に卒業してたんだ、こっちは。
 「8時だヨ!」でいうとね、ぼくが番組を見だした頃は荒井注だったわけ。いかつい顔して、ガラの悪さが売り物で、カトちゃんに次ぐ人気だった。この人が乳幼児に扮して、ベビー服着て乳母車に乗せられておしゃぶりくわえて出てきただけで客席がドッと沸く。今でいう「出オチ」だよね。
 荒井注はメンバー最年長で、いかりや長介より3つ上なんだ。それで「体力が持たない。」つって降板した。あけすけにいうけど、ぼくらのあいだじゃ「なんで高木ブーじゃねえんだ。」「やめるんだったらブーだろーよ。」と非難囂々だったですね。高木ブー氏には失礼きわまる話だけど、それが当時のガキの率直な心情でした。
 で、注さんの代わりに加わったのが、ボーヤ(付き人)だった志村けん。当時24歳。その時のことはなんだか妙に覚えてますね。たしか建設作業のコントだったと思うんだけど、冒頭からは出てなかったんですよ。コントの半ば、上司の役で「お前ら何やってんだっ。」なんて怒鳴りながら下手から入ってくるんだけど、そりゃあ緊張しててね。今から思えば当然だけどさ。でもその緊張が見てるこっちにまで伝わってきたからね。
 なにしろ客席の子供たちもテレビ桟敷のこっちもまるで馴染みがないでしょう。「誰だお前?」「お前こそ何やってんだよ。」みたいな空気で、そういうとこはほんとに子供ってのは露骨っていうか、冷酷だからねえ。クスッとも笑いの取れぬまま、すぐに引っ込んじゃった。それが初舞台だったと思う。
 そのあとは見習いメンバーとして毎週出てくるんだけど、まるっきり印象に残ってないですね。相変わらず不動のエースは加藤茶で、注さんのいない分はどうにかこうにか仲本工事がカバーして……みたいな塩梅だったな。
 志村けんが「ブレイク」したのは(当時はそんな用語はなかったけど)メインの22分コントじゃなくて、そのあとの「少年少女合唱隊」のコーナーですね。「東村山音頭」。あそこから俄然、熟(こな)れた感じになって、いっきに人気者になっちゃった。
 ところがぼくは、上で言ったとおりちょうどそのころ『8時だヨ!全員集合』から卒業しちゃって、一視聴者としては、売れ出した志村けんとは入れ違いになってるんですよ。こんなのはじっくり考えたことなくて、こうやって整理してみて今気づいたようなもんですが。
 ブレイクのきっかけが「東村山音頭」ってのは偶然じゃないんだよね。東村山は志村けんの地元だけども、「あんだよ?」「あんだって?」とか、あの味わい深い口調は多摩弁なんですよ。まあ多摩弁つっても若い人はあんまりそんな喋り方はしないだろうから、お年寄り特有の言い回しだろうと思うけど、いずれにしてもそういう口調の人たちの中で生まれ育って身についたもんだと思う。だから志村けんのばあいは、一見どんなに奇矯なキャラでも、無理につくってるんじゃなく、ほんとにしぜんに、体の奥から滲み出てくる感じだったね。
 80年代バブル前夜の漫才ブームのなか、『8時だヨ!全員集合』が裏番組の『オレたちひょうきん族』に押されるかたちで終わる。ただ、それと前後してフジ系列で『ドリフ大爆笑』というコント番組が始まっていた。それほど熱心にではなかったけれど、この番組はぼくもちょくちょく見ましたね。
 これもまた、あけすけに言ってしまうけど、その頃のぼくにはカトちゃんの芝居は古いんじゃないかと思えるようになっていた。単調というか、泥臭いというか、ようするに、垢ぬけないんだよね。でも志村けんに対しては、そんなふうに思わなかった。巧いんですよ。せりふ回しはもちろん、間の取り方とか、相手との絡み方とか、「この人はほんとは役者として凄いんじゃないか。」と感じた。
 いや当時はそこまではっきり考えたわけじゃないですよ。こっちも大学に入ったばかりで何やかやと忙しいわけだし、べつにそんな志村けんのこと真剣に考察していたわけじゃないんだけれども、今から振り返ってみると、印象としてはそういう感じを抱いてましたね。
 「バカ殿様」とか、ああいうコント色の強すぎるものはあまり好きではなかったんだけど、今でもくっきり覚えてるのは、長さんの「だめだこりゃ。」で落ちるあの「もしも」コーナーでの「超高齢の芸者さん」ってネタ。
 いうところの「よいよい」で、足腰が立たなくなっちゃってるんだけど、ひどく真面目で、職業意識はむやみに高くて、「命のかぎりお務めします。」てなことをいう。でもって、天井から吊るした紐で半身を結わえて接待するわけね。
 でも酌をするのもしんどくて、やがて体力が持たなくなってバタッと倒れちゃう。客の長さんが心配して抱き起そうとすると、そのたびにキッとなって「アタシは体は売りません!」と突っぱねるというね……。最初は笑って見てたんだけど、ていうか、そりゃコントだから最後まで笑って見るわけだけども、こっちはだんだん、背筋が伸びてきちゃってさ。妙に真に迫ってるっていうか、「いや、ひょっとしたらどこかの地方の温泉街にはこういう芸者さんもいるかも知れんぞ。」という気分になってね。あのコントだけは忘れられないね。
 改めて考えてみると、やはり役者として凄い人だったと思うね。いかりや長介は早いうちから性格俳優に転向して、黒澤明作品にも抜擢されたし、なんといっても『踊る大捜査線』というドラマにその名を刻んだけれど、志村けんは『鉄道員(ぽっぽや)』に脇でちょこっと出ただけでしょう。惜しいことしたよなあ。オファーはほかにも山ほどあったらしいけど、「自分はコメディアンだ。」っていう謙遜(と綯い交ぜになった自負)があったんで、ぜんぶ断ったらしいね。『鉄道員(ぽっぽや)』だって、健さんからじきじきに誘われて、出ることを決めたっていうからね。
 それがここにきて、NHKの朝ドラ『エール』の音楽家役に加えて、山田洋次監督の『キネマの神様』の主演(菅田将暉とのダブル主演)までが決まってたっていうでしょう。その矢先にこれだもの。見たかったなあ。志村けんの芝居。惜しいよねえ。ほんとうに、惜しい人を亡くしましたねえ。


