ユダ
2009年02月03日 | 本
河上徹太郎さんの全集の中にユダについて書かれているものがある。
河上さんは狩猟が趣味だった。今では宅地開発が進みきって山の陰すらなくなった東京町田市の近くに山小屋のような自宅を持っていた。
ある日の夕方、若い友人と囲炉裏の火をくべながら歓談していたとき、一本の薪が火がつかずにくすぶっていた。河上さんは口数の少ない人だったらしいが「まるで左翼だ」とつぶやいた。「なるほど」と相槌を打つ友人に対し「いや、僕は今ユダのことを考えていたんだ」と言ったという。
通常ユダは裏切り者として理解されているのであるが、河上さんはそうではないと言う。いや、もちろん彼は裏切り者なのであるが、イエスを裏切るのであるが、その裏切る理由を解き明かすのだ。
ユダはイエス一行の財布を任されていた。実務能力に長けていたわけである。ユダはイエスを真理の体現者と信じ、エルサレムには人々の歓喜の中を凱旋するように思い込んでいた。
実際はロバに跨り、惨めな、人々から嘲笑される小さなグループであるに過ぎなかった。彼らはそうやってエルサレムに到着したのだ。
ユダはまずそれに大変失望した。
マグダラのマリアが高価な香油をふんだんに使ってイエスの足を清めたときのこと、ユダは女をとがめる。そのような贅沢を神の教えでは禁じているではないか、と。それだけの金があったら何人もの貧しい人に施しを与えることができるだろうにと。
イエスは、この女はイエスにあいまみえることがもうないことを知って、最上のもてなしをしたのであるから良いのだ、とたしなめる。
河上さんはこの場面、ここでのユダの心の動きに着目する。
ユダは誰もが知るとおり、イエスを裏切るのであるが、「成果」に失望しただけではなく、「教義」を無視したイエスにも失望したのだと河上さんはいう。ユダは「合理的」に教義を信じて、イエスという人(僕は信者ではないからイエスという人と言うけれど)を信じなかったというのだ。これは深い洞察である。
聖職にある、または信者と思われる人のサイトでは、この場面はどう扱われているのだろう。
ほんの少し垣間見ただけだから、当然いろいろに解釈されているはずだが、ある人は、ユダがすでにイエスが処刑されることを知っていて、そのイエスに高価な香油を使うのを惜しんだ、と言っていた。
こうした解釈というのは教徒の間では一般なのだろうか、僕は知らない。けれども、週刊誌のすっぱ抜きを思い出して思わず笑ってしまった。ご本人はいたって大真面目な感じのサイトであったが。ただ、この笑いは僕を楽しくするものではなかった。憂鬱になってしまった。
河上さんの説は文学者の中では有名だ。もっとも昨今の文学者たちのことは僕はまったく知らないけれど。
僕は文学者たちのような精緻な理論でこれを読んだわけではない。あまりそういう読み方はしたくないのである。ただ、イエスを信じないで彼の理の方を信じた、という河上さんの説に共感する。音楽の世界で、音楽学というものがこれほど盛んで、しかも行き詰まりを見せて、演奏理論、解釈といった面でも行き詰まり感が濃厚だと、自然と河上さんの言葉を思い出すのである。
音楽など芸術分野に限ったことではない。僕たちの日常生活でもいくらでも目にするはずである。人の情で汲み取らずに理屈だけを信じて行動していく人がたくさんいるはずである。ただ、情といっても、日本人は情で動くとか、土下座して情に働きかける政治家の考える情とはまったく違うのは断るまでもなかろう。
河上さんは狩猟が趣味だった。今では宅地開発が進みきって山の陰すらなくなった東京町田市の近くに山小屋のような自宅を持っていた。
ある日の夕方、若い友人と囲炉裏の火をくべながら歓談していたとき、一本の薪が火がつかずにくすぶっていた。河上さんは口数の少ない人だったらしいが「まるで左翼だ」とつぶやいた。「なるほど」と相槌を打つ友人に対し「いや、僕は今ユダのことを考えていたんだ」と言ったという。
