季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

遂に完成

2009年09月05日 | その他
以前ココログにブログを書き始めて、パソコンのせいで!続きを書くことができなくなった。その顛末はちょっとだけ書いた。

さて、それらの半年にわたって書き続けた駄文をどうしよう、打ち捨てるのも癪である。解説を覗くと、ちゃんと引越しをする方法もあるようだ。でも悲しいかなその文章の意味が分からないのだ。

グズグズしているうちに原始的方法でここに移してしまおうと気持ちが固まった。

ココログの自分の文にアクセスしてはコピーを取り、現在のページで新規の記事を作り、そこに貼り付ける。題名も元のままにして、なんの問題もない、便利なものだ、と得意な気分であった。チンプンカンプンの解説なんか要らないよ、と息巻いていた。

しかしちょっと始めてみると、この単純作業が面倒なのだ。一丁前に題をつけなければならないらしいから、それも同じ題を記入する。

ジャンルだのカテゴリーだのを記入する。いっそこんなのは記入しなくともと思ったが、犬のことだけ読みたい、音楽以外のことは読みたくない、重松の顔も見たくない、といろいろな意見が小耳に入り、ではこれも省くわけにいかないなあ、と相成った。

よろよろと移転作業が三割ばかり捗ったころ、いくつかの文の日付が間違えていることに気がついた。日付というか、2008年とあるべきところが2009年になっていたのだ。

これが、作業を始めてすぐのころだったら、面倒くさくなって作業自体を止めていただろう。

泣きの涙でポチポチ半角数字を入れなおし、元の記事と照らし合わせなおし、いやはやとんでもなく注意力を要する単純作業だった。こんな矛盾に満ちた表現が適する世界があることに乾杯!だよ、まったく。

このところ根を詰めて?作業にいそしんだら、ようやく全部引越しが完了した。ああ、気分が良い。

と思うはずだったが、何というか、仮設テントが吹き飛ばされたのをようやく復元したときに味わう徒労感はかくばかりか、と思うむなしさばかり。

自分のかつての住まいが打ち捨てられていて荒れ放題なのを、そっと忍び込んで使えそうな物品を調達したような気分だ。

ほとんど単純作業ばかりしたのだが、何気なく本文を読んだり、勝手に張り付くコマーシャルを見たりもした。

あのコマーシャルシステムは煩わしかったけれど、単純作業中にふと目に入ったりすると面白く感じることもあった。今、コメントに返事を書くため自分のページに入ることが時々ある。なんとも殺風景だ。青山二郎が今生きていてブログを始めたら、おそろしく凝ったものになったのではないか。

もっとも青山がパソコンに向かっている様なぞ想像できないが。

これで一応過去に書いたものがすべて一覧できることになりました。お暇な方は遡ってご覧ください。その上、画像を大きく表示する方法を教えてくださる親切な方が現れ、暇なときに適当な写真を付け加えていっています。おまけ付きにグレードアップしています。是非その効果を確認しつつ再読してくださいな。



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時間

2009年09月02日 | その他
空想癖も自ずと限界がある。

どんな人でもちらっとは宇宙はどうなっているのか、と思ったことはあるでしょう。

山のあなたの空とおく、と歌った詩人がいますね。カール・ブッセという詩人で、上田敏の訳でわが国であまねく知られるようになった。

山の向こうには何があるのだろう、と思うだけで立派な詩ができる。(ホントは違うよ。画家のドガが、この人は文才にも長けていた人だが、マラルメだったかに「詩作は難しい。イデーはたくさんあるのに」と言ったら「詩はイデーで作るのではない、言葉で作るのだ」と諭されたという)。宇宙の果てに何があるのだろう、と思ったらさぞかしスケールの大きな詩ができそうだ。でも、こんな詩は無いのではなかろうか。

宇宙の果てのなおとおく、幸いすむと人のいう、ではおかしい。幸いは宇宙の果てにはあるまい。といって、宇宙の果てのなおとおく、宇宙人が住む・・では詩にはならない。詩はむつかしい、いやはや。

草野心平さんのかえるの詩は、たしかに虚空に消え行くかえるの声から真っ黒な宇宙を思わせなくもない。いや、たしかにそれに成功している。宮沢賢治のいくつかの詩もそうだ。

これらの詩は、僕の愛好する詩でもある。でも、僕たちは今日、ビッグバンだの相対性理論だの、空間のひずみだのを(間接的にではあるが)知っている。ブラックホールやサントリーホールも知っている。

知識が豊富になれば、そのもっと向こうには何があるのだろう、と思いはいよいよ切実になるのだろうか。

そうとばかりはいえないだろう。こう言い直した方が良いかもしれない。知識が豊富になっても、そのまた向こうには何があるのかという問いは依然として切実である、と。

僕は現代物理学にまったく詳しくないのだが、なんて書くと古典物理学には詳しそうに聞こえるね。そんなことはない。文章というものは、書いているとついつい気取りが過ぎる。僕の知っているのはテコの原理くらいだからご安心ください。音楽家なんてその位のもんですよ。

学生のころ、友人と無重力を宇宙飛行士に体験させるために飛行機で急降下をするという話をして盛り上がっていた。すると横で聞いていた音楽家の卵が「何でそんな面倒をするのさ。真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返った。それくらいの常識は友人ともどもあるよ。

その音楽家の卵はきっと立派な音楽家になって「無重力を体験させたければ宇宙に行かせればよいのだよ」とでも答えているかもしれない。なんのこっちゃ。

あらゆる研究の極まるところは、結局時間とはなにかということになるのではないか。

それとともに面白く感じるのは、学者により様々な見解があるにもかかわらず、当の本人たちでさえ、その意味するところを「実感」できてはいないだろうと思われることだ。

ビッグバンという概念が物理学上完全に市民権を得たのか、僕は知らない。たぶん有力な仮説のひとつに過ぎないのだろう。読み漁る本では、ビッグバン仮説をとる学者によれば、ビッグバン以前には何ものも存在しなかった。あるのはゆらぎであった。なんていう説明がなされているのだが、これは証明できるものとしては、ただ数式上の結論しかないのではないか。

それがよし、正しくても、心に思い描ける物理学者は一人もいないだろう。

このように、時間の正体は今日でも一向に明らかにならない。時空がゆがんでいると聞いても、不思議さは増すことはあっても減じることはない。ブラックホールでは時間そのものが僕たちが考えているあり方とはまったく違った形で存在するらしい。

ブラックホールはすべてを飲み込むというが、サントリーホールはすべてを飲み干す。えっ、違うの?僕はまたビアホールだと思っていた。

はじめに自信のゆらぎがあった。そしてノイローゼになった。というなら等身大で分かるが、ゆらぎから宇宙全体が生じたなんていうスケールとなると実感を通り越すに決まっている。

エジプトの碑銘に「今日の私は昨日の私ではない私、明日の私は今日の私ではない私」だったっけ、そのような謎めいたのがあった。謎めいているが、ちっとも変に思わない。初めにあったのはゆらぎであった、なんていうのよりずっと実感できる。

エジプトの様々なレリーフ、あの姿は上記の碑銘と同じ印象を与える。
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