ネットで見つけた関連記事……
【追悼】ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか


追記)2022(令和4)年6月、文春新書から『ドリフターズとその時代』が出た。初めて聞く情報が満載で、滅法面白いし、なによりも、ドリフターズへの愛情に溢れている。著者の笹山敬輔氏は製薬会社の社長にして近代演劇研究者の肩書をもつ。1979(昭和54)年生まれだから、リアルタイムで「全員集合!」をみた世代ではないはずだけど、それでこういう本を書いてしまうのが凄い。「ドリフターズ」という響きに郷愁を禁じ得ない人はぜひご一読を。




chelmico「Easy Breezy」 - YouTube

2020-02-04 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






ОP映像つきテレビヴァージョン




 アニメ(づくり)の楽しさ(と苦しさ)がどっさり詰まった快作『映像研には手を出すな!』のオープニング曲。原作は大童澄瞳。監督・シリーズ構成は湯浅政明。製作はスタジオ「サイエンスSARU」。
 人並外れた空想力と作画力をもつ(ただし少々コミュ障気味の)浅草みどり(CV・伊藤沙莉)……設定・監督担当。
 財閥令嬢(「財閥はGHQに解体されただろ!」と浅草はつっこむのだが)にして容姿端麗なカリスマ読者モデル、でもアニメーションで人物(を初めとするあらゆるもの)の動きを描くのが好きでたまらない水崎ツバメ(CV・松岡美里)……アニメーター担当。
 金儲けに目がなく、アニメーションに興味はないが上記ふたりの邂逅をみて「これはいける。」と映像研設立を提案した辣腕家、実務全般に長けた有能なるプロデューサー金森さやか(CV・田村睦心)……この人がおらねばたぶん永遠に作品は完成しません(ヲタク2名は放っておいたら無限に凝るので)。
 2050年のニッポン、「公立ダンジョン」の異名をとる(浅草がそう呼んでるだけだが)芝浜高校を舞台に、この凸凹3人組がアニメで「最強の世界」を作り上げるべく奮闘するお話。熱血といえば熱血。ドタバタといやあドタバタ。
 浅草みどりはとにかく「設定が命!」と言い切る人なので、そのスケッチブックには細密にして豊饒な「世界観」がびっしりと描きこまれており、その腕前はプロ顔負け。
 そういうアニメだからして、とうぜんこの作品そのものも画面構成に凝りまくっていて、奥行きや立体感がただごとではない。内容ももちろん面白いのだが、映像を見ているだけでわくわくする。ぼくもけっこう設定画ファンなんで。









 chelmico(チェルミコ)は、RachelとMamikoのお二人から成る日本の女性ラップ・デュオ。2014年に結成。「爽健美茶」などのCM曲で知られる。
 この曲は売れるんじゃないかなァ。売れてほしいなァ。
 歌詞の中の「どうせやるならめんどくさくなろうぜ」という一節が好きだ。ものづくりってのは、さまざまな面において「めんどくさい」ものであり、それに打ち込む自分もどうしたって「めんどくさい人」にならざるを得ない。そこを厭うては始まりません。
 2020年1月5日より、NHK総合にて放送中。





ジャン・リュック・ゴダールについての《架空の》インタヴュー

2019-12-16 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 これはぼくが20代の終わりに書い(て純文芸誌の新人賞に送って落ち)た「小説」の一部です。ほかのブログにアップしてましたが、アンナ・カリーナさんの訃報に接して、こちらに転載いたします。


☆☆☆☆☆




 「探偵」はマイクを片手に街をうろつき、誰彼かまわずインタヴューして回る。目星をつけた相手に片っ端からだ。相手が男性だろうと、女性だろうと、忙しそうだろうと短気そうだろうと関係ない。直感が、「こいつからは面白い話が聞きだせそうだぞ。」と告げればそれに従うのみ。ところで、彼の直観はまるで当てにはならない(これ探偵として大丈夫なのか?)。だからよく警察に通報されるし、時には殴られたりもする。しかし稀に、ほんとうにもう、ごくごく稀に、対話が成立することもある。これはその僥倖というべき成功例を採録したものである。前置きここまで。




◎探偵が次に選んだ相手は「日曜作家」だ。それはかつてない長尺インタヴューとなった。中身はともかく、とりあえず長さにおいては、もっともうまく運んだ対話に違いない。理由は単純。ようするに相手が暇人で、自分のこと(より正確にいえば自分の小説のこと)を語りたくて語りたくて仕方のない男だったからである。しかも探偵は、彼の難解な(より正確にいえば意味不明な)作品に事前に目を通し、面妖なことに、そこそこ感銘を受けていた(!)。だから自ずと熱も入ったわけである。インタヴューは、ある晴れた金曜日、街路に面したオープン・カフェの一隅で行われた。




――あるいはそれが戦略なのかと疑いたくなるほどの無邪気さで、あなたはご自分の作品すべてにおいてゴダールの影響を隠そうとしません。だからあなたの作品について訊くことは、とりもなおさずゴダールについてのあなたの考えを伺うことになるかと思うのですが……。




「ええ、事の起こりはゴダールでした……20歳のときに『マリア』を映画館で観て……あとにも先にも、あれに匹敵する衝撃は思い出せません。通過儀礼とでもいうべきもので……。私は成人式に行かなかったので、まあ、あれがその代わりだったのだと思います。あの時の興奮を言い表すには、以下のような、いささか≪文学的≫にすぎるレトリックを用いるほかにないでしょう。すなわち私は、革命という言葉の意味を、マルクスでもトロツキーでもゲバラでもなく、ゴダールから教えられたのだ、と。映画(作品)を創るということは、同時にそれを破壊することであるというテーゼを、スクリーンの上で披瀝することで、彼はそれを、20歳の私に開示したのです……。




 日曜作家はこのあと、まさに取り憑かれたように喋りはじめた。以下の文書において探偵の発言が残っていないのは、記録を省略したのではなく、日曜作家が彼に合いの手すら挟ませぬくらい、熱心にまくしたてたからである。




「それ以来、ゴダールのことばかり考えてきました。ボルヘスも言うように、≪世界と同じ大きさの地図は役には立たない。≫のです。第一、神そのものでもないかぎり、そんなもの創れやしないでしょう。だからわれわれは、誰しもが、自分なりの小さな地図を持ち歩いているはずですが、私にとっては、ゴダールこそが模範とすべき地図の作り手と思えました。20歳の地図、というわけですかね(苦笑)……




「多くの場合ゴダールは、ひどく単純なシチュエーションを選びます。彼の映画のほとんどは、その時代のパリを舞台とする、極めて日常的な環境の中での、平準的な人物たちの相関関係を描いています。初期のジム・ジャームッシュなども真似をしていたこのやり方は、ハリウッド的な物量主義の対極にあるものです。この方法の最大の利点は……身も蓋もないことをいうならば……撮影を短い時間で安くあげられることですが……それよりも重要なのは、作り手が形式上の実験に専念できることでしょう。題材そのものが魅力的ならば、それを語ることに気を取られて、冒険ができなくなるからです……




「そう……ゴダールは最高無比の冒険者です。彼の基本姿勢は、制度的な撮影、演出、話法、編集などのノウハウを知悉したうえで、ことごとくそれらをはぐらかしていくところにあります。観客を面食らわせ、時にはすっかり困惑させてしまうような様々な仕掛けを、彼は次々に繰り出すでしょう。もとよりそれは従来の映画に対する、ひいては映画そのものに対する批評となります。まったく新しい試みが、まさにいま自らの目の前で行われつつあることを、彼の映画を観る者の多くが、感じ取らずにはいられないのです……




