布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

なぜ、新撰組の近藤勇は流山の長岡屋に本陣をおいたか?

2007-12-25 | 歴史
新撰組の近藤勇が、本陣にしたという流山の長岡屋の土蔵を先日みてきましたが、率直な感想は、なぜ、こんな住宅街のど真ん中に、しかも狭い酒蔵の2階に本陣をおいたのか?疑問を持ちました。
戦闘集団として、軍隊として、官軍と一戦を交えようとする気力を持っている指揮官なら、こんな、敵を見通せない、迎え打てない所に、戦闘集団の本陣をおかないだろう。ここから、さほど遠くない仲間が分宿した光明院・赤城神社に本陣を置くべきだった。ここは、約15メートルの小高い丘の上にあるので、新撰組が江戸川を渡って来た丹後の渡し跡を見渡せるし、後ろにも逃げられる街道がある。実際には、官軍は、粕壁から随分北の羽口の渡しを渡って、長岡屋本陣を取り囲んだらしいが。しかし、長岡屋で近藤勇が投降したのを聞いて、光明院・赤城神社に分宿していた一部の者たちは、銚子まで逃げ延び、会津に向かっている。なお、この蔵は、元々は今駐車場になっているところにあり、それを現在地に移転したらしい。よく分からないが蔵は解体され、2階にあがるはしごは流山市立博物館に展示されている。となると、写真の碑の後ろに写っている蔵はなんなのか。本陣の蔵がなく、元あった場所が、ここでないなら、元あったところに、碑をたてればよいと思うが?この辺事情を、分かる人がおりましたら、是非お教え下さい。
要は、甲陽鎮撫隊の隊長として、大名格の取り立てを受け、故郷に錦を飾り、しかも官軍と本格的な戦いをしないで、敗走した時点で、多分近藤勇の警察組織としての「組」の役割の終焉を悟ったのであろう(大義の問題は別として)。警察組織の思考では、官軍の軍隊とは戦えない、相手にならないことを悟ったのであろう。その後再起を図るため、足立の五兵衛新田で人を集めているが、そこでは、江戸城周辺から離れた時点で、もう近藤勇の心は死んでおり、最終的に流山の長岡屋に本陣をおいたのも当然の結果と思われる。うつろな心の状態の中で、以前の新撰組の感覚でなした業がここに本陣をおかせたのであろう。だからこそ、4月2日に流山に来て、4月3日に官軍に包囲されたら、なにもしないで投降しているのだ。もう、戦いたくなかったようですね。
ということで、この流山駐留については、近藤勇にとっては、会津入りを果すための中継地点ではなかったような気がします。元々、流山市役所近くの流山市立博物館のある場所は、譜代大名である駿河本多田中藩の陣屋が置かれていたところです。そこから、程遠くないところにいながら、戦わなかったというのは、ーー。田中藩は一説によると、官軍に向け、発砲したという話しも残っているのに。もちろん、逆に官軍に寝返っていたという話しもありますがね。
4月1日まで足立の五兵衛新田で追徴した兵士(主流は武士とは言えなかったようです)とともに、4月2日未明に、総勢200余名で流山へ移動する。本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌3日、流山に賊徒(新撰組とは知らず)が屯集しているとの情報を得た官軍の先峰隊(香川敬三隊)がやって来て、簡単に包囲され、あっさりと投降に至り、3週間後の4月25日、近藤勇は武士ではなく農民として35歳の若さで板橋で打ち首にされている。官軍は約800名で、分宿していた幕軍は200名ともいわれ、田中藩の藩士と力をあわせれば、そこそこ戦えるのだが。
もし、本陣を先に紹介した赤城神社にしておけば、羽口からやって来る官軍を良く見渡せ、いかようにも、戦えたと思うにーーー。
なぜ、長岡屋だったかというと、一説には、長岡屋が桑名藩御用商人であったためとも言われているが、定かではない。
いっぽう土方歳三は、近藤連行直後に江戸へ潜入し、勝海舟邸などを訪れ近藤の助命嘆願をしたともいわれているが、それも定かではない。土方は、4月11日には市川で幕軍と合流、北へと旅立つことに。そして、我が街に、内藤隼人の変名で、大鳥圭介たち総勢1千人以上の幕軍とともに布施にやって来るのです。そう、会津に行くために。このことは、2006年の11月2日の私のブログに簡単に書いてありますが、後日、もう少し詳しく調べてみるつもりです。滞在期間は柏の布施の方が長い気がします。
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