「小学五年のとき、近所の猫を煮干し用雑魚(じゃこ)でおびきよせ、とっ捕えてやつの鼻の穴にわさびの塊を押し込んだことがある」
「小学六年のとき(略)近所の猫を雑魚でおびきよせて捕え、火の見櫓の天辺から落したのだ。猫はにゃんともいわずに即死した」
「高校時代、日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけ、マッチで火をつけたことがある」
「動物愛護家には人間を愛することのできない人が多いような気がする。
あの人たちは自分と同じ種族である人間が飢えているのを見すごすことはできても、
自分の傍にいる犬猫が飢えているのは黙視できないのではないか。
わたしたちの動物虐待は、屁理屈をつければ、
そういう人たちの<動物愛護精神>にたいする無意識のからかいだったのだ。」
いきなり以上を読まされて不快に感じた人も多いと思う。これは芸術院会員で著名な作家である井上ひさし氏の文章である。氏はまた平和運動家としても有名である。
平和運動に携わる人がこんなことをするのか、という非難が多いだろうと予想する。しかし人間の心が単純ではないことを考えると、これは必ずしも核心を突かないかもしれない。だから僕はあえてそこには触れずに書こうと思う。
僕が一番に目をつけるのは強引な自己弁護はさておき「わたしたちの動物虐待は」という言葉である。虐待に理屈をつけることへの違和感同様に、氏が「わたしたち」と言う、そこに僕は不潔感を覚える。
(因みにニュースキャスターという人種は殆んどが「わたしたち」という。)
「わたし」という一人称が「わたしたち」になると、とたんに責任を分かち合うニュアンスを帯びる。分かち合うというのは本当は正確ではない。責任の所在をうやむやにするという方が正しい。両者の違いを正直に感じてみようではないか。
「わたしたち」という言い方は意識的にも無意識的にも「政治的」である。
「わたしたちは日本という国で幸せに暮らしています」こんな使い方が通常であるが、いったいこれは正確だろうか。
僕は現在幸せに暮らしているかもしれない。しかし僕たちは今幸せだ、とあなた方も念頭において発言したらどうだろう。実際には一人一人が小さな、あるいは大きな不幸を抱えているかもしれぬではないか。
私たちは、という言い方の中には、小さな個人的な事情はあるだろうが、おしなべて幸福だから、この際は個人個人の事情は無視しても差し支えない、という暗黙の了解がある。
しかし幸福にせよ不幸にせよ、小さな個の出来事ではないのか。このように、あらゆる個を無視してひと塊の集団として見做すことを政治的というのである。
井上氏は「私たちの動物虐待」という。彼は虐待を行ったほかの人も彼同様「人類愛に燃え」ていたとどうして知っているのだ。
そもそも動物愛好家という人種がある、それは共通の特徴を持つという強引な理解の仕方が非常な政治的思考の典型なのである。こうした思考法をする人が「わたしたち」と言うのは驚くに足りないのかもしれない。
一度書いたように思うが、井上氏のような極論がある一方で動物好きに悪人はいない、こんな言い草も耳にする。とんでもない。ここでもひと括りにしないでもらいたい。
作家とはこんな当てずっぽうで粗雑な頭でもなれるのだろうか。こんな杜撰な文章を書いても芸術院会員になれるのだろうか。
もれ伝え聞くところでは、井上氏はじつに論戦に強く、彼と思想を異にする右翼の論者もお手上げだったという。それは当然である。上記のごとき論法と、論難するためだけに鍛え上げたかのように見える知識があれば。この人は全作家中、いちばん多くの雑誌を講読しているそうだ。それを生かすも殺すも当人次第だ。
彼の言葉を素直に読めば、巧妙に結論にこじつける論法がみえる。
動物好きは人間が飢えているのを見過ごすことができても、自分の傍らにいる犬猫が飢えるのは黙視できないと井上氏は言うが、自分の傍らにいるからこそ黙視できないのだ。傍らに飢えた人間がいたらばやはり黙視できないだろう。
それなのに人類愛という大きな概念と傍らにいる飢えた犬猫という比較しようのないものをこけおどしのように出して、自らの「論理」を正当化しようと試みる態度はじつに卑怯である。
人は傍らにある不幸に対してしか実際に手を差し伸べることはできない。こういう考えだってありうる。むしろそれだけが真実だと身にしみて感じている人も必ずいる。
「小学六年のとき(略)近所の猫を雑魚でおびきよせて捕え、火の見櫓の天辺から落したのだ。猫はにゃんともいわずに即死した」
「高校時代、日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけ、マッチで火をつけたことがある」
「動物愛護家には人間を愛することのできない人が多いような気がする。
あの人たちは自分と同じ種族である人間が飢えているのを見すごすことはできても、
自分の傍にいる犬猫が飢えているのは黙視できないのではないか。
わたしたちの動物虐待は、屁理屈をつければ、
そういう人たちの<動物愛護精神>にたいする無意識のからかいだったのだ。」
いきなり以上を読まされて不快に感じた人も多いと思う。これは芸術院会員で著名な作家である井上ひさし氏の文章である。氏はまた平和運動家としても有名である。
平和運動に携わる人がこんなことをするのか、という非難が多いだろうと予想する。しかし人間の心が単純ではないことを考えると、これは必ずしも核心を突かないかもしれない。だから僕はあえてそこには触れずに書こうと思う。