「だから彼の作品は、≪芸術作品≫ではなく事件そのもの、つまり観客の感性を組み替えてしまうことを意図したメタ・アートといえます。もとよりこれは、20世紀の芸術が、各々のジャンルで試みてきたことに相違ありません。ピカソ、ブランショ、ウェーベルン、ベケット……いずれもみな、彼ら自身が依拠している表現手段へのラディカルな問い直しによって創作を始めました……要するに、まあそれが、モダニズムということの真意なのですが……




「しかし、映画というジャンルでそれをやってのけたのはゴダールが空前であり……そして、あるいは絶後かもしれない。彼の作品は、そのすべてが、映画という表現手段の可能性に対する考察の記録なのです。これは、映画という芸術がすぐれて総合的なものであり、しかも一から十まで商業主義の規制のなかで作られるのを考えるなら驚くべきことです。さらに驚くべきは、彼が映画において行ったことが、絵画・文学・音楽・演劇といったジャンルでそれぞれの巨匠たちがやったことに比べて、よりいっそう緻密で、徹底しており、しかも射程が広いように見えることでしょう……




「ゴダールは、映画という表現手段を、詩ではなく、あくまでも散文と見なしています。この場合の散文とは、小説ではなくむしろ批評のことですが……。小説というものは、いかにそれがリアリスティックに書き込まれた代物でも、つまるところ叙事詩であり、そうでなければ抒情詩にすぎませんからね……。ゴダールの目的は分析であり、それは批評の仕事です。それでいながら彼の作品が、異様なまでに鮮烈で、豊麗で、瑞々しく……つまりはもう、あられもなく≪詩的≫という言葉で表現せざるをえないものへと昇華されていることこそが真の驚きなのですが……




「……話を戻しましょう。ゴダールの作品とは、映像と音声を用いた、世界~現実~社会~政治~権力~さらには認識そのもの……の分析なのです。しかも彼は、新作を撮るごとに、つねに過去の問題を発展させ、それまでの解決策をかなぐり捨てるか、あるいはいっそう複雑にします。それどころか、一本の作品それ自体の中で、そういった革新をやってのけることさえ稀ではありません。それも、つねに自身の手の内を晒しながら……。彼は現在の自分が依拠する芸術的・精神的・政治的な規範や典拠や概念、そして雑多な関心のすべてを無造作な手つきで作品の内に取り込み、そうすることでさらなる前進を図っていきます。≪永久革命≫とでも呼ぶ以外にないこの不断の弁証法が、彼の作品に野放図なまでのエネルギーを与えるのです……




「≪私はとにかく色々なものを並べるのが好きなのだ。≫とゴダールは言います。あるいは、≪映画には何でもぶちこまなければならない。≫とも。彼の映画は、秩序を持たない現代版百科全書ともいえます。……そう……異質な要素を次から次へと放り込むことで、彼は、映画という形式のもつ出来合いの統一性を壊そうとしているのです。彼の考えでは、どのような素材であれ、映画に摂取できないものはありません。むろん、監督の手による再構成を経てのことですが……。前衛演劇、ヌーヴォー・ロマン、ミュージカル、政治演説、ロック、哲学、ポップアート、詩(!)……こういった貪婪な折衷志向は素材のレベルに留まりません。文体・調性・主題・話法・形式・技法・視点……すべての位相で、彼はさまざまな要素を混淆し、共存させます。




「コラージュ? たしかにそうとも言えるでしょう。しかし、ただ色々なものを並べるだけなら誰にだってできます。問題は、ゴダールの映画を貫くスピードとリズムの見事さです。彼の映画には、テオ・アンゲロプロスのような手堅い構築性はありませんが、それでいて調和が取れ、造形的にも論理的にも(ほぼ)過不足はなく、全編くまなく緊張感がみなぎっています。さきほどの表現を繰り返すならば、それはまさに≪詩的≫としか言いようのないもので……彼の映画の難解さや独善性をあげつらう者でさえ、彼の映画が、独自の≪美≫に溢れていることは認めざるをえないでしょう。あの手捌きの鮮やかさは……やはりベンヤミンの好んだ用語を借りて、≪天使的≫とでも呼ぶほかなさそうですね。≪天才的≫というよりも、そちらのほうがゴダールにふさわしいように思えます……




「コラージュとならぶゴダール映画のもうひとつの特徴は……これはもう、何をいまさらの感もありますが……観念性です。いつだって彼は、観客の感覚や情緒に訴えるのを拒むかのように、ひたすら観念と概念化とを追求します。ふつうの監督たちが文体やテーマを介して行うことを、遥かに露骨で単純な、あるいは野蛮とも言うべき仕方でやってのけるのです。彼の作中人物たちときたら、自らが作品の内部で果たすべき役割をものともせず、またストーリー展開さえも顧みることなく、衒学的な引用に満ちたアフォリズムふうの独白、あるいは煩雑な議論や論争に耽るのが常です。実在の哲学者や作家や監督が登場してインタヴューを受けることも珍しくないし(ちょうど今の私のように、というべきでしょうか?)俳優がカメラに向かって直接セリフを述べることさえあります! また、作品のクライマックスで、愛だの永遠といった剥き出しの概念が唐突に語られ、それによって物語が呆気なく急転したり、終局してしまうこともあります。否応もなく観客たちは、ただ単にお話を享受するのではなく、従来とはまったく違った意識をもって、作品へと関わっていくことを余儀なくされるのです。




「だからといって、ゴダールが観念的な映画監督だというわけではありません。むしろその逆であるというべきでしょう。このようなゴダールの手法を見れば、彼が、通常の作家や監督と異なり、作品の中でひとつの思想を体系立てて叙述することに関心がないのは明らかでしょう。彼の映画は≪観念的≫ではありますが、彼自身は≪観念≫をまるで信じてはいません。ゴダールにおいては、観念はあくまで形式上の一要素、つまり観客の感覚と情緒とを刺激する単位にすぎないのです。それはいつでもアイロニカルな韜晦の手段……いわば観客の感情的なベクトルをはぐらかすための道具として使われるのです……




「アイロニカルな韜晦? あるいはそれは、≪ゴダール的なるもの≫を的確にあらわすキーワードかも知れません。そう……闊達な感受性の横溢する彼の作品は、いつだって軽快で、ウイットに富み、時に軽薄で、ただ単にバカバカしいだけのこともあります。まったく……バカボンパパに付き合わされるようなものです……暴露的な即興性からなるドキュメンタリーの手法、そして、それと相反する極度の様式化ないし単純化との往還が、彼の映画の遊戯性をさらに助長しています……