通常ユダは裏切り者として理解されているのであるが、河上さんはそうではないと言う。いや、もちろん彼は裏切り者なのであるが、イエスを裏切るのであるが、その裏切る理由を解き明かすのだ。
ユダはイエス一行の財布を任されていた。実務能力に長けていたわけである。ユダはイエスを真理の体現者と信じ、エルサレムには人々の歓喜の中を凱旋するように思い込んでいた。
実際はロバに跨り、惨めな、人々から嘲笑される小さなグループであるに過ぎなかった。彼らはそうやってエルサレムに到着したのだ。
ユダはまずそれに大変失望した。
マグダラのマリアが高価な香油をふんだんに使ってイエスの足を清めたときのこと、ユダは女をとがめる。そのような贅沢を神の教えでは禁じているではないか、と。それだけの金があったら何人もの貧しい人に施しを与えることができるだろうにと。
イエスは、この女はイエスにあいまみえることがもうないことを知って、最上のもてなしをしたのであるから良いのだ、とたしなめる。
河上さんはこの場面、ここでのユダの心の動きに着目する。
ユダは誰もが知るとおり、イエスを裏切るのであるが、「成果」に失望しただけではなく、「教義」を無視したイエスにも失望したのだと河上さんはいう。ユダは「合理的」に教義を信じて、イエスという人(僕は信者ではないからイエスという人と言うけれど)を信じなかったというのだ。これは深い洞察である。
聖職にある、または信者と思われる人のサイトでは、この場面はどう扱われているのだろう。
ほんの少し垣間見ただけだから、当然いろいろに解釈されているはずだが、ある人は、ユダがすでにイエスが処刑されることを知っていて、そのイエスに高価な香油を使うのを惜しんだ、と言っていた。
こうした解釈というのは教徒の間では一般なのだろうか、僕は知らない。けれども、週刊誌のすっぱ抜きを思い出して思わず笑ってしまった。ご本人はいたって大真面目な感じのサイトであったが。ただ、この笑いは僕を楽しくするものではなかった。憂鬱になってしまった。
河上さんの説は文学者の中では有名だ。もっとも昨今の文学者たちのことは僕はまったく知らないけれど。
僕は文学者たちのような精緻な理論でこれを読んだわけではない。あまりそういう読み方はしたくないのである。ただ、イエスを信じないで彼の理の方を信じた、という河上さんの説に共感する。音楽の世界で、音楽学というものがこれほど盛んで、しかも行き詰まりを見せて、演奏理論、解釈といった面でも行き詰まり感が濃厚だと、自然と河上さんの言葉を思い出すのである。
音楽など芸術分野に限ったことではない。僕たちの日常生活でもいくらでも目にするはずである。人の情で汲み取らずに理屈だけを信じて行動していく人がたくさんいるはずである。ただ、情といっても、日本人は情で動くとか、土下座して情に働きかける政治家の考える情とはまったく違うのは断るまでもなかろう。
クリスチャンは、
ただ、聖書に書いてあることだけを事実として受け止めて、
それに何かを付け足したり、水で薄めたりしません。
というわけで、河上さんのように、
勝手な自分の解釈を史実に加えることはやっておりません。
(そういう人はこの2000年の間、いっぱいいました。出てくるたびに消えていきましたが、ダビンチコードという小説もその一つでしょう。)
因みに河上さんはクリスチャンでした。若いときから実に丁寧に聖書を読んでいたことを全集を読むと分かります。文学者が勝手な解釈をしていると思われたのならば残念です。
僕は僕で音楽を信じないで研究しようとする(音楽だけに限りませんが)最近の研究者を思うに、河上さんの文章を紹介してみるのが適当だと考えたのです。
何も考えずに?信じるというのが本来の信じるということなのでしょう。ですからただ信じる、という人を批判しているわけではない。それも付け加えておきます。