布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

古利根沼と戦国武将の城あと

2009-05-20 | 歴史
先日、我孫子にある古利根といっても、川でなく、今は沼(?)の自然探索に行ってきました。ここは、1912(明治45)年の利根川流路変更工事で取り残された旧利根川の河道。沼岸の小堀(おおほり)集落は江戸時代に舟着場として栄え、沼のほとりには1700年代の初期に祀られた「波除(なみよけ)不動尊」がある。我孫子市では、市民債を発行してこの古利根沼用地を買い取り、沼の貴重な自然を保全しました。この保存された古利根沼は、ありし日の利根川の姿と風情とを、そのままに、今にとどめている貴重なところといえます。
また、そのそばにある自然観察の森では、みどりのボランティアが散策路の整備や下草刈りなどを行っているが、ここも動植物の自然の宝庫であります。そして、この自然豊かな自然観察の森の中に、昔は、芝原城(地番は中峠字外谷津台等)なるものがあったそうです。
この我孫子の中峠地区とか湖北地区は、北条氏とか、後北条氏と縁が深いところなのだそうです。
湖北台9丁目にある本尊を延命地蔵菩薩とする正泉寺は、執権北条時頼の娘・桐姫(法性尼)の開基といわれています。ここには、法性尼(ほっしょうに)と手賀城主原氏の墓がありますが、この原氏については後日報告します。
では、この古利根沼の脇の小高い森にあった芝原城址はいつごろ作られたか?残念ながら、これがはっきりとしない。別名を中峠(なかびょう)城とも言われるこの芝原城は、戦国時代は河村氏の居城。北は古利根に接する崖。南は侵食谷。無念であったろうが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原攻めにあい、後北条氏が滅亡するとこの芝原城も廃城となってしまったのである。空掘・土塁・腰曲輪(こしくるわ)・本丸・二の丸・三の丸の跡が残っている。河村氏は、16世紀の後半、後北条氏の家臣であったと思われるが、どうも、地元出身の豪族ではないようです。相模の国からやってきたらしい。
そして、同じ中峠1561には、本尊が釈迦如来(しゃかにょらい)とする法岩院があるが、この寺は、1542年(天文11年)に芝原城主河村出羽守勝融(かつゆう)が雪田真良を請して開山している。当然、ここには河村出羽守勝融の墓もある。
先に述べたように、1590年(天正18年)、小田原の後北条氏は、豊臣氏に滅ぼされ、この辺一体の武将たちは後北条氏の味方であったので、松戸の小金城主の高城氏はじめ、ここの河村氏も同様に滅亡したのである。
そして、ここにはさらに悲しい秘話が伝えられている。このお城あとの近くの竹薮の中にある高さ80センチの順道塚の碑である。これは、1590年に、芝原城が落城の後、 河村氏の家臣・林伊賀守(順道) が従士32人とともに自刃した場所として伝えられている。この碑文に1673年(寛文13年)の銘がある。
このようにして、下総の現在の東葛飾地域の戦国武将たちは、原氏をはじめ、高城氏、河村氏、等々、ことごとく、豊臣秀吉によって滅ぼされてしまい、この現、東葛飾地域にはお城というのは、関宿城以外、江戸時代以降は存在していないのである。そう、ご承知のように江戸時代は、ここらへんには、お城がない、あっても陣屋(代官所)だけの、天領、旗本の知行地、親藩の飛び領地でしかなかったのである。ですから、この地域では武士文化は全く形成されず、ある意味で文化の継承がない地域となっている。
まあ、それはそれとしても、この自然の豊かな森の中にたたずみ、木々を渡る鳥の声を聞きながら、あり日の芝原城址を伝える看板(写真)を読んでいると、「夏草やつわものどもが夢のあと」の芭蕉の句が、自然と思い出され、世の流転に無常を感じさせられます。
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