「彼の作品は断片の集積から成っている、と言っていいのかもしれません。プロット自体が演劇の骨法を周到に外しているため一見支離滅裂なうえ、カッティングは短すぎるし、異質なショットが並列されるし、モンタージュやフラッシュ・ショットは次々と入るし、明暗は目まぐるしく交替するし、ポスターだの絵画だのが唐突に挿入されるし、音楽は不意に始まって途中で切れるし、リアルな場面と荒唐無稽な場面とが交錯するし、映像の中に前触れもなく字幕やら黒い画面が現れるし、会話の途中に朗読が割り込んでくるし、登場人物の行為は往々にして不分明で何の帰結にも至らないし、時には会話も聴き取れないし、アクションシーンで急にインタヴューが始まってしまうし、説明過剰のナレーションが織り込まれるし、かと思うと説明が欲しいシーンで誰もなにも言わないし、ゴダール自身の感想や私的な述懐や創作上の注意書きまでが無造作に混入されるし……要するにそこでは、教科書どおりの話法を分断するあらゆる手だてが間断なく駆使されるのです。これが高じると、個々のシーンが一つの話に収斂していくのか(もちろんそれが、ふつうの映画というものですが)、ビデオクリップを垂れ流しているかのように、ただ別々のタブローを続けて見ているだけなのかさえ、観客はわからなくなってしまいます……




「ゴダールは何をしているのでしょうか? ありあまる才能を弄び、観客を煙りに巻いて喜んでいるわけではありません(そういう部分がまったくない、と言ったらたぶん嘘になるでしょうけれど。なにしろバカボンパパですからね)。彼は、≪映画≫を≪人生≫に、≪作中人物≫を≪人間≫に、ともども近づけようとしているのだと思います。それはすなわち、文学のジャンルにおいて完成された(そして、20世紀を代表する表現手段としての≪映画≫がそれを忠実に模倣してやまない)19世紀的リアリズムからの(/に対する)逃走(/闘争)にほかならないでしょう。




「そう……19世紀的リアリズムの主要な方法論は、物語の因果的連鎖と、登場人物の心理描写とによって代表されます。ゴダールは、20世紀における優れた小説家たち同様、この2つの規則を軽やかに破壊してみせたのです。ゴダールの映画にあっては、個々のショットが自立しており、他のショットとのあいだに深刻な関係を取り結びません。それは確固たる統一体ではなく、外に向かって開かれた集合体なのです。そこには本質的なものとそうでないものとを区別する絶対的、または内在的な根拠もなければ、必然的な結末というものもありません。彼の登場人物たちは往々にしてラスト・シーンで簡単に死んでしまいますが、それはたいてい偶発的で、突発的な死に方です。事件と事件とのあいだに、純粋に有機的な繋がりはない……そして、人生とはまさにそういったものではないでしょうか?




「ゴダールはまた、観客の感情移入を促すような心理描写を徹底して退けます。作中人物の内面生活が描かれることは滅多にない……観念と心理と行動とが、完全に分離されてしまっているのです……ヴァレリーのあの有名な宣言以来、心ある作家たちはみな人間を、≪作者という名の神≫の操り人形ではないものとして、すなわち、物語と心理と因果関係との奴隷ではないものとして、描こうと腐心してきたのですが、そのひとつの達成がここにあるといえるでしょう。ゴダールは人間を、≪物≫のように……そう……資本主義社会の中で疎外されている一個の物象のように撮影します。彼の映画に登場する人々は、みなどこかしらぎこちなく、不自然で、世界との違和を体現しているかに見える……そして、そのさまは異様なまでにリアルなのです。20世紀における人間とは、まさにそのようなものではないでしょうか?




「最後にどうしても述べておかねばならない要素は、ゴダール作品のもつポリフォニー性です。彼の映画には、つねに複数の声が響き渡ります。一人称の語りであるナレーションと、三人称の語りとしての作中人物の科白……そして、もちろん、これだけではありません。作品の外部にあって話法構造の全体を統一しているはずのゴダール自身が登場するなどは序の口で、テクスト内部に回収しきれない主体、すなわち先ほども述べたような実在の固有名詞がゲスト出演し、さまざまな意見を表明する。これになお字幕や引用、映像自体のシニフィエまでをも含めれば、そこにはいったい幾種類の言説が、視点が、時間が、行きかっていることでしょう。しかもそれらは互いに補い合うどころか、相反したり、時にはまるで無関係だったりするのです。そして、世界とは、まさにそういったものではないでしょうか?




「『勝手にしやがれ』からすでに顕著であったこのような方法論は、俗に「商業映画に回帰した。」といわれる80年代以降、つまり『パッション』以降、映像そのもの、音声そのもの、言語そのものに内在する政治性を問い直す形で、より洗練され、ラディカルさを加えているように思われます。五月革命当時のような大文字の≪政治≫は語られず、それに代わって撮影の現場それ自体や、ひいては日常の生活にひそむ政治的なるもの一切が、いわば微分されるようにして、暴き出されていると思えるのです。




「むろんゴダールは急進的な革新家であり闘争者ですが、個々の事例についての明確な態度決定は拒否してきました。ある特定の概念なり、物の見方にコミットすることを求められると、アイロニカルな否認で応じるのです。しかし、それを責任回避や怠惰のあらわれとするのは適切ではありません。≪ゴダール的≫と名付けるほかない内在的な統一性が、紛れもなく、この世には存在するのだから……つまり彼は、固着したイデオロギーに従属するには聡明すぎる、というだけのことです……




「結論に移りましょう。今も昔もゴダールは、自らが武器として選んだ≪映画≫という表現手段を、動的な有機体と見なしています。それはプラトン的な意味でのイデアリスティックな存在ではなく、つねに社会性・歴史性・今日性を持った事件であり、そしてまた、いずれは未来の事件によって凌駕されるべき運命にあるものだと。だからこそ彼は、自作の中にその折々の政治的な出来事を挿入したり、時にはそれを映画の枠組みとすることさえも厭わないでしょう。私が指針として学んだのは、そのような一人の映画作家なのです……」








 ……このあと、「日曜作家」は、「いかにして自分がゴダールの影響のもとに小説を書きあげたか。」をとうとうと語り尽くしたが、さすがにもう、ばかばかしいので以下は割愛。









浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(ビッグコミックススペシャル 小学館)

2019-06-30 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
(画像はネット上から拝借。それぞれの文章は、ネットから引用したものに、ぼくが手を加えさせて頂きました。出典元の方々、およびもちろん、元の著作権者の皆様にお礼を申し述べます。)





3年前 8月31日
突如『侵略者』の巨大な『母艦』が東京へ舞い降り
この世界は終わりを迎えるかにみえた――


しかし その後


絶望は日常へと溶け込んでゆき
大きな円盤が空に浮かぶ世界は
今日も変わらず廻り続ける……





小山門出(かどで)、中川凰蘭(おうらん)。ふたりの少女(って女子高生ですが)は、終わらなかった世界で、今日も思春期を過ごす!





