布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

布施下の和田沼の鴨猟

2007-02-26 | 歴史
布施弁天は亀甲山の甲の部分=胴の部分に立っているが、道路により分断された頭の部分にはいくつかの石碑がある。私が確認したところ3つあり、その一つに(一番手前)、鳥獣供養塔がある。これは、猟友会により昭和30年代に建てられたものと思われ、その奉納者の中に元柏市長で故浜島千代丸氏の名前もあった。しかし、なぜこの供養塔がここに建てられたかはわからないが、布施弁天の後ろに広がっていた和田沼が関係するのでは。
布施弁天下で旅館を営んでいた元橋本旅館のご主人の話によると、弁天様の裏側一体には、今はないが、和田沼という鴨猟で有名な沼があり、昔は、鴨猟は大変盛んだったとのこと(昭和10年前後)。それは、布施弁天の堂内にある明治35年1月に鳥猟組合が奉納した絵馬「鳥猟の図」にも描かれていることからも知れよう。
和田沼は、ヨシとマコモが茂り、面積約60ヘクタールで、冬になると、ガン、鴨、ツグミ等が越冬しに北国からやってくる。それをカスミ網の馬鹿でかい網(長さが約500㍍、高さ1㍍50㌢程度)を張っておいて、それに引っかかかってくるのを捕まえていたそうです。鴨等が群になって、西の空からねぐらである和田沼めがけて着水してくる姿は、それは雄大だったそうです。そして、網にかかると鈴がなるのだが、取りに行っても良いという合図があってから音の方向に一斉に田舟を出して捕まえに行ったそうです。多い日は1日に7百から8百羽近く捕獲したそうです。もちろん、布施村の共同狩猟地なので、許可を得ている5~6件の家が網を張っていたそうです。真鴨、俗に言う首から上が青いアオクビが中心で、12月から正月にかけては贈答用として、集荷しておいた檻から少しずつ出しては、この近辺のバッタ屋(仲買人)に売らずに東京に出荷していたそうです。これが、結構な銭になり、羽振りの良い生活が出来たとのこと。ただし、これも渡り鳥がいる冬場(11月~3月)が中心だったそうですが、網でなく2連銃の鉄砲でも取る輩がいて、危なくていかたなかったとも話してくれました。
昔の布施村土谷津の俳人、ろうそくや彦兵衛こと中尾嘯花の鴨にまつわる句を一句披露します。
鴨の背に 朝日かかりぬ さくら川
(この句は残念ですが、和田沼ではなく、嘯花の妻の実家の桜川の鴨を詠んでいる。)
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