僕が一番に目をつけるのは強引な自己弁護はさておき「わたしたちの動物虐待は」という言葉である。虐待に理屈をつけることへの違和感同様に、氏が「わたしたち」と言う、そこに僕は不潔感を覚える。
(因みにニュースキャスターという人種は殆んどが「わたしたち」という。)
「わたし」という一人称が「わたしたち」になると、とたんに責任を分かち合うニュアンスを帯びる。分かち合うというのは本当は正確ではない。責任の所在をうやむやにするという方が正しい。両者の違いを正直に感じてみようではないか。
「わたしたち」という言い方は意識的にも無意識的にも「政治的」である。
「わたしたちは日本という国で幸せに暮らしています」こんな使い方が通常であるが、いったいこれは正確だろうか。
僕は現在幸せに暮らしているかもしれない。しかし僕たちは今幸せだ、とあなた方も念頭において発言したらどうだろう。実際には一人一人が小さな、あるいは大きな不幸を抱えているかもしれぬではないか。
私たちは、という言い方の中には、小さな個人的な事情はあるだろうが、おしなべて幸福だから、この際は個人個人の事情は無視しても差し支えない、という暗黙の了解がある。
しかし幸福にせよ不幸にせよ、小さな個の出来事ではないのか。このように、あらゆる個を無視してひと塊の集団として見做すことを政治的というのである。
井上氏は「私たちの動物虐待」という。彼は虐待を行ったほかの人も彼同様「人類愛に燃え」ていたとどうして知っているのだ。
そもそも動物愛好家という人種がある、それは共通の特徴を持つという強引な理解の仕方が非常な政治的思考の典型なのである。こうした思考法をする人が「わたしたち」と言うのは驚くに足りないのかもしれない。
一度書いたように思うが、井上氏のような極論がある一方で動物好きに悪人はいない、こんな言い草も耳にする。とんでもない。ここでもひと括りにしないでもらいたい。
作家とはこんな当てずっぽうで粗雑な頭でもなれるのだろうか。こんな杜撰な文章を書いても芸術院会員になれるのだろうか。
もれ伝え聞くところでは、井上氏はじつに論戦に強く、彼と思想を異にする右翼の論者もお手上げだったという。それは当然である。上記のごとき論法と、論難するためだけに鍛え上げたかのように見える知識があれば。この人は全作家中、いちばん多くの雑誌を講読しているそうだ。それを生かすも殺すも当人次第だ。
彼の言葉を素直に読めば、巧妙に結論にこじつける論法がみえる。
動物好きは人間が飢えているのを見過ごすことができても、自分の傍らにいる犬猫が飢えるのは黙視できないと井上氏は言うが、自分の傍らにいるからこそ黙視できないのだ。傍らに飢えた人間がいたらばやはり黙視できないだろう。
それなのに人類愛という大きな概念と傍らにいる飢えた犬猫という比較しようのないものをこけおどしのように出して、自らの「論理」を正当化しようと試みる態度はじつに卑怯である。
人は傍らにある不幸に対してしか実際に手を差し伸べることはできない。こういう考えだってありうる。むしろそれだけが真実だと身にしみて感じている人も必ずいる。
氏の味方をして深読みしてあげると、実は一人でやったのではなく、友人と一緒にやったから「わたしたち」なのか、はたまた「動物『虐待』愛好家クラブ」でも主催しているのか?
本文読んでいないのに枝葉を広げてはまずいですね。それはおいておくとして、「わたしたち」。
日本語では「わたし」に「たち」をつけるだけで「わたしたち」になりますが、英語ではIとWe、1人称の単数と複数でまったくちがう単語を使うと意識の上でも「わたし」「わたしたち」の区別がはっきりしてくるような気がします。ヨーロッパ以外のアジア、アフリカ言語はどうなんでしょう?
日本語では「わたし」と「わたしたち」の区別が意識の上でも言語の上でもあいまいなのかもしれません。1人称に「うち」「うちら」というのもよく耳にしますが、これもあいまいですね。「うち」はそれとなく「自分だけじゃない」というニュアンスが含まれている気がします。
大阪の人で2人称を「自分」と言う人もいます。これはまた別の話ですが・・・
ドイツ語だと、IchとWirで動詞も語尾が変わるので一人称単数と複数の区別はもっと截然と感じられる。「わたしたち」とはまず、語り手「わたし」と聞き手「あなた」(書き手と読み手)両者のことです。この意味は非政治的でしょう。しかしこれとは別の意味で「わたしたち」は「わたし」の属する集団を指すことがあります。この「わたしたち」は政治的文脈で使われるわけですね。井上氏の文の「わたしたち」は勿論後者で、動物愛護家に非ざる人たちのことです。
そして、「わたしたち」の、この政治的と非政治的の使い分けは、日本語の場合曖昧であると感じます。
そもそも一人称にわたし、わたくし、おれ、ぼく、あたし等数えるのが面倒なくらいあって、それぞれが微妙に違うニュアンスを帯びている。それが日本語の面白さであると同時に、ことを曖昧にしてしまえる。
僕は詳しくないのだが、江戸時代の武士が拙者とか言うとき、「わたしたち」のような言い方をしたのだろうか。あっても少ないように思うのですが。
拙者たち、なにか可笑しいなあ。日本語はそもそも一人称がなくても文意が通じるから、いざ一人称を使うときは自分の責任でという暗黙の覚悟があったのかも知れないな。いまふいに考え付いたのですが。ただしこれはあくまで武士階級においてです。