2014年4月28日に発売された週刊ビッグコミックスピリッツ22・23合併号にて連載スタート




小山門出は、メガネのショートカットで、教師である渡良瀬先生に恋をしてるっぽい。「イソベやん」(ドラえもんのパロディーだが、外見は青ダヌキとは似ても似つかず、キノコのような姿形)が大好きで、部屋の中にはイソベやんの漫画が散乱しており、通学カバンもイソベやんのバックパック。空を飛びたいらしい。なんかそのうち飛びそうです。








門出の親友・「おんたん」こと中川凰蘭は、僕っ娘で、ちょっと過激派(というかキル系?)の香りがします。「豚ども」とか、「欺瞞と虚飾に溢れたこの世界を滅ぼすまでは。」とか言いだします。リア充を目指して男子に告白したりしている友人に、「一生SNSで発情ポエムの交換でもしてろ!」とか言ったりもします。ふたりとも重度のゲームマニア。はにゃにゃフワーッ。















東京上空に「侵略者」と呼ばれる謎の母艦が浮いている
母艦からは時々、「中型船」や「小型船」が出てきて
(攻撃を仕掛けてくるわけではないが)自衛隊が「応戦」している
川崎など関東地域でちょいちょい「戦闘」が起こる
関東近郊は(米軍が使用した新型爆弾のために)
「A線」とよばれるもので汚染されている





8・31に、大震災ではなく、円盤が襲来した。当初こそ多大な犠牲者が出たものの、相手はまるで強くはなく、世界は壊滅も征服もされなかった。しかし、人類の側(といっても日本限定だが)も撃退するには至らず、それ以来ずっと、空には巨大な「母艦」が浮かんでいる。そんな状況が日常となっている日本(東京)。そんな非日常の日常の中であたりまえのように暮らす人々。3・11のメタファーのようで、必ずしもそうではない、一筋縄ではいかない物語。



多くの人命が失われ、土壌が汚染され、大きな円盤が空に浮かんだままで、ときどき「戦闘」が起こりはするものの、なんとかやっていける程度には絶望と楽観がないまぜになった世界。そこで青春をもてあまし、進路や、親との確執に悩みつつも、ゲームや恋愛ごっこや他愛のないおしゃべりに日々を費やす女子高生2人(と友人たち)。
「終末」をテーマにした作品でありながら、大きなパニックも起こらず、中途半端に壊れた日常がダラダラと続いてゆくあたり、いかにも浅野いにお! といった感じなのだが、ふと現実を振り返れば、このダラダラした閉塞感こそが3.11以降の日本のリアルであり、「日常」なのだと気づかされる。



浅野いにお氏はこの作品に、氏独特のカウンターの視点から、国民的アニメのパロディーから3・11へのオマージュまで、幅広いジャンルを落とし込んでいます。サブカルっぽいポップな軽さと、日本全体が共有した陰鬱な体験、『GANTZ』的なサイエンスフィクション(ただし戦闘の悲惨さはない)と不安定な情勢の奥に垣間見える戦争の予感……そういった事どもの中心にいるのは、「浅野いにお的」としか形容のしようがない、どこか斜に構えてすべてを見透かしているような気分をもつ、カウンターカルチャーの泥沼に深く沈んだ女性たちです。





夢見る女の子。ぶっ壊れてる女の子。
四次元ポシェット。トランジスタラジオ。
放課後の寄り道。大人げないお母さん。
戦争ゲーム。ネットに耽溺するイケメンデブのお兄ちゃん。
たわいないおしゃべり。泡のような初恋。
空を覆う絶望。永遠の8月31日。




 以上、引用(および編集)ここまで。

 ……といったあたりが1・2巻の情況だけど、巻を追うにつれ、女子高生だった二人も大学に進み、話はだんだんサスペンスフルに(も)なっていきます。彼女たちが直接巻き込まれるわけではないけれど、「戦闘の悲惨さはない」といってられなくもなってきます。ぼくの印象では、同じビッグコミック系の浦沢直樹『20世紀少年』に少なからぬ影響を受けながら、あそこで描かれた世界像/終末観をさらにポップに、さらにサブカル寄りに、ポスト3・11の心性でもって再構築した作品……という感じですね。いま連載中のマンガの中で、もっとも注目している一作です。



追記 2022.04.02) 平成から令和にかけて8年にわたって描き継がれ、このたび無事に完結しました。全12巻。「鳳蘭」という変わったネーミングの由来も明らかに。しかしなんといっても、すべての真実が読者の前に晒される第9巻が圧巻でしたね。「人類滅亡もの」と「多元宇宙/タイムループもの」との見事な融合。無駄に引っ張りすぎておかしくなった浦沢直樹『20世紀少年』の簡潔なるポストモダンふうリメイク。何もかもがサブカル化した21世紀初頭のネット社会の風刺絵巻。現代表現史にその名を刻む一作だと思います。完結に合わせてアニメ化も発表されました。







2019年アニメ版『どろろ』完結。

2019-06-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 当ブログでもこれまで都合4度にわたって言及した『どろろ』が、6月24日放送分をもって大団円を迎えた。
 アニメ業界にはまるきり疎い私だけれども、シリーズ構成とメイン脚本を担当された小林靖子さんの名前だけはきっちり覚えました。
 この作品はほんとに好きだったんで、『宇宙よりも遠い場所』とまではいかないにせよ、シリーズで、まとまった論考を書こうかと思ってたんだけど、ネットを見てたら、「イマワノキワ」というアニメ専門の感想ブログがあって、どろろについても、各回ごとに詳しく論が立てられている。
 それがあんまり見事なもんで、自分としては、それ以上ほとんど述べるべきことがなくなった。

 アドレスはこちら。
http://lastbreath.hatenablog.com/archive/category/%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%82%8D

 書いているのはコバヤシさんとおっしゃる方だが、膨大な数のアニメを見て、かつ、それらすべてについての感想を毎日欠かさずていねいに紡いでおられる。文章もうまいし、知識も(ことアニメに限らず、諸事にわたって)豊かだし、いったいどういう方なんだろう。
 ツイッターを繋いでブログ形式にしたものなので、誤字の訂正ができないらしく、ときに「タイミン具」などといった変な表記も混じるが、そういったものさえ校正すれば、堂々たるアニメ批評サイトである。
 過去には『宇宙よりも遠い場所』の論考もあるし、プリキュアシリーズの論考もある。後追いで読ませて頂いたが、いずれも見事なものだった。
 ただ残念ながら、ぼくはテレビを見ないため、わかるのはせいぜいそれくらいで、あとのはみな珍紛漢紛である。いかに詳細な記述であっても、やはり見てないアニメのことは文章を追っただけではわからない。
 このひとの文章を味読するために、当のアニメを見ていこうか……という倒錯した発想も浮かんだが、さすがにそんな時間も気力も体力もない。アニメを見るのは、必ずしも楽しみだけではなく、かなり体力を使う。
 ともあれ、アニメ版『どろろ』の考察および解説および感想として、たぶんこれ以上のものはないのではないか。興味がおありの向きは、いちどアクセスしてみてください。






どろろとプリキュア。あるいはサブカルの教育効果について。

2019-05-25 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 平成の30年間は、この国が直接「戦争」に巻き込まれることこそなかったものの、必ずしも平穏無事な歳月だったとはいえない。もっとも、ニッポンの歴史において、任意の30年間を切り取ってみたらまるっきり平穏無事でした、なんて時期が在ったはずもないが。
 ぼくの記憶にあるうちで、かろうじて「無憂の時代」と呼べるのは、のちにバブルと呼ばれる1986(昭和61)~1992(平成4)年のあいだとその前夜……まあ70年代の終わりごろからだろうか。だからせいぜい10年ちょっとだ。しかもそんな時期には人の心が奢侈(しゃし)に傾き、後でろくでもないことになると決まっている。借金して遊びまくったツケを請求されるようなものだ。
 平成の初頭ってのはその「取り立て」の時期という感じで、いわゆる「失われた10年」のなかで、大震災もあればオウム事件もあった。さらにそれから平成の半ばにかけては、少年(および少女)による、思わず絶句させられるような凶悪かつ短絡的な事件が続発した。
 10代による犯罪発生率は全体として下がっているにもかかわらず、少年法の改正(厳罰化)が取りざたされたのも、そういった事件のもたらすショックゆえに違いない。
 昔であれば未成年による凶悪犯罪というと「金品欲しさの物取り強盗」が主であり、だから経済的格差(貧困)の是正が有効であったわけだが、あのころに起こった事件はそれとはまるで別のものだった。物質的な豊かさは十分に達成されているはずなのに、それでも起こってしまうのだ。これはもう、「心」の問題としか言いようがない。
 飢えに苦しんでるわけでもないのに、心だけが荒廃している。考えてみると怖いことではある。
 子どもの心を養うのは、まずは家族や近親者、それに学校や近隣などの地域社会とのつながり。むろん教育も大きくかかわってくる。
 教育もまた「文化」の一環だけれど、文化には、そういった正規のものとは別に、副次的なものもある。親や教師から強いられるのでなく、自分で選んで読む本なんかがそうなんだけど、もっと刺激が強くて惹きつけられるのは、テレビやマンガ、今日であれば加えてゲームにネット。これらのものは、「否応なく押し寄せてくる」といっていいくらいだ。
 ぼくは人並み以上に小説に親しんできたほうだと思うけど、それでも今になって振り返ると、心身の発達期において、ドラマやマンガやアニメなどのサブカルチャーから受けた影響は思った以上に大きかったようだ。70年代でさえそうだったんだから、今ならば尚のことだろう。
 ぼくがついついサブカルにこだわり、もともとは本の書評やなんかをやるつもりで始めたブログでサブカルの話ばっかやってるのも、たんに好きってこともあるが、「マンガやアニメの教育効果」ってものにつき、けっこうマジメに考えてるからでもある。
 それを称して「物語」とか「神話」とか、我流の用語で呼んじゃうもんで、いまひとつ論旨がわかりにくいな……と読み返してみて自分でも思うが、より一般的な物言いに直せば、だいたいそんな感じになる。
 本音をいえば、ぼくなんかが子供のころ毎週楽しみにしていた「世界名作劇場」(海外の良質な児童文学のアニメ化)を今の技術で復活させてほしいんだけど、これは諸般の事情でムリであろうと承知している。それで代替としてプリキュアにずっと注目している次第だが、これも本音をいうならば、変身したりバトルしたりがほんとに必要かなあとは思っている。つまり、あれをファンタジーじゃなくリアリズムでやれんもんかな……と考えてるわけだが、いや、結局これは同じことを言ってるだけか。

 プリキュアはなにぶん対象年齢層が低いので、基本、「お花畑」の世界である。ひとの心や社会の闇はもっぱら「敵」に投影されて造形される。プリキュアさんたちはそれを武力で「殲滅」するのではなく「浄化」する。浄化したあとは元の平穏な日常が戻る。
 ただ、ぼくが歴代の最高作と位置づける『GO!プリンセスプリキュア』では、ヒロインの春野はるかが、一年間の闘いの果てに、「夢(希望)は絶望があってこそ生まれる。つまり両者は表裏一体」という認識に到達し、ラスボスである「絶望の権化」を浄化するのでも追い払うのでもなく、未来の再会を約して淑やかに別れる……という結末を迎えた。その爽やかな苦みは、「お花畑」を超えて、ぼくたちの生きるシビアな「現実」につながっていくものであったと思う。





「またな」
「ごきげんよう……」




 『どろろ』のばあい、対象とする視聴者層がまるで違うので比べること自体おかしいのだが、およそ「お花畑」の対極に……すなわち作品の「世界観」においてプリキュアの対極に位置するものだ。
 戦乱の世の苛烈さなんて、暖衣飽食に慣れ親しんだぼくたちには想像さえつかないが、おおよそ1970年代から、網野善彦さんはじめ優秀な中世史家が台頭してきて、ふくざつで多層的な「中世像」が提示されてきた。
 ちなみにいうと、宮崎駿監督の『もののけ姫』は網野史学から多大な影響を受けており、「もののけ姫の原作者は網野善彦。」とまで言っている学者さんもいる。
 2019年MAPPA版リメイク『どろろ』にも、そういった勉強のあとは見えるが、そのような歴史学的というか、リアリスティックな面とは別に、何よりもこの作品は、まずはダークファンタジーとして在る。
 ファンタジーってのは、ぼくの用語だとすぐ「神話」だの「物語」だのと一緒くたにしてしまってよくないのだが、たんなる絵空事でも、消費されるだけのコンテンツでもなくて、やはり「そのときどきの現実社会の写し絵」であろうとぼくなんかは思っている。
 「心」を持たず、剥き出しの暴力装置として荒ぶる初期の百鬼丸は、冒頭でふれた「平成の御代の恐るべき子供たち」の姿にどうしても重なる。そんな彼が、どろろとの交流によって少しずつ心を育てていくさまが、平成を終え、令和を迎えるにあたっての、サブカル側からのひとつのメッセージのようにも視えてくるわけだ。









2019年版アニメ『どろろ』再説。

2019-05-24 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 このあいだ、押し入れの奥から秋田書店版の『どろろ』全四巻を引っ張り出して、ほぼ20年ぶりに読み直したんだけど、記憶に残ってた以上にひどくて、びっくりした。ここまで粗悪だったかなと。
 粗っぽいし、荒っぽい。ぶった切られたみたいに終わっちまうしさ。
 いくら60年代の作品とはいえ……。これ、ちゃんと構想練ったのか。「作品」と呼べるかどうかも怪しい。ほとんど習作か、「ラフスケッチ」といいたいレベルである。
 まあ、そもそも「未完」だという話もあるが、いずれにしても、このころの作品としては、例えば『バンパイア』とか『W3(ワンダースリー)』のほうがずっとよく仕上がっている。
 思えば鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」もそうだった。粗っぽいし、荒っぽい。ラストシーンでお茶の水博士が、「なんだか夢のように終わってしまったのう。」などと述懐するほどである。手塚さん自身が呆れて自嘲しているようにもみえる。
 あれを元にして『PLUTO』(小学館)を描き上げた浦沢直樹ってひとはつくづく凄い。
 それというのも、初期の『メトロポリス』や代表作の『ジャングル大帝』、さらには『ATOM』など、手塚作品のリメイク企画はいろいろあるが、「傑作」と呼べるほどのものは見当たらないからだ。
 (テレビアニメ『アトム・ザ・ビギニング』は最新のロボット工学の知見を取り入れた秀作だったが、あれはリメイクというよりスピンオフだろう。)
 大方の評価は知らないけれど、ぼくにとっては、手塚作品の優れたリメイクといったら『PLUTO』しか思い浮かばない。イラク戦争という今世紀初頭の大きな愚行を題材に、「地上最大のロボット」という長編の、さらには『鉄腕アトム』全体の抱えるテーマを現代に蘇らせた。
 まさに手塚治虫×浦沢直樹の時代を超えたコラボレーション。才能と才能とがぶつかり合って火花を散らす。リメイクとはかくあるべきだ。
 「神話」とは、繰り返し、巻き返し、さまざまな語り手のことばに乗せて語りなおされ、時代とともにどこまでも熟していくものなのである。
 ぼくはこの、「神話が語り継がれる営為」がむちゃくちゃ好きで、「なにを大仰なことを」と笑われるかもしれないが、『宇宙よりも遠い場所』の第12話を『古事記』のなかの「根の国下り」と重ね合わせて、やたらとコーフンしたりする。
 『どろろ』も「地上最大のロボット」も、ひとつの作品としては呆気にとられるほど粗っぽいし荒っぽいのだが、「物語の祖型」としては端倪すべからざるもので、いくつもの連載を抱えて描きとばしつつも、こういうものを生み出してしまうところが、手塚治虫の天才たる所以(のひとつ)だといえる。
 ことに『どろろ』である。
 時は室町末期。野心のために魔物と契約した領主の父親のため、生まれながらに身体の48ヶ所を奪われた少年(設定では14歳だからまだ少年だろう)が、拾い親の養父から武器を仕込んだ「義体」を授けられ、戦乱の世を流離いながら、死闘の末にひとつひとつ取り戻していく……。
 その名も百鬼丸。
 要約するだけで胸が痛く、また熱くもなるストーリーではないか。
 作品そのものの粗っぽさ、荒っぽさにもかかわらず、発表後すぐにアニメ化され、そのあともなお多くの読者を魅力してきたのも頷ける。
 かくいうぼくも、およそ文化とは縁遠い家庭に生まれ、近所の図書館に通ってひとつずつ「基礎的教養」を身に着けていくたびに、僭越ながら心のどこかで自らを百鬼丸になぞらえていた。
 『どろろ』は、上でもふれたアニメ版(白黒)のほか、柴咲コウ・妻夫木聡による映画版もあり、ノベライズされたり、ゲームになったりもしているが、そういった直截なリメイクではなく、「影響を受けた」「触発された」作品であれば、それこそ枚挙に暇がない。むしろそっちのほうが重要だろう。
 『鋼の錬金術師』も『犬夜叉』も、もとよりそれぞれ毛色は違うが、ずうっと系譜を遡っていけば、どこかで『どろろ』に行き着くんじゃないか。
 手塚の後継者のひとり石ノ森章太郎の『サイボーグ009』までをも併せるならば、このあいだハリウッド映画になった『銃夢』も、さらにはあの『攻殻機動隊』までも、射程に入ってくるかもしれない。
 それほどの作品なのである。あんなに完成度低いのに。粗っぽくて荒っぽいのに。
 つまりまあ、作品そのものよりも、そこで提示されたコンセプトが凄かったってことだろう。
 いうまでもなく「貴種流離譚」である。ほぼ全人類に共通の「英雄物語」の原型といえる。しかも、彼が「蛭子(ヒルコ)」であるということで、生々しく日本の神話につながってくる。
 その『どろろ』が、2019年、MAPPAによってリメイクされた(放映中)。これがほんとに素晴らしくて、往年のヅカファン(宝塚ではない。手塚ファンのこと)たるぼくにとっては『PLUTO』以来の胸アツ物件なのだった。
 MAPPAといえば、あの劇場映画『この世界の片隅に』をつくった制作会社だ。高い志と技術を備えた集団なのである。
 MAPPA版リメイク『どろろ』の、どこがそれほど素晴らしいのか。
 タイトルロールの少年(と見せかけてじつは少女。年齢は推定5~6歳)どろろと、百鬼丸とが出会うところからストーリーは始まるのだが、原作だと、百鬼丸は声帯もなければ耳の機能もないのに、当たり前のように喋っているし、周りの音も聴こえている。
 作中では「テレパシー」「腹話術」といった説明がなされる。そもそも義体の手足を動かすことも「念動力」でなければ不可能なので、一種の超能力者といえる。
 年齢相応の自我を備えてふつうに生活し、旅をしているという設定は、最初のアニメ版や実写映画版をふくむすべてのリメイクで踏襲されてきた。いま、士貴智志(しきさとし)さん(べらぼうに画力の高い人だ)による最新のマンガ版リメイク『どろろと百鬼丸伝』が連載中だけど、ここでもその初期設定はそのままである。
 MAPPA版リメイクはそこが違う。大きく違う。決定的に違う。
 どろろと出会ったとき、百鬼丸には周りの音が聞こえていない。喋ることもできない。だからとうぜん会話もできず、そもそも意思の疎通ができない。
 視界は、暗がりの中にぼんやりと事物の輪郭が浮かび上がる感じである。生き物かどうかは、「動くか否か」で本能的に判断してるだけだ。そのなかで、彼を襲ってくる魔物など、害意をもつものは赤く染まって映り、そうでないものは穏やかに白い。
 禍々しく赤く染まったものが、ふいに飛び掛かってきたりすれば、両腕に仕込んだ刀を抜いて容赦なく切り捨てる。剣の業前(わざまえ)は達人なのである。
 そうやってこれまで生き延びてきた。
 第1話をみて、この新しい設定にぼくはシビれた。「これだこれだまさしくこれだ。」と思った。そうなのだ。このお話は本来このように語られるべきものだったのだ。それでこそタイトルが『百鬼丸』じゃなく『どろろ』なのだ。
 運命的な邂逅のあと、どろろは百鬼丸にしつっこく付いていく。原作だと「腕に仕込んだ名刀が欲しいから」などとこじつけた理由になってるが、戦乱の世で親を失い保護者もなく、その日いちにちを生き延びられる保証とてない幼児が、おっそろしく腕の立つ兄貴分を見つけてくっ付いていくのは当然だろう。たとえ相手が言葉の通じぬ、得体の知れない不気味な妖気をたたえた存在だとしても、どろろが彼のそばを離れないのは生存本能のなせるわざである。
 心を持たない少年戦士と、心根の底に優しさをひめた、無力だが逞しい幼児。このふたりが相棒(バディ)になるからこそ、この物語は生きる。
 くどいようだが、この設定にはつくづく感心、というかはっきりいって嫉妬して、「なんでオレはこのコンセプトを換骨奪胎して自己流のストーリーを創らなかったんだろう。」とまで思った。アタマのどこかで、『どろろ』という作品はもともとそのように語られるべきだと思っていたのに、それをきちんと見据えて創作に結びつけなかった己の菲才が腹立たしい。
 百鬼丸が鬼神(このアニメ版では「魔物」は「鬼神」に変更され、奪われたのも48から12箇所になっている)のひとりを倒して「耳」を取り戻した後、ろくに返事もできない彼にどろろはひっきりなしに話しかける。そうやって百鬼丸も少しずつ「心」を育てていくわけだけど、じつはそのまえ、まだ彼が耳を取り戻す以前から、どろろは絶えず彼に話しかけているのだ。
 それはおそらく自らの寂しさや不安、人恋しさを紛らわせるためなんだろうけど、見ようによっては、あたかも乳飲み子に絶えず語り掛けている母親のようだ。
 耳を取り戻したのち、ある事件がきっかけで百鬼丸は「魔物」や「鬼神」ではない生身の人間たちを斬殺する。その相手は確かに許しがたい残虐行為を働いた荒くれ侍どもだったのだが、怒りに任せて彼らを次々と薙ぎ払っていく百鬼丸は、ある意味では彼ら以上のおぞましき怪物でもある。
 そのままであれば一個の「殺戮機械(キリング・マシン)」に堕しかねなかった彼を、必死になって「こちら側」へと引き寄せ、けんめいに繋ぎとめてくれたのもまた、どろろなのだった。
 まことに素晴らしい。何度でもいうが、『どろろ』とは本来、このように語られるべき作品であった。
 『PLUTO』を読んだ際にも思ったが、「本来この作品はこのように語られるべきだった」と痛感させられるほどのものこそが、本当の意味での「リメイク」であり、原作に対する最大級のリスペクトだろう。
 MAPPA版アニメ『どろろ』については、とにもかくにもこれだけは言っておきたかった。しかし、本作の凄いところは勿論そこだけではない。



追記 19.12.20) この記事がなんだか尻切れトンボで終わってるのは、ここから何本かまとめて集中的に「どろろ」のことを書くつもりだったからだ。いわばこれは前置きだったのである。ところが、6月26日の記事「2019年アニメ版『どろろ』完結。」でも述べたとおり、このあと「イマワノキワ」というアニメ専門の感想ブログを見つけて、そこの「どろろ」評が見事だったため、自分として書くべきことがなくなった。それでこんな半端なことになってしもうたのじゃった。2019年アニメ版『どろろ』についての論考としては、出色のものだと今でも思う。

 アドレスはこちら。
http://lastbreath.hatenablog.com/archive/category/%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%82%8D








ゲゲゲの鬼太郎 49話 まな(真名)が「名無し」に与えた名前。

2019-03-31 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 同じ東映アニメーション制作だからってことでもないんだろうけど、「HUGっと!鬼太郎」みたいなことになった6期第1シーズン最終話、まな(真名)が「名無し」に与えた名前が気になってビデオの当該シーンを5回見直したんですが、あれはやっぱり「キ・タ・ロ・ウ」ですよね。じぶんにとっていちばん大切な相手の名前を付けてあげたんだなあと。
 今期のアニメではOPで示唆されるだけだけど、そもそも原作の『墓場鬼太郎』においては、鬼太郎の出生そのものが陰惨きわまるもので、「名無し」の誕生シーンと濃厚に重なるわけですよ。親父さんが目玉に乗り移ってまで保護してくれたから道を誤らずに済んだけれども、ひとつ間違えれば「名無し」みたいになっててもおかしくなかった。だから「名無し」は鬼太郎の影(シャドウ)でもあるんでしょうね。
 さらにいうなら、まなが回想の情景でみた「鬼の青年」と「人間の娘」も、それぞれが鬼太郎とまなの祖先なのかもしれない(直系ではないにせよ、「血筋に連なる」という意味で)。そんなことまで想像させられましたね。

色気。

2019-03-29 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 






 ショーケン死す。思えば松田優作が亡くなったのが平成元年。その22年後の平成23年に原田芳雄とコロンボ警部の訃報を聞き、平成28年にはすでに引退していた根津甚八が逝去して、平成の終焉が目睫(もくしょう)に迫ったこの時期になって萩原健一。これで、十代の頃のぼくが「身体論的」に魅了されたカリスマは平成のうちにみんな鬼籍に入ったことになる。寂しい。
 十代の頃のぼくが「文体論的」に魅了されたカリスマ、筒井康隆と大江健三郎という両巨匠がご健在なのがせめてもの慰めというべきか。
 筒井さんはご自身も役者でいらっしゃるわけだが、冒頭に挙げた方々のばあい、むろん醜貌ではないにせよ極めてわかりやすい美男、というわけでもないのが特徴で、顔立ちからいっても全身から発するオーラからいっても「役者」としか呼びようのない存在であった。総身から、香油のようにオトコの色気が滴っていた。
 ちなみに筒井さんによる小説講義『創作の極意と掟』(講談社文庫)には、「文体」「人物」「視点」といった真っ当な項目にならんで「色気」なる項目が設けられている。身体を用いたものであれ文章を用いたものであれ、およそ「表現」さらには「芸術」にとって「色気」はぜったいになくてはならないものなのだ。色気を欠いた芸術なんて成立しない。
 ぼくのばあい、沢田研二や坂東玉三郎、さいきんだったら山田孝之、林遣都のような美男俳優よりも、むしろサンドウィッチマンの富澤たけしのごとく、やや魁偉な雰囲気を漂わせる容貌のほうに「オトコの色気」を覚えたりもするが、必ずしもそれがすべてってわけでもなく、痩せぎすで、なよっとした繊弱な佇まいのひとを色っぽく感じることももちろんある。
 リリー・フランキーなんかもそうだが、ここしばらくでは、昨年暮れの紅白で着流しを着て椎名林檎と歌い踊っていたエレファントカシマシの宮本浩次が忘れ難い。もとより林檎嬢の色気だって只事ではなかったけれど、それよりもさらにセクシーで、ちょっと胸苦しいほどの妖しさを覚えたものである。そのあとの、桑田佳祐とユーミンによる文字どおりの「歴史的共演」よりも印象に残っているのだから、よほどのインパクトであった。
 町田康に似ているなあ、とも思ったが、見たことはないが町田康が着流しでパフォーマンスをしても相当に凄い感じになることだろう。まあ総じてニホンの男は着流し姿がいちばん色っぽく映るはずであり、あなたもぼくも、それでもしサマにならなかったらちょっともう諦めたほうがいいかもしれない。
 日本語というのはもともとが色っぽい言語ではないか、ということをつねづね思ってもいて、むろんこんなのは実証困難なただの思い込みにすぎぬのだが、しかし「漢字」という直線的で詰屈した、厳めしい字面の中に「ひらかな」といふ、みるからにたおやかでやわらかな文字が立ち交わって共存している様は世界中どこを探してもほかの言語にみられないのはたしかである。
 大江健三郎が好きなのも、とかく晦渋だの衒学的だの左翼的だのと思われがちだがじつはその文体そのものがべらぼうに色っぽいから、という理由が大きくて、その伝でいけばいまの日本でもっとも色気のある文章を紡ぎだすのは古井由吉であろう。個人的には「日本文学史上、紫式部と双璧」とさえ思っており、あとはもう泉鏡花とか川端康成とか谷崎潤一郎とか永井荷風とか三島由紀夫とか、正真正銘の「化け物」たちの名前しか思い浮かばない。